12. 昔話
結局、軍関係者を含め、原文を読める人間は全体の一、二割程度だった。ヴェスカニーチェが発言し終わるのと同時に、退室していたヴァッフェが文官たちと共に上代語の辞書や紙、ペンを持ち込み、必要だと言う人間に手渡した数から推測された。
ヴァイアーが入室して、まだ三十分ほどだったが、資料を写し読み、仕切り直すということで、休憩がもうけられた。
控えの間に飲み物を用意した、と侍従が声を掛けるのを聞き、ヴェスカニーチェは席を離れる。
ヴァイアーのほうを見ると、議員に詰め寄られているが、先ほどの動揺が嘘のように上手くあしらっている様が見て取れた。
陛下は《淵源》を問題なくかわされるだろう。
問題なのはむしろ――
踵を返し、ヴェスカニーチェは周囲の様子をざっと伺ってから控えの間に向かう。
それを見たフィーニスが、彼女を追いかけた。
「姉上」
「フィーニス」
「今よろしいでしょうか」
ヴェスカニーチェは頷き、控えの間に用意された椅子の一角に向かって歩く。
「何かしら?」
席に座ると、侍女が紅茶を給仕する。
それを見ながら、フィーニスは二人の空間だけに、さりげなく防音結界を張る。
侍女にすら展開を気づかれない精度であり、ヴェスカニーチェはそれに気づいて、片眉を上げる。
「また器用な真似を」
口元を見られると何を話しているのか、見るものが見ればわかってしまう。
フィーニスの結界は、結界対象の音声と視界を正しく認識できない妨害を施す。
今はあからさまに密談している風ではなく、なんとなく聞こえにくい、見えにくい、というレベルで展開している。
「行くべきは幕僚部でなく、近衛師団だったのでは?」
ヴェスカニーチェは揶揄する。
「中枢で秘密を抱えた方々の助けとなるでしょう」
「一日で倒れろと?」
俺ひとりで間に合わない、とフィーニスは大袈裟に両手を挙げてみせる。
「時間もないので。
――身体のメインテナンスの時期です。近々、一日あけて、本邸に戻ってください」
「結界まで張って何かと思えば。
もうそんな時期なのね。わかりましたわ」
「……本当はすでに痛むのでしょう?」
フィーニスは労るようにヴェスカニーチェの脚を見る。
「いいえ。……本当ですわよ」
ヴェスカニーチェは紅茶に口をつけた。
疑わしげに見ているフィーニスだったが、ため息をひとつつき、表情を固くする。
「姉上はむしろ彼女に文句を言いたい立場なのでは?なぜ庇うのです」
「庇ったというつもりもないのだけれど……、彼女に文句を言う?わたくしが?どうして」
「……どうしてとは」
ヴェスカニーチェは面白そうにフィーニスを見る。
「大体、彼女の正体はまだわかっていないでしょう?
裏付けのない憶測など、貴方らしくもない。
……貴方は、よく回る頭と口があるのに、わたくしのことが絡むと、途端に目が曇るのね」
ヴェスカニーチェは少し困ったように、優しく窘めた。
明らかに気を許した者へ見せる微笑み。
フィーニスはそれを見て、一瞬眩しそうに目を細めた。
「もし、貴方が予想する方だったとしても――わたくしは、文句どころか罪の意識で震えていてよ」
裁いていただきたいくらい、と自嘲するように彼女は笑う。
「姉上。馬鹿なことを」
「そうかしら?
……無ければ無いで仕方ない、と。
あの男のように別の道を模索することもできた筈なのに」
「貴女が背負う罪ではないでしょう!」
「ではお母様が背負うの?それとも《青の公爵家》が?」
ヴィルニスにそれを背負わせたくはないわね、とヴェスカニーチェは目を伏せた。
可愛い我らの弟は、すでにすべてを覚悟の上ですよ。
そして俺も――
フィーニスはヴェスカニーチェを見る。
眼鏡越しのその瞳には、薄青色の炎が揺れていた。
「俺は貴女を苦しめる存在を許しませんよ」
「仕方のない人」
この話だけは、いつまでもどこまでも平行線ね。
ヴェスカニーチェは苦笑する。
「言っておくけれども、《淵源》を恨むなど、見当違いも甚だしくてよ。そうでしょう?与えられた事実を、どう解釈するかはその人次第なのですもの」
ヴェスカニーチェは立ち上がる。
「わたくしはもはや誰も何もかも恨んでなどいない。ただ間違いは正さねばならない」
「姉上!」
「時期がくれば、この歪んだ魔力を《淵源》に御返しする。可能かどうかはわからないけれど」
本邸に帰る日程が決まったら連絡するわ、と言い残し、軽く手を振ってフィーニスの結界をはらうと、ヴェスカニーチェは謁見の間に戻って行った。
「……絶対に許さない」
姉上の一部を欠いたすべてが。
あの美しい人を慟哭させた世界が。
フィーニスの目の前にある紅茶は、口をつけられることなく、静かに冷めていった。
ヴェスカニーチェが謁見の間に戻ると、ひとりで椅子に座っていたヴァイロイトが声を掛けた。
「フィーニスは?」
「お茶を頂いているかと」
「アイツ、相変わらずお前を追いかけてんのな」
ここからでは姿の見えないフィーニスを窺うように、少し呆れた口調でヴァイロイトは言った。
「第一で副師団長までになったのは、姉と並び立ちたいのか、近衛に行くためのキャリアかと思ったが」
なぁ、と立ったままのエスカフィーネを見上げる。
「幕僚部に引き抜かれたのは間違いなく大出世……なんだが、何を目指してるのやら」
「わたくしとしては、家を継いでくれるとばかり。あの子の考えていることは解りませんわ」
わたくしを探っても、何も出てきませんわよ、と言うように、ヴェスカニーチェはヴァイロイトを軽く目で牽制する。
「ヴァイロイト様こそ。……まだ手を出されているのですか。以前より気配が」
「あぁ!皆、あんなに真っ白な天使だったのにな!」
ヴァイロイトはわざとらしく天を仰ぐ。
「昔、お前が『ヴァイロイト叔父様となら結婚を考えなくもない』とか言って、フィーニスが俺に手袋を投げてきたことあったよな。笑いながら相手をしてやったら、アイツ、結界の中の空気を抜くとか、本気で俺を落としにかかりやがって」
「ヴァイロイト様ったら」
ヴェスカニーチェは可笑しそうにコロコロと笑った。
「言動まで、すっかり『おじさま』になって」
ヴァイロイトは胸部に剣が刺さったような顔をした。
遠い昔、
太陽を司る明けの神様と、
月を司る暮れの神様がいました
明けの神様は白銀の、
暮れの神様は漆黒の、
とても美しく優しい神様でした
明けの神様が正義と誇りを照らし、
暮れの神様が安寧と休息をもたらし、
人々は神様たちが大好きでした
二神はお互いに会いたいと願うようになりました
しかし、時が交わらない二神は、会うことが叶いませんでした
二神は哀しみ、涙を流すと、
それが地上に降り注ぎ、人々の口に入ったのです
神の雫には《魔力》があり、
多くが口に入った人は大きい魔術が
少しだけ口に入った人は小さい魔術が
使えるようになりました
――『エントフォールンの神様』より
第十の面々とエスカフィーネは、控えの間のさらに隣の、侍女の控え室に移動していた。
椅子に座るエスカフィーネは、ヴァッフェから借りた民話の本を閉じる。
「この本が国内でおよそ標準的なものです」
机を挟んで、エスカフィーネの向かいに立ったヴァッフェが、別の本を手に取る。
「後は、雫をたくさん口に入れた者は、より神に愛されていたとか……そういった尾ひれ、背びれ、胸びれまでついた類いがごまんとあります」
「よくご存知なのね」
エスカフィーネが感心したように言うと、ヴァッフェは少し恥ずかしげに顔を掻いた。
「父が太陽教会の司教だったこともありますが、子どもの頃から、神話に興味を持って読み漁りまして。
神を知り、神に愛されれば、魔力が上がるのではないかと。
……そうすれば、皆にも認めてもらえるのではないかと。
今は、単純に神話蒐集が趣味ですが」
仕事に活きる日が来るとは、と苦笑した。
エスカフィーネは目を細める。
「可愛げのある時期もあったんですねぇ」
ヴァッフェの隣で椅子に座るスクードが茶化す。
今も充分可愛いですよォ、とさらに隣に座るクーゲルが口を挟んで、ヴァッフェの眼光が一転鋭くなる。
「《精霊》も《霊》も見事に記載がありませんわね」
「十の使徒の話はないのかな」
スクードの向かい、エスカフィーネの隣に座るシージュが問うと、ヴァッフェは机に積んだ別の本を取り出し広げた。
大地が揺れ、天が墜ちるかと民は怯えた
そのとき、天から舞い降りたるは十の使徒
第一使徒は『親愛』の紅蓮
第二使徒は『正義』の真朱
第三使徒は『礼節』の鬱金
第四使徒は『信念』の翡翠
第五使徒は『英知』の深碧
第六使徒は『勇猛』の天空
第七使徒は『美麗』の瑠璃
第八使徒は『巧緻』の滅紫
第九使徒は『調律』の白銀
第十使徒は『豊潤』の漆黒
世に理を、悦びを、誉れを
力を尽くし、魂を尽くす
始末と再生と構築を
人々の平和のために
――『スヴェルートニア王国の成り立ち』より
「これぐらいですかね。
歴史書や神話の類いに、あまり詳細が出てこないんですよ」
民話では人気の題材なんですけどね、とヴァッフェは首をかしげる。
「およそ勧善懲悪の英雄の役どころばかりで、天から来て天に還るパターンです」
「第一から第十の各師団は、各使徒様の色を戴いているんでしたよねぇ。詳細がわからない方々が由来だったんですか」
考えづらいですけどねぇ、とスクードがのんびりした口調で言う。
シージュは紫黒の目を瞬く。
「そうだな」
第一が『親愛』とか笑い話ですよォ、とクーゲルが口を挟む。
スヴェルートニア王国自体は、王家の《紅》を尊んでいる。意匠に《紅蓮》を掲げる第一師団は、軍の中でも、将来を有望視される者が多く配属されることを、ヴァッフェはエスカフィーネに簡単に説明する。
どういう意味の有望視ですかァ、とクーゲルがケラケラ笑う。ヴァッフェはクーゲルを完全に無視し、エスカフィーネに向き直る。
「エスカフィーネ様がお知りになりたいのは、現スヴェルートニア王国の『二神』、『十の使徒』、あとは」
「『人の王』ですわ」
「それなんですが」
ヴァッフェは一呼吸おく。
「記録にありません」
「まったく?」
シージュが問うと、ヴァッフェは肩をすくめる。
「私も自分の手の届く範囲でしか知識がありませんので、王立図書館で魔術検索してきましたよ。
千年前、スヴェルートニア王国が建国される以前の、『人の王』と言う単語では出てきませんし、先にシージュ師団長に見せて頂いた《淵源の書》に出てきた『霊力』も出てきませんでした。
逆に《精霊》は出てきすぎて絞れませんし」
『幽霊』と同じレベルで、見たことある人はいませんけれど、とヴァッフェは言うと、椅子に座り、手前にあったお茶を口にする。
それを見た各々が、思い出したかのように、お茶を手に取った。
「《淵源の書》の存在自体、私は知りませんでした。まだ触りしか読んでいませんが、なぜ『人の王』が他にまったく出てこないのか」
大抵の場合、神話上の登場人物は其処此処で見るものです、見た目や名前を変えていても、とヴァッフェはお茶に視線を落とす。
「それに《神の名が記されている》のもあの書だけ。違和感しかありません。
――太古より神の《名》にはそれ自体に力が宿り、昔の《魔術士》は神の《名》を借りて力を奮うこともあったそうではないですか。
きっと二神の《名》に今も《力》が宿っての禁書扱いでしょう?怖すぎます」
「あら、本当によくご存知」
心の底から驚いたように、エスカフィーネは碧の目を瞬いた。
「父の教会の書斎が遊び場だった時期に、こっそり禁書も読みまして」
酷い目にあいました、とヴァッフェは遠い目をした。
「いずれにしても、かなりの駆け足だったため……ご意図に沿えたかどうか、精査できずに申し訳ありません」
優秀でしょう?副師団長殿は、とシージュは微笑みながら、会話に割り込んだ。
「しかも強いんだよ。体躯に恵まれているし出来すぎだよね。部下からも慕われてるし、女性からもよく声を掛けられているようだよ」
「……嫉妬の裏返しが分かりにくすぎますよ」
褒めて褒めて殺すとか何、とヴァッフェは冷めた目をシージュに向ける。
「《淵源の書》が正しい史実であるなら、今伝わっている話は、誰が創作したんでしょう。
それに、閲覧者がかなり限定されていたとしても、誰の口にものぼらなかったことが、不思議ですねぇ」
スクードが考えながら言うと、シージュが頷いた。
「誰の創作かはわからないけれど……どうして《神の名》が広まらなかったのかは、魔術検索を弄ってる上に、禁書を収めた建物ごと、魔術を展開させてるのかもしれないね」
情報を持ち出せないように、入館者の魔力に働きかけるんだろうね、と言う言葉にヴァッフェがむせる。
「王立図書館に?魔術を?」
「もちろん、持ち出せない情報はごくごく限定している筈だよ。多くを学びに来た人間が手ぶらで帰れば、不審に思う者は出る」
「そんなことが可能なんですか?」
「この王国の方々は産まれたときに、《名》と《血》を登録するのでしょう?」
エスカフィーネが口を開く。
「神の《名》だけが特別なのではなく――実はそのふたつがあれば、大抵の人に《干渉》できますのよ。皆様が思っている以上に」
特定の技術が必要ですけれども、とお茶を置く。
「王家の方々は、大きなリスクも負っていますわ。十の使徒といい、何があったのでしょうね」
頬に手を当てて言うエスカフィーネの斜め向かいで、お茶を流し込まれたクーゲルの喉が、ゴキュリと大きな音を立てた。
過去はおいおい調べるとして、直近調べないといけないのは、とシージュは紫黒の目を瞬く。
「《淵源の書》の閲覧履歴や、魔術検索履歴は残っているだろうけど、王立図書館は国の機関だからね」
調べるには最終的に陛下の許可がいるよね、とシージュは腕を組む。
「北は?」
「流石に時間が足りません。
直接的な介入、に関しては、三年前に閉鎖されたノスヴェルン軍港の停泊記録も、勿論、出港記録も、調べるには手続きが必要です」
軍関係者とも限りませんし、とヴァッフェは肩をすくめる。
「偶然、到達したということは考えられない」
エスカフィーネは扇を広げる。
何故《介入》できたのか。
シージュは呟く。
「何かを契機に《呼ばれた》のかな」
「……すみません、俺にはサッパリ話がわかりませんけど、もし別の大陸に《介入》など、それほど大掛かりなことが起きたら、どこかしら何かしら漏れそうなものですがね」
ヴァッフェが唸る。
「……普段、嫌われている師団だと、こういう時に情報のツテが少なくて、不便ですねぇ」
スクードがしみじみ言うと、今なら元老院の誰かに聞いて、教えてもらえないかな、とシージュがカラリと笑う。
クーゲルがついに、勢いよく挙手する。
「我慢できずに質問します!何が起きようとしてるんでしょうかァ!」
さっぱりわかりません!
シージュはクーゲルに向かって、指を三本立てた。
「可能性が三つ。
ひとつめ。天災級の良くないことが起きる」
指を一本折る。
「ふたつめ。人類滅亡級の良くないことが起きる」
指をさらに一本折る。
「みっつめ。どちらの良くないことも起きる」
クーゲルは挙手したままの手をゆっくり下ろした。
「冗談でしょ?
それ、シージュ師団長が言うと洒落にならないヤツ……」
「大丈夫大丈夫」
シージュは紫黒の目を瞬いた。
「我々の幸せは来世に持ち越しさせないよ」
絶対にね。
シージュは微笑みながら、エスカフィーネを見る。エスカフィーネもしっかりと見つめ返し、にっこりと笑った。
「愛は世界を救う」
ぼやくクーゲルの肩を、スクードが軽く叩いた。
幸せそうだからいいじゃないか、とヴァッフェは些か投げやり気味に言った。