07. 庇護
銀扉の消えた後は、直後から大変な騒ぎとなった。
王城からすぐに魔術省の人間が派遣され、現場検証と関係者全員の聞き取り調査が行われた。
のちの調査により、600平方キロメートルもの広大な王都ヴェルートの上空すべてを、不可思議な記号群で埋めつくされていたことがわかる。
北側から広がった記号群は北側に向かって収束していったらしい。
旧ヴェルート城砦の上空に巨大な扉が出現したことを含め、市民にもあっという間に広まっていった。
――天上の扉から、女神が光臨されたらしいと。
『あなたは……人間?』
シージュの腕の中の少女が問う。言葉が上代のものであり、言い回しが独特だった。
『人間だよ』
シージュは小首を傾げて、上代の言葉で応える。
『そう……』
反芻するように、人間なのね、と呟くと、白銀の少女は花が咲いたように微笑んだ。
シージュは急に胸が苦しくなる。
この時のために、自分は。
自分は――……
『泣かないで』
シージュの顔を白く華奢な手がそっと触れる。
拭われてはじめて自分が涙を流していることに気がつき、少女の目にも涙が浮かんでいた。
『ねぇ、おろしてくださる?』
シージュは乞われるがまま、少女を腕から解放する。そろりと地面の感触を確かめるように、下り立った少女はシージュに向かい合い、にこりと見上げる。
『ふふ、私の背は、あなたの胸までしかない』
少女はシージュの腕に手を伸ばし、シージュは少女を優しく胸に引き寄せる。
『俺はシージュ』
『……シージュ、様』
『……君の名前は?』
覚えてなくてごめん、とシージュは呟く。
『その御名だけで充分です』
少女は首を振り、そっとシージュの胸に手を当て、顔を上げる。
『エスカフィーネとお呼びください』
満面の笑みを浮かべた後、少女の顔は少し歪み、目から涙が溢れ出てくる。
彼女は耐えきれないといった風に微かな嗚咽を漏らした。
シージュは少女の目の下に唇を寄せ、涙を掬い上げると、そのままこめかみに唇で触れた。
少女は何度か瞬きし、シージュと目を合わせる。
少女の目は金がかった碧だった。
抜けそうなほどに清んだ、空の色、海の色、風の気配。そして、光。
そこには世界があった。
濡れた紫黒と碧の目線が交差する。それは宵闇と暁がお互いを覗きこみ、溶け合ってしまいそうな光景で――
「ちょ」
「おい、押すなよ!」
「痛ェ!」
バタバタバタ、と勢いよく階段から押し出されてくるクーゲルと、その腕を掴むスクード。
背後に青ざめる第十の面々と、口に手をあてるヴェスカニーチェ。
少しかがむシージュに顔を近づけたまま、エスカフィーネと名乗る少女は集団にちらりと視線だけを寄越した。
「唾液の交換が終わるまで、お待ちいただけます?」
紅を刷いたような美しい唇が、囁くように、しかし皆にハッキリと聞こえるように告げたその言葉に、皆が息を飲み、今はともかく、いったん空気になろうと気持ちをひとつにしたところで――
「どけ!第十師団長はどこだ!状況は!
貴様、儂の顔もわからんのか!」
どけ、どかない、の押し問答が階段で繰り返されるのが聞こえてくる。
どけ、どきません、どけ、いえ危険ですって、どけ、死にたいんですか、どけ……
「こうも剪定の拙い庭では、若葉も枯れるしかなくてよ」
すっかり白けた空気の中、ヴェスカニーチェの蒼き閃光が周囲に走り、轟音に叫び声と階段から落ちる音がかき消されたところで――
ようやく名残惜しそうに、シージュとエスカフィーネはその身を離した。
エスカフィーネへの聴取は身柄を王都に移して行われることとなった。
本来であれば、不審者は須らく拘束する規則である。
しかし――
白銀の髪に白磁の肌。白銀の長い睫毛に縁取られた大きな瞳を彩るのは金がかった碧。すっきり通った鼻筋にぽってりとした唇。
華奢な身体に、立ち居振る舞いの美しさ、極めて清澄な魔力を発する――明けの女神かと予感させるような少女。
彼女に手枷を嵌めることなど出来そうもなく、事実、誰もが嫌がった。
その上、少女がシージュ以外に触れることを無言の圧で拒む。
そして、シージュがそれを当然のように受け入れ、少女のそれ以上に近づく者への圧が酷い。
何にせよ、出現の仕方が仕方だっただけに、すべてを王宮の判断に委ねることになった。
今現在、監視役を兼ね、シージュとエスカフィーネ、ヴェスカニーチェの三人で馬車に同乗し、王宮に向かって出発した。
『女神かもしれない』存在に、万が一粗相があっては、と同乗する面子として、軍事演習に参加していた、立場上、最上位の筆頭幕僚のタウゼントか、軍団長のレメディオスも検討されたが、タウゼントは『模擬戦中に仕込まれた罠を踏み抜き』階段から落下後、救護班にて『再度』治療を受けている最中であり、レメディオスは魔術省と連携を取り現場検証を続けている最中のため、最初に少女と接触した師団長二人に決まった。
万が一、真に不審者であったとしても、この二人がスヴェルートニア王国軍の中で実力的に一、二を争うのは間違いなく、この二人が押さえられなければ、他の誰もが無理である、とレメディオス軍団長と魔術省の見解が一致した。
『30分ほどで着くよ』
『わかりましたわ』
エスカフィーネはシージュと並んで座り、その手をシージュの腕に添えている。
『わたくしは、スヴェルートニア王国軍第六師団を預かりますヴェスカニーチェと申します。
大変僭越ながら、わたくしにも御名を賜ることは許されますでしょうか?』
二人に向かい合う形で座るヴェスカニーチェは上代の言葉でエスカフィーネに話し掛けた。
上級貴族であれば、上代の言葉は教養として一通り学ぶ。しかし、歴史書を紐解く以外にほぼ利用する機会がないため、ほとんどの者は上代の言葉で会話などできない。
ヴェスカニーチェは、二人の会話を聞き取り、それを難なく発話した。
エスカフィーネはヴェスカニーチェを見、にこりと笑う。
『エスカフィーネとお呼びください』
『美しき御名を賜る栄誉を頂き恐縮です』
『私はそのような扱いをして頂く存在ではありません。私は今、一不審者でしょう?
相応の扱いを望みます』
人として。
エスカフィーネは目を伏せる。
『もし、私が貴女の思う存在だったとしても……それは違うと言えるのですけれど、最早《その名を口にしても何も起こらない》のです。
そのことについては、むしろ貴女のほうがご存知なのではないかしら?』
『……気分を害されたのであれば、申し訳ありません』
『滅相もない。ですから、本当に普通になさって』
どう伝えたら良いのかしら、とエスカフィーネは眉をハの字にし、碧の目を二、三瞬き、ヴェスカニーチェの脚を見る。
『嗚呼、……ごめんなさいね。
貴女は貴女の地図が用意されていますでしょう?
私と、いえ、《私たち》と仲良くして頂けると嬉しいわ』
ヴェスカニーチェは、エスカフィーネに一瞬、母の面影が見えたことに気をとられた。
しかし、エスカフィーネの次の発言で、無意識下の違和感が霧散した。
『私、十七ですの』
エスカフィーネは肩をすくめて見せる。
シージュは片眉を上げ、ヴェスカニーチェは軽く目を見張った。
エスカフィーネの見た目は少女というにおかしくない面立ちであるが、立ち居振る舞いは極めて落ち着いている。『年齢』という『現実』がやけにそぐわない。
ヴェスカニーチェは、エスカフィーネ様のお望みのままに、と座席に深く座り直す。
『では、お言葉に甘えさせて頂くことにしましょう。これから我々の拠点であるヴィディオン城に向かいます。城に着くまでに、少し質問をさせて頂いてもよろしくて?
とはいえ、エスカフィーネ様御自身のことは、他の者も伺うと思いますので……同じことを聞かれることもありましょう。そこはご容赦くださいましね。そして、わたくしは単刀直入に、わたくしの気になることをお伺いしとうございますわ』
まわりくどいのが好きではない性質ですの、とヴェスカニーチェは片目を瞑ってみせる。
『もちろん構いません』
幾分、くだけた調子のヴェスカニーチェに、エスカフィーネは笑顔を見せた。
言い回しがすでにまわりくどい、という顔のシージュをヴェスカニーチェは見やる。
『最初にこの男のことを片付けてしまいたく。
……いつからのお知り合いですの?』
エスカフィーネがシージュを隣から見上げる。
『実は私、十歳以前の記憶がありません。シージュ様もそうなのではなくて?』
シージュは頷く。
そして、シージュは端的に自分の経歴を説明した。
スヴェルートニア王国の南端、ヴァイロイト辺境伯領の森で、当時、急激に活発化した魔物を討伐中の辺境伯に拾われたこと。
『シージュ』と言う名前以外、何も話さなかったこと。
たまたま討伐軍に居た王宮魔術師に診察を受け、十歳であり、《記憶が完全消失》し、かつ《魔力がゼロ》の診断がついたこと。
王宮に連れて行かれ、何ヵ月か王宮に滞在したこと。
その間、何度か国王と面会したこと。
何故かそのまま辺境伯家の世話になることが決まり、異変が続く辺境伯領で剣術を磨いたこと。
同時に魔力以外の力を自分の意志で使えるようになったこと。
その力故に、王と公爵と辺境伯との間で相談の上、軍属したこと――
ヴェスカニーチェにとっては既知のことがほとんどで黙って聞いていたが、王宮に居たくだりだけは、道理で、と小さく呟いた。
エスカフィーネは一言も口を挟まず、ただ頷いて聞いていた。
『私も似たようなものですわ。
しかし、私は十歳以降、《零歳以前》の記憶は徐々に戻りました。シージュ様も少しずつ記憶を取り戻されると思います』
ちなみに今の時点で記憶はどうでしょう、とエスカフィーネがシージュに問う。
『君への気持ち以外はまだ曖昧』
シージュがエスカフィーネを見て、甘く微笑んだ。
心中の砂嵐を微塵も顔に出さず、ヴェスカニーチェは口を開く。
『零歳以前、と言うのは……、前世という理解でよろしいのかしら』
『正確には違うかと。《血の記憶》と言えるものですので、私という魂が存在しはじめたすべての記憶となります。
『魂……』
ヴェスカニーチェは目を丸くする。
たまに前世やそれ以前の記憶を持つ者、魔術でそれらを引き出せる者の記録は残っているが、魂の記憶などという話はついぞ聞いたことがない。
『シージュ様に私の記憶を辿れる方法を行使しようと思ったのですが』
皆様の反応を見るに、人様の前ではあまり誉められた方法ではなかったようで、とエスカフィーネは頬に手をあてた。
思わずシージュとヴェスカニーチェは目を合わせる。
『私は……森で拾われ、森で育ちましたの。世俗について学べるものがなく常識というものに極めて疎いかと。道理は知っているものと思いたいのですが』
養い親が普通ではなかったもので。
エスカフィーネはため息をつき、最初に申し上げるべきでした、色々と御教示ください、と二人に頭を下げる。
ヴェスカニーチェには、見た目より非常に落ち着いた話ぶりの彼女が、初めて年相応に見えた。
その姿に、シージュとヴェスカニーチェはどちらからともなく目で会話をする。
ヴェスカニーチェの目は厳しい色を湛えており、シージュは、わかっていますよ、と片手を上げて見せた。