愛する彼方
熱いというより痛みの伝達の方が圧倒的に早かった。咄嗟に体が反応し、しゃがんだ母の上に覆いかぶさる。どうにかして母を守らなくてはと子供ながらに必死だった。被害にあったのは半袖から突き出ていた僕の右腕で、ほんのりピンク色に染まっている。そこからしたたる少量の熱湯が僕の腕の下に倒れ込んだ母のうなじに落ち、母の口から息の漏れる音がした。
父の手元では使い古して底の歪んだ鍋の中で煮えたぎった湯が揺れ、数日前に目にした死ぬ間際のセミの鳴き声みたいに鳴った。セミは空を飛びながら断末魔の声を上げ、ふとこと切れて地面に落ちた。でも僕は生きている。その証拠に鍋の音に合わせて、右腕のピンク色に染まった皮膚がじりじりと痛んだ。
お母さんをいじめないで。そんなようなことを言った気がする。それともそんなふうにヒーローぶって母を救い出したいという欲望が聞かせた幻聴だったかもしれない。
どちらにせよ父が危害を加えてくることはなかった。熱々の鍋は慎重にコンロに戻され、安堵のため息のように湯気を吐いている。
ひゅーひゅーと隙間風に似た音がした。僕は、右腕の痛みを少しでも和らげようと、母がそっと息を吹きかけてくれているのだと思って母のうなじを見下ろした。長い髪が首の左右に流れ、浮き出た骨のすぐ下についたピンク色の跡が襟元から背中へ伸びていた。僕も息を吹きかけてあげようとしたが、そこが痛むのか、母は僕の火傷に息を吹きかけていたわけではなく両手を強く口に当て声を押し殺して泣いていた。
母が泣くのは珍しいことではない。父が母に対して強い口調で罵り、母は懇願するように謝罪の言葉を口にしながら泣いていることはよくあった。それでもしばらく時間がたてば母は飄々として家の中を走り回り、「坊や、ちょっと待っててね」と笑顔を向けて夕飯の準備に取りかかったりしていた。浴槽を洗うのも、燃えるゴミと燃えないゴミの分別も、あらゆる家事をさっきまで泣いていたとは信じられない手際のよさでこなした。そんな母を父は新聞を読んでいるふりをしながら視界の隅の方で監視しているのを知っていたし、僕はその父を絵本を読んでいるふりをしながら盗み見ていた。
だからこそ純粋無垢な幼い僕にとって、この一日も書き写しみたいな日常の記憶に紛れてしまう何気ない出来事になるはずだった。けれどこの日はいくら呼びかけても母は泣いたまま顔を上げようとはしなかった。僕は困惑しながら母の肩を揺すり、父を振り返る。コンロの前に立っている父は母ではなく僕を見ていた。じっと見つめる瞳はどこまでも続くトンネルのように暗く、不意に暗闇に放り込まれたような不安に襲われた。それから僕は父と目を合わせることをずっと避けていた。
母がいなくなったのはそのすぐ後だったと思う。大切なことなのにはっきりと思い出せないのは、父に連れられて僕たちもあの家を出たことと、僕にはまだ鮮明に記憶しておく能力が足りていなかったせいだ。
幼かった僕の記憶は情けないほど曖昧で、その曖昧さが余計に母との記憶を理想化させ、悲しいほどに美化させていった。痩せていたはずの母の体は白くて柔らかい肌をまとい、カサカサでささくれ立っていた指先は艶やかな爪をつけていた。不思議だったのは顔が一切思い出せないことだ。姿形に血色までもが思い通りに描けるのに、顔だけはずっと靄がかかったように滲んで見えない。そのぼんやりとした顔の向こう側から話しかけてくる声も定まらず、日毎に変化していた。
「坊や。わたしのかわいい坊や」
話しかけてくる言葉は決まってそうだった。
その言葉にしきりに愛撫されるほど、いなくなってしまった事実が浮き彫りになっていく。どうあがいても残酷に『いない』という存在は寡黙なままずっしりとそこに居座り、あの頃よりも熟れたプラム色の火傷の跡をさすりながら僕は今も一人、暗闇の中を放浪し出口を探していた。
僕たちが引っ越した先は父の職場の寮だった。社長と呼ばれているおじいさんと、社長夫人と呼ばれているおばあさんと、年齢不詳の男の人ばかりが働いている地元密着の小さな配送業者で、毎朝父が軽トラックの荷台にいくつも段ボールを積んで出発する様子を、僕は社長と社長夫人と三人で見送った。お昼ご飯も三人で食べた。いつも同じ蕎麦屋の出前だったが、僕は親子丼ばかり注文し、二人から「飽きもしないで」とよく笑われた。
夕方、配達を終えた父は束になった伝票を社長に渡し、確認作業を済ませると、毎回二人に見本のようなお辞儀をしてから寮へ帰宅した。父は慣れない手つきで食事の用意をし、干しっぱなしで冷え切った洗濯物も半分の半分に折りたたんでくれた。お風呂掃除だけは自然と僕の役目になっていたが、その理由も父が料理や洗濯物をたたんでいる間、何もやることがないのは後ろめたいというだけだった。
僕は子供なりに父に気を遣っていたのたと思う。まだ僕には母の存在が必要だったし、母の居場所について問いただす権利はあったはずだった。それなのに喧嘩に発展するほど言葉も交わすことなく、目の前にいる父との関係が希薄になっていくことに歯止めがきかなかった。そもそもこの関係性がいいとか悪いとか判断できる基準がわからなかったので、何の疑問も抱かずに僕たちは本当に静かに、隣の部屋から漏れ聞こえてくるテレビの音声よりもおそらく静かに暮らしていた。
高校生になった僕は、父の勤める配送業者で仕分けのバイトをさせてもらっていた。お世話になった社長も社長夫人もすでに他界し、息子とその奥さんが家業を継いでいて、配送する範囲を二倍に拡大したことで人手が必要になったのだ。安い人件費で人員不足を補うための都合のよい駒であったが、余った時間を有効活用できると僕は二つ返事で引き受けた。人と接する必要もなく、黙々と作業に没頭できるうえ、給料までもらえるなんてこんな好都合なことはないと懸命に仕事に打ち込み、父は父で夜勤の仕事を引き受けると、二年が過ぎる頃にはお互いに顔を合わせえる時間もほとんどなくなっていた。
その日はバイトもなく、当然誰かと寄り道する予定があるわけもないので、学校から家までの帰路を結ぶようにローファーの踵でざりざりと地面を擦りながら歩いていた。
帰宅すると同じ寮に住んでいる父の同僚の初老の男性が、二階の廊下の手すりに両肘をついて煙草を吸っていた。僕を見つけると、待ちくたびれたという風に首を左右に折り、このあたりで一番大きな総合病院の名前と、そこに来るように伝えてくれと父から頼まれたと咥えていた煙草の煙と一緒に不愛想に吐いた。
「自分の記憶が定かなうちに伝えるまで酒を飲むわけにゃいかねえからよ。じゃ、確かに伝えたからな」
そう言うと重荷から解放された表情で、男性は足取り軽く自分の部屋へ帰って行った。
予防接種や、体調不良のたびに通っている病院のため、道順は頭に入っていた。僕はふたたび踵をざりざり引きずりながら寮の前を通過し、告げられた病院を目指して歩き続けた。
父がなぜ病院にいるのか、理由を考えてみたがこれといって思いつきもしなかった。怪我でもして運ばれたのなら同僚に伝言を預けるのは不自然だろう。仕事は休みだったのか、途中で体に異変をきたしたのか、あらゆる可能性を思い浮かべては、これといった答えも出ないうちに病院に到着していた。
受付で父の名前とその息子だと名乗ると、すぐに診察室に案内さた。几帳面にアイロンのかかった清潔な白衣の医師が、わずかも表情を変えず、父の担当になったと名乗った。父は舌癌だった。すでにまともに話すこともできないらしい。医師からは手遅れと診断され、父はそのまま入院することになった。
「治療のためではありません。本人にも伝えてあります。覚悟はしておいてください」
医師の言っている意味は理解できたが、僕は曖昧にうなずいた。
「しかし」
同情とも呆れともとれるため息をつき、医師は言う。
「どうしてこんなになるまで放置してたんですか」
その質問に答えることができず、「すみません」とやはり曖昧に謝った。
病院を訪れるのは週に一回だけだった。金曜日の放課後、洗濯物の入ったボストンバッグを受け取って、帰宅してからすぐに洗濯した。翌日の朝までになんとか乾かして荷造りし、午前中の面会時間ギリギリに間に合うように新しい着替えとタオルを詰めたバッグを届けた。それが一番父と顔を合わせなくて済む最善の方法だった。
その点、父も同様、カーテンで仕切られた個人スペースの一番出入り口に近いところにパイプ椅子を置き、その上にバッグを用意してくれていたので、声をかけることなく受け取れるよう配慮がしてあった。
この日もそっとカーテンをめくり、バッグに手を伸ばすと取手の上にはがきサイズの封筒が置かれていた。手に取ると硬いものが中で滑り、封筒の端にぶつかる感覚があった。とにかく早く立ち去りたかった僕は封筒を学校用のカバンにしまい、着替えの詰まったボストンバッグを掴んで病室を後にした。
帰宅後、洗濯機を回してからようやく封筒を取り出した。封筒はしっかり糊付けされていて、かさぶたでもはがすようにちりちりと丁寧に粘着部をめくる。中には鍵が一つとメモが一枚入っていた。あの頃父と母と三人で暮らしていた家の住所と、『寮にいられなくなったらここに住むように』と、一筆書きでもしたような連なった字で走り書きされていた。僕も仕事をしているとはいえただのバイトの身であるし、父が働けないのならいずれ寮を出ていかなくてはならないのはやむを得ないと覚悟はしていたので、住む家の見通しが立っただけで少し安堵した。
その下にもう一つ、隣町の住所が記されていた。個人宅ではなく何かの施設のようだった。特別主張して赤いボールペンの二重丸で囲ってあるが、それ以上の補足はなにもない。何を意味するのか想像するだけで嫌でも胸が高鳴った。自分でも気づかないうちに鼻歌なんか歌っていたかもしれない。窓を開け、外の竿に洗濯物を干していると、二部屋先の窓から、父が伝言を預けた初老の男性が、ニヤニヤしながらこちらを見ていた。
翌日、父の病院に行く前の時間を使って、当時の家が本当にまだ残っているのか確かめたくなり、いつもよりも早めに家を出た。父と二人で家を出た頃はかなりの移動時間を要した気がしていたが、電車に乗ってしまえば、たった数分程度の距離した離れていなかった。降り立った駅のホームには愛着もなかったが、歩いていくにつれおぼろげだった記憶が徐々に色を取り戻し、数件新しい家が建っていても懐かしいと感じれる風景がそこには残っていた。
ブロック塀で囲われた平屋造りのこじんまりした家。引き戸の玄関の横の郵便受けはあちこち錆びているが原形をとどめているし、マジックペンで記された番地もかろうじて読み取れる。鍵穴も正常に機能し、長い眠りについていたとは思えないほど滞りなく鍵は見事に回った。カラカラと軽快な音を立てながら引き戸は開く。誰かがいるわけでもないのにそっと覗いただけで、ふたたび戸を閉めて鍵をかける。開け放していると、あの頃の匂いや空気や思い出が、漏れ出て失われてしまうような気がした。外観は三匹の子豚に出てくるオオカミの一息で吹っ飛んでしまいそうな古い印象だったが、十分暮らしていける城だった。
気をよくした僕は二つ目に書かれている施設らしき住所も訪ねてみることにした。電話もせずいきなり訪ねて失礼ではないかと過ったが、約束を取り付ける手間をとっているうちに勢いが衰えてしまうことを心配し、信号で立ち止まるのも億劫に感じるほど歩き続けた。
中心地から離れるにつれ緩やかな上り坂になり、家と家の間隔も広くなっていく。すれ違う車もなくなると、舗装されていた道がどこからか砂利道に変わっていた。けれど遠目からでも目的の建物の目星が立っていたので、引き返す選択肢はなかった。だからこそ、想像とは正反対の佇まいを前にして、僕は呆然と立ち尽くしてしまった。カーテンだと思っていたものは、窓の内側から貼られているガムテープだった。縦方向に何本も何本も重ねて貼られている。それも一枚や二枚でなく、ひび割れの補強でもなく、見える範囲のすべての窓がガムテープの粘着面をこちらに晒している。見晴らしの良い高台にあったのは廃校になった小学校のように静かで、牢獄のような寂しさを纏うコンクリートの建造物だった。
本当にこの場所で合っているのか、僕はもう一度メモの住所を確認した。正解を知っているのかメモはあざ笑うかのようにカサカサと風になびくだけだ。
引き摺りがちな踵をしっかり持ち上げ、僕は建物の反対側へ歩いた。エアコンの室外機が低く唸っている。この場所が稼働していることは間違いなさそうだった。
「面会ですか」
背後から声を掛けられ振り返ると、まるで寝起きのように飾り気のない女性が立っていた。上下灰色のスウェットに、水色の格子状のチェック柄のエプロン、白い靴下に小豆色のサンダル。髪の長さはわからないが、どうやら後ろで一つに束ねているらしく、顔のラインに沿って結びきれなかった毛が垂れている。
名字だけ名乗ると、女性は「ああ」と妙に納得した顔で「どうぞ」と入口まで案内してくれた。
外光の一切差し込まない屋内は等間隔で蛍光灯が灯り、誰もいない廊下にスポットライトのように落ちていた。
「こちらに来るの初めてですよね」
静まり返った廊下に、エアコンからの送風音と彼女の声がまんべんなく行きわたる。責めているつもりはないのだろうが、女性の抑揚のない言い方が威圧的にもとれた。
「驚かないでくださいね」
その言葉は僕を緊張させた。僕は父からのメモを読んだとき、母が「久しぶり」と僕を迎え入れてくれることを期待していたのかもしれない。そんな幻想を抱いてくるような場所ではなかったと今更ながら知り、けれど引き返すこともできないジレンマに陥っていた。
僕の緊張を察したのか、女性は僕がここを訪れてから初めて柔らかい表情を見せた。
「こんな田舎だし、職員不足も重なって今の入居者は三人だけなんです。建物は広いのに、贅沢でしょう」
確かに入居者の数には見合わない広さだった。この広さがかえって恐怖心を煽っていた。三人の入居者も、何人いるのか分からない職員の気配も、蜘蛛や蠅の生命体も見つけられそうになかった。
「こちらです」
女性はドアと壁に固定された、フック船長の左手に似た鉤爪とそれを通す輪っかの簡易的な鍵を指先で簡単に持ち上げドアを引いた。ノックもしないで勝手に入っていいものかとうろたえながら、中を覗く。狭い部屋にベッドがあり、その人は足を下ろして腰かけていた。
「坊や」
その人はクマのぬいぐるみと見つめ合っていた。乳幼児ほどの大きさで両脇に手を差し込んで、『たかい、たかい』とあやしたあとのように見える。ミルクでも与えるように抱き替えると、節くれだった指で頭頂部からゆっくり後頭部へと撫でていく。
癒される情景に見えないのは、クマのぬいぐるみが歪な形をしているからだった。全体的に生地の毛がいたずらに刈られた芝のように長さが不揃いである。右腕には包帯が巻かれている。よく見るとあちこちに何度も手術を施したような痕跡があり、縫合するたびにクマはほんのわずかずつ形を変えてきているようだった。その人は一本一本の毛質を確認するように指の腹をくるくると回し、ふたたび後頭部に手を這わせると、発作的に指先に力を込めた。
「あぁぁぁ」
十本の指の中でクマが苦痛に顔を歪ませた。生地に埋もれるように縫われていた真っ黒いガラスの目が、圧迫されて剝きだし、こちらを睨んでいる。
「坊やぁ。わたしのかわいい坊やぁぁぁ」
やさしく微笑んでいた口元は口角が下がり、体のどこからか、ぷち、ぷち、と関節が鳴るように糸が切れた。その切れ目から中に詰めた白い綿が外に出ようと傷口をこじ開けようとしている。
僕は両手で口元を押さえた。胃から何かがよじ登ってくる。食道の内側の粘膜が波打ち、今にも口から綿が出てきそうだった。僕はトイレを探して光と闇の縞模様になった廊下を走った。洗面台で蛇口をひねり、大量の水を出しながら吐き気を抑える。廊下を走る足音が近づいてくる。
「大丈夫ですか」
淡白な職員の女性の声が投げかけられる。僕は呼吸を整えてから「はい」と返事し、入口に立っている女性を振り向いた。憐れんだ目をした女性の肩越しに、僕を見て笑う母と目が合い、結局少しだけ吐いた。
「では、あなたは何も知らなかったのですね」
事務室というには殺風景な部屋の片隅で、二人分のお茶を用意しながら女性は話し始めた。
「どうりで面会なんてめずらしいなと思ったんです。ここに入居された方に会いに来られる方はいませんから」
女性はこの場所が以前、家に居場所のない若者や家庭内暴力から逃げ出したい人、社会に適合できずに苦しんでいる人たちを守る意図で用意された施設なのだと説明してくれた。その後、入居者も減り、今は認知症になってしまったの母と、もう二人残っているらしいが、詳しい話は聞かなかった。
「お母さまはご自身の意思でこちらにいらっしゃいました。このままでは自分の息子を殺してしまうととにかく怯えていたんです。勘違いなさらないでください。お母さまはあなたのことをとても愛しているんです。認知症が進んだ今でも。ただ、『普通に』愛することができなかった。その治療としてあのぬいぐるみを息子さんだと思いながら接することにしたんです」
僕は足元に置いてある、病院に届ける父のボストンバッグを見下ろしていた。当然父はすべてを把握していたに違いなかった。それでもずっと自分の胸の内で、暴れまわる事実を抑え込んで守ろうとしたものは一体何なのか。
「でもね、その日のうちに、事務室にあった誰かのライターでぬいぐるみを燃やし始めたんです。驚きましたよ。わたしたちは選択を間違えてしまったと頭を抱えました。けれど当の彼女は泣いていたんです。だから落ち着くのを待って理由を尋ねると、ここへ来る前にあなたに火傷を負わせてしまったと話してくれました。ぬいぐるみの右腕、見ました? 包帯が巻いてあったでしょう。わざと焦がしたんです。あなたにしてしまった罪を忘れないように。あの包帯の下には一円玉くらいの穴が開いてるんです」
僕は無意識のうちに右腕のプラム色の火傷の跡を撫でていた。女性の視線が火傷の縁をなぞり、大きさを確かめるように一周する。
「子供がまともに浴びていたら、もっと広範囲に被害が出ていたと思います。おそらくお母さまから熱湯の入った鍋をお父さまが奪ったタイミングであなたが気づき、反動で飛び出したお湯があなたにかからないように……」
そこで女性は言葉を切った。右手に持った湯飲みをお茶がこぼれない程度に傾け、見えない湯を遮るように左手を広げる。
「たとえば手で」
僕は女性の左手が熱湯を受け止めるのを想像し、思わず顔をしかめた。見ていたわけでもないのに、女性が推測で話す内容が真実であるような気がしてならなかった。
女性は左手を湯飲みにそっと添えて、澄ました顔でお茶を一口飲んだ。
「あなたはずっと、お父さまに守られていたんだと思ますよ」
予定の時間より大幅に遅れてしまい、午前の面会時間をとうに過ぎていた。仕方なく午後の面会時間開始まで病院近くの喫茶店で時間をつぶすことにした。さっきの光景が鮮明に脳裏に焼き付いていて食欲はなかった。コーヒーだけの注文で一時間も居座るのは申し訳なく、飲みたくもないのにもう一杯お替りし、猫舌のふりをしていつまでもスプーンで黒い液体をかき回して時間をやり過ごしていた。
喫茶店でトイレを借りてから、午後一番の病院に乗り込んだ。平日に賑わっている談話室はテレビの電源も消えたまましんと静まり返っている。空腹にコーヒーを二杯入れてしまったので胃が痛んだが、僕にはやらなければならない仕事ができたので弱気なことは言っていられなかった。
カーテンを開くと所定の場所にパイプ椅子が置かれていた。父は目を閉じていた。ひとまずボストンバッグを椅子の上に置き、その先へ足を踏み入れる。窓際の暖かな空間だった。壁に会社名のプリントされたジャンパーが掛かっている。それなのに誰も見舞に来ないのか、花も果物もなかった。もう一度寝ている父を見る。やけに頬骨が目立ち、だらしなく開いた口からは手入れを諦めた髭に沿って唾液が垂れている。こんなにまじまじと父の顔を見たのは何年ぶりだろう。
布団の上で伏せてある父の左手に手を伸ばし、恐る恐るひっくり返す。皮膚は赤黒く変色し、指紋がわからないほど縮れていた。目の奥が熱を持ち、唇が震えた。いつの間にか父は目を開けてこちらを見ていた。僕たちの視線は久しぶりに一つに重なった。
「家に行ってきた」
と、僕はまず報告を済ませた。父はうなずく代わりにゆっくりと瞬きをしてみせる。
「一緒に帰ろう」
父の目に窓から差し込む午後の光がきらきらと反射している。目じりから光の粒が一つ零れ落ちた。僕はそれを了承のサインだと捉えた。僕たちにはまだ時間がある。そう信じ、行動を開始する。
まず、廊下の突き当りに放置されていた車いすを拝借してくる。父を座らせ、壁にかかったままの職場のジャンパーをパジャマの上から羽織らせると、父の膝の上に持ってきたばかりのボストンバッグを乗せた。廊下を伺い、誰もいないことを確認してから何食わぬ顔で突き進みエレベーターのボタンを押す。
土曜日の午後は診察もなく、面会者もほとんどいないようで人気はなかった。看護師に見つかったら、気分転換に散歩に行くと言えばいい。そうやって何度も頭の中で言い訳を繰り返しながら、すでに点灯している下向き矢印のボタンを連打する。車椅子を押す手のひらにじっとりと汗が滲む。
やっとエレベーターが到着し、ドアが開いていく。ストレッチャーも運べる大きなエレベーターはドアが片側にスライドしていくため、観音開きよりも時間がかかる。開ききる前に乗り込み、すぐさま『1』と『閉』のボタンを連打する。あんなに水分を摂ったのに口の中は唾液も出ないほどからからに乾いている。
一階に到着し、自動ドア目がけて駆け出したい気持ちを抑えながら、監視されているかもしれない防犯半カメラを意識してゆっくり、けれど大股で出口を目指した。二重になっている自動ドアを通り抜け、玄関前で退屈そうに待機しているタクシーに父とボストンバッグを乗せると、素早く車いすを片付けて自分も飛び乗った。運転手に行き先を告げ、発車するのを確認すると、長時間の潜水から顔を出した解放感のように深呼吸した。
父は体を背もたれにあずけ、頭を窓の方に傾けて外を流れる景色を、瞬きもせず見つめている。その瞳に何が見えるのか。父が生きてきた景色のほんの一部だけでも、僕は共有することができるのか。あまりにも空白の多い時間を過ごしてきた僕たちは、この距離を埋める方法がわからず、後部座席の両端で口を閉ざしたまま一時間ほどのドライブを終えた。
久しぶりの外出に疲れたのか、父はいつの間にか眠っていた。お金を支払ってから運転手の手を借りて父を背負い、玄関の鍵を開け家の中へ入る。
「父さん。家に着いたよ」
薄暗くなった廊下を記憶を頼りに進む。足を踏み出すたび二人分の重さに耐えかねて床が悲鳴をあげた。
畳の上に父をおろしてから窓を開けようとするも建付けが悪く、何度か枠をたたき半分ほどで諦めた。埃の蓄積量は酷いが住まいとしては寮より何倍も良い。開きっぱなしの押し入れに布団が積んであるのは見えたが、カビが気になり使うのは躊躇われた。病院から持ち帰ったボストンバッグの中からタオルを出すと、折りたたんで苦しくないよう頭の下に差し込んでやった。
父の、火傷で縮んだ左の手のひらにそっと手を重ねる。僕はもう守ってもらわなくても大丈夫。そう伝えて安心させてやりたかった。
窓のすぐ内側に落ちていた西日が徐々に長くなり、眠っている父の頭の上まで畳をオレンジ色に染めた。父の髭は、すかっり乾いた涎が白く固まって束になり、ヤマアラシの針のように尖っている。
「なんかさ、動物園とか一緒に行ったことないよな。今度行ってみようか。バイト代もだいぶ貯まってるし」
僕はこれからの二人の生活を想像して笑った。
白髪交じりの髪も、だらしなく開いた口も、黒ずんだ爪も、皮膚の縮んだ左の手のひらも、僕の知らなかった父を、もっと見ていたかった。
「色々聞かせてよ」
繋がれた僕の右手と父の左手の間にこもる熱をどうにかして保ちたくて力がこもる。
「ねえ、父さん」
言葉は心細く、ぽつりぽつりと口から零れ落ちる。
夜がすっかりこの家を飲みこんで闇がどんどん大きくなっていっても、もう出口を探す必要はないと、僕は何時間も父の寝顔を眺め続けていた。