悪魔は魂を欲す 002
笑って話をして、クライドも少し落ち着いてきたか。いつもの調子を取り戻してきたかのように見えた。
「しっかし、〈毒婦〉が退場して、あんたも仕事がなくなるんじゃねぇのか?」
彼はエルザに話す機会を与えたつもりだろうか。どうせ、〈毒婦〉の死は耳に入っていることだろうが、エルザは一応自分の口から言ってやろうと思ったのだ。
およそ繊細には思えない男達ばかりだが、無神経な言葉を吐くわけでもない。
「彼女の依頼なんてろくなものじゃなかったわよ」
〈毒婦〉マリア・ヴェントラの依頼など、なければその方が良いものばかりだった。
ヒットの依頼自体、あるべきではないのかもしれない。
だが、どこまでも不快な気分に落ちていくのが彼女の依頼だった。
「でも、クリスマスのこともある」
ロバートは言うが、エルザとしては正直持ち出してほしくない話題だった。クリスマスをここで過ごしたのは決して良い思い出ではない。
「あれは……借りになんかならないわよ」
「隠し子騒動、だったな」
ラファエルでさえ少しばかり言いにくそうにしている。面白がっているわけではないが、いっそ黙っていろとエルザは思う。
慰めのために彼に近い人種の多いここへ飲みに連れてきたのは
「俺には想像もつかねぇな、別れた女房との間に子供がいて、それが〈幼女マニア〉なんてイカレた猟奇殺人鬼に捕まるなんて」
「あんたは女房って時点から想像がつかねぇからな」
「なんだとー!?」
憤慨するロバートをエルザはぼんやりと見る。
レグルスの人間が巻き込まれた事件、あれはエルザにとっても予想外のことだった。エルザもレナードも過去は詮索しない。
だが、〈毒婦〉は違った。
それでも、彼らが知ることは真実ではないが、エルザがそれを口にすることはない。
「女を狙った卑劣な奴ばっかりアタシに流れてくる」
女の敵と言えるような、それも最悪、凶悪といったタイプの殺人鬼のヒット依頼ばかりだ。
他のどんな殺人鬼を後回しにしてでも殺せと命じてくる。凄惨な死を〈毒婦〉は望む。
その様はヒステリックで、どちらが恐ろしいかわからなくなるほどだ。
「女としてはやりきれねぇか」
「俺としてはそんな変態の前に姫を出したくないんだけど。レイプ魔とかロリコンとか」
一言で済ますのは簡単だが、タイプは様々だった。どれも、揃って最低で極悪で至悪、どんな言葉でも表せないほど、残酷だ。
陰惨、惨絶、そんな現場をエルザは何度も見せつけられてきた。
「それをロリコンの変態が言うなよ」
ロバートは呆れている。ロリコンと言えばラファエルが正しくそういう扱いを受けている。彼は隙あらばエルザを狙っている変態で間違いない。
「いや、あんたが相手にしてるのなんてロリコンってレベルの可愛いもんじゃねぇよな?」
クライドの問いがエルザにはどこか遠くなったように感じられた。
「ペド野郎はケダモノ以下だ」
それは確かにエルザの唇から出た言葉だった。
だが、言おうと思ったものではなかった。
自分でぞっとするほど、低く冷たい声、まるで自分でないような錯覚を受ける。
あるいは、それは記憶の果てから這い出てきた悪魔の声のように。
「あれ? 誰が言ったんだっけ……」
聞き覚えのある言葉だった。頭の中で響いている。
思い出そうとすれば、割れるような頭痛と酷い吐き気が襲ってくる。
それが、なぜなのか、全くわからない。
「大丈夫? 俺のベッドで介抱しようか?」
さりげなく肩を抱こうと腕を伸ばしてくるラファエルの腕を振り払う力も出てこない。
「おい」
クライドの声も通り過ぎていく。
「おーい、お嬢、戻ってこーい!」
ロバートの声も引き上げてはくれない。
底なし沼のように、どんどん落ちていく。
だが、それが急浮上する。
ドンと椅子が揺れ、落ちそうになるエルザを支えたのは振り払えずにいたラファエルの腕だった。いつの間にか、腰に回されている。
その手をエルザはぎゅむっと思いっきり抓る。
「いてっ……! いててててっ!」
「んなの誰だっていいじゃねぇかよ。バッティスタさんだって、そういうことは言ってた。それがなんだって言うんだ」
衝撃の原因はMJだった。彼は長い足を伸ばし、椅子を思いっきり蹴ったのだ。
ロバートは「壊れたらどうするんだ!」と喚いていたが誰も気にしなかった。
「そうね……ちょっと疲れてるのかも」
彼は知らない。
彼らは知らない。
もう一人の自分、獣の中の獣の存在を。
クライドは知っているだろう。だが、触れようとはしない。
「それより、男たらすのも、ほどほどにしねぇと、爽やかなようで嫉妬深い恋人にお仕置きされても文句言えねぇぞ」
クライドなりに気遣ったのかもしれない。話を逸らすには十分だった。ただ、それも面倒臭い話題であった。
「恋人? 聞き捨てならないな」
ラファエルの声が低くなり、MJは笑い飛ばす。
「はっ、どこのどいつだよ? そんな物好きは」
「東の領主様」
クライドが言い放った瞬間、空気が固まった。会話には入ってこない周囲の男達でさえも黙り込んだ。
「まさか……アルデバランのボスか?」
ラファエルが、どこか恐る恐るともとれる調子で小さく口にすれば、クライドはニヤリと笑う。
「他に誰がいるんだって話だよ」
「あの人は友達っていうか、家族」
「そこまで進歩したか」
ニッとあまり心地よくない笑みが向けられるが、それでも幾分かましな方であった。
「だから、勝手に恋人にしないで」
トールにとっても迷惑なことだろう。今、この場にいないとは言え、今後このメンバーと接触する可能性は大いにある。
エルザとしても彼の問題が片付き次第、紹介するつもりだった。
「家族、か……それだけで満足かよ? 望めば手に入るのに、理由付けて、意地張って、そういうのは心身に悪影響を及ぼす」
経験談だろうか。クライドの言葉は説得力があるからこそ、返す言葉が浮かばなくなる。
「否定しねぇんだな、そういう情があるってことは」
「姫?」
「そうなのか、お嬢?」
「ガキが恋かよ」
前後左右から視線を感じて、エルザは恨めしげにクライドを睨んだ。
「……なんか、みんな、わかってたみたいでムカつく」
「そりゃあ、見ればわかるだろ」
「なんで、そんなに、わかりやすいって言われるのか、わかんない」
「自分で思ってるほど獣じゃねぇってことだろ」
クライドの言うことはわからない。自分のことはわからない。
だが、トールと話した後、現れた時に彼は既に気付いていたのかもしれない。
「でも……それでも、アタシは掟を守る方を選ぶわ」
否定するよりは認めてしまった方がいい。
だが、認めたからと言って何かが変わるわけでもない。
「そうかよ、つまんねぇ答えだ」
クライドはもう興味をなくしたようだった。
「まあ、街のことは俺らがなんとかするから、派手にやってきなよ。一緒に戦えないのは残念だけど」
ラファエルの言葉はここでの総意となる。
愛や恋だと話している場合ではない。
戦いは、すぐ側まで迫っている。一人きりの戦いが。
「中央には俺らとシックス・フィートがいる」
フォー・レター・ワーズとシックス・フィート・アンダーの両チームが中央に存在し、日々警護に当たっている。
彼らを信頼しているからこそ、エルザも不安はそれほどない。
だが、彼らは自警団であって、組織的な人間とは違う。だからこそ、組織的な連携が必要だが、現状ではまだ難しい。
*
店を出て、クライドは息を吐いた。
そんなに息苦しかったか。エルザは思うが違うようだ。そもそも、後半の彼はいつも通りに見えた。
「自己犠牲なんて、あんたにゃ似合わなねぇよ」
「なら、アタシが信じてきたものはなんなの?」
そんな尊いものではないが、エルザは自分が犠牲になっても全く構わないと思っている。
否、そのために生きているのだ。誰かのために死ねるなら幸福なことだ。
どの道、生きていてはいけない。終わらせるために、償いのために生かされているだけに過ぎない。
「……あんたほど冷たい目をした女は見たことがねぇ」
「アタシは氷の女だから」
自白剤のようだと言われるアイスブルーの瞳、そこに暖かみが宿らないのは本当の意味で生きていないからなのかもしれない。
あるいは、生まれていない。
「俺にはあんたの虚しさがわからねぇな。どういう気分なんだ?」
自分の人生は虚しいのだろうか、考えてみてもわからない。
「アタシにはアナタの虚しさがわからないわ」
彼が自分の人生を虚しいと言うのなら、彼の人生もまた全くそうでないということはないだろう。
むしろ、今は虚しさを感じていた結果なのではないだろうか。
「虚しくなんかねぇよ。これがオレの生き方だ」
彼が〈暴君〉であることをエルザはその一瞬だけ忘れていた。
彼は自分のことは棚に上げるのだ。
「なら、そのまま返すわ。これが、この世に生まれ落ちる前から〈呪われ子〉、〈災厄の獅子〉と忌み嫌われたエリザベス・レオーネの生き方なのよ」
それを虚しいとは思わない。
悲しいとも、苦しいとも思わない。
それが現実であって、非現実的なことを考えられるようには育てられていない。
「まったく、難儀なこった」
「アナタこそ」
「ドラッグよりはましだ」
どうだか、とエルザは肩を竦める。この話に意味などないだろう。