悪魔は魂を欲す 004
カツカツと音を立てながら、赤い女はエルザに近付いてくる。
センター分けの黒髪は胸に届き、赤いジャケットの襟には大量の安全ピン、同色のミニスカートは前に深いスリットが入ったタイトなもので長い足を惜しげもなく晒している。
長女、〈女医〉アナベラ、派手な服装も濃いメイクも決して医者には見えない。
「気分はどうかしら?エルザ」
動く真紅の唇が別の生き物のように見える。
「悪趣味は相変わらずね。最悪よ」
「今のあなたの姿、とっても素敵よ」
「アナタの変態趣味にはうんざり」
決して嬉しい再会ではない。
エルザの気分は冷めきり、アナベラが目を細めて笑うのを無感動に見ていた。
会えば自分を制御できなくなるとエルザは思っていた。再び憎悪の炎を胸に宿すと思っていたが、昴ぶりも感じない。
「あなたは美しい、この世界の何よりも。あなたは孤高の花でなければならない。たった一輪美しく咲いていなければならない」
真っ赤なネイルに彩られた指がエルザの頬を撫でる。
じゃらりと鎖が耳障りな音を立てるばかりで、逃れることはできない。
「アナタのためのアタシじゃない」
「あなたが枯れていくのを見るくらいなら、この手で壊してしまった方がいい。けれど、あなたは簡単には壊れないと信じているわ」
彼女は陶酔しきっている。偽りで構成された甘美な夢世界に浸っている。
「それは、アタシを勧誘してるつもりなの?」
「あたし達の元へおいでなさいな。それが、あなたの幸せよ」
彼女は何もわかっていないのだとエルザは思いながら自分の中の怒りを考えた。
ただただ凍て付いている。
リアルであってリアルではない、そんな状況が自分にとってあまり良くないことはエルザも理解している。
「アタシは誰のモノにもならない」
ルールなど彼女達には全く意味のないことだ。否、誰もがそのルールに従うなどとは思っていない。
それは意思、従わないならば従わせるということ、その宣言だが、アナベラは好き勝手なことを言う。
「あなたを苦しめる〈毒婦〉はもういないわ」
彼女達に〈毒婦〉の娼館は滅ぼされた。彼女がまだ息絶えていなかったのは当て付けよりも、憎しみ故にということなのかもしれない。
「また勝手なことをしてくれたわね。それに、本物の毒婦がそこにいるじゃないの」
生かしておきたくなくても生かしておかなければならない人間はいる。
エルザにとってマリア・ヴェントラがそうだった。結局、彼女はヒントだけを残して、永遠に口を閉ざしてしまった。
けれど、〈毒婦〉は本当に毒を持っていたわけではない。
「怒りと憎しみと暴力に満ちた世界こそがあなたには相応しいわ。けれど、可哀想なエルザ。一人で寂しかったでしょう? あなたは捨てられてしまったの、唯一の家族に」
「そんなことはアナタが決めることじゃない」
いつだってアナベラはそうだ。エルザのことなど何もわかってはいない。
「困った子ね。でも、あなたは賢いから自分の状況をわかっているはずよ。だって、あなたが家を出てから、彼は捜そうともしない」
わかっていないのは一体どちらなのかと心の中で呆れもする。
「それがアナタからの最後通牒なのだとしても、アタシは絶対に受け入れない」
まったく笑わせてくれると思いながらエルザは笑みを浮かべるアナベラを睨む。
「残念ね、せめて、綺麗に殺して剥製にしましょうか」
まるで勝利を勝ち取ったかのように、その命の権利を得たかのように彼女は笑う。
彼女だけではなく、周囲の人間が皆そんな笑みを浮かべている。これで勝ったと思っている。
たったこれだけのことで勝利を確信できるのだからお手軽なものだ。
「アナタのやり口じゃないでしょ。切り刻むのが大好きなくせに」
エルザは彼女達の趣味に理解は示さないが、熟知してはいる。
「美しいモノは残しておきたいじゃないの」
「アナタ達が把になって掛かってきてもアタシには勝てない」
「さあ、どうかしらね。現にあなたは囚われの蝶――」
エルザには現状を打破する術がある。相手を探るために機会を窺っているだけで、本当はいつでも自由になることができる。
「――今、あなたに何ができるというの?」
アナベラは首輪から伸びる鎖を引き寄せ、その息苦しさにエルザは眉根を寄せた。
じゃらりと鳴る鎖が支配の証のようで、ひどく耳障りだ。
「それだけの自信があるのは、〈蝙蝠〉がいるから?」
見上げた先、二階部分にその男ファウストはいた。
不自然なほどに黒く長い前髪が白い頬にかかり、色気を漂わせる。
肌以外は闇に溶けるかのような黒で、まるで彼の心を見ているかのようだった。
「そうね。こうして、あなたを捕まえられるなんて思わなかったわ。男はあなたを破滅させる、よくわかったでしょう?」
〈裏切り屋〉ファウストは〈黒死蝶〉を裏切ることに関しては天才的だが、それまでとは違う裏切りにエルザの胸がざわつく。
問えば趣向を変えたのだと言うのだろうが、大きな疑問がある。
なぜ、彼らなんかに協力するのか。
なぜ、〈生き写し〉を用意したのか。
否、〈生き写し〉がいることが、全ての答えなのかもしれない。
それは、まるで終止符を打つための逃げ場のない裏切りだ。いつもの彼のやり方ではない。
「でも、アタシは女運の方が悪いのよ。男は躾次第だけど、女はどうしようもない。アタシの言うことなんて誰も聞いてくれないから」
「彼に聞きたいことがあれば聞くと良いわ。お話しする時間をあげる」
じゃらんとアナベラの手から鎖が落ちる。
「あら、今日は随分親切ね。それも彼の裏切りのシナリオだからかしら?」
「それでも、あなたは彼を信じていたのでしょう? でも、あなたはもう完全に裏切られたの。彼もあなたの絶望を見たがっている」
彼と話したいことがあるのは事実だ。
たとえ、それが仕組まれたことだとしても構わない。エルザはその邪心を感じる提案を受け入れておくことにした。
一体、彼女が何をどれだけ知っているのかは知らないが、結局、真実は本人にしかわからない。
再びカツカツと音を立てて離れていくのを見送らず、エルザは彼を見上げた。
「二階席の眺めはどう? 〈蝙蝠〉」
裏切りの時、敵としての彼をエルザはいつもそう呼んでいた。
「まあまあかな」
笑みを浮かべてファウストは答える。そこから意図は読み取れない。
まさかセルペンスに手を出すなどとは思っていなかったというのが、正直なエルザの感想だ。
セルペンスはエルザの管轄だったが、ヴァルゴという配下の組織に任せていた。
ヴァルゴがエルザから離れ、監視を外れたからといって手を出して良いわけではない。
けれど、信頼関係の下にないならばどんな行為だってできる。美学を捨てればどんなこともできる。
「今度はいつもの裏切りじゃないのね。アナタは本気でアタシの敵になった。そうよね?」
いつもならば彼はエルザのために、信用させた組織を裏切る。
最後にはエルザをも裏切るが、今回は違うようだった。
「もっと、あなたが絶望する顔を見たくなっちゃったの。生温い裏切りの繰り返しではこの心は満たされないのだと気付いてね」
まるでアナベラやジェリーノと同じ陶酔だった。
演技なのか、本心なのか。もし、彼がSOSを発するなら、エルザは見逃すつもりはなかったが、わからない。
「裏切り者、そう言ってほしい?」
今までは侮蔑ではなく、嫌味と信頼を込めて〈蝙蝠〉と呼んできた。だが、もう自分の側に飛んで来ることはないのだろうと感じてエルザは否定したかった。
彼が本当に心から裏切ったのだと思いたくはないが、感覚が警告している。
全てを惑わす存在がそこにいるからだろう。
「ふふっ、そんな言葉じゃ俺様は殺せないよ」
肯定も否定もしないファウストは自分が知らない彼のように思えたが、認めたくないのは、ロメオの存在があるからだ。
寂しがり屋のくせに、どうしたいのか。
「アタシを裏切るのは構わない。でも、アナタ、ロメオを裏切れるの?」
それは揺さぶりだった。
いつも彼が裏切りのシナリオを進行させている時、エルザは彼を敵として扱ってきた。
互いに全力で騙し、騙されることができたからだ。
だから、普段の彼ならば動じないはずだった。
「先に裏切ったのは兄様だからね」
声はひどく冷たく、エルザの脳裏に嫌なものを過ぎらせる。
彼とよく似た双子の兄ロメオの背に刻まれた鷲のタトゥーを。
「……聞かないってことは、あなたも共犯ってことだと思うけど」
彼はあのタトゥーを知っているのではないか。自分も知っていて隠したと思っているのではないかとエルザは感じる。
それほど冷たいファウストの声を聞くのはエルザにとっても初めてだった。
これまでに見たことがないほど、彼は怒っている。演技とは言い切れないほどに。
「アナタには色々聞きたいことがある。洗いざらい吐かせてやるから覚悟しなさい」
未だ囚われの状況は変わらないが、エルザは強気に言い放つ。
「俺様を捕まえられるなんて思わないでよ。きっと、あなたは勝てない。ここで終わる」
ファウストは冷ややかに笑って終焉を告げる。
彼はエルザのやり口を知った上で全て見越してシナリオを組み立てているからこそ彼の言葉には重みがある。
本当にそうなるのではないかとエルザに思わせるほどに。
「なら、アタシはアナタが一番恐れるモノを与えてあげる」
ただの挑発に過ぎなかった。今の彼に何を言えば良いか、エルザにもわからないのだ。
きっと、彼を許してしまうだろうと思うのだ。何をされても、どれほど自分が傷付いても。
「あなたの存在は既に悪夢だよ」
本心だろうとエルザは受け取った。
「ねぇ、ファウスト。随分詰めが甘いんじゃないの? アタシの手癖が悪いのは知ってるでしょ?」
エルザは頭上の拘束に視線を移す。指輪が残っていること、指先が自由になっていることが救いだ。
触れて確かめるフリをして脱出の準備を整える。
一本も自由にしてはならないと彼は知っていたはずだ。
「そうでなければ困るよ。だって、あなたの絶望はまだ始まってすらいないんだから。ふふっ」
つまり、脱出がシナリオの内なのだろう。それから全てが始まる。
それがわかったところで、このまま何もせず、吊されているのはエルザの主義ではない。
罠だとわかっていようと全力で騙されるしかない。
「覚悟はできてるのね?」
「あなたこそ、死ぬ覚悟は決まったの?」
挑発的に返すのだからエルザはファウストがわからなくなる。
信じて良いのか。それとも、そこにある全てが真実なのか。
彼は嘘が上手い。詐欺師と定義するならばエルザが知る中では二番目だが、一番目とは大した差がない。
敢えて言うならば表と裏、ロマンと忠義のために騙す男と孤独を埋めるために裏切りを繰り返す男、詐欺に命を賭けない男と命を賭ける男、そんな程度だ。
「せいぜい、見届けなさい」
その宣告と同時にエルザは脱出を開始した。
手に力を込めれば鎖の破片が落ち、音を立てる。
ざわめきが起こるが、予測済みだったようだ。すぐにそれは沈黙に変わる。