2章:忘れられない過去
「妹尾さん、そろそろ休憩しない? 大橋教授が学会のお土産を買ってきてくれてたから食べよう」
「はぁい~」
東京都大学理学部二号館・大橋研究室の四方助教の声に、一人だけ白衣を着ずに白い割烹着で実験している妹尾美華は甘えたような声を出した。
美華の見た目は、ふわふわのブラウンの髪に、黒目がちの二重。化粧をしなくてもほんのりピンクの肌に、ぽってりした桃色の唇をしていた。
誰がどう見てもかわいいと思える見た目だが、彼女は研究の面でも凄かった。
テルペノイド化合物の一種の合成実験をしていて、それは簡単に言えば、成功すれば抗がん剤など幅広く応用でき、世界的にも注目されるような実験なのだ。
――同じ博士課程2年生とは思えないなぁ。
美華のとなりで、松重莉菜はぼんやり考える。
莉菜は、美華とは対照的に、長い黒髪を一つにまとめ、笑えば愛嬌はあるものの笑顔がないと少し目が大きいだけで本当に普通の目鼻立ちをしていた。さらに黒縁の眼鏡で唯一のチャームポイントである目まで見えづらいという残念さだ。
せめて眼鏡がおしゃれであればよかったのだろうが、それは機能性重視で買ったもので、莉菜は中学からずっと同じ眼鏡フレームを使用していた。
莉菜という名前だって、名前と見た目の違いからからかわれた経験が何度かあり、本人はもっと地味なものにしてほしかったと思っている。
それくらい莉菜はおしゃれに興味もなく、地味なのだ。
これで彼女が美華よりすごい大きな実験でもしていれば、『研究に心血を注いでいるのだろう』と思われるだろうが、実験に関しても、彼女は去年の研究室の先輩がやっていた実験を引き継ぐ形の合成実験をしていて、成功したからといって特に大きな発見になるものでもなかった。
化学系の多くの学生が卒業のためによくやるような、そんなテーマだった。
しかし、莉菜はそんなテーマに対しても毎日朝から晩まで研究室に入り浸り、人より何倍も時間をかけて丁寧に実験を続けていた。誰よりも地味な実験だが、今は発見した経路が本当に正しいのか確かめる段階まで来ている。
教授も莉菜の実直さには感心していたし、莉菜自身も、『不器用な自分にしては本当によくやった』と心の中で自分で自分をほめていた。
彼女は、才能はないけれど、化学自体は好きだと感じていたのだ。
もともと女性がそんなに多くない化学系の研究室に、博士課程の女子学生が二人いるのは珍しいことだ。
しかもそのうちの一人は、大学全学的に見ても可愛くて、すべての男子――それは教員も含む――に常に囲まれている。
そのおかげか、莉菜の存在感は驚くほどなかった。おかげで研究に集中できた。
莉菜にとってはありがたいことであった。
そもそも恋愛感情が極端に薄い上、莉菜の性格的に、ちやほやされるとむずがゆくて仕方ないだろうからだ。
就職後、何年かして、穏やかで浮気しない男性と静かに恋に落ちてみたい……というささやかな願望ならある。
ただ恋愛感情が薄すぎるのと、見た目に頓着しない性格から、それが叶うかどうかはかなり厳しいだろうと莉菜自身も考えていた。
午後になり、突然大橋教授が研究室に入って来て、珍しく莉菜につかつかと歩み寄って来た。
「松重さん、明応大学の天然物有機化学研究室の論文見た?」
「え……」
嫌な予感がした。
明応大学の天然物有機化学研究室は、唯一のライバルとも言える研究室。
同じ研究の論文を先に発表されないように、お互いにじりじりと研究内容を気にしているような関係だったからだ。
莉菜のやっている研究は先輩からの引継ぎなので、やられることはないと思っていた。しかも、この地域に根差す天然有機化合物に焦点を当てたもので、さらに少し珍しい合成経路だったのだ。だけど、結果は嫌な想像通りだった。
「明応大が先に発表してる。しかも、君がやっているのと全く同じ合成経路だ」
「……じゃあもう出せないってことですか」
「あぁ。これから新しい研究を始めないと」
「そんな……」
莉菜は言葉を失った。ここまで頑張って来たのに、この論文が通れば博士課程を修了できたはずなのに……。
すごい研究じゃないけど、この小さな研究に誇りは持っていた。
休むこともなく、遊ぶこともなく、まっすぐにこの研究だけをやって来た。やっと発表できるかもしれないというこのタイミングで……。
「えぇ、莉菜ちゃんかわいそう! でも、どうしてこれまで明応の動向をちゃんと確認してなかったのぉ?」
美華が研究室中に響き渡るような大声で言う。
莉菜はぐっと言葉に詰まった。
そう、莉菜も確認はしていた……つもりだった。お互いに努力が無駄になるのを防ぎたいから、あちらも全部は明かさなくてもある程度は情報が分かるようにしてくれていた。それを信頼していたというのもある。
実際に、半年前に確認した時は同じような研究をしている者はいなかった。それから研究を始めても論文までまとめるまでに至らないだろうという考えもあり、最後の最後で細かく動向を確認はしていなかったのだ。
発表者の名前を確認してみると、〝北王子俊也〟という人がその論文を発表したようだ。
莉菜の記憶が確かなら、彼は確か、半年前は違う研究をしていたはずだ。
(それが突然テーマを変えて、しかも私と同じ経路を発見した?)
可能性の話をすればゼロではないが……かなり珍しい事例だ。
しかも研究スピードも異例と言わざるを得ない。
「教授、申し訳ありません。私の調査不足です。今後のことは……明日、相談させてください」
のそりと立ち上がり、莉菜はとぼとぼと研究室を後にした。
どうしてだろう。全部うまくいかない。
研究だって、特別なテーマというわけでもなかったけれど、自分なりにズルもせず、真面目に精一杯やって来た。家は貧乏だから、奨学金でなんとか大学院まで進んだ。
ちなみにリナの父親は自由すぎる浪費家だったため、借金取りに追われたことがあったが、その経験から彼女はずっと普通に就職して穏やかに暮らしたいと思っていた。
恋愛したいと思わなかったのはそのあたりも理由にあったのかもしれない。
莉菜は博士号をとって、興味もあって安定している薬品会社の研究所に就職しようとずっと思っていたのだ。
莉菜はその夜、なかなか寝付けずにいた。
近くのコンビニにジュースでも買いに行こうと家を出る。部屋着だったけれど、そのままコートだけ羽織って外に出た。外に出てみると、冷たい風が頬を撫でる。
彼女の一人暮らしの狭い住まいは大学のある駅前なので、夜も明るく、女性一人でも買い物には行きやすかった。
コンビニでジュースを買って外に出ると、大学生かもう少し上らしき男女がべたべたといしているのが目に入った。
しかも、よくよく見てみれば、その女の子は美華だ。
二人とも相当酔っぱらっていて、これまで飲んでいたのだろうとすぐ分かった。
「それにしても、美華ってひどいよな。ライバルの研究室に情報流すなんて」
その声に、慌てて身を隠してしまった。
(今、なんて言った? 情報を流した?)
そっと見ると、美華が腕を組んでいる男に甘えた声で言う。
「俊也くんが困ってたからでしょう~。今のテーマじゃ論文が通らないってさ」
「ありがとう、美華。本当に感謝してる」
「それなら今日は楽しませてね。先生たちが代わりに研究やってくれて楽に卒業できるのはいいんだけど、その分へたくそなのに相手ばっかりさせられるから疲れるのよね」
「あぁ、もちろん。今日は楽しんで」
ちゅ、と人目もはばからずキスした二人は、駅の反対側……つまりラブホテル街に歩いていった。
莉菜は情報が多すぎて頭の中が混乱していた。
(彼女の研究は教授たちがやっていたの?)
考えてみれば思い当たる部分はある。彼女とは高校から一緒だったが、化学が得意というイメージはあまりなかったのだ。それがあんな大きな研究をしている。
きっと成長したのだろうと思っていたのだけれど……。
(そういう理由だったの?)
それは衝撃だったが、そこは莉菜にとっては大きな問題ではなかった。それより気になるのは――。
さっき、彼女が一緒にいた男の子に『俊也くん』と言ったことだ。
偶然の一致でなければ、俊也で思い当たるのはただ一人。北王子俊也。
(つまり、美華が研究の情報を流して、北王子くんがそれを発表したってこと……?)
きっとそういうことなんだろう。
だって、研究成果はノートに記して研究室に置いていたのだから、美華も読めたはずだ。データについても同じで、進捗発表などもあるので、ある程度まとめた成果を研究室共有のファイル内に保存していた。
経路は確かめる段階まで来ていて、それをフライングで論文にして発表してしまえば、北王子が先に発表したことになる。
(そうすれば、同時に私は発表できなくなる……)
ただ、そうである証拠はない。
今の音声だって、驚きのあまり録音することなんてできなかった。問い詰めても、しらを切られたら終わりだ……。たぶんあちらも簡単には認めないだろう。
莉菜と美華が同時に別の主張をしたら、みんながどちらを信じるかも明白だった。
研究室の中だと間違いなく周りは美華を信じる。
(もう、どうにもならないんだ。でも、どうしてそんなことしたの? 私が何か彼女に酷いことをした?)
考えても答えなんて出るはずもない。
ぽつり、ぽつりと雨が降り出した道を、ゆっくり歩き出す。そのうち雨は大降りになり、莉菜の髪から服までを全て濡らしていった。
その時、急に目の前に明るい光が差す。
それがトラックのライトだと莉菜には分からなかった。
何かがぶつかった音が聞こえたと同時に、莉菜の意識は途切れた。