別の女性が好きでも構いませんが、自分勝手な婚約破棄の代償は大きいですよ?
「メリエッダ、他に女ができたからもうお前とは婚約破棄をする!」
屋敷を掃除していた私に尊大な態度でそう宣言してきた婚約者のダズは、たったその一言で話は終わったとばかりにしっしっとこちらに向かって手を払っています。
「お待ちくださいダズ様、お相手の女性はどこのどなたなのですか」
「お前が知る必要はない! ……だがそうだな、平民の娘であるお前と違い向こうはれっきとした貴族令嬢、それもとある伯爵家の長女だ。だから彼女と俺が添い遂げる方がよっぽど自然だろ?」
確かにその通りではあります。
いくら私がこの国で拡大を続けるテナス商会の一人娘とはいえ、ダズは男爵家のお貴族様。
本来であれば身分違いの婚約なのだから、彼と親しくされているお相手が伯爵令嬢様であれば、なおのことお譲りしなければならない立場に私はあります。
そういった複雑な事情もあり、今回の婚約破棄を受けないという選択肢は許されませんでした。
私なりに彼とは良いお付き合いができるように頑張ってきたつもりですが、やはり物事とはままならないものですね。
「……分かりました。その婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。今日までお世話になりましたダズ様」
「ふん、まったくだ! これでやっと清々する」
頭を深々と下げ、これまでの日々を振り返って感傷に浸りながら退去しようとしましたが、
「ああそうそう、お前が実家に帰ったらちゃんと俺に払う婚約破棄の慰謝料を用意しておけよ!」
――私はその場に踏み留まり、自身の困惑した顔を向けながら彼にこう言います。
「なにか勘違いをされているようですが、慰謝料をお支払いになるのはダズ様の方ですよ?」
「は? なんで俺がお前に慰謝料を払わなければならないんだ? こっちは貴族だぞ」
私の発言にきょとんとした表情で小首を傾げるダズ。
どうやらなにも分かっていないご様子なので、説明することにしました。
「いえダズ様、世間一般では婚約破棄の慰謝料は正当な理由がない限り基本的には有責に当たる側が支払うものと定められています。もちろんそれは貴族様であっても例外ではございません」
「正当な理由ならある! 俺は真実の愛に目覚めたんだ! これのどこに問題がある⁉」
どこをどう見ても問題大アリなのですが本人も気づいていないのであれば、多少の法知識を持つ商家の娘としてご指摘するのもやむをえません。
「あの、それだけでは正当な理由としては確実に認められません。むしろ、最初から持参金などを目的とした詐欺行為とも疑われかねないのでよりダズ様の過失が増し、結果的に支払う金額も増額されることとなります」
「ええいもういい! 口を開けば金金と金に汚い奴め、そんなに金がほしいのならくれてやる! がめつい女への手切れ金と思えば安いものだ!」
おそらく私の詐欺行為といった言い回しが気に障ったのか、ダズは眉根を寄せて苛立ったように声を荒げました。
婚約破棄にトラブルがつきものなのは重々承知していますが、やはり守銭奴のような言われようは傷つきます。
ですが私がなによりも気がかりなのは、まさにそのお金のことなのです。
というのも、ダズの産まれたレイドリー家は今にも没落しかねないほど資金繰りに苦しんでいる男爵家と聞きます。
貴族であることに誇りを持っている彼が背に腹は変えられないと、懐の潤っている平民の資産を頼って婚約を申し込んでくる程度には。
おかげでうちは男爵家の地位と釣り合いを取るべく金銭面でのサポートを余儀なくされました。
そんな瀬戸際の状態にも関わらず、ダズは婚約を交わした際に自らとある誓約書を書いたことを果たして覚えているのでしょうか。
でも、それを尋ねることは憚られました。
まさか慰謝料を払うだけのお金は持ち合わせているのか、などと聞くわけにもいきませんから。
なにより払う宛てがなければそもそも婚約破棄を口にはしないはずですし、そこだけは彼のことを信じたいと思います。
――でもこの淡い期待は後に裏切られることとなるのです。
しかしその結果私に幸せが訪れ、反対にダズがあのような末路を遂げることになるとは、まるで予想もできませんでした。
◆
~ダズside~
ああ、やはり俺には幸運の女神がついている。
なんとある日突然、伯爵令嬢であるルアンナに見初められたのだ。
その当時、良縁を求めてお見合いを繰り返していると口にする彼女の婚約者候補として名乗りを挙げた俺が、そのまま将来を見据えた相手として交際することになったのがきっかけだった。
つい最近まで、自身が置かれていた境遇を呪いさえしていた。
優雅な生活のためとはいえ、商人如きに資金の援助をしてもらっていたのだからな。
それがどうだ、いまや俺は取り潰しの憂き目にあったレイドリー家を再び返り咲かせる英雄ではないか。
確かに容姿は彼女と比べると、若干ではあるがメリエッダの方が優れている。
平民ではあるものの、それなりの生活を送っていたおかげか身なりはしっかりしており、地味な雰囲気の割に愛想もあるしなにより胸がデカい。
だが、決定的に品格がない。
当然だ、金はあろうとしょせんは平民風情なのだから、生まれ持った瞬間にそれを持ち合わせている貴族の我々とは違うのだ。
それに大してルアンナの家柄は我が家より上でありながら、この俺にベタぼれしている。
よって、利用価値のある後者を選ばない選択肢はない。
まあ家督を継ぐ嫡男がいるとは聞いているが、仮に彼女がこちらに嫁いできたとしても妹の幸せのためになら、資金援助くらいは当然してくれるだろう。
つまりこれでようやくテナス商会の連中に対し肩身の狭い思いをする必要がなくなったという訳だ、ふはははは。
それもこれもすべては人運を手繰り寄せる俺の人間的魅力があってこそのもの。
そして数日前には邪魔な存在だったメリエッダに婚約破棄を取り付けることに成功し、ようやく俺を煩わせる人間はいなくなった。
唯一の懸念はあいつに支払わなければならない慰謝料の額だが、どうせ庶民が一日遊べるだけの金でも渡しておけば問題ないだろう。
本当ならあいつから慰謝料をもらってそちらもパーッと散財する予定だったが、仕方ない。
「ダズ様、テナス商会から一通のお手紙が届いております」
「よこせ」
我が家で唯一住み込みで働く使用人から手紙を受け取って乱雑に開く。
どうせ慰謝料の催促だろうが、さっさと金額を確認して――ピタリと息が止まる。
白い便箋の上に書いてあったまさかの要求額に俺は自身の意識が遠くなるのを感じた。
◆
これまでダズと暮らしていたお屋敷から手ぶらで実家に戻った私を、父はなにも言わずに迎えてくれました。
その日は疲れていたこともありかつての自室で休ませてもらったのですが、さすがにこれ以上はなんの説明もしないわけにはいきません。
翌朝、私は忙しい身である父にわざわざ時間を作っていただき、そこでダズの方から婚約破棄をされたことと、彼には既に親しい間柄の伯爵令嬢のお相手がいることを伝えました。
話を聞き終えた父はただ一言、「慰謝料の方はどうなっている?」とだけ尋ねてきましたが、私がきちんと彼に請求する旨を伝えると「そうか、ならいい」とそれっきり沈黙してしまいました。
そんなわけで、手持ちぶさたになってしまった私は室内の掃除でもしようとホウキを手に取ったところ、父に静止されました。
「メリエッダ、なにをしようとしている? 掃除なら使用人がいるじゃないか」
「いえ、今日からはまたこの家でしばらくお節介にならせていただくのですから、私も働かないといけません。商会の仕事は邪魔にならない程度のお手伝いがやっとですが、お掃除でしたらダズ様のところで毎日やっていましたからお役に立てると思って」
「毎日だと? レイドリー男爵には常勤のメイドを数名雇えるだけの金を渡していたはずだぞ」
「ええ確かにメイド・オブ・オール・ワークの方なら一名おりましたよ。ただ彼女一人で屋敷中の雑務をさせるのは不憫に思ったので、私も一緒にお仕事していたんです」
「なんだそれは。わたしはお前が向こうのお屋敷でも苦労をさせないために、わざわざ余分に金を出していたんだぞ。まさかレイドリー男爵はその金を別に使っていたのではないだろうな?」
言われてみれば、当初レイドリー家のお屋敷を訪れた際にはなかった調度品などがある日を堺に突然増えていたようにも思えます。
また、外で食事を楽しまれる機会も多く、料理の手間が省けて助かるとあの使用人の方も言っていました。
「その顔、やはり思い当たる節があるようだな。……おのれあの男、なんの罪もないメリエッダの心を自分の都合で傷つけた上に、あまつさえこき使っていただと? 我が家のサポートなくしては家の維持すら難しい貧乏貴族のくせに」
父はそう吐き捨てるように言ったあと、私の顔を見ました。
なんでしょう、ダズのことを見過ごしていた私も怒られるのでしょうか?
普段は優しい父ですが、ことお金の話になればとても怖いのです。
「……すまなかった、メリエッダ。向こうでお前がそんな酷い目にあっているとは思わなかった。新規事業開拓に際し、わたしがあんな落ち目の家でも貴族の後ろ盾を欲しがったばっかりにこんなことになってしまった。あの時きっぱりと断っておけば、お前が悲しい思いをする必要もなかったというのに」
おや、意外な反応です。
叱られなくて安心しましたが、だからといって父から謝罪されるようなことはありません。
むしろ、ある意味彼も被害者なのですから。
「顔を上げてくださいお父様。私のことなら気にしておりませんから。それにダズ様から婚約破棄されたことも、不思議とそこまで悲しくはないのです」
むしろなるべくしてなったというか、きっと心のどこかではこうなることを予期していたのかもしれません。
そもそもこの婚約自体私が少しでも父のお役に立ちたくて決意したことで、ダズには本当に申し訳ないのですが、彼にはまったく気がありませんでした。
ゆえに初夜を過ごすことなく純血を保ったまま別れることができるのであれば、まだ傷は浅いといえます。
「そうか、お前が平気ならそれでいい。慰謝料の件も含めてあとのことは父に任せておきなさい。あの男にはきちんと責任を取らせてやるからな」
あっ、これは本気になった時の父の目です。
こうなってしまえば最後、地獄の底までお金を取り立てに行く修羅と化すのです。
父の逆鱗に触れたダズのある意味自業自得だとは思いますが、今回標的となった彼に数日後私はちょっとした同情を寄せることになるのでした。
◆
「あの旦那様、今しがたレイドリー男爵が邸宅に参られましてメリエッダお嬢様を出せと玄関先でわめいておりますが、いかが致しましょう?」
「……ようやく来たな。応接室に通せ、わたしが直接話をつける」
「お父様。ご指名のようですし、私も話し合いの場にご一緒してもよろしいでしょうか?」
「分かった、それならばこの機会にお前もあの男に言いたいことを洗いざらいぶちまけなさい」
「いえ、私はあくまでも傍観に徹して交渉の勉強をさせていただくことにします」
ダズの案内は我が家の使用人に任せ、私と父はある物を準備をしてから彼の待つ応接室へと足を運びました。
「――おい、なんだあの慰謝料の額は⁉ そこらの平民が一生遊んで暮らせる金額じゃないか、少しふっかけているだろうこの金の亡者め……なんだ一人じゃないのか、この金の亡者どもめ!」
ダズとは久しぶりに顔を合わせたというのに、開口一番にされたのは挨拶ではなく罵倒でした。
彼とは過去話に花を咲かせるような楽しい再会になるとは確かに思っていませんでしたが、毎日顔をつき合わせていた相手からこのような対応をされるのはやはり胸にくるものがあります。
「いや一生は遊んで暮らせませんね、節約してもせいぜい半年が関の山ですよ、レイドリー男爵。世間知らずにもほどがありますな、さすがは平民の世情に疎いお貴族様といったところですか」
この日を待ちわびたとばかりに父は皮肉を口にし、テーブルを挟んでダズと対面しました。
私も父の横に並んで、イスに座ります。
「それで、今日はあくまで慰謝料の件で参られたということでよろしいですかなレイドリー男爵」
「ふん、あれから知り合いの弁護士に話を伺ってみたが、やはり慰謝料はこちら側が支払わないといけないらしいからな! 面倒だが、そうだ!」
父が言ってるのはそういう意味ではなく謝罪の意思があるかどうかを尋ねているのですが、彼はどうもそのことに気が付かれていないご様子。
「ではまず先ほどレイドリー男爵がおっしゃった慰謝料の額が大きいということについてですが、あれはメリエッダが受けた精神的苦痛とは別に、娘を小間使いとして働かせた日々の労働に対しての賃金も含まれております」
「あ、あれは、そいつが勝手にやったことだ!」
とダズが声を荒らげますが、すかさず父も反論します。
「その理屈は通りませんな。レイドリー男爵にはちゃんと正当な小間使いを雇い入れるだけのお金を与えていたにも関わらず、それらはすべて自らの懐に収められていました。そのせいで我が娘が十分な生活サポートを受けられず、せずともよい家事をすることになったのですから、これは立派な雇用関係となります。ゆえに労働に対する対価として賃金が発生し、それが未払いであれば請求するのは当然でしょう?」
「うぐっ、た、確かにそうかもしれないが……、だが、いくらなんでもあの金額は高すぎるぞ! レイドリー家の財政状況から一括で支払うことが無理なのはそちらも理解しているだろう⁉ だから折衷案として分割払いにさせてもらう!」
やはり、父はやり手の商人です。
実際にダズが私用なことにお金を用いていたか分からないというのに、それが事実であることを前提に話を進め、相手にも特に否定させることもありません。
となればそれは真実なのでしょう。
その上で納得させるだけの根拠を提示している口の上手さは尊敬に値します。
「ええ、分割払いは構いませんよ。毎月決まった額をお支払いさえしていただければ娘の元婚約者としてのよしみで利子もお取り立てはしません。ただその前に一つだけ、確認しておきたいことがあります」
さて、どうやら始まるようです。
父による無慈悲な追い込み、もといぐうの根も出ない正論タイムが。
「レイドリー男爵、貴方はうちの娘と婚約する際にご自身がお書きになられたあの誓約書のことを覚えておいでですか?」
「は? なんだそれは?」
ああ、思っていた通りでした。
おおかた私との婚約の許可を取るために適当な気持ちでご用意(正確には父主導のもと言われるままに書かれた)されたから誓約書の存在を彼は覚えてないのでしょう。
それがいったいどのような結果をもたらすのか理解もせずに。
「では、こちらにそれをお持ちしたのでご自身の目でしっかりと確認してください」
「こんな紙がなんだというのだ」
ぶつくさとぼやきながらダズは誓約書を父の手から受け取りました。
応接室に向かう前に私と父が準備していたのも実はこれなのです。
「ふんふんふん……ふんっ⁉」
途中まで面倒くさそうに読み進めていたダズの目が突如として見開かれます。
「どうかされましたかな?」
「どうもこうもあるか! なんだこの内容は! 『この度の婚約により我がレイドリー家はテナス商会から金銭的サポートを受ける代わりに、当方ダズ・レイドリーの不貞やその他信頼関係を欠落させる重篤な裏切り行為によって万が一にも婚約の解消に至った場合、それまでにテナス商会から頂戴した支援金はすみやかに全額返金することを約束し、その証として誓約書を記す』だと⁉ ――ちょっと待て、これまでいくらもらったと思っているんだ! 今更返せと言われたところでそんな金がどこにある⁉」
本来ならそれでもダズにとってなんら悪い条件ではなかったはずなので、こちらとしても最大限譲歩している内容でもあります。
しかしながらまさしくダズの不貞によって今回の婚約破棄が成立したことですから(それも本人から望まれて)、とやかく言われても困るというのが本音でした。
なにより、誓約書のことを失念していたのは彼の完全な落ち度ですし。
「ひとまずは家財道具一式を売却して返金費用に充てるのが筋でしょうなぁ。足りない分は借金をしてでも返済をお願いいたします。こちらも慈善事業ではないので、このように事前の取り決めがある以上、支援金をそのまま差し上げるという訳にもいきません。そもそもが娘と結婚することを条件とした援助だったのですから、これはそちら側の契約不履行とも言えますな。違約金として、その分も返済額に上乗せしても良いのですよ」
「ふ、ふざけるな、こんな紙切れの存在なんて俺は知らん、覚えてない、だから無効だ!」
案の定ダズは否認をし始めましたが、父にそのような悪あがきは当然通用しません。
「しかし、そちらにはきちんとレイドリー男爵の署名と紋章が捺印されているではありませんか。それでも渋るなら法廷で争うことになりますが、いくら貴族とはいえ多額の裏金でも積まない限り裁判官の判定は買収できませんよ。しかも裁判に負けたらかかった訴訟費用も全額そちらの負担となりますが、どうされますかな?」
「だ、だったらこうすればいいだけだっ!」
証拠がなければ言い逃れできると思ったのか、ダズは誓約書の紙をビリビリと引き裂いてしまいました。
「そんなことをされても無駄ですよ、ただの写しですから。本物はちゃんと別の場所で大切に保管してあります」
「なっ⁉」
しかし父の方が上手で、こうなることはとっくにお見通しでした。
婚約破棄をされるより前からあらかじめ写しは用意していたそうで、こうしてそれが役に立ったという訳なのです。
「さて今のレイドリー男爵の行動で誠実さは欠片もないことが証明されましたので、こちらも手心を加えることはありません。きっちりと満額返還いただくまで一切容赦しないことを先に通告しておきます。まずはさっそく今月から娘への慰謝料と貸し与えた分の支援金の返還をお願いします」
「おい待て同時にだと⁉ 俺の家を潰す気か⁉」
ダズは表情に驚愕の色を浮かべ、にらみつけるように父の顔を見ました。
「はておかしなことを。わたしが潰すもなにも、最初からレイドリー家は没落の最中にあったではございませんか。だというのに貴方にはこちらの援助を振り切ってまで添い遂げたいと思う女性が別にいらしたのでしょう? ならば男としてその意地は貫きませんとな」
毅然と答える父の態度こそ厳格ですがその語調は若干、いえとても弾んでおられます。
どうやらここぞとばかりに鬱憤を晴らしているようですね。
「た、たかが平民風情が舐めやがって……っ! ああいいさ、きっちり金を返せばいいのだろう⁉ 貴族のプライドにかけて払ってやるとも、そしてレイドリー家を侮辱したことを絶対に後悔させてやるからな!」
そう捨て台詞とも取れる発言を残されてから、ダズは応接室を出ていきました。
「侮辱ときたか。侮辱されたのはメリエッダ本人と大事な一人娘をコケにされたわたしたち親子の方だと言うのにな」
ダズを見送った父は呆れたように一つため息をつきました。
「……まあいい、向こうがあの調子ならばこちらとしても罪悪感を抱くことはない。あの男の言う通り、せいぜい後悔させてもらうとしよう」
いえ本当にできると思ってはいませんね、この口ぶりでは。
私の方はというと……ノーコメントで。
◆
「テナス商会にようこそお越しくださいました。当店はお客様の満足度優先をモットーに営業しております」
私は受付嬢として足を運んでくれた顧客の一人一人に折り目正しく挨拶をおこないます。
元婚約者のダズと生活をともにする前はやっていたことなので抜かりはありません。
あれから父はダズの一件で苦労をかけた分私にしばらく自由を満喫しなさいと言ってくれましたが、どうせ他にやることもないですし、なによりなにもしないでいるのは私が落ち着かないので、こうして昔やっていた父の仕事のお手伝いに復帰させていただくことにしました。
「あれ、メリエッダちゃん? いつの間に戻ってきたの? 男爵家の貴族様のところで暮らしてるって聞いてたけど」
「ああロッシュさん、お久しぶりです。実は婚約破棄をされまして、それでこちらに戻ってきたんです」
以前からの顔なじみの方が私の存在に気づいて挨拶してくれました。
顧客の顔を覚えるのが受付嬢の仕事の一つでもありますが、こうして向こうにもこちらのことを覚えていただけるのは嬉しいものですね。
「そうなんだ、大変だったみたいだね。君みたいに気立てがいい美人を捨てるなんてその貴族様もずいぶんと贅沢者だな。だったら俺がメリエッダちゃんを代わりにもらってもいいかな?」
「ふふ、ロッシュさんもお上手ですね。でも私は高いですよ? そうですね、まずはお父様に話を通してもらってから――」
「あっいっけね、今月俺、ピンチなんだった! この店一番の宝石を買うのはまた今度で!」
「では、またのお越しをお待ちしております」
おどけながら去っていくロッシュさんを静かに見送ってから、私も業務に戻ります。
とはいってもピーク時が過ぎたこともあって人の出入りも減り、もう少しで暇になるでしょう。
「すまないが道を開けてくれ。俺はここの受付に用があってな」
ちょうどそのタイミングで再び私を尋ねてくる影があり――。
「……やはり帰ってきたのか、メリエッダ。噂を耳にしたのだが、お前がレイドリー家の長男から婚約破棄されたというのは本当か?」
私にそう声をかけてきたのは、父が過去に共同事業の相談をもちかけたこともあるオルレイン家のご子息、ハルバード様でした。
その時には交渉がまとまらず、結果的に不成立となってしまったのですが、門前払いされずに話だけでも聞いてくれたことを父は大層驚いておりました。
何世代にも渡る伯爵家の嫡男でもあらせられるハルバード様は高貴な身分にも関わらず、偏見や選民意識を持たずに私たち平民にも分け隔てなく接してくれる数少ない貴族の一人なのです。
共同事業の話は流れたものの、それからはうちと懇意にしてくださるようになりました。
でもダズと婚約が決まった辺りから彼が商会にお越しくださる機会も徐々に減っていき、やがて完全にお会いすることも叶わなくなりました。
だというのに、まさかこうして再会することになろうとは、少し前までなら考えられません。
ですがそのことはともかく、まずはハルバード様に返事をしないと。
「ご無沙汰しておりますハルバード様。はい確かに私はダズ様から婚約破棄をされまして、それでこちらに戻ってまいりました」
「そうか。妹から伝え聞いた通りだな……」
などとハルバード様は得心がいったご様子で、一人頷いております。
私はどう反応すればよいのかと思案をしていたところ、彼は突然このようなことを言いました。
「であればもう遠慮する必要はないのだな。――メリエッダ・テナス、改めて俺と一緒になってはくれないか?」
「……はい?」
予期せぬその一言に、肯定とも否定とも取れるニュアンスで答えてしまうのでした。
◆
「先ほどの発言はどういうことでしょうか?」
主に商談に用いられる商会の奥の部屋をお借りして私とハルバード様、それから父同席のもと、話をすることなりました。
私の勘違いでなければハルバード様から告白をされたような気がするのですが、とにかく本人に聞いてみれば分かることです。
「メリエッダ、俺は口下手だから飾らずに気持ちを告げさせてもらう」
そう前置きをされてから、ハルバード様は滔々と語り始めました。
「――お前が他所の男と婚約を交わしてから俺はずっと後悔の日々を過ごしていた。自分の感情に蓋をして苦しむくらいなら、どうしてもっと早くにプロポーズをしなかったのかと。……それほどまでに好きだったんだ、お前のことが」
「ハルバード様が、私を……?」
やはり、勘違いではなかったようです。
でもまさか、彼に思われていたなんて……。
「お前のことを忘れようとテナス商会に足を運ぶことも止め、そうやって未練を断ち切るつもりでいた。だが周りから見ればまるで大丈夫なように見えなかったのだろうな、親からは平民ではなく立場に釣り合った別の貴族令嬢を伴侶に迎えろと苦言を呈され、唯一俺の味方をしてくれた妹には心配されたよ」
ハルバード様の妹御はともかく、彼のご両親が言うこともごもっともです。
本来なら貴族同士で政略結婚するのが当たり前なのですから。
「数年前から法が改正されて貴族と平民の結婚もそう難しくなくなったとはいえ、やはり両者間に差別や偏見はいまだにある。ゆえに伯爵家の人間である俺も尻込みしてしまったんだ」
「それは……でも、仕方のないことです」
「そんな折お前が婚約破棄されたという話を耳にして、今度こそ俺は覚悟を決めた。あんな後悔はもうしたくないんだ。両親のことは絶対に説得をしてみせる。結婚を認める代わりに廃嫡されたとしても構わない。世間の風当たりからも守り抜くと誓う。だからこの俺と新たに婚約を結び直してはくれないか、メリエッダ」
ハルバード様の真摯な態度は決して嘘をついているようには見えません。
そして私もまた、彼には以前から異性としての好意を抱いておりました。
だから好きな男性と結婚ができるのであれば、こんなに嬉しいことはないでしょう。
ですが……。
私は隣の父を見ます。
婚約破棄されたせいで迷惑をかけてしまったのですから、そう日も立たぬうちに再び貴族の方と婚約することは躊躇われましたが、
「メリエッダ、わたしのことなら気にする必要はない。これはお前自身にもちかけられた縁談なのだから、今度は我が身を犠牲にすることなく自分の好きなようにしなさい。その選択を父親として全力で尊重しよう」
しかし父からの後押しも得られたことで、私の返答は既に決まっていました。
「……分かりました、そういうことであればこの婚約、謹んでお受けいたします」
「ありがとうメリエッダ。必ず君を幸せにする。そしてテナス会長にもこの俺に自慢の娘を預けてよかったと思ってもらえるように努力するから、どうか近くで見届けてほしい」
私たち親子の前で宣言し、笑みを浮かべられたハルバード様。
突然舞い降りた好転の兆しに、私は幸福な未来を感じずにはいられませんでした。
◆
~ダズside~
俺は焦っていた。
近日中にまとまった金を用意できなければもう我が家はおしまいだ。
資産は差し押さえられ、借金だけが残る地獄の日々が始まってしまう。
そんな生活は絶対にお断りだ、認められない!
しかし俺には今すぐある程度の金を用意立てるツテがある。
ルアンナに頼んで、伯爵家から当面の金を工面してもらえばいいのだ。
屋敷を出るべく玄関に向かったところで、
「――ダズ、いるかしら?」
この声はルアンナ!
ちょうど手間が省けた、あっちから訪ねてきてくれるとはつくづく俺も運がいい。
「ああ愛しのルアンナ、会いたかったよ!」
あえて大げさに彼女を出迎える。
なにせ大切なパトロンだ、万が一にもご機嫌を損ねないようにしないとな。
「聞いてくれルアンナ、いきなりで申し訳ないが君に重要なお願いがあるんだ!」
「どうしたのよ、もう。……話してみなさいな」
「実は俺にしつこく金をせびってくる平民の女がいるんだ! とはいっても昔に少し関係をもったくらいで全然浮気とかそんなんじゃないんだ! だから手切れ金でも払って後腐れなく関係を精算したいんだけど、その請求額が高すぎてウチではとても払えなくて……」
多少の嘘を交えつつ説明する。
別にメリエッダに気があったわけではないから浮気には当たらないはずだ。
「まあそれは大変。ならわたしの家でそのお金を肩代わりしてあげればいいのね」
「話が早くて助かるよ。本当は君にこんなことを頼むのは心苦しいけれど、これも俺たちの将来のためなんだ」
正確には俺の将来のためだけどな。
「――だけどそのお金って婚約破棄の慰謝料でもあるのよね。なのに我が家が肩代わりをするのはおかしくない?」
「えっ?」
ルアンナの口から出るはずのない発言に思わず虚をつかれる。
「しし、知ってたのかルアンナ⁉」
「もちろん。婚約者と別れる前からわたしに交際を申し込んできたことも知っているし、ついでに彼女の家から多額の資金援助を受けていたこともご存知よ。自力で払えないほど手切れ金の請求額が高いというのも、どうせ自分勝手な都合で婚約破棄をしたせいで相手側からその支援金の返還を求められたからでしょう?」
「うっ……!」
全部見抜かれている。
まずい、このまま怒らせてしまったら俺の計画はすべて水の泡だ、それだけは避けないと!
「ちっ、違うんだルアンナ、確かにちょっと君に嘘をついていたが、俺もあいつらに騙されていただけなんだ! あんな誓約書のことだって覚えていなかったし、金だってあとから返せと言われてそれで仕方なく返すことになったんだよ!」
「借りたものを返すのは常識でしょ。そんなことも言われないと分からないの?」
「だがそう言われても俺に返す金がないんだ! ないものはどうやって返せばいい⁉」
「だったらこの屋敷を売ればいいじゃない」
いや、それだと生活の場所がなくなるだろ!
なにより生家を失ったら完全にレイドリー家は取り潰し、俺に至っては爵位を剥奪され平民落ちしてしまうではないか!
しかしもうこの際四の五の言ってもいられない状況に、覚悟を決めることにした。
「――分かった、悔しいがこの屋敷は売り払って返済の足しにしよう! だからその代わりすぐに俺と結婚してほしい、もちろん婿入りはする!」
もはや貴族として生き残る術はこれしかない。
ただでさえ落ち目の我が家だが、伯爵家の庇護さえあればかろうじて没落の憂き目を避けることはできる。
当然ルアンナにも頭が上がらなくなるが、平民落ちとくらべれば大したことはない。
「え、普通にお断りだけど」
「そうか助かる、ではさっそく手続きを――って今なんて言った?」
ははは、耳がおかしくなったかな。
なんだか婿入りを拒絶された気がするが、うん気のせいだろう。
「だからアナタとの結婚なんて、最初からお断りなの。ある目的があって交際したフリをしていただけなのに、本気にしちゃった? 栄えある名門貴族の長女であるこのわたしが、格下でメリットどころかデメリットしかない絶家寸前の男爵家の馬鹿息子と結婚するわけないじゃない」
鼻で笑うルアンナの姿を見て、ようやく自分が弄ばれていたことを知った。
「だから今日この貧乏屋敷を訪れたのもアンタが用済みになったから別れを告げに来ただけなの。人に頼るほどお金に困っているようだし、どうせ馬車すら用意できなかったでしょ? だと思ってわざわざこちらから出向いてあげたのだから感謝して頂戴」
くっ、言わせておけば……!
目の前にいる女に怒りがこみ上げてくる。
思い返せばこいつのせいで俺はしなくてもいい婚約破棄をしてしまったのだ。
メリエッダと婚約を続けていれば、今頃こんな目に合うこともなかったわけだ!
……だが今更後悔したところでもう遅い。
既に期日は差し迫っており、この俺を裏切ったクソ女とはいえすがりつくしかないわけで。
「俺を騙していたことはこの際聞かなかったことにしよう、だから頼む――頼みますどうか見捨てないでください! 今ルアンナ嬢に捨てられたらもうどうしようもないのです!」
恥をしのんで土下座する。
こいつに頭を下げるのは死ぬほど屈辱的だが、それでも借金を抱えて実際に死ぬ思いをするよりはいい。
「ああやだやだ、そんなことしないでもいいわ。アンタの土下座に銅貨一枚ほどの価値もないし、たんに見ていて不快になるだけだわ」
「そうおっしゃらずに! せめて結婚が駄目ならお金だけでもお貸しくだされば……!」
「無理に決まってるでしょ。わたしのわがままで自由になるお金なんてそれこそ一般的な慰謝料の相場と変わらないわ。だけどそれをアンタに貸す義務も義理もないから他を当たることね」
「ーっ、なら俺とメリエッダが復縁できるように取りなしてください! 貴方にだって説明責任があるはずだ!」
「まあ一理あるわ、でもそれはあとから個人的にわたしの方でやっておくからアンタは気にしないでいいわよ。それにあの子ならもうとっくに良縁に恵まれたから、今更アンタがよりを戻す余地はないけど?」
「なんだと! あいつめ、もう新しい男を作ったのか、くそっいやらしい女め! ……いや待てよ俺と婚約破棄する前から本当は別の相手がいたんじゃないのか⁉ だったらこれは向こうの有責? なのだから、慰謝料を逆にもらえるのでは⁉」
「自分勝手な妄想もそこまでいくと大概ね、付き合ってられないわ。なら頑張って一人でも不貞の証拠を探すことね」
「つれないことを言わないで俺に協力くらいしてもバチは当たらないだろうルアンナ、偽りの関係だったとはいえ愛を囁きあった仲じゃないか!」
「気持ちの悪いことを言わないで、鳥肌が立って仕方がないわ。だいたいアンタと会うのだって、今回で三回目でしょ。その中でわたしがひそかに囁いたのは愛じゃなくてアンタに対する悪口だけよ。それじゃあね!」
「あっ、待ってくれ!」
踵を返して俺のもとから去ろうとするルアンナに手を伸ばす。
しかし次の瞬間段差に蹴躓いてその場で転び、右手は虚しく空を切った。
「せめて証拠探しの探偵を雇うお金くらい貸してくれルアンナーっ!」
最後に恥も外聞もなくそう叫んだが、当然彼女からの返事はなかった。
◆
あれからハルバード様と私は二人揃って伯爵家のご両親へ結婚のご挨拶に伺いました。
もちろん最初は反対されましたがハルバード様が何時間も説得し、最終的には私がテナス商会の娘であることも考慮されてなんとか婚約を認めていただきました。
そしてついに本日私たちは結婚式を挙げる運びとなりました。
今現在私は控室で人の手を借りながら着替えをしていたところです。
すると、ちょうど着替えが終わったタイミングで控室に父が入ってきます。
「おおメリエッダ、病で亡くなったわたしの妻、いやそれ以上に綺麗になったな」
「ありがとうございますお父様。今日という日を迎えられたのも、これまで育ててくれたお父様のおかげです」
「その言葉を聞けただけでもわたしは満足だよ。――さて、向こう方の妹君が訪ねてこられたからそちらにも挨拶をしなさい」
「はい、お父様」
「幸せになりなさい、メリエッダ」
振り返った父は、涙が入り混じったような声で祝福の言葉を残してから控室を出ていきました。
「失礼するわ」
しばらくしてから、私にはない気品にあふれた女性がやってまいりました。
例の妹御です。
「まずは結婚おめでとうメリエッダ。お兄様との結婚、心から祝福するわ」
「ありがとうございます。これも婚約のご挨拶に伺った際、ハルバード様と一緒になってご両親に口添えをしてくれたあなた様のおかげです」
「ちょっと、顔を上げなさいな。いい? アナタはこれから私の義姉になるのだから、そんな風にかしこまらなくてもいいのよ。むしろ伯爵家の妻として堂々としてくれないと困るわ」
オルレイン伯爵家の長女であるルアンナ様は、頭を下げた私に呆れたように声をかけます。
「そういうものなのですか。……分かりました、ではこれからよろしくお願いしますねルアンナ」
そうそうその調子よと上品に笑うルアンナの姿に、なんだか自分にも妹ができたみたいで嬉しくなりました。
上手くやっていけるか不安でしたが、これなら心配はいらないでしょう。
「ただね、二人の結婚がわたしのおかげってことだけは全面的に同意させてもらうわ。男爵家の男に別れさせ屋まがいのことまでしてアナタたちの恋のキューピッド役を買って出たのだから、感謝してほしいわ」
「別れさせ屋?」
「な、なんでもないわ、こっちの話よ」
なにやら不穏な単語を耳にしましたが、ここは聞かなかったことにいたしましょう。
「……ええそうよ、お兄様が悪いのよ。好きな女を別の男に取られたからっていつまでもメソメソしてるからついお節介を働いたんじゃない」
「おい、いつまで邪魔をしている」
ブツブツとぼやくルアンナの扱いに困っていると、やがて助け舟が現れました。
おそらく妹の帰りにしびれを切らしたであろうハルバード様が控室まで彼女のことを迎えにきてくれたのです。
純白のタキシードに全身を包まれた彼はとても魅力的で、思わず見惚れてしまいます。
「そろそろ式が始まるからお前は一足先に戻って出席者に挨拶の準備を――」
そこまで言ってからハルバード様は言葉を閉ざされました。
私の花嫁姿を見たせいでしょうか、口をポカンと開けて固まっておられます。
もしかしたら花嫁衣装が似合っていないのではと不安に駆られていたところ、
「……綺麗だ、メリエッダ」
ハルバード様からポツリともらされた一言に、今度はこちらが赤面する番でした。
「あ、ありがとうございますハルバード様……」
父と同じ褒め言葉にも関わらず誇らしさよりも気恥ずかしさを覚えてしまいます。
ですが、愛しい人にそう言っていただけるのはこの上なく嬉しくもありました。
私はこの人と結婚するのですね。
「ごほん。もう人目もはばからずお熱いことね。あーあ、わたしも早く素敵な男性と巡りあいたいものだわ」
「なら俺の知り合いで良ければ紹介しようか? メレツ子爵家の嫡男でな――」
「五十過ぎた年増じゃない、そんなの可愛い妹に紹介しないでよこのバカお兄様!」
ベーッと舌を出しながらプリプリと怒った様子でルアンナは控室をあとにしました。
「いったいなぜルアンナは怒ったんだ? 確かに年齢は離れているが気の良い御仁だというのに」
どう考えても年齢差のせいですよ、とはあえて言わないでおきました。
乙女心は複雑だということを少しはハルバード様も自覚されるべきなのです。
「……まあいい、では行こうかメリエッダ」
「はい、ハルバード様」
どちらからともなく手を握り、私たちは二人で歩き始めました。
一度は一方的な婚約破棄で終わったこの物語、しかし始まりもまたこれからなのです。
……ただ一つだけなにかを忘れているような気がしますが、思い出せないということはおそらく取るに足らないことなのでしょう。
◆
~ダズside~
あれから俺はすべてを失った。
期日までに大金の用意ができず、資産はすべて差し押さえられて屋敷もまた取り上げられた。
そのせいで男爵の地位も失ってしまい、おかげでレイドリー家は我が代で取り潰しとなった。
当然危惧していた通り平民落ちとなり、借金の片に俺は元貴族の肩書きを活かした高額な仕事を無理やりさせられている。
――そう、好事家向けの男娼というやつだ。
「喜べダズ、お前に指名が入ったぞ。例の子爵家のお貴族様だ」
「……分かりました、オーナー」
トボトボと肩を落とし、俺はその貴族様が待つ個室へと足を運ぶ。
あのデブ親父、俺を気に入って何度も指名してくれるのはありがたいが、プレイ内容がいちいちねちっこいんだよなぁ……。
「やあダズくん、いつ見ても可愛いねぇ。今日も一つよろしく頼むよ」
個室の中で全裸になっていたその男はでっぷりとした腹を見せつけてくる。
その下で既に滾っているアレを見て、俺の尻が条件反射できゅっと引き締まった。
「メレツ子爵、本日はご指名いただきありがとうございます」
「おい、違うだろダズくん? ここではわたしのことはご主人様と呼ぶように毎回言ってるよね」
「……申し訳ございませんご主人様」
「よろしい、それじゃあいつものように犬の真似をしながら――」
「はいご主人様っ、今日もダズのことをいっぱい可愛がってほしいワン!」
憐れな犬畜生となりはてた俺は尻尾ではなく尻を振る。
ああ、この悪趣味な生き地獄はいつまで続くのだろうか……。
最後までお読みくださりありがとうございます。
少しでも本作を気に入っていただけたら、作者のモチベーションにも繋がりますのでブックマークや感想、すぐ↓にある評価してもらえますと幸いです。