3章:あの日まで①
草木の香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
リナは、どこか懐かしい気配を感じながら、ぼんやりとした意識を覚醒させた。
気づけば、彼女は異世界で生を受けていた。前世の記憶をしっかりと持ったまま、エルフォリア王国の城下町に生まれ落ちたのだ。
エルフォリア王国は小さな島国で、中央には王宮、その周囲に活気あふれる城下町が広がっている。西には商船が行き交う港、北には研究所や騎士団の訓練場、南にはこの国の誇る魔法学園がそびえていた。
ここでは、魔法と薬学が融合し、独自の発展を遂げている。
リナが生まれ育ったのは、城下町の片隅にある小さな薬屋『エリナ堂』。リナが生まれ、母の名であるエリー堂から改名された。妻バカ、親バカの極みである。
もちろんすぐ、彼女は自分が異世界への転生者であることを自覚していた。
最初は夢かと思ったが、すぐに疑いは確信へと変わる。
言葉こそ異なっていたが、赤ん坊のころから耳に馴染ませた結果、リナはすぐに言語も習得した。
そんなリナは、二歳半にして図書館に通い始める。幼児が本を読むなど珍しいため、周囲の視線は痛かったが、それを気にしていたら知識を得ることはできない。
調べていくうちに、この国では魔法薬学という学問が重要な役割を果たしていると知った。
それは、薬を魔法で作り出す技術であり、この王国の主要産業の一つだった。
そのため魔法学園は国を代表する教育機関。
学校に入学できる学力と魔法力があれば正規の入学年齢――十三歳より前に入学できるらしい。
入学できれば、その子を育てた家にも補助が出る。本人にも成績に応じた給料まで出る。
さらに魔力が強いと言われている、貴族や王宮の人間がこぞって何年か通うので、中流以上の家庭は王宮とのつながりや縁談を求めて、魔法学園に通わせたくて必死だ。
城下町には、魔法学園に入るための塾のようなものも多く軒を連ねていて、かなり吹っかけた金額で商売しているので、自然と、お金持ちばかりが魔法学園に合格するのも当たり前の状態だった。
ちなみに、リナの家庭にはその塾に通わせるだけの金銭的余裕はない。
そんな中、リナは三歳を迎えた。
「リナたんはほんとかわいいでしゅね~」
「お父さま、〝リナたん〟はやめてくださる? もう三歳なの」
三年間もこの環境にいれば、リナはすっかり家族に馴染んでいた。
だが、父の過剰な愛情表現にはいつまでも慣れない。どうやら彼女は、転生してもかわいがられるとゾワゾワする気質のままらしい。
「リナたん、今日は何して遊ぼうか?」
「図書館に行くわ」
「えぇ! ぼ、僕も行こうかな」
「来てもいいけど、隣で話しかけないで。集中したいの」
「えぇ……」
リナはすでに図書館の常連だった。魔法薬学の原理を学ぶことが楽しくて仕方ない。
リナは元々研究肌で、知らないことが目の前にあれば知りたくなるのは自然だった。
そして、彼女には明確な夢ができていた。
城下町は活気に満ちているが、郊外の村は人口が少なく、疫病が流行ればあっという間に多くの命が失われる。
しかし、村の環境自体は豊かで、農作物はよく育つ。貨幣経済に頼らず自給自足で生きる人々の姿は、リナにとって理想的な暮らしそのものだった。
――魔法学園を卒業して、しばらく実家を手伝った後、町外れの村に薬屋を開こう。
病に苦しむ人を助けながら、農作業をし、薬草を育てる。そんな穏やかな生活を夢見るたび、リナの胸は高鳴った。
だが、ここで一つ問題が発生する。
魔法の理論は理解できるのに、実際に魔法が使えないのだ。
そんな悩みを抱えながらその日も図書館で本を読んでいると、不意に静かな声が耳に届いた。
「もうこんなのが分かるの?」
顔を上げると、銀髪の長身の男性が微笑んでいた。たぶんものすごく綺麗な……イケメンと呼ばれる部類の男性だ。
リナは少なからずこんな綺麗な顔の男性に出会ったことはなく、イケメンには興味ないと考えていたリナさえも思わず口ごもった。
「えっと、はい……少しは」
「そう……。僕はフォーグって言うんだ。君、本当にこの世界の人間なの?」
「え……?」
突然の指摘に、リナの心臓が跳ね上がる。
動揺を悟られないように冷静を装うが、まさか転生者などと言えるわけもない。
平穏な生活から遠のくのは間違いないからだ。
慎重に答えを探していると、フォーグはくすりと笑った。
「あぁ、安心して。君が何者であれ、誰かに言うつもりはないよ。でも……小さな君がすごく魔法のことで困っているようだから、何か力になれるかもしれないと思ってね」
「……なんで?」
「ぶっちゃけると僕は魔女の家系なんだ。実は魔法でそっと君の心を読んでね……いつ話しかけようかウズウズしていたんだ」
リナの眉がぴくりと動く。
魔女とは魔法がはびこるこの世界でも特別な存在だった。
この国での魔法薬学は知識と努力によって習得するもので、薬学に関することに限定されるが、魔女だけは生まれつきありとあらゆる魔法を操れる。
だけど、魔女に関しての情報は不明瞭な昔話みたいなもので、本当かどうかも定かではなかった。
(そんな魔女が今、目の前にいる)
しかもリナの目には彼が嘘をついているようには見えなかった。
「こ、心を読んだ……って?」
「ふふ。怖がらないでね。心の内が分かっても放っておくつもりだったんだけど……わざわざ転生までした君の目標がなんだかかわいくてさ。応援したくなったんだ。……信じられない?」
「はい」
あまりに怪しい。本当に心なんて読めているのだろうか。
じっと見つめると、「今、怪しいって思ったでしょ」とフォーグは楽しそうに笑った。
それはきっと魔女じゃなくても誰にでもわかるような気がしてしまう。
だが、リナはフォーグの穏やかな顔を見ながら考えていた。
確かに、彼女は切実な悩みを持っているからだ。
――魔法が使えないこと。
魔法が使えなければ、夢である田舎ライフは遠のくばかりだ。
リナは転生してから何事にも動じず、無鉄砲な性格に育っていた。
父親の愛情を一身に受けた彼女の性格は、前世よりかなり積極的なものになっていたのだ。
だからこそ、迷いはなかった。
「……まだ信じ切れていませんが、本当に魔法使いなら、私に魔法を教えてください!」
リナはぶん、と深く頭を下げる。
一か八かだったが、目の前のこの人に頼ろうと決めた。どのみちこのままでは、魔法は使えない。
「うん。いいよ~」
フォーグの返答は、かなりあっさりとしたものだった。