二.
「卵の四角にみそかの月……」
清兵衛が謡ったのをなぞって、さらさは小さく呟いた。
鶏が四角い卵を産むことはない。十五夜が必ず望月であるのと同じく、月の末日は必ず新月の闇夜になる。女郎の言葉に真実など、それくらいにあり得ない、という喩えの戯れ歌だった。客を心地良く酔わせる嘘を操らなくては、一人前の女郎とはいえない。当の客の入れ知恵で喜んでいるようでは、まだまだ子供だということだろう。そう心得て、さらさは姉分に頭を下げた。
「あい。確かに、清様の仰えす通り。わちきの不心得でありいした」
「素直さが主の良いところ。したが、手管のひとつも使えぬうちは、わちきの名も座敷もやれえせんなあ」
楼主や唐織は、さらさの水揚げのころ合いを計っている最中なのだという。この数年というもの、さらさは唐織の元で芸に磨きをかけてきた。「あの」唐織花魁が仕込んだ新造という触れ込みで、晴れて部屋持ちの女郎として見世に出すのだ。
その際には、座敷の調度や衣装、寝具の類の誂えに、茶屋や出入りの商人への祝儀にと金がかかる。その費用はさらさの姉分の唐織の掛かりであり、客に貢がせねばならぬもの。つまり彼女はそれだけの値打ちがあると認められなければならないという訳だ。うかうかしている場合ではないと、さらさの背筋も自然と伸びる。
「あい。精進いたしいす」
けれど、畏まったのも一瞬だけのこと。さらさはふ、と口元を緩めると姉とその情人の方へ身を乗り出した。
「――では、昨夜は姉さんはいかように……? 花魁の手管を教わりとうござんす」
「はは、早速やるじゃねえか」
「ほんに。わちきも油断できいせんなあ」
ふたりが顔を見合わせて笑うのを見て、さらさの胸はふわりと躍る。姉分の手管を学びたいのは口実で、さらさは何よりも睦まじいふたりの様子を見たいのだ。女郎に真はないとはいえど、廓勤めの憂さ晴らしには惚れた腫れたも必要だ。唐織は清兵衛を憎からず思っているだろうし、清兵衛の方だって麗しい唐織に惚れずにはいられないだろう。
「昨日はこう、外を眺めておりいしてなあ」
唐織は清兵衛の手を借りて立ち上がり、窓辺に寄る。寄り添うふたりの背は、明るい、そして今は閑散とした通りに、昨夜の喧騒を見出そうとしているかのようだった。
ふたりが並んだ姿は、さらさの熱を不思議と上げる。錦屋に売られて十年近く、男女の蜜事には慣れっこなのに、唐織と清兵衛についてはなぜか他の者たちとまるで違う。たとえ着物を纏っていても、目を見交わし指先を触れ合うだけでも。まるで閨を覗き見ているような心地にさせられてしまうのだ。当のふたりは、さらさなどまるでいないかのように、互いだけに眼差しを向けているけれど。
「今は、俄が賑やかだろう。昨日も下の通りに何組も、あちこちの見世が出し物をしていてなあ」
「あの中に混ざってみたら芸者も幇間も形無しだろうと――どんな趣向が良いかと、そんな話は楽しゅうありんしたなあ」
俄は、葉月の吉原の名物だ。思い思いの扮装をした芸者や禿や若い衆が、ちょっとした寸劇をして練り歩くのだ。女郎目当ての男だけでなく、女子供も江戸市中から見物に訪れるほどの風物詩になっている。無論、御職の花魁が余興に出ることなどないけれど、男ものの衣装を纏った芸者の艶は目を惹くものだ。たおやかな唐織も、鳶や火消しの扮装をすればさぞ凛々しく色気を放つだろう。思い浮かべるだけで、女歌舞伎がどうしてご禁制になったか分かるというものだ。
「姉さんと清様の俄なら、わちきも何としても見とうござんす」
胸を弾ませ、うっとりとして呟いたさらさに、けれど清兵衛はどこか皮肉っぽく微笑んで見せた。
「どうだろうな。案外、大したことはないかもしれねえ」
「ま、清様――」
「花魁の顔を知る者など多くはありいせん。花魁道中が人目を惹くのは、何々屋の誰々と、大げさに紋を掲げて喧伝すればこそ……」
声は軽やかに、口元は柔らかく笑みながら、唐織の目だけが、妙な真剣さを帯びていた──ような気がして、さらさは舌は凍りつく。唐織と清兵衛が語るのは、花魁と客が戯れに俄に加わることではない。名乗ることはせずに、人波に紛れる計画ではないのだろうか。
「芸者にしちゃあ美形で色気があるとでも思われるかな。でも、俄の行列は次から次にやって来る。いちいち気にはしねえだろう」
「誰もわちきとは気付きいせんで。笑って手を振りながら、大門までも行けるやも」
「今の時期の混雑だからな。浮かれてあちこち見渡すうちに、小娘が切手を失くしても気付かないかもしれねえな」
季節を先取りした寒気が、さらさの肌を粟立たせた。春の桜並木に、文月の玉菊燈篭、そして葉月の吉原俄。女を買うためでなくても、吉原に人が押し寄せる季節というものはある。けれど、女は男ほど気軽にはいかない。大門の会所で出される切手がなくては、吉原から出ることは許されないのだ。女郎の足抜けを封じるための当然の用心だ。はしゃいだ素人娘なら、懐の用心が疎かになるのも十分あり得るかもしれないけれど、でも、それは――
「姉さん、清様。それは……っ」
俄の喧騒に紛れての、駆け落ちの算段だ。ふたりが冗談めかして、けれど怖いくらいに細やかに語っているのは廓では許されない大罪だ。見つかれば男女ともに厳しい仕置を免れない、恐ろしい企みを仄めかされているのに気付いて、さらさは思わず腰を浮かした。
けれど、顔色を変えて狼狽えたさらさの無様を、ふたりはいかにも可笑しげに笑った。
「主はほんに初心だこと。わちきの言葉に真はありいせん。違うかえ?」
「そうそう。ほんの冗談じゃねえか」
音曲のように耳に心地良い笑い声の重なりに、どうやら揶揄われただけらしいと気付いて、さらさはへたり込むように尻を落とす。
「そんな、脅かさないでおくんなんし……」
「ほほ、精進すると申したは主の方。これくらい、上手く躱せなくてはなりいせんなあ」
「姉さんにはまだまだ敵いいせんなあ」
さらさがぼやくと、唐織はなおもくつくつと笑った。妹分を脅かすことに成功して、よほど悦に入ったらしい。
「さらさ、朝餉の用意を頼みいす。清様は酒を過ごしたご様子、卵粥にいたしんしょう」
「あい、すぐに」
畳に指を突いて姉たちに頭を下げると、さらさは座敷を後にした。驚きのあまりにまだ煩く鳴る心臓を宥めながら、改めて自身に言い聞かせる。揶揄われただけだったのだ、と。
どうして、唐織は役者だった。おかしな目つきにあてられて、芝居を信じ込まされるところだった。笑われたのも道理、これほどの美男美女が見逃されるはずもない云々と、持ち上げながら窘めなければならないところだっただろうに。
唐織が駆け落ちなどと、考えればあり得ないことだった。
唐織には身請け話が出ている。相手は札差の高田屋仁左衛門。いかに清兵衛が良い男で好き合っているように見えたとしても、間もなく終わる関係なのだ。それこそ、卵の四角にみそかの月と、清兵衛が謡っていた通り。葉月の末日を過ぎれば、唐織は錦屋を去ってしまう。別れが見えているからこそ、もしもの話の作りごとで話が弾んでしまったと、きっとそういうことなのだろう。
身請けを望まれるほど惚れられるのは女郎の誉、年季明けを待たずに苦界から足を洗えるなど、またとない僥倖なのだ。
だから、そんなことはあり得ないのだ。




