18. 供犠
「今日という日が非常に長いィ……」
旧ヴェルート城砦で、上官が嫁を抱えて帰ってきたのが、正午。
ヴィディオン城に帰城したのが15時。
謁見開始が16時半で、その後――
クーゲル大隊ごと、この地に《飛ばされた》。
エスカフィーネの《縮地》を、シージュの力で増幅し、かつ正確な地点に誘導した結果、らしい。
もはや、やってることはよくわからないけど、史上最強の夫婦が誕生したのはわかる、と呟くのはクーゲルだった。
「今回の軍事演習で模擬戦の面子に入ってなかったら、脳が爆ぜることもなく、今頃、家族水入らずだったのにィ……」
「ひとり家で泣いて、心が爆ぜてたんじゃないですか」
「ああ、奥さん、実家に帰ってるんじゃないかって、師団長に言われてましたよね」
「やることあるほうが、気が紛れるでしょ」
俺の隊は、今日も俺に冷たい!と嘆くクーゲルを、クーゲル隊の面々は綺麗に無視した。
「ま、クーゲル大隊長の肩を持つわけではないですがね。
朝の時点で、22時にこんなところで任務になるとは思いませんでした。……おっと」
少し離れた前方から、合図の光が見える。
「待ち人ならぬ、『待ち獣』のお出ましですね」
「――作戦開始だ。いくぞ」
声のトーンが変わり、表情を消したクーゲルが合図を出す。
クーゲル隊は潜んでいた木々から出ると、速やかに対象に向かって前進した。
「出たね」
「思ったよりは遅かったので……、あちらも抑えてくれてはいるのですわ」
それも時間の問題かもしれませんが、とエスカフィーネが呟く。
シージュは紫黒の目を瞬き、エスカフィーネの髪の毛先を手に取る。
「《使徒の竜》直々に来られたらひとたまりもなかったが」
「……それができないほどには《封印》の礎が緩んでいるのですわ。このまま《湧かせる》ことを、落としどころとしたのでしょう」
そして、我々も。
「おい」
「はい」
「お前ら、その体勢のままいるつもりか」
「はい」
バァン!
「ふざけろよぉ!」
キョトンとした表情で、大声の主を見るエスカフィーネは、涼しい顔をしたシージュの膝の上に座っていた。
そのシージュはエスカフィーネの毛先を指先に絡ませている。
二人の顔の距離は極めて近い。
漆黒の髪に褐色の肌、白銀の髪に白磁の肌。
艶めき重なりあう二人は一対の芸術品のようであった。
大声の主、ヴァイロイトはその眩しさに舌打ちし、これ見よがしなため息をつき振り返る。
「ツヴェリグ!お前はシージュのあの姿を見て何も思わないのか!」
ヴァイロイトの背後に控え、ツヴィリグと呼ばれた、長身の男が小首を傾げる。
「幸せそうだなと」
「違う!」
「美しいなと」
「違う!!」
「閣下もまだいけますよ」
そうじゃ、そうじゃない!
ヴァイロイトは喚く。
「と、言われましても。
『表向き』はシージュの帰省、ということになっていますし、婚約者殿と仲睦まじい様子にローベルトは冥土の土産を貰ったと咽び泣いて喜んでいます」
問題の解決にこそなれ、むしろ問題は何もありませんが。
「問題しかないだろうが!」
慎みとか恥じらいとか婚約者の正体とか。
「今起こっていることとか!」
ズカズカと、ヴァイロイトは出窓に近づき、バン、と窓を開ける。
月明かりと篝火に照らされて、外は存外明るい。
目の前には、ヴァイロイトが辺境伯を務めるサウヴィニス地方最大の森、『サウヴィニスの大森林』が広がっていた。
遡ること三時間前――
第一師団アジェンテ師団長と元老院サンステマ長官の『意見交換』の最中、周囲の真っ白な空間が、突如、謁見の間に戻った。
周囲が元の場所に戻ったことに、安堵の歓声が上がる。
「すぐに第九と第十を拘束すべきです!」
そんな雰囲気を無視し、アジェンテがヴァイアーを振り替えると、そこにはヴァイアーとともに、第九師団長エインニックと第九副師団長のカイエの姿があった。
「ほう?」
エインニックは片眉を器用に上げる。
アジェンテはエインニックの姿を見て、飛び上がった。
エインニックは怯むアジェンテを一瞥し、すぐにヴァイアーに向き直る。
「何やら面白い話が聞こえた気がしますが――陛下」
我々だけ切り離され、彼の者より預かりました、とエインニックはエスカフィーネから渡された封書をヴァイアーに渡す。
ヴァイアーは無言で受け取り、封書を開いた。
内容を確認するヴァイアーの表情は厳しい。
「……《本物》だな」
「間違いないかと」
ヴァイアーの囁きを、エインニックが拾う。
ヴァイアーは顔を上げ、声を上げる。
「ヴァイロイト辺境伯、第六師団ヴェスカニーチェ師団長、全軍指揮幕僚部フィーニス副指揮官。三名はいるか。私の近くに!」
「はっ」
衆目の中、三人がヴァイアーの近くに歩みを進める。
「カイエ副師団長を同席させるご許可を」
「許す」
ヴァイアーとエインニックがやり取りしている間にフィーニスが一番早く近づいて来た。
「フィーニス」
ヴァイアーが素早く囁き、フィーニスは目で頷いた。
「陛下!『お身内』で、何をなさるおつもりで?」
サンステマが声を上げる。
ヴェスカニーチェとヴァイロイトが側に寄った瞬間、部屋の全員が、ふっと息吹きのような風を感じた。
「?」
その気配をいぶかしむ間なく、ヴァイアーがよく通る声で話し出す。
「聞け!」
すべての耳目がヴァイアーに集まる。
ヴァイアーは部屋の中央に一歩踏み出し、端然と立った。
歩を進めたとき、ヴァイアーの足元に一瞬、紅いモヤが霞んだことに気づいた者はいなかった。
「『此度の異変、天の扉から光臨せし存在は、白き閃光とともに再び天に還られた』。」
ヴァイアーは周囲を見渡す。
「彼の方は『女神でも魔王でもなく』、『天の御遣いにて、サウヴィニスに端を発した昨今の異変について我らに助言くださったのだ』」
ヴァイアーの周囲に金がかった紅いモヤが徐々に濃くなっていくが、それを指摘する者はいない。
「『淵源の書については記憶を許さない』。『特に神の名は忘れよ』。『大変危険である』」
ヴァイアーは右手を周囲にかざす。
その右の掌は血塗られたような真紅に染まっていた。
「『手元の写しは即刻消去せよ!』」
ヴァイアーが掌をぐっと握りしめた瞬間、全員が己に配られた紙面を、ある者は風で、ある者は炎で、ある者は物理的に細かく破き、床に撒いた。
全員が無言でそれを行い、場には一時妙な静けさが支配する。
ヴァイアーは再び真紅の掌を開き、かざす。
「此度の集まり、『サウヴィニスの異変の共有である。詳細については追って通達する』
最悪の事態だけは止めなくては……」
ヴァイアーは一旦声を落としたが、金紅に輝く目に力を込め、声を張る。
「『我ら一丸となり、事態の終息をはかる!』
我々の平和のために!」
「我々の平和のために!」
唱和が地鳴りのように響いた。
「『この区画を出るまで振り返ること及び一切の会話を禁ずる。疑問を持つな、受け入れよ!』以上、解散!」
ヴァイアーが挙げていた手を降ろすと、全員が物言わず、真っ直ぐに部屋から退出していく。
その中には、ヴァイアーを護るべき近衛兵、政務補佐官、アジェンテとサンステマの姿もあった。
それぞれの方法で廃棄した紙面の屑や灰が足元に絡むが、それには誰も頓着せず、ただガサガサと音を立てる。
5分ほどで、ヴァイアー、ヴァイロイト、ヴェスカニーチェ、フィーニス、エインニック、カイエを残し、室内から全員が居なくなった。
「……ふぅ」
「陛下!無茶をなさる……」
椅子にドサリと座るヴァイアーに、ヴァイロイトが慌てる。
ヴァイアーはそれを手で制し、フィーニスに顔を向けた。
「どうだ?」
フィーニスは少しうつむき、目を閉じていたが、すぐに顔を上げる。
「全員の首に鈴はつきました」
「どのくらい持つ?」
「イレギュラーがなければ3日ぐらいかと」
丸3日もたせろ、とヴァイアーは返し、息を吐く。
「《魅了》の魔術ですか」
王家に伝わる魔術、話には聞いていましたが、とエインニックがヴァイアーの掌に目を向ける。
その掌に、紅の色はない。
カイエは目の前で起こったことが信じがたいのか、少し呆けていた。
「正確に言うと、先ほどは《魅了》の派生で《改竄》だ。王家ではなく私自身の魔術。
《魅了》は警戒している古参が一定数いるからな」
「……私に聞かせてもよろしいのですか」
「信じる信じないは自由だが、俺が即位してからはただの一度も《操作系》は使っていなかった。
……法治国家だからな」
「むしろ使って、もう少し楽な治世を過ごされては?」
ヴェスカニーチェの口元が弧を描く。
「裸の王にはなりたくないんでね」
本当のところは、かなり疲れるからだが、とヴァイアーはおどけて見せた。
「陛下!シージュたちをいかがなさいます。いかに《魔王》とて……!」
ヴァイロイトが苛立ちを隠さず問う。
握りしめた手の甲に太い血管が幾筋も浮いていた。
その感情の発露に、ヴェスカニーチェは眉をひそめる。
「お前は……」
ヴァイアーは開きかけた口を閉ざすと、首を振った。
「識別タグで居場所が追えていれば今はいい。こちらも少し時間が欲しい」
ヴァイアーは首元を少し緩め、エインニックから渡された封書を取り出す。
「ここにいる全員。
――《神の名》に触れたことがあるな」
「……」
「狸たちの中にも居るが、狸は損得勘定でしか動かんからな。そこがいいところでもあるが……」
今回は除外だ、とヴァイアーは椅子に深く座り直し脚を組むと、封書を片手で持ち上げてみせる。
「共有事項は大きく三つある。
一つ。彼女、エスカフィーネ嬢は、北の大地『ノスランティス』の『竜の神殿』の巫女だそうだ。竜の神殿には『人の王』が封印されている」
「人の王は今も生きているのですか……」
フィーニスの声に、軽く肩をすくめるだけで答えることなく、ヴァイアーは続ける。
「二つ。
放っておけば、サウヴィニスからこの大陸は沈むだろうと。『竜』をはじめ『精霊』たちは『人間』……とりわけ我が国に対して大層怒り心頭だそうだ。
――ヴァイロイト、後から対応を詰める。
まずは言い訳を考えておけ」
「!」
「私は何度も忠告した筈だが?
あちらとの時差を侮り、奢ったか?」
ヴァイアーの深紅の目が昏く光を消す。
同時に魔力の気配が濃くなり、部屋の温度がぐっと上がった。
ヴァイロイトが目を見開き、頭を垂れる。
「私の甘さか」
ヴァイアーは面白くなさそうに、魔力をおさめると、持ち上げていた封書を下ろした。
「三つ。
二つ目もだが……実際はこれが一番、重いな。
『二神はもう存在しない。持てるカードで勝負せよ』とのことだ」
全員がハッと顔を上げる。
「……存在しない!?神はいない、と!」
ヴァイロイトが声を上げる。
「《神がいない》わけではない。《二神は存在しない》とある」
ヴァイアーは顎に手をやる。
「本当なのですか!……にわかには信じがたい話です。……あの者は……あの者の虚言なのでは」
ヴァイロイトをヴァイアーが一瞥する。
「これ以上の戯れ言はパヴェロ家だけで充分だぞ。
――彼の方は本物だ。ハッタリであの扉は出ない」
現実逃避したくなる気持ちならわからんでもないが、とヴァイアーは鼻を鳴らす。
「本物かどうかは《調律》も認めている」
エインニックは水を向けられ、頷く。
「はい。《青の公爵家》の方々はご存知かどうか――我が《調律の一族》は祖より《暮れの神》の名をお借りし、《魔力を底上げ》してきました。そしてこの度、魔力の親和をあの方から感じました」
エインニックは、隣でカイエが痛ましそうに見つめている視線に気づかない。
フィーニスが《暮れの神》という言葉で弾かれたように顔を上げる。
「姉は……姉の脚は?
……《明けの神》の名の元に得た姉の力は、何か影響があるのでしょうか!神が居らっしゃらなくなることで……」
「控えなさい、フィーニス」
わたくしのことは良いから、とヴェスカニーチェがフィーニスを制する。
エインニックは首を振った。
「彼の方は仰いました。《対価》だから安心しろと。《呪い》ではなく、『貴方の力はもう貴方の所有物』だと」
貴方が貴方である限り、と。
「おそらく、二神が消えても、この世に顕現した《力》は消えない。私は《神の名》をお借りすることと《供犠》は『等価交換』なのだと解釈しました」
我が一族は肉体の成長が《供犠》とされましたが、いまだに肉体が時間を刻み始めたようには感じません。
エインニックは口に手を当てつつ、自らの言葉を反芻する。
通常は、対象に展開した魔術は、術者本人が死亡すると消滅することがほとんどである。
歴代の魔術師団の中には、稀に魔力を他人に《貸与》する魔術を行使する者がいたが、すべてのケースで、術者が死亡した場合、貸与した魔力は霧散することが報告されている。
「いつ、二神がいらっしゃらなくなったのか。
――なぜ、いらっしゃらなくなったのか。
道理で近年の展開例では」
思考の海に沈みはじめるエインニックを横目に、フィーニスが口を歪めた。
「……《等価交換》?」
吐き捨てるように、呟く。
「《魔なし》で産まれた子に《魔力》を与えるかわりに、本人の両脚を《持っていかれる》ことが等価ですか……?」
「《供犠》の内容は人の身では選べない。《神の名》をお借りし、人の身だけでは不可能なことを成すのだ」
ヴァイアーは噛んで含めるように、フィーニスに言葉を掛ける。
ヴァイロイトもフィーニスの様子に眉根を寄せ、肩に手を置く。
「……」
「そもそも、相当な魔力量と練度がなくては、《神の名》を口にしただけで魔力が暴走しかねない。
――術者の魔力が足りず、術者ばかりか対象の命をくべることになることのほうが多いくらいだ」
ヴェスカニーチェはまだ運が良いのだ、とヴァイアーは目を伏せる。
「……!」
一瞬、ぶわりとフィーニスの魔力が立ち上り、肩に置かれたヴァイロイトの手を弾く。
「っと!」
その声に反応したのか、魔力自体はすぐ収束したが、フィーニスは奥歯をかなり強く噛み締め、隣に立つヴェスカニーチェから、ギリ、という歯軋りが聞こえてきた。
フィーニスが堪えきれないといったように、口から言葉を漏らす。
「そんな危険に手を出してまで……《神の名》が、《神》が人を惑わせる。
なぜ!なぜ、その行為ごと禁じないのです!!
それほどの犠牲を出してなお」
「フィーニス!貴方の個人的な感傷はせめて心の中で呟いて頂戴。人の身勝手さを神に責任転嫁しないで。
神への冒涜も甚だしい上、陛下の前でのその言動、問題しかありませんわよ」
「姉上!」
フィーニスは苦しげに声を上げる。
これ以上は不敬罪で斬ります、とヴェスカニーチェは殺気を滾らせた。
エインニックとカイエはその膨らむ殺気に、自然と一歩下がる。
「――よい、『ヴィーチェ』」
ヴァイアーがヴェスカニーチェの愛称で声を掛けた。
「王妹の……ターニャの罪だ」
「……『伯父様』」
「この時期だったろう?
私はフィーニスの心情もわからんではない」
ヴェスカニーチェはハッとし、静かに礼を取る。
フィーニスは俯いたままであり、ヴェスカニーチェはその姿に、声を出さずため息をついた。
「脱線したが……、《供犠》を踏まえても、我々は我が王国最大の切り札をすでに失っていたということだ。
《神の名》をお借りして、災厄や戦況の急場をしのぐことは最早できない。
そして、魔力で他国より優位に立てていたが、今後二神の不在でどのような影響が出るのか……」
そこまで言って、ヴァイアーは、ふ、と苦い笑みを浮かべる。
「我々は自らの足で立たねばならぬと、そんな当たり前のことを口にしようとした己が笑えてくるわ」