四.
唐織の身請けは、日に日に近づいていった。清兵衛だけでなく、これまでの馴染みの客が代わる代わる登楼しては花魁との別れを惜しんでいった。
「そなたと会えるのもこれが最後と思うと名残惜しいの。金に飽かせた札差などに奪われるとは──」
例えば、今宵の客はとある旗本だった。杯を傾けながらの悔しげな述懐からして、唐織が札差に身請けされるのがよほど不満なようだ。昨今では武家よりもよほど羽振りが良い町人も珍しくない。札差に借金を抱えた武家の中には恨む者も多いというが、この客もその類だろうか。
「まことに。楼主様には逆らえぬ、籠の鳥の身が恨めしゅうてなりいせん。せめて今宵は瀧本様と添いとうござんす」
そこへ、間髪入れずに目元を袖で抑えてみせる唐織はさすがの手管だった。いかにも本意でないと言いたげなのに、高田屋仁左衛門が訪れた時には、身請けされたらどこに屋敷が欲しいだとか、どんな趣向の部屋にしようだとかを語っているのを、さらさは傍で見てよく知っている。
「うむ、今宵の思い出を頼りにできるよう──朝まで存分に語らおうぞ」
「まあ、嬉しい」
瀧本某は、仏頂面から一転して満足げに敵娼に手を伸ばす。そこにするりと収まった唐織の身のこなしの、しなやかなこと。客の胸に頭を預ける時の、はにかんだ笑み。客の腕を悪戯に這う白魚の指の、いじらしさ。傍に控えるさらさが思わず溜息を漏らすほどの色気であり美しさであり、そして見事な芝居だった。
客のそれぞれに対して、言葉と振る舞いを使い分けては脂下がらせる姉分を見て、さらさはあの朝のあの一幕は、やはり悪ふざけだったのだと思うようになっていた。女郎に真などありはしないのだ。嘘を巧みに操って夢を見させるのが花魁の手管。唐織の手並みは特に鮮やかで、女のさらさでさえ、ころりと騙されてしまったということなのだろう。この手管こそさらさが学ばねばならないものだというのに、ふがいないことだ。
亀綾の耳打ちは、さらさの心の底に灯りを点していた。唐織のようになって、姉が身請けされた後も清兵衛に通ってもらうのだ。そのためには、唐織の言葉遣いや科の作り方、客のあしらい方を、これまで以上に熱心に盗み見なければならない。誰もいない時を見計らって鏡の前で首を傾けたり笑みを纏ってみたり、肌を騒めかせるような姉の声音を真似てみたり。今のところは、我ながら恥じ入るような出来なのだけど。でも──いずれは、きっと。清兵衛はぎこちない初々しさをこそ愛でてくれるかもしれないし。
「さらさ、順番だよ──」
と、さらさは抑えた呼び声によって甘い夢から醒めさせられた。戸の隙間から、同輩の振袖新造がさらさに囁いたのだ。順番というのは、張見世の三味線のことだ。芸者や振袖新造が交代で、夜が更けるまで清掻を弾き続けることになっているのだ。
立ち上がるさらさに、客が目を留めた。
「あれは、そなたの妹分か。初々しいの」
「あい。これまで躾けて来いしたのに、水揚げまで見届けられぬのが残念でなりいせん」
「ふむ、ではそなたの耳にも届くように祝儀を弾んでやらねばな」
「まあ、嬉しい。きっとでありんすよ?」
唐織は、ちゃっかりさらさの水揚げの祝儀まで貢がせようとしているようだ。改めて姉の手腕に感嘆しながら、さらさは座敷を辞した。
楼主が詰める内所で三味線の糸と駒を受け取って、張見世に出る。錦屋は大見世だから、見世を覗く客と居並ぶ女郎を隔てるのは朱塗りの総籬、全面の格子となっている。大見世が素見の客を受け入れることはないけれど、例えば江戸見物に来た田舎者にとっては、吉原の女郎の着物や化粧を眺めて、格子越しに吸い付けの煙管でも渡されようものなら、またとない土産話になるだろう。
男たちと女たちが笑いさざめく声を聞きながら三味線を構えようとして──さらさは、格子の向こうに見知った顔を見つけた。
「あら、清様」
「さらさ。清掻の当番かい」
「あい。あの、唐織姉さんは今日はお客がおりいすが──」
一度女郎と馴染んだ客は、浮気を許されないのが吉原の倣い。なのに、姉貴分の情人が、どうして張見世の辺りをうろついているのだろう。
「わちきが姉さんに耳打ちいたしいす。清様がおいでとなれば、きっと、すぐにも」
少々不審には思っても、そこは清兵衛が目の前にいる嬉しさが勝つ。疑問は胸の裡に秘めて、さらさは微笑み、声を弾ませた。
「今のお客なら、わちきが名代を務めえす。いえ、逆に姉さんが来なんすまで、わちきが清様のお相手を……?」
「いや。あいつは俺のものじゃねえからな。馴染みとの別れを邪魔しちゃいけねえよ」
気を利かせたつもりで申し出たのだけれど、清兵衛はあっさりと首を振ってしまった。
「まあ、然様でありんすか……」
自らの唇から漏れた溜息の意味を図りかねたまま、さらさはぼんやりと呟いた。清兵衛が何としても唐織と過ごそうとしないのが悔しかったのだろうか。寂しかったのだろうか。
それとも、唐織の名代で清兵衛と過ごすという妙案が叶わなかったからだろうか。さらさの胸は咄嗟に高鳴ったのだ。清兵衛とふたりきりになれるのではないかと。この間に、彼女なりに姉分を見習って精進した成果を見せられるのでは、清兵衛の心を彼女に向けられるのではないかと期待して。
「ちょいと顔を見せるだけでも、と思ったんだが──まあ、今の唐織が暇なはずはなかったな。また茶屋を通して出直すさ」
浅草寺の裏手、野原の只中に位置する吉原は、江戸市中からは距離がある。何かのついでや思い付きで来る場所ではないだろうに、清兵衛は軽く笑うと格子から身を引いた。
「清様、そんな──」
唐織が籠の鳥の身の上を嘆くのを、先ほど聞いたばかりだった。姉分のあれは、客を喜ばせるための手管に過ぎないのだろうけれど、今のさらさにとっては彼女と清兵衛を隔てるほんの数歩の距離と格子とが恨めしかった。清兵衛を引き留めるだけの手練手管がないことも。こんな時に、気の利いたひと言でも言えればどんなに良いか。余人を憚ることなくふたりに名残を惜しんで欲しいのか、彼女自身がもっと清兵衛と過ごしたいのか。さらさ自身にも、やはり分からないままなのだけど。
所在なく手を伸べたさらさにとって、清兵衛の優しい笑顔は遠かった。
「手が止まっちゃいけねえよ、さらさ。唐織だって二階で聞いているだろうに」
「あ、あい……」
三味線の清掻の音を絶やしては、遣り手の亀綾にも叱られる。慌てて撥を構えたさらさの耳に、清兵衛の呟きが届いた。
「月がまだ出ていねえな。空が、暗いこと」
十五夜を過ぎて末日が近づくにつれて、月の出は遅くなるものだ。立待月、居待月、寝待月と、月が痩せるごとに呼び名が変わるのがその証拠。清兵衛が言ったのは、ごく当たり前の道理に過ぎない。夜空の暗さは吉原ではなおのこと、煌々と輝く不夜城であるがゆえに、闇が一層濃くも見えるだろう。ただそれだけと、言ってしまえばそれまでだ。
けれど、さらさは当たり前のことだとは思わなかった。この前清兵衛が謡った戯れ歌を、思い出してしまったのだ。卵の四角に女郎の真、あればみそかに月が出る。
「真があれば、みそかの月も出るのでありんしょうが」
吉原では誰もが嘘と芝居で綺羅綺羅しく取り繕っている。嘘があまりに眩しいから、月は塗り潰されて隠れてしまう。だからこその闇夜なのだ。不意に、そうと悟った気がした。
嘘の笑顔で客に侍る唐織も、何でもないと笑う清兵衛も嘘ばかり。さらさ自身にさえ、真とは何か分からない。姉と情人の仲を思い遣る振りで、姉の座を自らが占めることを浅ましく期待してしまっている。こんな黒くて暗い想いは、唐織にも清兵衛にも決して見せられはしない。
清兵衛がさらさの呟きを聞き取れたかどうかは分からなかった。夜の吉原の喧騒に紛れて、三味線を掻き鳴らすさらさの視界から、焦がれる人の姿はすぐに失われてしまう。唐織と会えないなら用はないとでも言われたかのよう。それは、そうなのだろうけど。
素見の客の視線を浴びながら、澄ました顔で手を動かし続ける──さらさが奏でる浮かれた三味線の音も、きっと月を陰らせるだろう。




