愛は破滅の宿命 005
案内された部屋は以前のカーマインの部屋ではなかったが、用意したというのは本当らしかった。
ベッドシーツはとても清潔そうで、室内も埃っぽくない。エルザは促されて大人しくベッドの上に座る事にした。
「食事、後で運んできますから」
そう言うイシュタルの声はトールのように厳しくはなかった。
「必要なら、話し相手になりますよ? 僕で良ければ、ですけど」
イシュタルは優しく微笑み、エルザの心を少しだけ軽くしてくれた。
「そんなこと女に言うと根掘り葉掘り聞かれるわよ?」
冗談にも力が入らない。しかしながら、弱っているからといって女を侮るべきではない。否、女だからこそか。
イシュタルが自分をどういう扱いにしているのか、エルザの知ったことではないが、今はただの女である。心身共に弱っている。
「構いませんよ。それで安らぐなら」
そうして、イシュタルが態度で示すように室内に置かれていた椅子を引いてきて、ベッドの側に置いて座る。
普段、エルザは「どうして聞いてくれないんだ」と怒られることもあるぐらいには深入りを避ける。だから、こんな時でも聞かないと思っているのか。
「バンドのこと聞いてもいいの? 〈デッドリー・シンズ〉だっけ? 何でやめちゃったの? って」
「当てつけにしても、あんまり面白くないですよ、その話」
小さくイシュタルが笑う。
多少、彼を追い払おうという意図はあったが、それだけではなかった。
「少なくとも、アルテアとかは関係ないでしょ?」
北方が絡むような話から離れられるならば、どんな話でも良かった。
「まあ、僕達が、いかにしてカーマインさんに一目惚れしたかっていう実に平和なお話ですからね」
今のようにリブラがアンタレスの爪としての義務を果たすようになる前の話だろう。興味はあったが、エルザは詮索屋でもない。やはり踏み込めないのだ。
「お酒が入らないと話せない感じ?」
「そうですね、エルザさんが元気なら一緒に飲むのもいいですね。伊達にバーテンダーだったわけでもないですし。カーマインさんが一緒の時は僕、飲めないですし」
イシュタルと初めて出会った時のことをエルザは思い出す。
あの時は今のような好青年ではなく、ファウストを思わせるようだった。
バンドの時はどうだったのかとも思うが、その話題はあくまできっかけでしかなかった。
エルザはイシュタルの様子を探った後で、切り出すことにした。
「……みんなに、迷惑かけたのに、あんなこと言ったりして、自分でもどうかしてると思う」
先程までの自分は冷静ではなかった。もしかしたら、今も普段の状態ではないのかもしれない。エルザはそう思うのだ。
首を横に振るイシュタルの顔には微笑が浮かんでいる。
「そんなことないですよ。不安定にならない方がおかしいです」
イシュタルからはそう見えたのだろうか。
否、確かに安定はしていないのだとエルザも感じる。
近頃は揺らぎが大きくなっているように思えて仕方がない。それは、ひどく嫌な兆候のようだった。
「トールは危険を冒したのに、ちゃんと話さないなんてフェアじゃない」
「フェアとかアンフェアとか、そういうことじゃないですよ。みんな、エルザさんの力になりたいから勝手にやったんです」
ふと、イシュタルの表情が陰る。
「トールさんが出て行った間、ロメオさんが僕には少しだけ話してくれましたけど……あんなの絡んでたらホイホイ話せないですよ。ファウストさんのこともありますし。僕だったら、とりあえずキレますね、逆ギレです」
「それで、また、背信を考える?」
ええ、と笑顔でイシュタルは答える。
彼も本気ではないのだろうが、全く考えていないということでもないのだろう。
「ロメオさんはエルザさんの立場が悪くならないように、自分から話そうとしたんですよね。多分、一番話したくなかったのに」
ロメオの意思を尊重してエルザは自分から話すわけにはいかないと思った。
だが、そのロメオも自分でトールに助けを求めた以上、こうなることはわかっていたはずだ。それでも、ボタンに手をかけた彼の目は苦痛に満ちていた。
だとすれば、見誤ったのは自分の方か。エルザは考える。
直接二度目の脅しなどかけにいかない方が良かったのか。
否、結局同じだ。行かなければ、行かざるを得ない状況に追い込まれただろう。ロメオが望んだことでもある。
「まあ、〈ロイヤル・スター〉と全く関係ないわけでもないですし、僕がトールさんの立場でも同じように言ったでしょうね」
「そうね……」
トールの追及は当然だとエルザもわかっている。
それなのに、頭に血が上ってしまった。
突き落とされることがわかっていたのに、予想以上の仕打ちだった。それに耐えられなかった。
「でも、北方は落ち着いたばかりですし、ガニュメデスのこととなると優先順位が低くなってしまうのも仕方ありません。多分、その話をしなければならないのは、ここではなく、北で、でしょう」
「フォーマルハウトとガニュメデスとで話し合ってもらわなければいけないと思う」
これは、アルフレード・アクイナスを抜きに語れる話ではない。
そして、ガニュメデスとフォーマルハウトは切り離せない。
あるいは、その場に他の〈ロイヤル・スター〉を同席させるべきなのかもしれない。南は、エルザではなく、レナードを。
「トールさんだって、エルザさんがロメオさんのためにしたことを理解してると思います。僕もあの人はエルザさんみたいに何もかもわかってる気がしてしまうんです。エルザさんもそう思ってますよね?」
エルザは頷く。自分がなんでもわかっているかは別として、トールの無自覚の理解は兄レナードの千里眼に相当すると見ていた。
「でも、やっぱり愛する人には無茶をしてほしくないんですよ。エルザさんは特に本当に命懸けですし、不安でどうにかなりそうなのもわかります……」
イシュタルはクスクスと笑っている。
彼も知っているのだろう。あるいは、気付いていないのは本当に自分だけだったのかもしれない。そう思うとエルザは穴に入りたいような気持ちにもなる。
「多分、トールさん自身が一番後悔してます」
「彼は正しいのに……」
「でも、エルザさんだって正しくないわけじゃないですよ。エルザさんはエルザさんなりに正しいことをしてるんです。正義も正解も一つじゃないんです。だって、悪も間違いも山のようにあるでしょう? 表裏一体なんです」
今までエルザに説教をする人間はいなかった。
けれど、イシュタルの諭しに自分はまだ幼いのだとエルザは思い知る。
「だから、エルザさんが後悔しているなら、今は大人しくここで休んでください」
正にイシュタルはカーマインの母親だった。
言うことを聞くべきだろう。だが、じっとしていられないのが、エルザの性分だ。
「……退屈なのは嫌」
「大丈夫ですよ。多分、誰もエルザ様を放っておいてくれないですから」
「それも、なんか嫌」
わがままですね、とイシュタルが笑う。
「あ、あとで、エルザさんのお気に入りが来ますよ?」
「アタシのお気に入り?」
「ええ、うちのオシャレ担当が」
「あの服屋さん?」
「ええ、うちのファッションリーダーがデリバリーに来ます」
以前、イシュタルが急遽用意した服や下着のサイズがピッタリだったカラクリをエルザが知ったのは最近のことだった。
リブラのメンバーはスパイ活動をしていることが多く、その一人は行きつけの服屋の店員としてエルザと顔見知りだったわけである。
「楽しみにしておく」
少し落ち着いた気分でエルザは笑ってみせた。
先程の激情はどこかへ消えていた。
食事時にはレサトがやってきた。
彼は今日のことについては何も聞こうとせず、料理の話でエルザを楽しませた。
そして、エルザからも料理の話を聞きたがった。
レグルスの男達の料理とエルザの料理について熱心に耳を傾けた。だからこそ、機会があればアダムと会わせてやりたいとも思ったのだ。
その後は予告通り、リブラのファッションリーダーもやってきた。
彼は必要なものを置いたらすぐに帰ってしまったが、十分だった。
彼が持ってきた物の中には暇潰しになりそうな本もあった。
シャワーを浴び、すっかり気分が落ち着いた頃、エルザの部屋に訪問者があった。
こちらもすっきりした様子のロメオだった。
彼はベッドの脇に腰掛けるなりクスクスと笑った。
「なんでそんなに苦しいのか、考えたことある?」
「どういう意味?」
エルザは問い返したものの、また考えろと言われるのだと思っていた。
「全部、トールお兄さん絡みでしょ」
「え?」
「苦しくなるのはトールお兄さんのせい。それって、どういう意味だと思う?」
ロメオは何もかも見透かしているとでも言いたげだった。
けれど、その声は優しい。どこまでも優しく感じる。まるで、イシュタルがそうだったように。まるで皆が兄になったように感じる。
「……アタシがトールを好きだとでも言いたいの?」
ロメオだけでない。
今まで他の男達から言われたことを考えれば、そう言われているような気もする。
「そうとしか思えないでしょ。みんな、気付いてる。まあ、遅いけど、行き着いたことは誉めてあげないと」
ポンポンと頭を叩かれて、エルザは不満を覚えた。
ロメオに限らず、なぜかよくそうされるのは、やはり子供扱いされているのか。
「なんか撫で撫でしたくなるんだよね。猫みたいな」
恨めしげなエルザの視線を受けて、ロメオは笑った。それでも尚、手は頭の上でわしゃわしゃと動いている。こうなると嫌がらせにも思えるのだが。
「愛を惜しみなく与えてくれるのはレナードだけじゃないんだよ」
〈呪われ子〉、〈災厄の獅子〉と忌避され、強さのためだけに生かされていたエルザを救い出し、唯一愛してくれたのが兄レナードだった。
好きだと言う人間は何人もいたが、それは本心ではないとエルザはどこかで感じていた。
だから、トールも同じだと思っていた部分があった。
本当の自分を見れば軽蔑すると思っていた。
そのどこかで彼は違うと思いたかったし、軽蔑を怖れてもいた。
「アタシには最近の兄さんがわからない。だから、オルタナティヴになってほしいだけかも」
「代わりが欲しいだけなら、俺だっていいでしょ」
「アナタは兄さんとは似ていない」
似ているのはその慧眼と年齢だろうか。それだけだ。
オルタナティヴというには、あまりにもレベルが低いと思わざるを得ない。エルザからすれば兄に対する冒涜にも等しい。
「まあ、トールお兄さんは似てるかもね、根本的なところが」
「アナタが言うことは、よくわからない」
自分の千里眼もどきとロメオの慧眼では見ているものが違うだろうとエルザは考える。
根本はエルザにはよくわかっていないのだ。兄との間には空白があり、トールのことはまだ白紙だ。
「ちゃんと話しなよ、明日までいるから――」
あれからトールには会っていない。エルザはずっと部屋から動けずにいた。
だが、会わずに中央に帰ることはできないだろう。
「――逃げるんじゃないよ」
ロメオはそう言って出て行く。釘を刺したつもりなのだろう。




