漆黒の狩人 004
もうエルザは来ないかもしれない。
アルドはそう思っていた。その方が平和だが、やはり心はざわつく。その正体が何かはアルドにはわからない。
そんなことを考えながらアルドがテーブルを拭いていた時、ドアベルが鳴る。
開店前に誰だろうと顔をあげて、アルドは動けなくなった。
どうして、こんな時に限って彼女はやってきてしまうのか。
「なんかあったか?」
アルドが何も言えない間にフレディが問うた。
この時間にわざわざやってくるということは何か特別な理由があるのだとアルドも感じてはいた。
一瞬、全てが解決したのではないかと考えたが、すぐに彼女の後ろに立つ少年が目に入る。エルザの背後に隠れているつもりなのかもしれないが、頭がはみ出している。
「ちょっと頼みがあって」
「なんだ?」
「この人、暫く使ってくれないかと思って」
エルザはどこか言いにくそうにしながら連れてきた少年の手を引いて前に出す。
背こそエルザより頭一つ分高いが、可愛らしいといった印象の少年だった。柔らかそうな金茶の髪に大きなブラウンの瞳、顔立ちは幼く、キョロキョロと店内を見回している。
「経験は?」
「レストランで修行させられた後、レグルスの厨房で働いていましたです。二年くらいですけど。趣味はお菓子作りです」
フレディが問えば少年はしっかりと答えた。そして、フレディはじっと少年を見て、頷く。
「よし、じゃあ、来い」
了承ととれるフレディの言葉に少年はほっとした表情を見せたが、アルドは一気に現実に引き戻されるのを感じた。
「ウェズの代わりなんかいらない!」
アルドは叫んでいた。フレディなら断ると思っていた。なのに、エルザが連れてきた組織の料理人を受け入れようとしていることがアルドには信じられなかった。
「預けるだけよ。いずれアタシが取り戻すから」
ずっとではない。エルザは言うが、それが一体なんの救いになると言うのだろう。彼女達に事情があるとしても、それはアルドには関係のないことだ。
「人殺しなんか……!」
大人しそうに見えても、穏やかに笑みを浮かべていても彼もまた人殺しの仲間でしかない。二年も彼女達と一緒にいたのだ。アルドにとってそれは受け入れ難いものだった。
「僕はアダム。ただの自称お菓子職人です。せめて少しでも戦えれば今でもレグルスにいられたかもしれないですけどね……」
アダムはくしゃりと泣き出しそうに顔を歪める。それでもレグルスにいたいという気持ちはアルドにはよくわからないが、どこかではほんの少しわかるような気がしていた。
「じゃあ、遠慮なく借りるぜ」
「面接とか、いいの?」
フレディはニヤリと笑ったが、エルザは首を傾げた。いくらなんでも即決過ぎると彼女も思ったのだろう。
「お前さんがわざわざ連れてくるんだからするまでもないだろ」
「ありがとう」
一瞬、おそらくエルザとフレディの間でアイコンタクトがあった。アルドはちらりと自分に視線が向けられたような気もした。
どうにもこの二人は前から知り合いのような空気を醸し出すことがある。しかし、それはタブーのように思えてくる。相手がフレディなら尚更アルドは聞けなくなる。
「アダム、くれぐれも聖域を穢すことのないように」
カウンターに入ったアダムにエルザは戒めるように言う。
「僕、待ってるですから。また戻れる日を」
「必ず取り戻す」
「僕はエルザ様を信じてるですから」
アダムは姿勢を正し、真っ直ぐエルザを見る。そこに確かな信頼関係があるのをアルドは感じた。
「じゃあ、アタシはこれで」
「また来いよ」
くるりとエルザは背を向け、スタスタと歩き出す。元々、長居をするつもりはないのだろうが、やはり忙しいのか。
エルザは何も言わなかったが、アダムを連絡係として置いていったとしても不思議ではない。そして、もう店には顔を出さないつもりなのか。そう思った瞬間、アルドは店を飛び出していた。
早足なエルザに追い付くためにアルドは少しばかり走る必要があった。思ったよりも先にいる。そして、ふらりと路地に入っていく。
追いかけて入った人気のない路地にアルドは多少の抵抗感を覚える。日常生活から切り離されてしまうような感覚でさえある。彼女達の領域に飛び込んでしまうということなのかもしれない。
引き返したいような気持ちにもなるが、アルドが呼び止める前にエルザが気付き、振り返る。
勢いで追いかけてきたものの、何を言えば良いのかアルドはわからなくなった。どうにも彼女の吸い込まれるような青い瞳に見詰められると言葉が見付からなくなってしまう。
「ないと思うけど、あの子に当たらないでね。本当にいい子だから」
アダムのことをエルザは随分と気に掛けている様子だった。アルドが新人いびりをすることもないのだが。
しかし、アルドが言いたいのはそういうことではない。
「父さんが決めたなら、俺は何も言えないです。えっと、そうじゃなくて……」
「何?」
「この前のこと……怒らないんですね」
冷静になって考えてみれば随分と勝手なことをしたものだった。
エルザは守るとは言ったが、対象が自ら危険に飛び込んで行っては迷惑だろう。アルドは自分なりに反省しているつもりだった。
「アタシ、何か言った?」
じっと見詰められてアルドは思わず身構えてしまった。
「え?」
「勝手なことはするなとか、何かあったら必ず連絡しろとか、アタシのすることに口出しするなとか」
「言ってない、ですね……」
エルザに言われてアルドは考えてみるが、確かに行動を制限するようなことを彼女に言われた覚えはない。
「好きなようにすればいい。どんなことをしても守ってみせるから」
守るとエルザは言う。また死なせたとあの男は言った。
それはアルドの胸に小さな不信感を芽生えさせていた。トゲはチクチクと心を苛んだ。
「アナタも結構きつい性格してるわよ」
淡々とした言葉、アルドは心を見透かされたような気がして困惑した。
なぜ、彼女にそんなことを言われなければならないのか。
「な、何を……」
「人畜無害って顔してるくせに、どうしようもなく世間知らず、その上排他的で夢見がち、無意識の内に自分に都合の悪い何もかもを否定してる」
はっきりと言われ、アルドは呆然と受け止めるしかなかった。
アルドがエルザを別世界の人間だと感じるように、エルザもまたそうなのだと気付いてしまったのだ。
「……それなのに、すぐに何事もなかったみたいに接してくる」
エルザの強い輝きを持つ瞳が僅かに揺らいだ気がしたが、アルドには彼女にかける言葉がなかった。自分でも迷っているのだ。彼女にどう接すれば良いのか。
「彼の望みは叶えた。でも、アタシを信用することはまた別の話。そうよね?」
エルザがポケットから出して掲げるのはあのペンダントだ。彼女の手に渡ることは確かにウェーズリーの望みであった。しかし、彼女について何かを聞かされていたわけではない。
「だって……君は人殺しだから」
見る度に忘れそうになるが、彼女は〈黒死蝶〉の異名を持つ冷酷な殺し屋だ。ウェーズリーが情報屋であったことすらアルドにはまだ信じられない。彼女を信じることはあまりに困難だ。
「そう、アタシは人殺しの獣、人間じゃない。でも、アナタは、どうしようもなく、人間」
エルザは頷く。はっきりとその境界を明確にしようとするかのように。あるいは、自らに言い聞かせるかのように言う。
「だから、信じてなんて言わないし、勝手なことをするなって言う権利もない」
強制は一切しない。それがエルザの流儀なのだろうか。
「だけど、信じてくれれば絶対に裏切らない」
エルザの言葉は強い。その強さの出所はわからないが、ずっとそうしてきたのだとわかる。それでも、アルドにはわからないことがあった。
「でも、あいつを……あいつを殺そうとしなかった」
先日の殺し屋、ウェーズリーを殺す命令を受けたというあの男に対してエルザは驚くほど冷静でいた。
後から考えてみれば自分を守ると言った彼女が巻き込むのを承知でわざわざ目の前で戦闘などすることもないのかもしれなかった。それでも納得できないことがある。不可解なことがあまりに多すぎるのだ。
「彼は、嘘は吐かない。でも、真実を全て話すような男じゃない」
まるで知り合いのことを話すようなエルザにアルドは首を傾げた。
「あいつのこと、知ってるんですか?」
「全然。あっちはアタシのことよく知ってるみたいだけど、あんなムッツリ知らないわよ。でも、そんな気がする」
「気がするって……」
エルザは首を横に振り、そして、瞳を伏せた。
自分が去った後、彼女はどうしていたのだろうか。びしょ濡れになるまで雨の中、何をしていたのだろうか。あの男と何を話したのだろうか。アルドの中でまた疑問が溢れる。彼女といると解決しないことばかりだ。心を埋め尽くしても尚増え続けていく。
雨のように降り注ぐ疑問が傘を持たないアルドを容赦なく濡らす。
「アナタは目で見て触れられるものでさえ疑うから、アタシとは相性が悪いわね」
アルドにはエルザが悲しげに微笑んだように見えたが、やはりその表情は冷たい。
「エリックさんって誰なんですか?」
アルドは思い切って聞いてみた。あの男が口にした名前、彼女が死なせたという他の男のことを。
彼女は答えないかもしれない。聞いてはいけないことなのかもしれない。けれども、聞かなければ疑問のままわだかまることになる。それよりは聞いてしまった方がいいとアルドは思うのだ。
「友達、彼はそう言った。だけど、彼はアタシの標的、殺すために近付いて十三日一緒にいた」
「十三日……?」
「十四日目に死んだ」
エルザは意外にもあっさりと答える。
アルドはまずその日数が気になった。約二週間の友達、あまりに悲しい響きだが、エルザの言葉とあの男の言い方が噛み合わずアルドは混乱した。
「エリックさんも情報屋だったんですか?」
「彼は、そういう人じゃない」
アルドはあの男の言葉を聞いた時、エリック・アストンは一般人なのだと思っていた。
ウェーズリーは結果的には裏の世界に踏み込んでいたが、アルド達は知らなかった。彼女に狙われるような理由があったならば、彼女に殺意があったならば、それは『死なせた』という言葉とは矛盾する。
「じゃあ、殺し屋……?」
裏社会のことに疎いアルドに思い付く裏の職業などその程度だった。エルザの言葉の意味もどう受け止めればいいのかわかっていない。
首を横に振った後、エルザは沈黙する。まるで迷うようにどこか遠い場所を見て、それからゆっくりと口を開く。
「軽薄で、女好きな……ただの、花屋」
ぽつりと紡がれる言葉は些か無理をしているようで、これ以上エリック・アストンのことを聞いてはいけないとアルドの心は警告を発していた。
「私怨って……」
彼女がヘルクレスと戦う理由、滅ぼそうとしている理由を私怨だとあの男は言った。エルザも否定した様子はなかった。エリック・アストンやウェーズリーのこととはまた違うようにアルドには感じられた。
だが、伏せられていた瞳が開かれ、再びじっと見られるとアルドは続く言葉を紡げなくなってしまった。
「アタシが嫌いなら深入りしちゃダメよ、坊や。おサボりもね」
ニコリと笑みを浮かべ、まるで年上の女性が窘めるようにエルザは言う。アルドは笑わないその瞳の冷たさに凍り付く。
嫌いなわけじゃないと言いたかった。本当はもっと聞きたいことがあった。年上に対して坊やはないだろうと言いたかった。
なのに、声の発し方を忘れてしまったかのように、その背が完全に消えていくまで魔法にかけられたかのようにアルドはただ固まっていた。




