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ピンクの花模様  ―終戦80周年に寄せて

作者: 竹宮 潤

家族から聞いたお話です。

今もどこかで戦火に苦しんでいる人々がいて、私には何の力もないのだけれど、生き抜いた人々のささやかな記録を読んで、感じてくださる人があるといいなあ、と思って書きました。

 私の母は昭和13年生まれ、終戦の年に小学校一年生になった。母の母、私の祖母はいわゆる後添えで、先妻は女の子を一人生んで亡くなっていた。だから私の母には12歳も年の離れた母親の違う姉がいた。この姉と母の間には男の子が3人いた。腕白坊主ばかりの弟どもの後に生まれた妹を、年の離れた姉、私から見れば伯母さんにあたるこの人はとてもかわいがってくれたそうだ。

 祖父は自分が苦学して検察事務官という仕事に就いたということもあって、戦前には珍しく「女子であっても職を持ち、一人でも生きていけるようにすべき」という考え方の持ち主であった。だから伯母は師範学校へ進学して教員の資格を取った。男女七歳にして席を同じうせず、という時代だったから、女の子の教育をする女性教員というのは、戦前でも社会に認められた立派な職業であった。

 さて師範学校を卒業すると、一度は親元を離れて県内の何処かに赴任しなくてはならない。伯母は亡くなった実母の親戚の伝手を頼って陶磁器の街に赴任した。陶器商の家を間借りして、当時は国民学校といっていた近くの小学校で教えていたという。

 さて、岐阜市は昭和20年7月9日の深夜に空襲をうけた。岐阜駅から北東の金華山のふもと、真北に当たる長良川にかかる鉄橋までが丸見えになるほど市街は焼け落ちてしまったという。母の実家は当時の県庁(現在の岐阜市役所)にほど近く、伯母は家族が心配でたまらず、「家を見に行く」というのを下宿先の人に、必死で止められた。

「今、あなたが一人で行ってもできることはたかが知れている。家族は無事なら必ず連絡をくれるはず。それから行っても遅くはないから。」

 思いとどまった伯母に、数日後連絡が来た。警察署に祖父から伯母にあてて何日のいつに電話がかかってくるから、という伝言である。伯母は市役所と校長先生経由でこの伝言を受け取ったという。当時は遠く離れた親戚などにそうやって連絡を取っていたものらしい。おっかなびっくりでその日時に警察署に行った伯母は、本当に祖父から電話がかかってきて取り次いでもらったそうだ。家は焼けてなくなってしまったけれど、家族はみな無事なことを聞いて伯母は電話口でうれし泣きした。見舞いに行く、という伯母を祖父は止めた。

「こちらに来ても居るところもない。気持ちだけで十分。」

と。短い電話は、祖父が職場の伝手で県庁からかけさせてもらったのだと聞いた。こわくて入るのがためらわれた警察署で、電話を切った後、

「ご実家の皆さんが無事でよかったねえ。」

と、いかつい顔の警官に言われて、ほっとしたのを憶えていると言った。

 安堵した伯母のところに、近所の人や教え子の親から見舞いの品が届けられた。自家用に作られた夏野菜や、こんな物でも何かの足しになれば、というこれも自分たちが作った陶器の数々が寄せられたのだ。伯母はお礼を言って大きなリュックにもらったものを詰め込み、入らない分は手に提げて数日後岐阜行きの汽車に乗り込んだ。

 さて、話には聞いていたものの焼野原の岐阜駅に降り立った伯母は愕然としながらも、実家を訪ねた。やっとの思いで家族に巡り合えた伯母に、祖父母は泣いて叱ったそうだ。

「来るなと言ったのに、こんなところまで来て。気持ちはありがたいけど泊るところもない。汽車のあるうちに下宿にお帰り。」

 うら若い娘を屋根も満足にないようなところに寝させるわけにはいかない。薄情なようだが精一杯の親心だった。かくして伯母は疲れ切った体でとんぼ帰りをさせられた。

 伯母の持ってきた食べ物や陶器類はありがたかったと祖母は後日語った。もともと陶器は燃えるものではないのだが、焼夷弾の高温の炎に焼かれたせいか、灰の中から掘り出された食器類は焦げ跡や油のにおいがついているか、もろく欠けやすくなるかで、使い物にならなかったそうな。伯母が言うには、大量の陶器類は、見舞いとは言え、赤の他人の小娘にただでくれるような代物、実は産地ならではの売れ残りや不良品だったのだろうというが、すべて祖父母が料亭に持ち込んで食料と交換してきたと言う。向こうもたいそう喜んでくれたと。

 幼かった母には別の思い出があった。伯母の持ってきた陶器の中にピンクの花模様がついた茶碗があったというのだ。生まれた時から戦時下で華やかなものは禁止の風潮の中で育ってきた母である。モノクロのような生活用品しか知らなかった子供にはピンクの花模様は心魅かれる物だったのだろう。欲しくて欲しくて仕方がなかったけれど、祖父母がすべて持って行ってしまって、とても悲しかったと言っていた。この茶碗については伯母も憶えていて、「こんな物、今時売ることもできないだろうから、きっと何年も売れ残っていたものにちがいない。」と思っていたという。

 祖父母はもとより、伯母も母も鬼籍に入った。遠くの国の戦火の話を聞くたびにそこで暮らす女性たちの、ささやかな日常に思いをはせ、平和のありがたさに感謝する。


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― 新着の感想 ―
戦争当時を直接知っている方、知っている方から話を聞いた方。そうした方たちの語る話はとても貴重で、価値のあるものと思っています。投稿していただき、ありがとうございました。
投稿ありがとうございました。
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