魔法に触れて
魔法の訓練を始めた、その日の夜。
この世界に電灯は存在しないが、灯りとなる魔道具は高級ながらも割と普及しているらしい。ネルの屋敷では殆どの部屋と廊下に灯りの魔道具が取り付けられているので、夜遅くまで起きていることができる。
借りている部屋の中、夜更かしをしても特にすることはないのだが、すぐに寝ようという気分にはならず、ベッドに腰掛けて今日のことを思い出していた。
結局魔力を上手く放出できずに初日の訓練は終了となってしまった。
ユナが夕食の準備ができたと伝えに来てくれたので、そこでネルからストップをかけられたのだ。もう少し訓練を続けていたいとも思ったが、無理に長く続けてもしょうがないとネルに止められた。魔法の訓練を午後のみと限定したのは、体力と集中力の限界を考えてのことでもあるらしい。体は動かさないが、魔力を操作しようとするのはかなり疲れるのだ。
ユナは俺とネルが訓練をしている間ずっと一人で家事をしていたらしい。けれども時々、飲み物を部屋に持ってきてくれたりと、差し入れついでに訓練を何度か覗きに来ることがあった。ネルと少し会話をするでこちらに話かけてくることはなかったが、部屋に来るたびにじっとこちらを見つめていたので、訓練の様子が気になっていたのかもしれない。
その後は昨日と同様に3人で夕食を食べる。今日のメニューはシチューとサラダにパンが並べられた。シチューの中には巨大な肉がゴロゴロと入っていて、しっかりと味のしみ込んだそれはとても美味しかった。昨日と同じく魔物の肉なのかもしれないが、既に美味しければ構わないという気分になっているので、疲れた体に腹いっぱい詰め込んだ。
そして風呂に入って自分の部屋に戻り、後はもう寝るだけというところで、眠れない今の状態になる。昨日の夜は、いきなり色々なことが起きた疲れもあってすぐに眠れた。今日も訓練を始めてかなり疲れているはずなのに、逆に脳が冴えわたってしまっている。
原因は、既に予想がついている。今日初めて魔力を感じたこと、そして自分に魔法の才能があると分かった興奮が、未だに冷めないのだ。
「才能がある」、なんて言葉をかけられたのは何年振りだろう? 野球を初めてすぐの、小学生の頃は大人達に頻繁に言われたものだし、同級生からも憧れの視線を向けられていた。中学生の頃も、いつも周囲から期待される人間だったと思う。野球で活躍出来ていた頃は、当然のように人から言われ、自分でも疑ったりはしなかった。
それが高校になって自分の実力の無さを思い知り、周りのレベルについて行けず、終いには野球を続けられなくなった。そこでやっと気がついたのだ。自分には野球の「才能がない」ってことに。
それが、突然訳も分からないまま異世界に飛ばされて、流されるままに魔法を習うことになって。ネルから言われた「魔法の才能がある」という言葉。
嬉しかった。別に今まで魔法に憧れがあったわけじゃない。けれど、自分に「才能がある」ということ自体が、失っていた安心感を与えてくれた。
もっと魔法について学びたいと思う。地球に戻ったら意味がない、たった一ヶ月だけで帰ってしまうこの世界限定のことだけれど、せっかく見つけた自分の能力をもっと伸ばしたい。そうすれば、もっと自分に自信を持てる気がする。
もっと魔法を学ぶためにはどうしたら良いか、暫く考えていてふと思いついた。召喚時にこの世界の言語を理解する能力を与えられたのだから、魔法についての本を読むことで魔法の理解を速く進めることができるのでは?
最初に屋敷に来た時ネルに屋敷の中を案内されたが、確か書架の並んだ部屋があったはず。ネルに頼んで、あの中から魔法の勉強に役立つ本を貸してもらえないだろうか?
名案だと思ったので、早速実行することにする。ベッドから立ち上がり部屋を出て、ネルを探す。まだ寝ていないと良いのだけれど……。
◇◇◇
とりあえずネルの部屋に向かおうと廊下を歩いていると、遭遇したのはユナだった。手に何かの書類を持っており、それを運んでいる最中のようだ。
「ササカワ様、このような夜遅くにいかがなされましたか? 何か、御用でしょうか?」
ユナは立ち止まってお辞儀をすると、透き通るような黒い瞳でじっと見つめてきた。
「あぁ、ちょっとネルに用事があって……。ネルは今、部屋にいるかな?」
「残念ながら、ネル様は今屋敷におりません。山中の実験所に行っておられます。明日の朝までには屋敷に戻られるとお聞きしています」
山中の実験所か。俺が召喚されたあそこのことだろうか?しかし居ないというなら、残念だが今日は諦めて明日にするか……
こちらが困った顔をしているのを察したのか、ユナが続けて訊ねてくる。
「ネル様は居られませんが、何かお困りのことがあるならばお聞きしますよ。私の方で対応できることであればよろしいのですが……」
確かに、本を借りるだけだったらユナに聞いても構わないのかもしれない。魔法について詳しいネルの方が良いかもしれないが、とりあえず聞いてみよう。
「ありがとう。いや、大したことじゃないんだ。今日魔法の勉強を始めただろ? それでせっかく召喚のおかげでこっちの文字が読めるようになっているなら、何か本でも借りて魔法の勉強をしようかなって」
そう伝えると、ユナは少し驚いたような表情をして、返事をせずにこちらをじっと見つめてくる。あれ? 何かまずいことを言ったのだろうか……
「ユナ?」
「……失礼しました、本の貸出でしたね。書斎にある本でしたら恐らく問題ないと思われますが、ネル様に許可を取らず貸出することはできません」
その答えに今日は諦めようと考えていたが、ユナは一旦言葉を区切って話を続ける。
「……しかし、数は少ないですが、私の所持品である初等の魔法教育のための本であれば、すぐお貸しすることができます。勿論、ネル様に頼まれた方が本の選択肢は多いのですが……」
「ユナの本を、貸してくれるのか?」
はい、と頷くユナ。わざわざ自分の本を貸してくれるとは。とてもありがたいけれど、数は少ないと言うくらいなのだから本は貴重なものだろうに、会って二日目の俺に貸してくれるのは、何でだろう?メイドの仕事とは関係ないだろうし。
想像していなかった提案をされて少し考えこんでしまったが、折角貸してくれるというのを断るのも悪いので、ありがたく貸してもらう。
「それなら、本当にユナが良いのなら、貸してくれると嬉しい。ありがとう」
「はい。それでは、失礼ですが少々客室でお待ち下さい。私の部屋から本を持って参りますので」
そう言われたので部屋に戻って暫く待っていると、ユナが一冊の本を持ってやってきた。
「この本は、魔法の成り立ちや魔力の性質、属性についての基礎がまとめてあります。学校では最初に使う教科書なので、魔力操作の訓練をしているササカワ様に丁度良いと思います」
学校の教科書か。確かにそれなら初心者の俺でも読めるだろう。ネルの講義の予習復習に役立てられそうだ。
本を受け取って良く見ると、かなり使い古されていて何度も読み返した跡が見える。ユナにとって大事な本なのかもしれない。そんな本を、やっぱり俺なんかに貸しても良いのだろうか?
理由をネルに尋ねてみる。
「ありがとう、大切に読ませてもらうよ。でも、いいのか? どうして会ったばかりのやつに、こんな大事そうな本を貸してくれるんだ?」
ユナは、少し俯いて数秒考えた後に答えた。
「気にしないでください。構わないのです」
それだけ言うと、失礼しますとお辞儀してネルは部屋から出ようとする。答になっていない返事に呼び止めようとするが、こちらに背を向けて既にドアを開けて出てしまう。
しかし、ドアを閉める直前。こちらを向いたユナは、初めて見せる、はにかんだような笑顔で言った。
「異世界人である貴方が魔法を好きになってくれるのが嬉しくて、もっと魔法を好きになって欲しいから……それだけです。私も、ネル様と気持ちは一緒なのです。それでは、お休みなさいませ」
その答に返事をする前に、ユナはドアを閉めて部屋から去っていく。
……ユナに、明日ちゃんとお礼を言わなきゃな。