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5章:あの日まで③

 リナが卒業してから、アルヴィスとは会わなくなった。

 彼が騎士団の訓練に入ったという噂は聞いていた。

 五年間の厳しい鍛錬を経て、王宮に戻るのだという。

 訓練に入れば外部との接触は限られるらしく、彼の姿を見ることはないだろう、とリナは安堵した。


 自由の身となったリナは、意気揚々と家業の薬屋『エリナ堂』を手伝い始めた。

 本当は自分の店を構えようかとも思ったが、父が寂しがるのと、経営のノウハウをまだ学びたいという理由で、しばらく実家で修業を積むことにしたのだ。


***


 その朝、店の扉を開けたのは仕立て屋のサリーだった。

 彼女は高齢ながらも元気な女性だ。しかし今日は少し様子が違った。入るなり、腰をかばうような動きを見せる。

「サリーさん、腰の調子が悪いんですね? いつからですか?」

「さすがリナちゃん、よく分かるねぇ。昨日の夜からなのよ。塗り薬をもらえないかしら?」

 笑顔の奥にある疲労の色を、リナは見逃さなかった。

 この国には医師という職業がない。薬師が診断を下し、適切な薬を調合するのが一般的だった。

 リナは学園で徹底的に診断技術を叩き込まれた。その知識を活かし、サリーにいくつかの動作を指示する。

 前屈、後屈、側屈。その動きの中で、右側へ体を倒した際に顔をしかめるのを確認した。

「ベッドに腰掛けてください。神経に異常がないかも確認しますね」

 膝の反射を確かめ、患部に直接触れる。硬さは問題ない。

 痛みが局所的で、筋肉の炎症によるものだと判断した。 

 病気が原因で腰痛を発症することもあるので、リナは特にそれは気を付けて見るようにしていた。

 サリーを起こすと、リナは微笑みかける。

「少し待ってくださいね。今、塗り薬を作ります」

「リナちゃんは本当に丁寧ねぇ。それに、薬もよく効くし」

 そう言った瞬間、店の奥からリナの父がひょっこりと顔を出した。

「さすが僕の可愛いリナたんだ!」

「……お父さま、患者さんの前ではやめてって言いましたよね?」

 リナはキッと父親を睨んだ。

 患者の中には、周囲に知られたくない症状を持つ人もいる。父には何度も説明しているのに、つい調子に乗ってしまう。

「ごめん、ごめん……」

「リナちゃん、私は気にしてないわよ」

「違うんです、サリーさん。ちゃんと伝えておかないといけないんです。デリケートな相談もあるんですから」

 そう言って、再度父に注意すると、父は頷いてくれた。

 その様子は本当にどっちが親でどっちが子か分からないくらいだ。

 息を吐いてから、気合を入れて、リナは調合に取り掛かった。

 鎮痛剤成分の入っているサリチル酸メチルと、あとサリーさんは肌が弱いから保湿剤を配合する。

 サリチル酸メチルの合成魔法は割と初歩的だ。

 化学式自体は、ベンゼン環と呼ばれる六角形のわっかみたいなものに、フェノール性ヒドロキシ基と、カルボキシ基にメチル基がくっついた構造をしている。

 だが、魔法でベンゼン環にこれらの官能基を見た目通りにくっつければいいという問題ではなかった。

 正しい合成経路通りの合成が必要だったのだ。

 そのため、少し面倒だが、経路通り――フェノールの合成から始め、先にサリチル酸の合成をするしかなかった。

 彼女の頭には、合成化学の知識がある。化学式と反応経路を理解した上で、必要な成分を魔法で組み立てていく。

 しかし、この国の普通の薬師はその構造を理解せずに、イメージで経路を覚えたうえで、感覚で合成してのけるのですごいとリナは感心したものだ。

 ちなみにリナにはそれはできなかった。

 彼女の場合、どうしても構造を想像してしまうのだ。


 リナは冷静に比較的安全な合成経路を想像しながら、その順序に作っていく。

 ――フェノールに水酸化ナトリウムでナトリウムフェノキシド。そこから二酸化炭素を高温高圧で反応させて……それから……。

「よし、完成」

 リナは小瓶に入れた薬をサリーに渡す。

「一週間使い切ったら、また診せに来てくださいね」

「ありがとうねぇ、リナちゃん」

 サリーを見送った後、リナはふと窓の外を見た。

 空は晴れ渡り、街の人たちも笑顔だ。リナも思わず笑顔になる。

 このままずっと穏やかな日常が続くと思っていた。

 ――しかし、その平穏は長くは続かなかった。


 リナがエリナ堂で勤め始めて四年たったある日、王宮から書簡が届いたのだ。

「サリナ堂の薬師・リナに、王宮からの招集が来ている」

 それを聞いた父は、「さすがリナたんだ!」と大喜びだった。

 しかし、リナの背筋に冷たいものが走った。

 ――王宮には〝彼〟がいる。

「嫌よ、私は行かない!」

「どうしてだ?」

「アルヴィスがいるかもしれないじゃない!」

「でも、彼はいい男だと思うぞ? しかも第二王子という申し分ない身分じゃないか」

 父はとんでもないことを言い出した。

 前から薄々感じていたが、父はリナがアルヴィスに好かれていたのを「王子にみそめられるなんてさすが我が娘!」と考えている節がある。

 リナは心の中で舌打ちした。

(ここはお父さまを味方につけるしかない……)

 リナは心に決め、すぐさまこっそり目薬をさして父を見つめた。

 ちなみにこれはリナが制作したもので、潤いが五倍増しになっている。

「私……まだまだお父さまの娘でいたいの。それにお父さまを超える男性でないと結婚する気はないわ。今は、アルヴィスも、他の男性も、お父さまに比べたらアリみたいなものよ」

「そ、そうか?」

「そうよ。お父さまはリナの初恋の相手ですもの。これからもずーっと大好きよ!」

 リナは父の手をガシリと握る。

 現在、十四歳になっているリナは、最近、いわゆる反抗期に差し掛かり、何となく前よりも少し父と距離ができていたけれど、リナの精神年齢はもう立派な大人。

 何とか反抗期の心を押しのけ、父に助けてもらうことにした。さらに言葉を加える。

「サリナ堂の店主はお父さまでもあるでしょう? 王宮も店主が向かえばご納得されるわ! 大好きな、お父さま。リナの代わりに王宮に出向いて」

「そうだよな……そうしようか」

 リナは思う。

 ――娘ラブな父はチョロい。


 父はリナの王宮に代わりに行ってくれた。だが、数日後――。

 帰宅した父は、大量の土産を抱えていた。というか抱えきれず荷物専用の馬車まで連れて帰って来た。

「いや~、騎士団にも招かれて、アルヴィス様とゆっくり話をできる機会があってね。本当に立派になられて、その上、話してみれば好青年じゃないか。高貴な身分でありながら、決してそれをひけらかすことはない。それに優しくて色々よくしてくださったんだよ」

「それで、まさかこれって……」

「リナたんへの贈り物だそうだ。我が家にも多くの贈り物を賜ったんだぞ。うん、やっぱりお父さまは、アルヴィス第二王子とリナたんの結婚には賛成だな。あのお方になら、大事なリナたんを預けられる!」

 リナは思う。

 ――父はアルヴィスにもチョロかったのか……と。


(っていうか、アルヴィスは諦めていないの?)

 リナは首をかしげる。

 ちゃっかり父と結婚の話までしているところが本当に恐ろしい……。

(このままでは父とアルヴィスに勝手に結婚を決められてしまう!)

 焦燥を抱えたリナは、頼みの綱であるフォーグに相談した。だが、彼はあくまで他人事のように肩をすくめるだけだった。

「アルヴィス王子、やるなぁ。いいじゃん、結婚しちゃえば?」

 冗談めかした言葉に、リナは盛大にため息をついた。

 彼がこういう話題では全く役に立たないことは最初から分かっていたが、ここまでとは。

「いいわけないでしょ! あ、あのさ、相手の心を変える魔法とかないの?」

「それはないかな。でも相手を惚れさせる魔法なら……」

「それ! それでお願い! 別の女性を好きにならせて!」

「その人間が心底惚れている相手がいない時にしか効かないんだよ。アルヴィスは学生時代からおかしいほどリナが好きだからね。効かないと思うよ」

 フォーグはやはり役に立たなかった。

 自力で何とかするしかない、とリナは心に決めた。


 そこでリナは決意する。

 これを機に家を出て、独立しよう、と……。


 リナが目をつけていたアルー村は、国内で一番の田舎町だ。

 人口は七十名に満たず、城下町から馬を何時間も走らせた先にある。

 視界一面に広がる草原を抜けると、茅葺き屋根やレンガ造りの家々が並ぶ小さな村がアルー村だ。

 どこかの家で薪をくべれば、村全体に香ばしい煙の匂いが広がる。北側には小さな教会があり、その鐘の音が一日のリズムを刻んでいた。

 平均年齢六十八歳の高齢化が進む村だが、住人たちは皆元気だ。畑を耕し、作物を互いに交換しながら慎ましくも充実した日々を送っていた。

 村にいる少数の子どもたちは羊飼いの犬と駆け回り、飽きることなく遊び続けている。


 リナは、この村こそ自分が求めていた場所だと確信した。

 そして、さっさと荷物をまとめ、アルー村で新たな生活を始めることを決めたのだ。


***


 村での新しい暮らしが始まって半月も経たないうちに、リナは村にすっかり溶け込んでいた。

 それもそのはず。

 この村にはまともな薬屋がなく、薬は街から馬車で取り寄せるしかなかった。

 だが、高齢化の進む村では、誰もが何かしらの健康不安を抱えている。そんな中、リナの存在はまさに救世主だったのだ。


 彼女の腕は確かだったし、代金も後払い可。

 さらに、作物との物々交換でも受け付けるという柔軟な対応が評判を呼び、村の人々に重宝されたのだった。

 おかげでリナにとっても都合が良かった。

 ここでは金銭よりも作物のほうが価値があるからだ。

 薬草は村外れの森に自生しているし、水も井戸から汲める。リナが生きていく上で必要なものはすべて村にあった。

 やがて、村人たちの善意で薬屋の裏に畑まで作ってもらえた。

 ただ、本だけがなく、未だ図書館によく通っていたリナにはそれだけが残念ではあった。


「もう一生ここで暮らすのも悪くないかも……。本は時々街から取り寄せよう」

 薬を調合し、村人と談笑し、畑を耕し、薬草を摘む。そんな穏やかな日々をリナは過ごした。

 一生この生活がいいと心から思い始めていた。


 しかし、そんな日常が大きく変わったのは、リナが十五歳になった年だった。


 ある日、リナの薬屋にアルヴィス王子が現れたのだ。

 久々に再会した彼は、驚くほど成長していた。

 かつては同じ背丈だったはずが、今ではリナが見上げるほどだ。少年の面影を残しながらも、すでに第二王子としての風格を漂わせている。

「やぁ、リナ。君は本当に変わらないな」

 彼は穏やかな微笑みを浮かべながら、まっすぐにリナを見つめた。

「アルヴィス⁉︎ な、なにしに来たの……?」

「騎士団の訓練も終えたし……これでやっと正式に言えると思って」

(その先は聞きたくない。絶対に聞きたくない……!)

 リナはそう思ったが、彼の意志は固かった。


「リナ、結婚しよう」


 そこから、以前と変わらぬ求婚の日々が始まった。

 王子としての務めをこなしながらも、彼は城を抜け出しては、はるばるアルー村の薬屋へやって来る。

 ただひたすらリナに求婚するためだけに。

「本当にいい加減にして!」

「俺の愛をリナに分かってもらえるまで来るね」

 リナがどれだけ拒絶しても、彼はめげなかった。


 そんな日々が数年続いた、ある日。

 その日は、九十代のカノばあさんが風邪をこじらせ、容態が悪化していた。リナは薬を渡していたものの、日に日に衰弱していく様子を見て、心を痛めていた。

 今日も様子を見に行こうと急いでいたところで、またアルヴィスが現れた。

「結婚しよう」

 切羽詰まっていたリナは、行く手を塞ぐ彼に苛立ち、思わずいつもより強い口調で言い放った。

「するわけないでしょう。もうここには来ないで! 迷惑よ!」

 そう言い捨て、リナはカノばあさんのもとへ駆けた。幸いにも、カノばあさんはリナを見るなり笑顔を見せ、回復してきているのが分かった。

「よかった……!」


 安堵したのも束の間。

 翌日、リナは森での薬草採取の最中に何者かに攫われた。

 そして連れられた先は、王宮の一室――アルヴィスの寝室だったのだ。

 アルヴィスの策略かと思いきや、娼婦として売る輩に連れ去られたところを助けたと彼が教えてくれて、彼への疑いは晴れた。

 そして、いざ帰ろうとすると、

 ――何を言っているの? 帰すわけないでしょ。だって俺が君を買ったのは事実なんだから。

 アルヴィスが訳の分からないことを言い出したのだ。

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