「あなたが小説を書く理由というのは、いったいなんですか?」
今日では、小説を書いている人々というのは、自分がどうして小説を書いたり、書きたいと望んでいたりするのか、自分でも見当がつかないものらしい。彼ら・彼女らは、どうやら「霊感」だの「着想」だのといったいやにつかみどころのないものを得ると、とたんになんとなく、むしょうに小説を書きたくなるものらしい。おそらく、……なにか、その……ある「光景」とか「情動」とか……を……書き表したくなるのだろう。
いったい、理由もないのに何かを行うというのは、非・科学的な態度である。さらにいえば科学によらなくたって、単純に考えてみれば、物事というもの、原因があって結果があるのではないか。といって、その非・科学的な、非不合理な態度が問題なのではない。問題は、こうしている今もどこかのだれかによって小説が書きつづけられているということだ。今いったように、小説とは、とりたてて書く理由のないものだ。書く理由がないものに、なにかもっともらしい成果を期待するというのも、愚かな話だ。そして、世の中に小説はあふれている。いや、世の中は小説であふれている。
昔は小説を原稿に書くことも、まったくの紙の無駄だとして、ときに遠慮されることもあっただろう。今はパソコンでもなんでも小説を書けるわけだから、書いているだけならなにかを無駄にするということもないといえるかもしれない。それで遠慮がなくなってしまった。たとえば老人は若者に対して「遠慮がなくなった」と小言をいうが、それについては、若者はいずれ老人になってまた若者に同じことをいうのだから、双方、遠慮はいらない。大丈夫だ。だが小説を書く若者も老人も、だれもかれもがひとたび「霊感」「着想」などなどの動機を得れば、とたんに彼ら・彼女らは一種の機械になる。「獣になる」などというたとえは不適当だ。獣はあんがい、むやみに無駄なことをしないものだ。荒野で無駄なことばかりにいそしんでいては、間違いなく死んでしまうのだから。けれども機械というものは――ここで思い浮かべてほしいのは古いファクシミリみたいなものだ――いちど信号を検知すると、信号が送られつづけるかぎり、停止信号を検知するまで、延々と、もはや永久ではないかと思われるくらいに作業をつづけるはずだ。
小説を書こうといったんきめた人々はこれとおなじたぐいで、例外なく一種の中毒に罹っている。なにかの食中毒の方がはっきりと治療が必要だと見なされるだけ、まだたちがいい。治療が必要だと見なされないのは、小説を書くということは一種の「創造行為」であって、ある意味では……なにを治療するのかはともかくとして……「治療行為」であると、往々にしてみなされることが大きな理由の一つだろう。理由。……小説を書く理由は存在しないのに、小説を匿う理由は確かに存在する。ためしに、そんな彼ら・彼女らに「あなたが小説を書く理由というのは、いったいなんですか?」ときいてみるがいい。すると、彼ら・彼女らは小説を書く理由ではなく、小説を語りはじめる。どうやら人々の創作行為……もしくは治療行為というのは、自分がそれを行うことの理由をでっちあげることから始まるらしい。