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ヤマダヒフミ自選評論集

太宰治『人間失格』論


 太宰治の「人間失格」は大変に有名な作品で、多くの人が読んだ。そこで、その多くの人は、それぞれにどのような感想を抱いただろうか。


 太宰治というのは、遠目から見ればわかりやすい作家かもしれないが、彼は二重に三重に自分の策を巡らしているので、実は厄介な作家である。批評家、傍観者たちが掴んだと思ったその視点は、すでに太宰に先取りされ、しかも、その視点が何であるか、既に徹底的に解剖を受けた後、という事は珍しくはない。太宰というのはそういう意味で、非常に厄介な作家である。


 最近、自分の書いた物をちょっと読み返し、太宰に似ているな、と思ってしまった。別に、僕が太宰ほどの作家だと主張したいわけではない。そうではなく、自意識のあり方、その裏返し方が、なんとなく太宰に似ているな、と感じたのだ。僕が太宰のような華麗な死を迎えられるかどうかは知らないが。


 人間失格のラストはこのようになっている。



 (バーのマダムが、ひどい人生を生きた葉蔵に対して感想を言う)



 「あのひとのお父さんが悪いのですよ」

 何気なさそうに、そう言った。

 「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」




 このラストを読んで、人はどう思っただろうか。僕は自分が最初に『人間失格』を読んだ時、自分がどう思ったのか覚えていない。その時の僕にはただ、作品の暗い性格がはっきりと感じられただけだった。ここでの、マダムの言葉は、太宰文学を解く上では極めて重要なものだ。太宰作品には、必ずといっていいほどに、こういう『オチ』がついていた。そして、この『オチ』は一筋縄ではいかない。それを今、自分なりに解析してみよう。


 多くの人が、太宰を、暗い、陰湿な所のある作家だと見ている。そして、またそういう視点に嵌り込むか、それとも拒否するのか、それが一つの分水嶺になっていると考えられている。例えば、三島由紀夫が筋トレして、太陽を満身に浴びて、太宰を一蹴するなら、それは結構な事である。石原慎太郎が、その偉そうな態度で太宰を蹴り飛ばすなら(それができるなら)、それもまた結構である。だが、太宰というのは、それだけでは終わらない何かである。


 我々が考えてみなければならないのは、今、目の前にいる『太宰』という作家は病人そのものではなく、(そう見えたとしても)病人を描いた存在だという事である。病人は病人を描く事はできない。彼には、自分の病理を認識できる常識的な視点がないからだ。そして、常識人にも病人を描く事はできない。彼らには、病人の心理が理解できないからだ。では、病人を描く事のできる人間とは何かーーー。それこそが、『作家』である。それこそが、太宰その人である。彼はもちろん、病的な一面を持っていたのかもしれないが、それより遥かに大切な事は、彼がそれを描いた人である、という事である。


 太宰は知っていたのだ。自分の病理、自分のへどもどした、気弱い本性が世間でどの程度の価値を持ち、『どうすれば』健康になれるのか。それは彼にはわかっていた。だが、彼は、自分が健康に生きることよりも、自分の病理を大切に思っていた。ここには一つの意識的決断がある。精神病患者というの決まって、無意識的なものである。そして、無意識的なものは、病人の意識の管理下から外れて、幻聴や幻視として見えてしまうのであろう。だが、太宰は意識する病人である。彼は自分が病気だという事を知って、しかも、そこに留まろうとする病人である。だとすると、もう病は癒えたのではないか。それが無意識に宿る病だとしたらならば、それが意識下で管理される限りにおいて、その病はもうすでに癒えたと言えるのではないか?。


 こういう病人の確信は、僕達に一つの問いをもたらす。「病にかかっているのは、君達の方ではないか?」「君達の健康と常識が病でないと何故言える?」。


 実際に面会に行った吉本隆明の話によると、太宰というのは『全てがひっくり返った人間』だという印象だったらしい。それはそうだろう、と僕などは思う。「家庭の幸福は諸悪の基」「子よりも親が大事」。こういう晩年のテーゼは、彼がもはや回復不能ほどに、世界に対して裏返ってしまった様を見せている。彼はもはや、自分の作った劇場で踊る一人の役者だった。太宰は、自分が病気だという事を知っていた。だが、彼は病気の故に死んだのではない。彼が死んだのは自分の病気との格闘の果てである。そして、その格闘自体が我々には作品として残っている。世の中には自伝という言葉があるが、この言葉の複雑さを僕は今、痛感している。自分を書く。だが、書かれた自分とは自分ではない。


 もっと簡単に言うなら、自分を書くというのは非常に簡単で、楽な事に見える。だが、世紀の大きな体験をした人が、世紀に残る自伝を書いた、という話をあまり聞かない。彼には文才がなかったのだろうか?。そうではない。彼は、彼自身を知らなかったのだ。目の見えない者に、青空の美しさはわからないだろう。そして、作家というのはこの目を磨かなくてはならない。この目が開きさえすれば、なんでもない小石や水たまりにも、この世界を越える美しさが透けて見える事だろう。


 僕が好きな太宰の小品に「鴎」という作品がある。太宰はこの作品の中で、戦争という大きな現実と、散歩に出かけた時に見かけた「水たまり」という小さなものを対比して見せる。水たまりには秋の空が写り、美しい。彼はそれを思う時、始めて自分の芸術に自信を持てるような気がする。世界は戦争で渦巻いている。日本は勝たなければならない。兵士達はこの国の為に命を捨てて戦っている。国民が、国自体が一致して、一つの「美しい」闘争を演じている。では、自分の小さなくだらない芸術などは何だろうか。自分が今まで、育ててあげてきた芸術というものに対する観念やその哲学、そういうものは、戦争という巨大な現実とくらべると、いかにみすぼらしいだろうか。だがーーーーーー。


 ここで、思いは途切れ、太宰は現実に帰ってくる。それは自分という卑小な現実である。彼は自分の身の回りを見渡す。そして、自分自身を見る。戦地では、命をかけて戦っているのに、自分はーーー。彼には、戦地から小説が送られてくる。それは「兵隊さん」の一人が書いたもので、出版社に紹介して欲しいとの事だ。彼はそれを読む。だが、「くやしいことには、よくないのだ」。と、彼は断言する。ここでは、彼は一国民としては戦争を肯定しているものの、芸術家としてはそれに反抗している、という様がよく見て取れる。


 世のイデオロギストや、ネットで様々なイデーを流布している者共にはこの葛藤は理解できないだろう。物には本物と偽物があり、どのような動機や道徳があろうとも、その分野における本質や真理というのは、それに付随するあらゆる余計な物よりは優先される。イデオロギスト達は常に、自分達に賛同してくれるものならなんでも歓迎し、自分達を否定する者はなんでも退けようとする。


 それは、普通の人間も同じ事で、たとえ、嘘だとしても、自分を褒めてくれる者には好意を抱くし、たとえ自分を真に思って批判してくれていても、その批判に腹は立つものだ。だが、物事には常に、その先がある。自分を褒める者にも嘘があり、自分を批判する人間の言葉の中にも真実がある。こういうものを選別し、少しずつ、これを理解し身に付けるのが、本当の意味での『道』なのだが、脳の沸騰した人々にはこの道は永遠に見えてこないだろう。


 当然、芸術にも一つの道はある。それは戦争という巨大な現実からすれば、あまりに卑小で小さな、巨人に踏みつけられる一輪の花のように弱い存在に過ぎない。しかし、巨人に踏みつけられようと、一輪の花の美しさは変わりはしない。


 太宰文学に見られる弱さ、卑小さ、そのおどおどした調子、人間恐怖、また、その形式とは常にこのようなものであって、単にそれが性格的なものであるなら、彼は精神病院に入って、それで終わった事だろう。また、話が少し変わるが、僕は一度、『神聖かまってちゃん』というバンドの『の子』という人物を非常に間近で見た事がある。(彼は僕の理解する限り、非常に太宰治的なアーティストだ) 僕は彼のファンだったので、彼を間近で見ただけでなく、ちょっと話しかけもしたのだが、その時、僕は『の子』という人間の、非常な『太宰治らしさ』を感じた。


 それは、言ってみれば、こういう事だ。の子、とか、太宰のようなタイプのアーティストは、精神的に弱々しい、どちらかというといじめられっこ気質の、人にでかい声で号令をかけたり、怒ったりする事のできない人間である。彼らは周囲に非常な迷惑を掛けるのだが、しかしそれは、迷惑を掛ける事をなんとも思っていなからではなく、むしろ、彼らの人間恐怖の形式そのものが、自分の中に抑えこまれていたものが反発となって世界に飛び出る、その結果としてである。彼らは、世界に対して常に恐怖しているのだが、その恐怖は世界に対して『見返してやりたい』のような反発心を伴っている。


 そこの反発心が非常な苦痛を彼らにもたらすのだが、同時に、この反発こそが、彼らの芸術として結晶化する。神聖かまってちゃんというバンドも、狂人だと一般に思われたり、言われたりしているのだが、ここでは僕は太宰に向けたのと同じ言葉を繰り返せば、事足りる。神聖かまってちゃん、あるいは『の子』は狂人ではなく、それを演じた存在である。狂気そのものには狂気を描き出せない。狂気を作品に結晶化できるのは、正気を持った狂人だけだ。そして、この正気を持った狂人こそが、「の子」という、太宰に酷似したアーティストの本質である。


 話を太宰に戻そう。「人間失格」のラストは、先に記した通りである。そこでは、マダムが主人公の葉蔵を「神様みたいないい子」だと述べる所で終わっている。これは、一体、どういう事だろうか。


 この「人間失格」という作品では、葉蔵の人生が「自伝的」に述べられている。それは後ろ暗い人生であり、悲しく辛い人生であり、ろくでもない人生である。人は、この書を読み、戦慄したり、感動したり、あるいは反発を覚え、怒りのあまりこの本をブックオフに売っぱらったかもしれない。それはいい。だが、大切なのはここからだ。太宰はこの一人の狂人に対して、語り手である所の作家と、バーのマダムという二重の視線を当てて見せている。それにより、この作品は成立している。繰り返していうが、狂人は自分の狂気を描き出せないものだ。描くにはどうしても他人の視線がいる。


 そして、この視線は極めて対照的である。作家の方はこれを、常識的な視点で、『狂人』だと考える。だがここにもう一つの、マダムの視点があり、そのマダムは次のように言うのである。


 「いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」


 これはどういう事だろうか。マダムは諧謔を言っているのだろうか。葉蔵は自身を廃人と考え、作家もまた、これを狂人と捉えている。……もっと言うならば、世の良識的な人物ならば、このような人物を狂人として捉えるに違いない。それはあたかも、世の良識的な人物が太宰治という名を聞いただけでも、サブイボができ、汚いものをあちらへと追い払うような仕草を見せるがごとくである。だが、常識的な人物でもあるはずのマダムはそれとは逆の事を言う。それは、何故だろうか。


 ここには太宰治自身の深い自己認識がある。この問題は非常に根深いので、多くの人が見過ごしているように思う。つまり、繰り返しになるが、太宰は自分が狂人だという事を知っていた狂人だったという事だ。だとしたら、その狂人は狂人ではなく、『作家』である。そういう自己認識を持てるのは作家だけである。


 太宰自身、自分はろくでもない人物だという認識を持ち、そう自認する事が彼の芸術の本性だった。だが、事はそれだけにとどまらず、彼は、世間の、良識的な人物、常識的で、それこそ『石原慎太郎的な』人達が、太宰のように繊細な感受性を持っていない粗暴な人物であるとを知っていた。しかし、彼は直接的に、この粗暴さを否定したり、批判したりはしない。それでは、彼の繊細な感受性、その鋭敏さは、粗暴な精神の持ち主と同レベルにまで堕してしまう。だから、ここで太宰は複雑な光学を使う。つまり、葉蔵という一人の狂人は狂人であるにも関わらず、『神様みたいないい子だった』、とマダムに言わせるのだ。では、どこがいい子なのか。彼があのような、暗黒に陥ったのは元は、彼が『神様みたいないい子だった』からではないか。


 自分の罪をしかと感じる罪人というのは、それによって自分を裁いているのである。僕は犯罪者の手記というのを読んだ事があるが、それらに真の悔恨、反省を感じた事はなかった。どこか、それは嘘くさく、薄っぺらい匂いがするものばかりだった。この葉蔵は自分の罪を自覚している。罪を、心の底から反省している。と、すれば、それは『神様みたいないい子だった』のではないか。


 この点において、太宰がキリストに大きな関心を示していたその理由もはっきりとしてくる。キリスト教における、罪、そして罪に対する救済の概念。我々の地上的な罪は、天井の悔恨、反省と釣り合っているだろうか?……然り。だが、それはその通りだとしても、そうと言い切ってしまう事はできない。なぜなら、そう結論した途端、その人間は反省し、苦悩する事をやめてしまうから。だから、我々は地上にいる限り、苦悩し続けなければならない。そして、苦悩するその姿こそが天井の『神様みたいな』本当の、自分の姿、そのもう一つの姿を『あちらの世界』に生み出す事になるのだ。


 葉蔵という一人の人物は、自分で自分を見れば、廃人であり、狂人である。だが、それが複雑な感受性、内面の豊富さを持っているために罪の意識に倒れた罪人である、という事を世間は知りはしない。世間にとって狂人は狂人であり、罪人は罪人でしかない。だから、世間の良識的な人物は、太宰という作家を毛嫌いする。世間の良識的な人物は、もし、太宰が優れた作家でないとすれば、彼を全面的に否定したに違いない。だが、彼は『作家』であった。だから、彼には見えていた。葉蔵という人物がたとえろくでもない人物であるにせよ、そこに一つの重大な根拠があるという事が。


 彼が罪を犯し、他人に迷惑をかけ続けたのは、彼が精神的に、内面的に豊富だからである。彼は、太宰その人と同じように、他人の痛みがありありと自分の痛みのように感じられる存在だった。だからこそ、彼は自分に閉じこもろうとした。そして、愛そうとして誤って傷つけ、またその傷を自分の痛みとして感じたのだ。だが、世界はその事を知りはしない。世界においては、罪人は罪人、狂人は狂人である。


 だから、この中身を見せる事ができるのは、文学というもの以外にはありえないであろう。だからこそ、太宰はこの狂人の内部を思いきり、切り開いてみせた。しかし、この暴露には最後の結びが必要である。そこで、太宰は最後にまた、常識人の目を借りる。この作品は狂人の自己暴露でありながら、わざと、第三者が公開したという体裁を取っている。それが何故なのかと言えば、これが文学作品だからである。


 これは、入院患者が書いた手記ではなく、そう見せかけた文学作品だからである。文学作品である以上、常識的な点からスタートを切り、狂人の奥深くへと突き進んだ挙句、最後にまた元の常識的な点に戻らなければならない。それによって、始めて、作品が世界に対して対等に向き合えるものとして成立する事ができる。太宰はその事を知っていたので、だから、最後には元に戻ってきたのだ。


 マダムは言う。「神様みたいないい子でした」。では、何故、葉蔵は「いい子」だったのか?。今なら、その答えが言えるだろう。葉蔵は自分から見れば、狂人であり、また罪人であった。それは、間違いない。他人から見ても(作家の目から見ても)そうだろう。しかし彼はそう感じる事ができる存在である故に、「神様みたいないい子」であるのだ。


 世間には、自分が振り回した腕が他人にどんな傷を与えているのか、理解しもせぬし、理解する気もない人間がごまんといる。こういう無頓着な人間は、太宰のような後ろ暗い、じめじめした人物を嫌い、拒絶するだろう。が、内面の豊富性というのは、それがたとえ、我々を病院送りにする原因だとしても、そうだとしてもそれは一つの宝である。それは我々にとって重要な、感受性というものである。


 では、天才と狂人を分けるその分け目とは何だろうか。もしかすると、狂人というのは、他人よりも感受性が優れているがゆえに狂人になったかもしれないのだ。そして、世の常識人は痛みを理解する事も、喜びを知る事も浅いからこそ、常識人であるかもしれないのだ。


 太宰はもちろん、前者の存在だった。だが、彼が単なる病人でなかった所以は、彼が人生と苦闘する事を止めなかったからである。先に言うと、僕の大嫌いな文学研究は、作家を精神病理に片付けるたぐいの研究である。もちろん、それには真実の半面はあるのだろうが、半面だけの真実などは嘘よりもよっぽどたちが悪い。太宰が精神病であり、それ故にああいう作品を生み出した。…よろしい。では、どうして精神病患者は太宰に成り得ないのか?。


 僕は、先に言った神聖かまってちゃんの「の子」という人物を間近に見た時にも、そういう事を感じた。つまり、「の子」という人物は本来、二十歳以上には生きれないような精神の持ち主であり、早々に自殺するか発狂するか、そのどちらかになるのが必定、そう思える人物だった。だが、病理との闘いが、彼を一人のアーティストにした。そういうものが、作品を生み出す原動力となったのだ。だとすると、この時、その病はこのアーティストにとっては味方なのか、敵なのか?。


 …どちらを言っても正解であろう。僕が最後に言いたい事は、人間というのが自分自身と格闘する時、その時始めて、神々しい天才性が現れるという事である。この天才性は、精神病理学という遠心分離器にかけた所で決して、分離できない、分析できないなにものかなのだ。太宰自身、そういう生(様々な非難はあるだろうが)を生きた。その事は、『人間失格』という作品にもこうして、はっきりと現れているのである。


 天才というのは、自分自身と格闘する事を義務付けられている。太宰にとって、それは、劣等感、人間恐怖、世界嫌悪、そのようなものと対峙するものとして現れていた。戦争は巨大な現実である。それは、大きな題目を掲げた、大義ある現実である。だとすれば、どうして彼は服従しなかったのか。回りの他人は皆、何の恥じらいもなく、『愛国』を大声で叫んでいるのに、どうして自分は言えないのか。


 ここでの問題はもちろん、反戦とか非戦とか、そういう事ではない。そうではなく、個人としての恥じらい、羞恥心、感受性、そういうものを大切に思うという作家の良心が、この世界のありように必然的に反発している、その様なのだ。どうしてだろうか。太宰はその問いを胸に秘めたまま死んだように思われる。彼自身、自分の恥じらいや感受性を最後まで捨てきる事はできなかった。作中の人物が廃人になったとしても、その廃人を「神様みたいないい子」と言う人物は必要である。そう。この人物は絶対に必要である! この人物がいなければ、この廃人が何であるか、その正体が明かされないではないか? 太宰はそういう一つの作品ーーー『人間失格』という一つの問いを僕達に与えて、水の中に消えていった。その問いに対して、僕は精一杯の解答を与えたつもりだ。後はどう考えるかは読者の勝手という事になる。


 これで僕の太宰論を終える事にする。太宰治はこれまで、僕にとって一つの中心的課題だったが、これを書いた事ですっきりする部分もある気がする。とにかく、僕はここで文を終える。


 太宰治が何であるかはもちろん、読者の数だけ存在する。僕の書いた事などは、その中の小さな一つの理解に過ぎない。世に絶対的な理解などというものはない。あるのは、真実に対する適切な光線の当て方、それによる真実の開示、その描写法、それだけである。それでは、僕はここでこの文を終える事にする。また、太宰について書く事がその内にあるかもしれない。その時まで、では。



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[一言] 人間失格の『神様みたいないい子だった』の文を読んだとき、なぜか、物凄く心に、しっくりと来ました。世界のどんな人物よりも、その言葉が当てはまるのは、葉蔵しかいない、そう思いました。それは、なぜ…
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