魔物という存在
召喚された小屋の中から出ると、森の中だった。ネルに聞いてみたところ、この小屋は街の近くにある森の中に隠すように建てたらしい。今は二人で一緒に歩いていて、森を出てすぐにあるというネルの館へと向かっているところだ。
「君、そんなにキョロキョロフラフラしながら歩くものじゃあないよ。この森にだって魔物が出るんだから、戦えない君がもしはぐれたりでもしたら危険じゃあないか」
森に入る事なんて小さい頃の虫取り以来だったので、沢山の鳥の鳴き声が聞こえてくる異世界の森をもの珍しげに歩いていると、前を歩くネルが振り返って注意してきた。
「そうなのか? 魔物っていうのがなんとなくでしか分からないけれど、やっぱり危険なものなのか?」
「そりゃあそうさ。普通の村人だったらこんな森の奥には入ってこようとはしないだろうね。魔物っていうのは魔力を持って生まれる事で、他の生物よりも高い能力を持った生き物達の事さ。そして大抵の場合、魔物ってのは凶暴で人も襲う。戦う訓練なんてしていなさそうな君じゃぁ、すぐに食べられてしまうだろうね!」
最初に会った時から変わらない元気な声で、恐ろしい事を言って来る。この人やっぱりテンション高いな。確かに、そんな恐ろしい生物が本当にいたとしたら戦える気がしないし、ネルから離れないように注意しとこう。
「どうしたんだい? いきなりオドオドするようになってしまって。そんな心配したって仕方がないものだよ、もう集まってきてるからね」
「えぇっ?!」
びっくりするような事をさらっと言うものだから、つい大声を出してしまった。その声がきっかけになったのか、周囲から低い獣の唸り声とともに駆けてくる足音が聞こえた。
木々の間から顔を出したのは、3頭の狼だった。しかし、写真で見た地球の狼とは明らかに違う。巨大な牙が口から大きくはみ出しているのだ。凶暴な視線をこちらに向けて、囲むようにしながら少しずつ距離を詰めてくる。これが……魔物。無意識の内に、足が震えてしまう。
「うーん、キバオオカミが3匹か。君は中々運がいいねぇ。こっちに来てすぐに魔物との遭遇を経験できるなんて。そう、街の外にはこういうのがウロウロしているものだから、普通は武器もなしに森を歩いたりはしないんだよ。」
こっちは初めて命を狙われる恐怖にふるえているというのに、相変わらずニヤニヤした顔でのんびりと話かけてくる。
「何のんきな事言ってるんだよ! こいつらこっちを襲いに来てるんじゃないのか? 解説はいいから魔法とかで何とかしてくれよ! アンタ強いんだろ!」
「まぁ、そうだね。こんな低級の魔物だったら、目を瞑ってても倒せるよ。良く分かってるじゃぁないか! まぁ良く見ててごらんよ」
そう言うとネルはしゃがみ込んで目を瞑り、地面に手を当てて何かブツブツと唱え出す。その瞬間、地面が薄く発光し、三角形や円を組み合わせたような図形が描かれる。これはもしかして、魔法陣ってやつか? キバオオカミ達は、光を警戒してかまだ近づいてこない。
「召喚……黒毛狼!」
一際陣が強く光ったかと思うと,真っ黒な姿をした狼が、唸り声をあげながら現れた。真っ赤な目が爛々と輝き、周囲をジロリと睨みつけている。
「グルルルルゥゥゥ!!」
黒い狼の唸り声が響く。襲ってきた狼達は自分達の二倍の大きさはある黒い狼の出現に、怯み、警戒をして距離を取り始めた。黒毛狼はその怯えを見逃さなかった。一番近くにいたキバオオカミに一っ跳びで掴みかかると、鋭い爪で腹を裂く。まさに、瞬きする間の出来事だった。
仲間の内の一匹がやられたキバオオカミ達は形勢不利と見たのか、こちらに背を向けて逃げていく。それを見た黒毛狼は、実力の差を知らしめるかのように大きく吠えた後、ネルの足元に戻ってきた。
「良くやったね、お疲れ様だよ」
ネルがそう声をかけると黒毛狼の足元に魔方陣が光り、魔法陣の光が消えた時には姿を消していた。
「どうだい? これが、召還魔法使いの戦い方ってやつだね。君にも召還魔法を教えるつもりでいるから、良く参考にしとくといいよ。もっとも、私は召還魔法しか教えられないんだけれどね。さぁ行こう!」
ネルがそうやって声をかけてくるが、さっきの戦闘の光景に驚いてしまって、返事ができない。
異世界に来て初めて見た戦闘。狼の、今にもこちらに噛みつきそうな鋭い牙が恐ろしかった。自分だけじゃぁ絶対に逃げる事さえ出来なかっただろう。あぁ、ここはもう日本じゃぁないんだと、初めて実感した気がする。
「立ち止まっちゃって、どうしたんだい? 心配しなくても、私についてきている限り安全だよ。早く私の屋敷に戻って夕飯でも食べようじゃないか」
「……そうだな、頼りにするよ。折角異世界に来たのだから、俺も早く魔法を覚えて狼ぐらい退治できるようになってやる」
ネルの声かけに軽口で返す。
命の危険がすぐ傍にある世界への恐怖に、震えそうになった。けれども、苦い思いを抱えながら暮らしていた日々から離れたことへの喜びも、今の自分は感じている。
魔法を覚える事ができたら、きっともっとそう思えるはずだ。