プロローグ
校舎を出ると,夕日の眩しさに目を細めた.
グラウンドでは沢山の野球部員達が,放課後の練習にいそしんでいる.夏真っ盛りで蒸し暑いというのに,何をそんなに大声を出す意味があるのかと思う.つい先日までは自分もあの中の一人だったのだと考えると不思議だ.あの頃、一体自分は何を考えて汗を流していたのだろう?
小学校の頃から野球を続けていた。なぜ始めたのかはもう忘れてしまったが、続けていた理由は練習すればするほど上手くなる自分が嬉しかったからだ。参加していた地元の少年団の中では才能があった方だと思う。5年生の時にピッチャーに抜擢されてから、チームの勝利に貢献してきたと思う。中学でも野球を続けて、それまで以上に練習を重ねたおかげでエースとして活躍できた。
そんな風に成長してきたから、高校に入ってからも野球をやろうと思うのは自然だった。県内でも野球部の強い学校に入学して、2年後には甲子園を目指す。あの頃はやればできるっていう自信でいっぱいだったのだと思う。
そんな自信は高校に入ってすぐ消えた。中学時代にチームで一番だったようなやつらが集まる野球部で、僕は埋もれてしまった。中学の頃より圧倒的に厳しい練習。同じ高校生なのに自分よりも体格がずっといい奴らがいる中で、精神的には可能でも体力的にはついていくのが難しかった。死ぬ気で練習して、1年生の中でピッチャー候補になる事はできたが、5人もいる中で僕はオマケのような存在だったと思う。
それでも、野球を諦めるつもりはなかった。1年目はついていくだけでやっとだった練習も、2年目になれば少しは慣れてきた。ピッチャーとして他の選手より劣っている事は分かっていたから、少しでも球速が上がるように練習時間外にも投げ込みを繰り返した。2年生の夏の大会では、なんとしてもベンチ入りメンバーに入りたかった。中学までに積み重ねた、自分は才能があるという自信とプライドを、何としても守りたかっったのだと思う。
練習に練習を重ねて、迎えた夏の大会。僕の名前はベンチ入りメンバーにはなかった。
結局、無茶な投げ込みを続けた事で、大会前に肩を痛めてしまったのだ。僕は他の野球部の仲間と比べて身長が小さく筋肉もまだあまりついていなかったので、体に大きな負担がかかっていたのかもしれない。医者には、リハビリに半年はかかると言われた。チームの中でピッチャーとしてただでさえ劣っているというのに、半年も待たなければならないというのは致命的だった。監督に選手を辞めてマネージャーにならないかと誘われたとき、自分はもう、この部活で勝利を目指すための選手にはなれないんだと気づいて、最後まで縋り付いていたプライドとか、そういう努力を続けるために心の中で守っていたものは完全に砕けたように感じた。
結局、夏の大会が始まる前に野球部を辞めた。他にも選択肢はあったのかもしれない。けれども、自分の無力さを知った時、野球への興味はどんどん薄れていった。
グラウンドの脇を抜けて,校門から学校を出る.選手達の練習の声が遠ざかっていく中、心の中にあったのはただただ惨めさだった。夏休みだというのに、こんな学校に来て憂鬱な気分になるとは。野球ばっかりの学校生活だったせいで成績が悪く、補修を受けることになってしまったので自業自得なのだが。
仕方無いので家へ真っ直ぐ帰る.家へ帰ってもゲームをするか寝るくらいしかないが,あの声を聞きながら,学校に残って時間をつぶすよりはましだろう.茜色に染まる空を見上げながら,ゆっくりと家へと向かう.まだ入学したばかりだというのに,随分寂しい生活だなと思う.つまらない.こんなはずじゃなかったのにな.
「どこかに逃げてしまいたい.」
そんな冗談を呟いてみる.恥ずかしい独り言だ.けれども、高校生の間は学校に行くたびにグラウンドの声を聞かなければならないのだ。あと一年ほどではあるが、それはきっと苦しい事だろう。暗い気持ちが,全身を重くしているように感じる.そんな風に考えながら,歩いている時だった.
「ーーーーーーーーーーーーーー」
ふと足を止める.何か声が聞こえた気がした.周りを見回すと,誰もいない.
「ーーーーーーーーーーーーーー」
誰もいないのに,誘うような声が,誰かが何かささやきかけてきている.
いったいどこから? そう思って耳を澄ましてみると,ビルとビルの合間,狭い路地裏ろから,また”声”が聞こえてきた.
声に誘われるようにして,路地裏へと向かう.狭いといっても,人がなんとかすれ違えるくらいの広さはありそうだ.奥の方までいってから,声の出どころを探す.声はだんだん大きくなってきて,少しずつはっきりとした言葉に近づいてきている.
不意に声が大きく,はっきりと聞こえた.
「ーーーーーーーーーーーーーー来い!!!!」
気付いた時には,手遅れだった.地面に黒い穴があいた.穴に気付いた時にはもう落ち始めていて,逃げる事は出来なかった.暗い闇の中を,どこまでも落ちていく.
暗闇の中,自分を呼ぶ誰かの声だけははっきりと聞こえ続けた.