愛は破滅の宿命 008
沈黙が続いて、けれど、トールは話を終わらせるわけでもない。エルザの言葉を待っているのか。
先に耐えきれなくなったのはエルザの方だった。
「……アナタはとても素敵な人だから、アナタに愛される人は幸せな人だと思う」
それはエルザが心から思うことだった。
彼に愛される人間が羨ましいのだ。
彼が自分を愛していると言っているのに、それが嘘偽りのない気持ちだと知っているはずなのに、本当に心から羨ましいと感じる。
「なら、俺はあんたを幸せにできるな」
トールの声音から喜びは感じられない。
その後に続く言葉をわかってしまっているのだろう。
問えば、わかるものかと彼は言うだろう。だが、理解している。
「でも、それはアタシじゃいけないの」
愛されてはいけない。
彼にこれ以上自分を愛させてはいけない。
これは何かの間違いであると思いたがっている。それが彼を否定することだとわかっていながら。
「それはあんたが決めることじゃない」
はっきりと響く言葉が残酷にエルザの胸の内にある微かな願いを打ち砕いていく。
どうか冗談であってほしいと願わずにはいられなくなるのだ。彼が誠実な人間だとわかっているのに、そんな冗談を言うはずがないと理解しているにもかかわらず現実を歪めたがる。
「俺が生涯愛したいと思うのはあんただけだ」
「アタシにはアナタに愛される資格がない」
望まれずに生まれ、愛されずに育ち、愛を知った時には何もかも遅かった。
それなのに本当の意味で誰かを愛せるはずがない。
「だったら、俺からあんたを愛する権利を奪うのか? 奪えやしないさ。俺の心はあんたにやるが、俺は俺の権利を主張する」
「だから、アタシもアナタを愛さない。愛せない。だって、愛なんてアタシにはよくわからないもの――」
本当はエルザも心の中では彼が好きなのだと認めている。
気付いてしまったのだ。
好きになってはいけない人を好きになってしまった。抱いてはいけない感情を抱いてしまった。
よくわからない感情だが、特別な感情なのだとわかる。あるいは、ロメオ達に言われてその気になってしまったのか。
否、自分にとって彼が特別なのだと、そう自覚するところが確かにある。この男トール・ブラックバーンの前でエルザは他の男には決して抱かない感情を認識してきた。
「――でも、最期はアナタに殺されたいって思う。この世にアタシを殺していい人間はもう何人もいるけど、アナタの腕の中で終われたら幸せだって思う」
三人まではエルザが決めたが、最近になって殺せるだけの理由を持った者達が現れるようになった。
デュオ・ルピ、オルクス……彼らのような人間はきっと他にも出てくる。死神達の方位は狭まっている。
「死なせない。死なせるもんかよ。この腕はあんたを生かすためにあるから」
トールの言葉がエルザにはとても近く感じられた。
それもそのはずだ。
後ろから抱き締められている。間に背もたれを挟みながら、それでも強く、温かい。
「トール……」
エルザは困惑しきっていた。
けれど、振り返ることもできない。
「もう無理なんだよ、あんたに触れたいって欲求を抑え付けるのは」
「アナタを傷付けてしまうかもしれない」
彼に触れられることは初めてではないのに、その温もりを嬉しく思っているのに、自分を怖れてもいる。
表皮の接触だとしか思っていないはずなのに、どこかでは拒絶もあるのだ。
知らないことは怖い。だから、愛が怖いのかもしれない。
「あんたには傷付けられてもいい。いや、その方があんたを感じられる」
「どうして……アタシなんかを愛しちゃいけないのに」
「そんなルールなんてない」
どこかでは、まだ信じられない気持ちがエルザの中にあったが、トールのはっきりとした言葉が全てを吹き飛ばしてしまいそうになるのだ。
「アタシが母さんに似てるから……?」
耳元で大きな溜め息が聞こえた。
「どうして、そういうとんでもない飛躍をするんだ。俺はあの人を知らない」
トールは言うが、エルザにとってはとんでもない飛躍でもない。母セレナ・レオーネの面影を重ね、代替品として求められることは何度もあった。
「言っただろ? 俺はあんたが自分に立ち向かえる真っ直ぐなところが好きなんだよ。自分を犠牲にして他人を守ろうとするところとか、ちょっと間違ってるところとか、全部ひっくるめて、その強い心に惹かれたんだ」
容姿ではない、肉体的な強さではない、空っぽのはずの心が好きだと言われたのはエルザにとって初めてのことだった。
何を言っていいのかわからず、ただ胸が熱くなるような感じだった。
そして、目も熱い。
宥めるようにポンポンと頭を叩かれて、案外、自分はそうされるのが好きなのかもしれないとエルザは気付く。
目の前にしゃがんだトールは少しぼやけて見える。
「泣くなよ、あんたを泣かせるなんて、ちっとも良いことじゃない。俺はあんたに笑ってほしいんだ」
泣き方も笑い方も知らない。
そんなエルザにとって、トールの言葉は信じられなかった。
「アタシ……、泣いてるの?」
「涙さえ、あんたはわからないのか」
トールに指先で目元を拭われる。
反対をエルザが触れれば、確かに雫の感触がある。
「あんたが知らないことを全部俺が教えてやりたくなる」
微笑むトールの表情に何か違和感を覚えて、エルザはじっと見る。その口元には痛々しい痣がある。
「これ……、どうしたの?」
「ちょっとな……」
エルザがそっと手を伸ばせば、トールはばつが悪そうな表情をする。
「答えないと仕返しに突っつくけど」
おそらく犯人はカーマインなのだろう。
「……あんたとお揃いだ」
「馬鹿じゃないの?」
「いいな、それ。俺はちょっとカーマインが羨ましかったんだ」
子供のように笑ったトールにエルザは呆れた。どうにも調子が狂う。
「ちょっとカーマインに文句言ってくる」
エルザが立ち上がれば、トールに手を掴まれる。
「もう寝てるさ」
「だったら、叩き起こす」
「他の男のところに夜這いに行くなんて許すとでも?」
エルザは肩を竦める。
「これは正当な抗議よ。イケメンの顔を殴るなんて……!」
「起こしたら絶交だそうだ」
「子供の言い種じゃないの」
急に大人のようになったかと思えば、やはりハイスクールの生徒レベルなのだろうか。
「ついでに部屋まで送ってあげるわよ?」
「生憎、俺の部屋はないんだ」
「じゃあ、どこで寝るの?」
「リビングのソファー」
冗談のセンスが悪くなってきたのか。エルザは驚いてトールを見詰める。薄々、その兆候はあったが、本気とは思えないものだ。
「『イケメンを寝かせるベッドはねぇ!』だそうだ」
どうやら、センスが悪いのはカーマインの方のようだ。
「誰も弁護してくれなかったの?」
残念なことに、とトールが頷く。自分のせいで彼が悪者扱いされてしまったのかとエルザは不安にもなって、エルザはベッドを指さす。
「使う? アタシ、ソファーでいいから」
「そうしたら、俺は口を開けなくなるだろう」
またカーマインに殴られるということだろうか。
「じゃあ、半分使っていいわよ」
「……殺人的だな」
「何か言った?」
「いいや、何も」
ベッドのシェアぐらいエルザは気にしないのだが、トールの方は気にするようだった。
エルザにもトールが言いたげにしていることがわからないわけでもない。
「トール・ブラックバーン、アタシはアナタの恋人にはならない。でも、アナタを家族として愛するわ。だって、アタシ達は、元は同じだった。そうでしょ?」
トールを見据え、エルザは宣言する。彼への愛のために掟を変えるつもりはない。それがエルザの選択だ。
「そうだな……レオポルドとエルバートのように、俺達は今でも強い絆で結ばれた家族だ。そして、親友だ」
レオポルド・レオーネとエルバート・ブラックバーン――初代レグルスと初代アルデバラン、元々は一つだったのだ。
レオポルドを中心とする集団が始まりだった。
「アナタが必要とするなら、アタシはいつでもアナタの盾となって守り、剣となって貫くわ」
初代レグルスが言ったとされる言葉を真似てエルザは言ってみた。
〈絶対王者〉と呼ばれたその人には遠く及ばないが、彼ならば力を発揮できる気がした。愛の力と言えばひどく陳腐な響きに思えたが。
自己満足に過ぎなくとも、兄に必要とされなくなった力の行き先は彼が良かった。
「休めと言いたいところなんだがな……」
最早、言っても無駄だとトールは悟っているのだろう。
「無理よ。破滅願望の塊みたいなお姫様を救出に行かないと」
ファウストは既に動いている。戦いが近いということだ。
相手は絶対に待ってくれない。
「後々、全く同じ台詞を吐きたくなりそうだな」
「騎士を助けにいく王子様なんていないでしょ?」
「なんで、あんたが騎士で、俺が王子なんだ。明らかなミスキャストだぞ」
トールが顔を顰める。
だが、エルザとしてはトールが王子というキャスティングには自信があった。
「言ったでしょ? アタシはアナタの盾で剣、つまり騎士よ、トール王子」
「あんたにはかなわないな、本当に」
トールが吹き出す。心からおかしそうに笑う彼にもやはり子供っぽいところがある。
そして、そのささやかな時間は幸せだと言えた。
たとえ、この先、戦いに身を投じて傷付いても、彼が笑っていてくれれば良いと思う。
愛の先にあるものが、破滅でしかないとしても。




