愛は破滅の宿命 007
カーマインが嵐のように過ぎ去った室内でエルザはそっとベッドから降りて歩く。抜け出すつもりもない。窓へと向かって、枠に寄りかかってみる。
ずっとベッドの上で大人しくしているのも退屈である。イシュタル、レサト、ロメオ、カーマインと続いてこれ以上、話し相手が来ることもないだろう。皆、二度目はない。
本を読む気分でもなくなってしまった。
窓を小さく開ければ、冷たい風がそっと流れてくる。それが少し心地好く感じられた。
そうして頭を冷やすように、考えを巡らせるのだ。
いつからだっただろうか。
人を殺すことに躊躇いが生まれるようになったのは。
人を殺した後で人に会いたくないと思うようになったのは。
エルザも自分の変化に全く気付いていないわけではなかった。
他人の命を奪う瞬間を、醜い自分の姿をトールには見られたくないと感じてしまった。彼には全てを見せて軽蔑されるべきだと思っているというのに。彼の前ではエルザの中に矛盾と恐怖が生じる。
死の匂いを纏った後で、〈カニス・マイヨール〉へ向かうことを避け、一週間ほどは自粛するようにもなってしまった。それで薄れると思ったわけでもない。幻想に過ぎないとはわかっている。
全てレグルスにいる時には感じなかったことだ。周りにいたのはほとんどがその道に身を投じる者である。アダムや他にも例外はいたが、あまり一般人と親密に接することもなかった。
ギルバートやシルヴィオとて結局は組織を継ぐ者として育てられた人間である。
自分がどうしようもなく弱くなっているとエルザは感じていた。
最初に強さを手に入れたのは望んだからではない。自分の意思で選んだことではない。自由を奪われ、させられたことだ。憎むべき過去である。
けれど、今以上に強くならなければ目的を達成することはできない。
人と触れ合えばそれだけ人になろうとする心が退化を呼びかける。
もう獣ではいたくないと叫ぶ。
普通の女の子になりたい、ととっくの昔に不可能だと思った願いを抱いてしまう。こんな獣でなければ彼らと出会うこともなかったというのに。
外の空には浮かぶ月、見ればエルザに母を思い起こさせる。
セレナ・レオーネは〈聖母〉と呼ばれる一方で〈月の女神〉と称されることもあったと言う。
だから、エルザも昔は月を見ることさえ辛かった。まるで母に見られているように感じたのかもしれない。
あの月を消し去ってしまいたかった。自らが死に至らしめてしまったという後ろめたさから逃れたかった。
今でも決して好きだとは言えない。
ふと、唇を開いて紡ぐのは歌い慣れたメロディーだ。
エルザが生まれる前の流行の歌、月を歌ったものだ。
母も聞いたのだろうか、好きだったのだろうかと思えばエルザの胸は痛む。
ごまかそうとすれば、歌声にも現れてしまう。
ロメオと歌ったときでさえここまで揺らがなかった。
切れた唇は痛んでいるが、それだけではない。
自分の想いがどこにあるのか、エルザはわからなくなる。
もうやめようと思うのに、背に感じる気配が迷わせる。
今、歌うのをやめてしまったら、彼と向き合わなければならなくなる。
せめて、少し時間を稼ぎたいと思ってしまう。
そこにいるのがトール・ブラックバーンだとわかっているからだ。
話をしに来たのだろう。小さなノックには気付いたが、彼だとわかって応える勇気がなかった。明日になれば、ほとぼりも冷めて、自然に話せると淡い期待がなかったとは言えない。
そのまま去ってほしかったのはエルザの願望だ。実際は彼は今日中にけりを付けたがる気がしていた。
だから、勝手に入ってきたことを責めるつもりはない。拒絶の意思を示さなければ許可と変わりない。
エルザが歌い終わった時、肩に何かがかけられる。
暖かなストール、そっとエルザは前を合わせる。
それから反射的に振り返ろうとして、トールに制されてしまった。
「話、聞いてくれないか? 振り向かなくていいから」
トールの声は穏やかだが、表情を見るのは怖いとエルザは感じる。
もしかしたら、それは彼も同じなのかもしれない。
エルザが頷けば、トールは椅子を用意した。立ち話をさせる気はないようだ。
またトールは痛いほどに優しくなった。
今はエルザも彼にも座るように促すことができない。エルザからトールに言葉をかけることができなかった。彼が醸し出す空気がそれを許さない。
審問椅子でもあるまい。エルザは今は素直にトールの優しさを受けておくことにした。
「すまない。自分の不安をあんたにぶつけるべきじゃなかった」
なぜ、彼が謝るのだろうか。
悪いのは彼ではない。謝るのは自分の方だとエルザは思うのに、言葉が出ない。
「あんたは、突然いなくなりそうで、怖いんだよ」
トールの声が微かに震えているように聞こえるのは気のせいではないのかもしれない。
エルザは消えるために生きている。その時が来たら彼に別れを言うこともないだろう。初めから存在しなかったかのように消えてしまいたいからだ。
「あんたにとって、俺は大勢の男の内の一人にすぎないって思っちまう」
それは違うと言いたいのにエルザの唇は震え、そのままトールが続ける。
「あんたが死ぬかもしれないと言われて、俺は心臓が止まるんじゃないかと思った」
あの場で死ぬつもりはエルザにはなかった。アルテアも命を奪うつもりはなかった。生きたまま飼うつもりだったのだから。
けれど、あの男――カッサンドラが見たのならば本当に危なかったのかもしれない。今でもありえないと思っているが、本当に彼であるならばエルザも否定できない。それだけ信じていている。
死が肉体的なものであるとも限らない。彼の見るものは必ずしも現実になる風景ではなく、抽象的であるはずだった。
「目が届くところにいてほしい。何も見返りはいらないから、側にいさせてほしいと思ってる。それが、あんたにとっては枷になるってわかってるのに」
それは縋るように、弱々しく響く。
「……軽蔑されると思った。やっぱりアナタもアタシを嫌いになるって」
ようやく出た自分の声も震えているとエルザは感じる。
怖いのだ。死を予感するものとは全く違う恐怖がそこにある。
「あんたが自分に立ち向かうなら、俺は絶対にあんたを軽蔑したりしない。俺が好きなのは、そういうところだから」
エルザは首を横に振る。
彼に、そんなことを言ってもらう資格などないのだ。
は愛されてはいけない。愛されるために生まれたわけではない。愛されないために生きている。
普通の女の子ではないのだから。
「普通の女の子になれないなんて嘆くなよ。そういうところも、ちゃんとあるから?」
向き合ってもいないのに見透かされて、エルザはどうしていいかわからなくなる。
今、振り返ったら彼はどうするのだろうか。
今、振り返ったら自分はどうするのだろうか。
「俺はあんたが思うほど綺麗な奴じゃない。俺自身が一番アンフェアだ。この胸の内にあるのは、ドス黒いもんだ」
矛盾してるだろ、とトールは笑う。
優しい笑い声ではない。乾いている。
けれど、エルザの胸が苦しくなるのは嫌悪からではない。
彼の心に墨を落としてしまったのは自分だという罪悪感が強く主張するのだ。
誰の心の中にも黒いものはある。
それを自覚している彼なら大丈夫だとエルザは思っていた。
少なくとも、真っ黒な自分よりはずっと救いがあるはずだ。と。
彼は荒まないだろと信じていた。しかしながら、自分は確実に悪影響を与えてしまうのだと痛感する。
「好きなんて生温い、愛なんて嘘臭い」
もし、彼が変わるとすれば、それは自分のせいだとエルザは悲しいような気持ちになった。
誰かに影響を与える人間にはなりたくなかった。良い方に導くことはできない。きっと、悪い方に変えてしまうのだから。
「でも、あんたを愛しちまってるんだよ、どうしようもなく。制御不能なくらい」
背中に感じる強い言葉、確かに愛なのだと知覚する。
それをいつものように、他の男達に言ってきたように、勘違いだと言い切ることがエルザにはできない。
どうしようもなく似ているのだ。兄レナード・レオーネから感じた強い愛に。
兄妹愛、家族愛、そう言ってしまえば簡単だが、エルザは自分達に関してはそんな言葉が当てはまらないと思っていた。
自分が作ってしまった大きな壁がそこに存在するように思っていた。だが、レナードはそれを壊してみせた。
そして、何より大切な約束をくれた。
ずっとそれをなかったことにしようとしたのは兄の方だと思っていた。だが、本当は自分がそうさせてしまったのかもしれないとエルザは気付き始めた。
結局、自分は存在するだけで何もかもを破壊してしまうのだろう、と。
今すぐに消えたいと願いながら、消えられない理由を付ける。
そんな自分にエルザは嫌気がさしていた。
狡くて、どうしようもなく汚い。何より彼の前では綺麗でありたいと思ってしまうことに。