なかったことにしたい過去
屋敷に近づくにつれセドリスは全身の血の気が引くのが分かった。体が震えだし、汗が吹き出てくる。どんなにおさえようとしてもおさえきれない。
過去の体験のせいだ。
あれはローズ姫が十三くらいのときだったと記憶している。
その頃のセドリスといえば、家の爵位と自分の頭脳、容姿を鼻にかけたいけ好かない人間だった。地位を笠にきて横暴なまねをするのに些かもためらわない馬鹿息子だったと言ってもいい。
その日はロゼリア大公家で宴が行われていて、セドリスはその招待客だった。
その頃から祖父はローズを篭絡しろとセドリスに厳命していたが、ローズはまだ幼く食指をそそらなかった。
まだあとでいいだろう。そんなつもりだった。八方美人に笑顔を振りまき、機嫌をとるぐらいしかしていなかったが、祖父はそれを待てなかったらしい。
存分に美酒と美味を楽しんだセドリスは親戚でもある大公家に一泊していくことになった。案内係に先導され泊まる部屋に連れて行かれた。その案内係が祖父に買収されていたとも知らずに。
言い訳をさせてもらえば、セドリスは本当に知らなかったのだ。ただ案内についていっただけでただ寝るつもりだった。覚えのある廊下だったのにそれを気にとめないほどに酔っていた。
あけられた扉の向こうに躊躇なく踏み込み、寝台に近づいた。いやに可愛らしい装飾の客室だと酔った頭でぼんやり考えながら。
そして悲鳴とともに吹っ飛ばされた。
貴族の嗜みで魔法防御の魔具である指輪をしていたのが幸いだった。そうでなければローズの攻撃魔法をまともに受けて死んでいた。
それでも威力は殺しきれずに強かに壁に体を打ちつけた。
わけが分からないセドリスに不気味な笑いが浴びせかけられた。
「ふっふっふっふっ、我が家の警備はなにをしているのでしょうね? お嬢様の寝室に若い男が入り込むなどあってはならぬこと。我が屋敷の警備の汚点です。なかったことにしなければ」
「まっ、待て! ノール! 僕だ! セドリスだ! これはなにかの間違いだ! 僕はなにもしてない!」
「ふっふっふっふっ、旦那様の甥御様と同じ名前ですねえ。ですが、公爵家の子弟ともあろうものが、従妹とはいえ未婚のうら若い女性の部屋に入り込むわけがございません。そんなことがあるはずがない――公爵家の子弟を騙る不届きものはとっとと排除しましょう」
セドリスは絶望して悲鳴をあげた。
あの時セドリスの顔をよく知っている護衛がノールをとめてくれなければ本気で死んでいた。
セドリスは捕らえられた。必死に恥も外聞もなく無実を訴え、叔父の慈悲に縋った。
案内係を務めたものも捕らえられ――男は洗いざらい白状した。ラークス公爵家の者に買収されていたこと、ローズの部屋にセドリスを連れて行き、こっそり盗んでおいた鍵で招き入れたこと。何事もなくとも若い男女が一晩一緒にいればいいと言われたこと。
セドリスはなにも知らなかったと泣いて無実を訴えた。
男女が一晩同じ部屋で過ごしてしまえばことの如何にかかわらず、そういうことがあったと広まってしまう。そうなれば二人は結婚させるしかなく、祖父はそれを狙ったのだろうが――ノールは全てを闇に葬るつもりだったのだろう。
叔父がとめてくれなければ本気で生きていない。最低でも男ではなくなっていただろう。
叔父は企みの報復にラークス公爵家にセドリスが行方知れずになったと手紙を書いた。案内係にしたものが買収されており、用意した客室にセドリスを案内しなかったこと。案内係は捕らえており現在取調べ中。全力で探索中だが、最悪の事態も覚悟しておいて欲しいと。
どういう意味なのかは明白だろう。
案内係を買収した本人に送りつけたのだから。
すぐに非を認めて謝罪すればいいものを、のらりくらりとかわして、責任逃れをしようとしたものだから、セドリスは一週間も地下牢に監禁された。
その間殺る気満々の狂犬に生殺与奪権を握られたセドリスの恐怖などおかまい無しに、祖父は責任逃れをし続けた。
祖父は屋敷の中で攫われるとは大公家の手抜かりだとか、責任は大公家にあるだとか、誘拐犯は分かったのかだとか、最初こそ尊大に言い放っていたが、セドリスの身柄を押さえられていればどうしようもない。最後は全面的に謝罪し、身代金を払ってセドリスの身柄を返してもらったのだ。
叔父からはこれから叔父が主催する宴の招待客から外すことを宣告された。
屋敷に帰れたときには逆上して祖父に掴みかかった。
自分に無断で愚かな企みをしたこと、すぐに開放してくれなかったこと、怒りはおさまらなかった。
「お爺様は僕がどうなってもよかったんだ! だから、あんな恥知らずなまねができたんだ!」
「なにを言うか! お前が上手くやりさえすれば!」
「殺されるところだった! あいつは僕を殺すつもりだった! お爺様のせいだ!」
泣いて喚いて初めて本気で祖父に反抗した。味わった恐怖を祖父への反抗に変えて発散しなければ精神が持たなかった。
そのときからセドリスは祖父の言うことを全面的に信じられなくなり――結果として視野が広がった。自分の目で見て、自分で判断する。その積み重ねが今のセドリスを作った。
それでも屋敷に近づいていくと、あの悪夢の一週間の恐怖が蘇る。
セドリスは必死に耐えた。
「セドリス様、お加減が悪いのですか?」
若いがたいして見目のよくない侍女が心配そうにセドリスに声をかけた。
「今日のところはお屋敷に帰られて日を改めましたら――」
「ニーナ、これは違うよ。日を変えてもどうにもならない。僕が乗り越えなければならないことなんだ」
「セドリス様……でもお顔が真っ青です」
「……手を握っていてくれないか?」
「セドリス様」
そっとニーナがセドリスの手を握った。暖かな手の感触に少しセドリスは落ち着いた。
「ありがとう」
ニーナは目立たないが頭のよい娘だ。祖父達の企みを知り、ただ従うのではなくセドリスの手足となって密かに働いてくれた。
「そんな勿体無い」
「君が命をかけてくれた仕事、無駄にはしない」
セドリスは小さな手を握り返した。
ロゼリア大公家の屋敷にて、その甥に当たる青年が久方ぶりに訪問し、当主に面会を願ったのはそれから少し後のことである。
狂犬はあっちこっちでトラウマ作ってますb