ちょっと雨降る文化祭
『ちょっと熱い夏休み』の続編的な独立短編です。
書道部の小林京子、女子バスケ部の房生舞衣、大場羽須美達が、市立第七中学校の文化祭に、それぞれの葛藤や挑戦を胸に秘めて立ち向かう物語。
蝉の声も少しずつ遠のき、残暑の中にも乾いた風が混ざり始めていた。
市立第七中学校の正面玄関には、朝練の運動部員がまばらに出入りしている。
女子バスケ部のキャプテンである三年生の房生舞衣は、下駄箱で同級生の小林京子を見かけた。
「あ、小林さん。おはよう!ずいぶん早いね。」
朝練の無い書道部の小林京子をこの時間に見かけることは珍しい。
「おはよう、房生さん。」
「なに、なんで早いの?」
上履きに履き替えながら挨拶代わり程度に話しかけた舞衣は、京子が下駄箱を使わず、布製のクツ入れから上履きを出し靴をそれに戻し入れているのを見て不思議に思った。
「ん?どうして靴しまってるの?下駄箱使わないの?」
「あ、んと、無くなっちゃうから、いつもこうしてて…」
「え?小林さんの下駄箱、ここでしょ。」
そう言うと舞衣は京子の下駄箱を開け、中の異様さに驚いた。
内側はピンク色のラッカースプレーか何かで吹き塗られた跡があり、菓子パンの袋や紙パックジュースなどのゴミが入れられている。
上履きの跡の形にピンク色が抜けており、明らかに上履きを入れたままスプレーを吹いたようだ。
「小林さん、もしかして…」
イジメにあっているの?と言おうとしたが、それに被せるように京子は言った。
「大丈夫。心配しないで。」
京子は、「あぁ、また…」と言いながら中のゴミを取り出すと、カバンからコンビニ袋を取り出しそれにゴミを入れ、チラチラと上目遣いをしながら、
「今日はね、文化祭の打合せで、書道部も朝練。」
と言い、にこりと笑った。
不自然な笑顔でも無理な笑みでもない、いつもの表情を見せる京子に、舞衣は少し戸惑った。
伏せ目がちに話すのは人との対話自体が苦手な彼女の癖であった。
しかし、彼女が嫌がらせをされているのは明らかだ。
誰にやられてるの?と聞きたい気持ちを抑え、舞衣は、
「そう。頑張ってね。」
と返すと、女子バスケ部の部室へ向かった。
女子バスケ部は、夏の市内大会で京子に助けてもらったことがあった。
書道コンクールで金賞を受賞した京子の書 ー『飛』という一文字が大きく書かれた大書ー を大会中に掲げてもらい、その文字の力強さはチームの大きな活力となり、市内優勝を手にした。
特に決勝の対六中戦での激闘は、あの書なしでは心が折れていただろう。
最後の一秒まで諦めない闘争心が湧いてくる、そんな京子の力強い書であった。
舞衣は、京子がなよなよとした見掛けとは裏腹に、芯の強い人であることを知っている。
しかし、あんな嫌がらせをされていて平気なものだろうか?
助けてあげたいが、彼女の自尊心を傷付けるような同情はしたくない。
相談されたら力になろう、そんなことを考えながら、部室へと急いだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
朝練メニューを終えた女子バスケ部は、顧問教師の前に集合した。
「今年も文化祭があります。みんなも知っての通り、文化祭は授業と同じ、教育の一環として行う行事です。」
二年生部員からため息が漏れ出す。
「はい、静かに。そう、例年通り、運動部の二年生は文化部の発表に参加することになります。一年生、三年生は各クラスの発表で頑張って下さい。」
二年生のため息が強くなる。
「あんた達、スポーツマンでしょ。シャンとなさい。で、応援要請の出ている部が…」
顧問は手元の紙を広げながら、二年生の方をチラッと見てから続けた。
「演劇部、創作ダンス部、ブラスバンド部、バトン部、合唱部、以上5つの部です。」
うぁ、きたきた、やっぱり、創作ダンスって文化部?、楽器とかできないし…ため息が言葉を伴ってざわつく中、二年生の大場羽須美が質問をした。
「先生、書道部はお手伝いとかないんですか?」
舞衣を始め、三年生レギュラーは、お!と思った。
三年生の向川典子が口を挟む。
「だよね、お世話になったもんね、はすみん。」
『はすみん』とは大場羽須美のあだ名だが、もっぱらバスケ部内での呼び名であった。
174cmの長身から、同級生の男子からは『オオババ』と呼ばれており、女子からは『ばさま』と呼ばれている。『大場様』が短くなり『ばさま』となった。
同級生の呼び名はどちらも親しみが感じられず、羽須美にとっては嫌なあだ名であった。
「うん、手伝えたらなぁって。」
典子の言葉に、羽須美は恥ずかしそうにしながら答えた。
羽須美はもともと人見知りが強くおとなしい性格で、背の高さにコンプレックスを持っていた。
長身を活かせるバスケットボールと、良い距離感で気さくに接してくれるこの部は、学校の中で唯一居心地の良い場所である。
「書道?要請は無いわね。聞いておいてあげる。二年生は今週中に参加する文化部を決めておくこと。決まらない場合はこちらで自動的に決めますのでそのつもりで。では解散。」
部室へ戻る途中、舞衣は羽須美に声を掛けた。
「ねね、はすみん、書道部ね、去年は作品展示だけだったと思う。でもね、さっき小林さんに会ってね、朝から文化祭の打合せやるって言ってた。何か新しいことやれるといいね。」
「そうなんですか。」
「だからさ、今日、あとで、どんなことやるか小林さんに聞こうよ。」
「え、いいんですか?」
「うん、昼休み、はすみんのクラスに行くね。」
「うわ、なんか緊張します。」
「なんでよ。私ってそんなに怖い?」
イタズラっぽく笑う舞衣に、顔を赤くして羽須美は言った。
「いえ、小林先輩のほうです。あんなすごい字を書く小林先輩、どんな人かなって。憧れの人です。」
「ふふ〜ん、小林さんはすごいお人よ。たくさん緊張して待ってなさい。」
からかい半分に言いながら、舞衣は、この羽須美の言葉を小林さんに聞かせたい、と思った。
舞衣は、入部したての一年生の羽須美を思い出していた。
背中を丸め、いつも下を向いており、上級生よりも目線の高いことを申し訳なさそうにしている子で、『声を出す』という運動部では基本中の基本に人一倍苦労していた。
クラスにも馴染めず、親しい友人はバスケ部の中でしか出来ないようであった。
いつのことだったか、クラスの男子にいじめられたと泣きながら部活に来たこともあった。
羽須美は目鼻立ちは小ぶりだが、整った可愛らしい顔をしている。背が高く、手足が長く、顔は小さく丸顔。「もっと可愛く生まれたかった」と言っているのを何度か聞いたことがあるが、おそらく身長のことを言っているのだろう。一年生の羽須美に足りないのは自分に自信を持つことではないか、と舞衣は思っていた。
それが、今や七中バスケ部の主砲、ポイントゲッターである。
スリーポイントシュートの成功率は舞衣とほぼ同等で、これは羽須美が一年生の時から積み上げてきた並々ならぬ努力の賜物であろう。
さっきの「書道部に手伝いはないか」と自主的に聞いている羽須美の姿が、舞衣には何よりも嬉しかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
一時間目が終わり、5分休みに舞衣は京子に声を掛けた。
「書道部の文化祭発表、何か決まったの?」
「うん、多分、去年と同じ。」
「体育館に展示するだけ?」
「うん、多分。」
「多分、て?」
「意見が分かれてて、まだ決まってない。」
京子は自分の机を見つめたまま、舞衣と視線を合わせようともせず、ぼそぼそと答えた。
教室ではいつもこんな感じだ。それはまるで、なるべく目立たないよう気配を押し殺しているかのようだ。
「どんな案が出てるの?」
「房生さんには関係ない。」
うわ、自閉モードだ。書道以外はまるでダメ子ちゃん…
「ほら、毎年二年が運動部から文化部に応援参加するでしょ。うちの大場さんがね、小林さん達を手伝いたいらしいの。」
「大場さんて、はすみんさん?」
京子がスッと顔を上げ、舞衣を見つめた。その瞳は心なしか艶めいている。
「あれ、はすみんのこと、知ってるんだっけ?」
「夏休みの試合で、房生さん達みんな『はすみん』て呼んでたの、聞こえてたから。」
「うん。」
「最後の試合の前、私のとこに走ってきて、『大場です!最後まで飛びます!ありがとうございます!』って。」
「はあ、そんなことがあったの。気付かなかった。」
「背高くて、かっこいい子だなって、びっくりしたから覚えてる。」
「ふ、ふはは。」
舞衣は思わず変な笑い方をしてしまった。
その羽須美はついさっき、京子のことを『憧れの人』と言ったのだ。
自分に自信が無く、他人がすごい人に見える、という点で、京子と羽須美は似た者同士かも知れない。
「そう、そのはすみん。二年でスタメンの天才プレイヤーよ。天才少女が自ら書道部を手伝いたいって言ってるの。」
「ひあぁ。」
今度は京子が変な声を出した。
構わず舞衣は話を続けた。
「決まってないってことは、新しい案が出てるんでしょ?」
京子は顔を上げたまましばらく考えていたが、意を決したように話し始めた。羽須美の言動が何かのトリガーになったようだ。
「んとね、部長達は書道パフォーマンスをやりたいみたいで、でも私はみんなが見ている中で、一回で上手く書くのできないし、いつも通り前もって書いたのを展示するほうがいいし…」
「書道パフォーマンス?」
「んと、書く言葉を決めて、大きい紙を広げて、全校生徒の前で書いて見せるの。」
「ふうん。」
舞衣は腕組みをし、虚空を眺めた。
小林さんがやりたくない理由、はすみんのやる気、そもそも書道パフォーマンスとは何か、部長が急にやりたいと言い出した理由、これらのピースをハメていくには…
「ね、小林さん、書道部の部長って誰だっけ?」
「長瀬くん。一組の。」
「あ、あいつかぁ。ちなみに、書道部の発表内容を決めるのって、顧問はけっこう口出してくる?」
「先生はあんまり。好きにしなさいって。」
「わかった。今日の昼休みは二年の教室行くよ。はすみんのとこ。よろしくね。」
「え、あ、え…」
頭の整理がつかずオロオロしている京子をよそに、二時間目始業のチャイムが鳴った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
給食の後、40分間の昼休みがある。
舞衣は京子を連れ、三年一組の長瀬を呼びに教室を出ようとした。
その時、舞衣の後ろについていた京子が、教室の出入り口で突然前のめりに転んだ。
舞衣は見逃さなかった。引き戸の横に立っていた福元実嶺が京子の足を引っ掛けた瞬間を。
「小林さん、平気?」
舞衣は京子を抱き起こしながら、怒りの眼差しを実嶺に一瞬向けた。
実嶺はその視線に気付き、言葉を発した。
「あら、何かが私の足を蹴った。幽霊かしら。」
「ごめんなさい…」
京子は起き上がりながら消え入るような声で謝った。
「キモっ…」
実嶺はそう言い捨てると教室の中へ戻って行った。数人の取り巻きがクスクス笑いながら実嶺に付いていく。
舞衣は、京子が立ち向かうようであれば加勢するつもりだった。
なぜ京子が謝るのか問い正したかったが、今は堪えた。
後で解決させる。京子の気持ちを壊すことなく、必ず解決させる。そう心に留めた。
一組の教室で書道部部長の長瀬を呼び、三人は中央階段を降りて2階の二年生の教室へ向かった。
「急に呼んでごめんね、長瀬。」
舞衣の言葉に、緊張の面持ちで長瀬は、
「いやぁ、昼休みなんか寝てるだけだし、房生さん、久しぶりだね、一年で同じクラスだったね、夏は優勝おめでとう、いやぁ、君が僕に用なんて、何だろうと思ったよ。いやいや。」
と、額の汗を拭きながら早口で答えた。
房生舞衣は相手の目をまっすぐ見つめながら話し、常に軽く笑っているような表情も手伝い、男子にしばしば『自分に好意があるのでは?』と誤解させることのある女の子だ。
瞳が大きく、筋の通った高い鼻は黙っていると大人びて見えるが、話しかけると気さくであり、後輩の面倒見が良い。密かに想いを寄せる男子は少なくないが、どこか手の出しにくい女子、という印象があり、それは『断られて気まずくなるくらいなら今の距離を保ちたい』という心理が男子に強く働くからかもしれない。『高嶺の花』とは少し違う、この子には嫌われたくない、と感じさせる魅力を持っている。
勉強の成績は良くないが数学だけはよく出来、頭の回転が早いタイプである。
女子バスケ部に所属しながら陸上部のサポートによく呼ばれ、大会等で好成績を挙げてくることで校内では有名となった。
小学校からの友人には『ちゃむ』というあだ名で呼ばれている。
これは舞衣本人が、小学校一年生の時『ふさおまい』という自分の名を上手く発音できず『ふちゃおまい』と言ってしまうことから、『ちゃーまい』→『ちゃむ』と短くなったあだ名で、半ばからかわれて呼ばれていたものだった。
その不思議な呼び名も、男子には近寄り難いアイドル的なイメージを与えていた。
「あのね、長瀬、書道パフォーマンスだっけ?どんなことするのか聞きたくて、うちの大場さんが参加したいみたいで。」
「おお、そおなんだ、うん、いいよ、書道部も試行錯誤中だけどね、うん。部員達の書く姿を直接見せたいと思っていてね。」
京子が口を挟む。
「でも、納得いくものが書けないと思う。」
「そうかな、いや、目的をね、即興パフォーマンスと書き込みは根本的にだね、違うと思うんだ、表現するものが、うん。」
舞衣がニコッと笑い、制する。
「うん、うん、うちの大場と一緒にゆっくり話そうね。」
三人は二年四組の教室に入っていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
二年生の昼休みも、勉強する姿が少ないこと以外は三年生と大差ない。
ゲームに夢中の者、スマホいじり、数人で談話する者、寝ている者…
大場羽須美は窓際に立ち、外を眺めていた。
逆光気味でシルエットとなっている羽須美の姿は、まるでモデルのように見えた。
「はすみ〜ん!」
舞衣が声を掛けると、教室中が各々の手を止め、一斉に振り向いた。
おお…
あれ房生先輩じゃ…
アイドルきた…
神バスケ…
きゃ…
ざわめきの後、あちこちから悲鳴にも似た奇声が湧き上がった。
先陣を切ったのは女子である。
「きゃあー房生先輩!」
「握手してくださーい!」
「どうしたんですかー!きゃー!」
舞衣は苦笑して後ずさった。
「あや、もてもて…女子に…」
京子は舞衣の後ろで身をすくめている。
「なに、なに…」
長瀬も苦笑しながら頭をかく。
「だろうね、うん、こうなるよ…」
羽須美が駆け寄り、
「ちょっと、一旦出ましょう。」
と、三人を廊下へ押し出した。
「何なのこれ?」
舞衣が目を白黒させながら羽須美に聞くと、
「これですよ。」
と、羽須美は携帯を開き、いくつかの画像を見せた。
そこには女子バスケ夏の市内大会での、試合中の舞衣の姿が写っている。
空中で2人交わしたミラクルシュート、誰よりも高くジャンプしたリバウンドキャッチ、フェイダウェイ気味のジャンプシュート等など…
「お、良く撮れてるね。私にも送ってよ。」
と目を輝かせながら見入る舞衣に、羽須美は呆れ顔で、
「売られているんです。これ。私はタダで転送してもらいましたけど…」
と言い、
「とにかく、部室かどこか行きましょう。教室に房生先輩は危険です。」
とため息をついた。
「じゃ、書道部に行こ。」
京子が羽須美を見上げ、言った。
羽須美は、はっと我に返ったように京子を見ると、
「あ、ああ、こ、小林先輩、その、よろしくお願い、し、します!」
と頭を深々と下げた。
「こちらこそ、はすみんさん。」
「はすみん、さん?お、お、大場でいいです、おおばです!」
「僕は部長の長瀬です。よろしくお願いします。」
「あ、よろしくおねがいしますっ」
「あっははは!緊張し過ぎでしょ。」
最後は舞衣の笑いが響き、四人は書道部の部室へ向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
書道部の部室は、二年生の教室がある南校舎2階から渡り廊下を北校舎へ向かい、北校舎を東へ曲がった、同じ2階にある。
教室とほぼ同じ構造だが、その窓は北側に向いており、残暑の残るこの季節は教室よりやや涼しく、過ごしやすい。
教室の半分には畳が敷かれており、正座して書に向かえる低い長テーブルが置かれている。
墨汁の匂いが染みついているが、よく掃除の行き届いた清潔感ある空間だ。
四人は標準机を4つ合わせ、椅子に座った。
舞衣が進行役を買って出る。
「毎年、運動部の二年、文化部発表に参加するよね。で、女子バスケは二年が6人いるんだけど、この大場さんは書道部に参加したいって希望したの。」
「なるほど。」
長瀬があいづちを打ち、京子は黙って聞いている。
「もちろん、大場さんは書道部の人みたいな立派な字は書けないと思うけど、道具を用意したりとか、何か新しいことをやるなら手伝えることはないかなって、ね、はすみん。」
「はい、演劇部なんかの幕引きとか、照明とかみたいな、書道部さんの力になりたくて。」
「でね、まず、書道部が今年はどんな発表をするのか、によると思うんだけど、決まっていることがあったら教えて欲しいの。」
「うん、なるほど。」
長瀬が頷き、今朝の書道部打ち合わせについて話し始めた。
「まず、当初は例年同様に事前に書いたものを展示するだけの予定だったので、運動部への応援要請は出してないんだよ。その上で、書道部員だけで出来ること、という条件で発表案を募ったのが今日の打ち合わせ。」
「どっちにしても、応援は必要無いってことですか?」
羽須美が怪訝そうに聞いた。
「うーん、まぁ、現段階ではそうなんだけど、逆に驚いているんだ。うちを手伝いたいという運動部がいるなんて想定してないからね。」
長瀬の言葉に、京子がポツリと付け加えた。
「うれしい。」
終始否定的だった京子が、うれしい、と言ったことに、舞衣は少し驚いた。
「そうそう、嬉しい驚きだよ。」
長瀬が羽須美を見て頷きながら言い、そしてこう続けた。
「ただね、書道部も書道部なりに、作品の意図や発表の狙いというものがあって、なんと言うか、ただの雑用お手伝いではなく、同じ目的を共有して、一緒に感動できることをしよう、というのを大事にしたいんだ。」
「一緒に感動、ですか。」
羽須美が今一つよく解らない、という目を長瀬に向けた。
その羽須美の表情を見て、京子が口を開いた。
「はすみんさん、参加してくれるなら、書いてもらう。」
「え、でも…」
羽須美には書のたしなみは無い。それこそ学校の授業で触れた程度だ。
京子の書を知っている羽須美には、到底自分に出来ることではないと思えた。
足を引っ張る前に、諦めて辞退するべきだ…
「あの、そういうことなら、私はやっぱり…」
辞めます、と言おうとした時、京子はガタッと立ち上がり、書道の道具を棚から取り出すと、
「はすみんさん、こっち来て、見てて。」
と、羽須美に手招きした。
京子の羽須美を見ていた表情が、いつか早朝の体育館で『飛』という文字と向き合っていたあの表情と同じであることに気づいていた舞衣は、これから起こることに胸が高鳴った。
何をするのだろう?京子は一度「書いてもらう」と言ったら、簡単には引かない人だ。
「私、話すの苦手だから…」
そう言って京子は1m程の縦長の半紙を広げると、硯に墨汁を出した。
畳の上で正座をした後、腰を少し浮かせ、筆を構えた。
空気が一変し、時が止まったかのように張り詰める。
『意地悪しないで』
『靴を隠さないで』
『私にかまわないで』
立て続けに3枚書き殴り、よろり、と立ち上がると、羽須美の方に向いた。
顔はうつむき気味で、目は所在無さげに泳いでいる。足は少し震えており、右手に筆を握りしめ、何かに耐えながら必死に立っている感じである。
羽須美は面食らった。
え?…小林先輩、これって…まさか、誰かに意地悪をされてる?…
何を、どういう解釈をすれば…
うろたえる羽須美に、声を絞り出すように、京子は言った。
「私を見て…。」
その顔は真っ赤で、目には涙がたまっていた。
羽須美は息を飲み、書かれた書を見やり、そして京子を見る。書いた京子本人の在り様と、書の文字の荒々しい乱れ様が、強い痛みを伴って羽須美を突き刺す。
羽須美は言葉を失った。
そして京子は、再び半紙を広げると、また3枚書き綴った。
『房生さんの優しさ』
『はすみんさんありがとう』
『長瀬君ごめんね』
そしてまた羽須美に振り返り、
「私を見て。」
と言った。
顔は赤く、目の涙は同じだったが、今度は感謝の念が全身から溢れ出ているのがはっきり判る。
そうか、書道は感情表現だ、と言いたくて、恥ずかしいことをあえて…
羽須美は圧倒され、もらい泣きしてしまった。
京子は大きく深呼吸すると、静かに話し始めた。
「これが即興。思っていること、感じていること、それをそのまま筆と墨で表すの。今の私を、そのまま見せるの。」
最初に書いた3枚を指差し、
「これ、きれいな字に見える?怒ってて、悲しい字。」
次に書いた3枚を指差し、
「これも、字体なんかめちゃくちゃ。ただ、ありがとう、っていう私。」
そして羽須美に近寄り、こう言った。
「はすみんさん、きっと同じだよね。書ける、じゃなくて、書きたい。どう?そう思えるなら、一緒にやろう、書道パフォーマンス。」
『きっと同じだよね』…羽須美の瞳にまたジワリと涙が溢れた。小林先輩には、私の何が見えているの?…
「筆、借りていいですか?」
「うん。」
京子から手渡された筆で、羽須美は半紙に向かった。
一枚目、
『すきででかいんじゃない』
吐き出す様に、羽須美は筆を走らせた。
体が熱くなっていく。
恥ずかしさと、刹那の後悔と、書いてやったという開き直り…
もう一枚、
『小林先輩すごすぎ』
頭を過ぎったのは、バスケ市内大会中に会場の中二階で『飛』を掲げていた小林京子の姿。
二枚書き終えると羽須美は、泣きながら笑っている自分に気付き、
「すいません、なんか私、変です。」
と言い、畳にペタンと座り込んでしまった。
手が震えている。足も震えている。でも…心地よい疲労感が羽須美の全身を覆った。
それを見ていた舞衣も、真剣な表情で自然と両の拳を握っている。
長瀬は、『長瀬君ごめんね』の意味を理解し、
「そうか、小林さん、そうだね、うん、ありがとう。」
と、しきりに頷き続けていた。
そう、早朝の打合せでは『即興書きの披露』を否定していた京子が、それをやろう、否定してごめんなさい、と言っているのだ。
自己表現としての即興書き、京子にとってそれは全てをさらけだす『自己開示の覚悟』なのであろうことに、長瀬は気付いた。
書道の基本は『心を落ち着けて書体の持つ美しさを再現』することにある。
二年生までの京子はその基本に忠実だったかも知れないが、夏のコンクールから彼女の書道スタイルは変化していた。
書体にこだわらない自己表現としての書。
コンクールで金賞を受賞した『飛』という一文字…それは『居場所の無い現実からの逃避行』なのかも知れないし、『自分の弱さからの脱皮』を表現したものかも知れない…それは本人にしか判らない。
ただ、事前に練り上げて書き込む書であれば真意をオブラートに包むことが出来る。流派に沿った書道の基礎を積み上げてきた京子であれば、芸術性の付与とともに成せる。それが『飛』だ。
しかし即興ではそれは出来ない。
感情が丸裸となるのだ…。
長瀬は思う。
小林さんの、魂を揺さぶる様な書を、直接書く姿を、全校に見せたかっただけだが…
僕はなんと過酷なことを小林さんに求めたのだろう…
他の部員とは書道スタイルそのものと、何よりも深さが違う。
どうバランスを取るか、これは大変なことに足を踏み入れたな…
長瀬のイメージした書道パフォーマンスは、感情の吐露ではなく、もっと大衆的な、全校生徒に向けたメッセージ性のある即興だ。
「さて、テーマ決めからか。忙しくなるね。大場さん、顧問に話してから、これからのことをまた連絡するよ。」
長瀬も椅子から立ち上がった。
昼休みの時間が、終わろうとしていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
放課後の体育館。
女子バスケ部のレイアップシュート練習がテンポ良く繰り返される中、向川典子が舞衣に話しかけた。ニヤニヤ笑っている。
「ちゃむー、二年の教室で女子に襲われたんだって?」
「別に襲われてないって。」
テンション低めの表情で答える舞衣に、典子は笑顔を崩さず続けた。
「でもさー、やっぱ嬉しいよね。初めての市内優勝だし、後輩も盛り上がってくれてさ。」
「うん…でも、なんか複雑。」
「なにが?」
「だってさ、騒ぎすぎだよ、みんな。うちら、全国大会はいっつも予選敗退だよ。どこにも繋がらない市内大会くらいでさぁ。」
「いいじゃない。目標だったし、市内で一番になること。」
「三年間がんばってきたのに、市内がやっと。胃の中は買わずだよ。」
典子は、それを言うなら『井の中の蛙』…と言おうとしたが、いつにも増して真剣な表情の舞衣を見て、6月の全国地区予選市内選抜を思い出した。
どんな時でも部員を励まし、明るく振舞っている舞衣が、二回戦で負けたそのコートで立ち尽くし、
「駄目だったね、私達の代でも、駄目だったね…。」
と言い、涙を流していた。
試合直後に舞衣が泣いているのを見たのは、それが初めてである。
「うん、私も悔しかった。選抜。」
そう返す典子に、舞衣は声のトーンを落としてつぶやいた。
「甘かったよ私。頑張ってる人は他の何を犠牲にしても頑張る気持ちがずっと強い。」
舞衣も典子も三年生で、夏の市内大会を最後に引退の予定であったが、『来年こそは県大会出場』という目標を口先だけのことにしたくないという想いから、後輩の指導のために部に残っている。
「私は…」
舞衣は拳をギュッと握って典子に言った。
「私は…小林さんに教わったことをバスケ部に伝えるの!沸騰腹痛だよ!」
典子はクスッと笑い、
「…不撓不屈ね。」
と答えると、残された部活動の中で自分が何をすべきか、を見つけた気がした。
それと、ほんの少しの不安…ちゃむは受験勉強、大丈夫かしら?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
三年一組の教室、放課後。
書道部部長の長瀬は、今日の部活での打合せ準備をしていた。
長瀬は悩みに悩み、文化祭の書道部発表テーマを『個性の尊重』とすることにした。
『十人十色に咲き誇れ』
『個性豊かな七中生』
『荒地に羽ばたけ七色の個性』
『荒野に掛かる七色の虹』
書とする文言の案をいくつか用意し、あとは部内で練ろう。
第七中学校だから『七』は使いたい。
決め書とする大文字は…『飛翔』あたりだろうか。
小林さんが金賞をとった『飛』の文字も入るし。
全校生徒へのメッセージ、大衆性、部員の感情移入…
「…難しいもんだな。」
どうしても小林さんの暴走が頭をよぎる。
彼女の書道には妥協がない。また、協調生においても不安がある。
だが、その妥協なき独走が彼女の魅力でもある。
「うーん…。」
小林さんと他の部員を上手くまとめ上げるには…?
長瀬は、ふと気付いた。
書道パフォーマンスを起案したそもそものきっかけ、『小林京子が書に向かう姿を全校に見せたい』という思い付き、これが間違いなのではないか?
書道部は三年生3名、二年生4名、一年生5名、12人いるのだ。
先日の早朝打合せの時、小林さん以外の全員が即興パフォーマンスに賛成したわけではない。
少数派の意見を軽んじてはいけないし、嫌々やらせるのは絶対に良くない。
反対派の意見の中に、とりまとめる鍵があるかも知れない。
「今日の部活は、波乱だな…。」
長瀬は部のノートを閉じ、小脇に抱えると、席を立ち部室へ向かった。
二階へ降りる階段の踊り場で、「長瀬。」と声を掛けられた。
考え事をしながら歩いていた長瀬はハッと顔を上げて声のする方を向いた。
「書道パフォーマンスやるんだって?どうせグダグダにされるわよ、あの幽霊女に。」
福元実嶺だ。
長瀬は、返す言葉が見つからず、
「や、やあ、福元さん。最近は、書いてるの?」
と、出るに任せた社交辞令を返した。
実嶺は一瞬不機嫌な表情となったが、すぐに笑顔を作り、
「大変ね、部長さん。」
と言うと、階段を上っていった。
長瀬は深くため息をつくと、部室へと急いだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
一昨年の4月。
第七中学校書道部には6名の新入部員が入部した。
長瀬和大、小林京子、そして福元実嶺の姿もある。
一年生は楷書体での手本再現から始める。
小学生の頃からの経験者である長瀬、京子、実嶺の3人には退屈な課題であったが、それぞれ欠点を顧問教師から指摘され、身を引き締め直し、中学での書道活動をスタートさせた。
何よりも、夏休み、冬休みに年二回行われる市内コンクールでは『書体フリー、テーマフリー』という自由さがあり、自分の世界を遠慮なく表現できることが、書道好きの彼らには魅力的な勝負の場であった。
だが、それは、同じ市内の第四中学校書道部の存在により、やる気を削がれることとなる。
コンクールの受賞者はあらかじめ決められている、という噂があり、四中顧問教師が世尊寺流流派の師範代で、四中書道部を書道教育の主軸に置いて育てるための『出来レース』が市内コンクールの正体だ、というもの。
一年生の実嶺は、実力が近く、同じ境遇を分かち合う仲間として京子によく話しかけた。
「京子さん、払いの太さ、この辺でゆっくり流すと良さそうだね。」
「人それぞれと思う。」
「京子さん、夏のコンクール、どう見ても負けてないのに入選がやっとなんて、やる気なくしちゃうね。」
「行書だから。審査の人次第。」
「京子さん、この書、京子さんも書いてみてくれる?お手本にしたいの。」
「書かない。」
「京子さん、フォント特性と毛筆の関係性とか、興味ある?」
「書道とは別。」
「京子さん、和様の行書、誰が好き?」
「とくに。」
「京子さん、全国学生書写書道展、出さないの?興味ない?」
「あんまり。」
「京子さん、市内コンクールもどうせ評価されないのに、どうしてそんなに頑張るの?」
「福元さんには関係ない。」
京子にはもちろん悪意はない。
京子にとって書道は自分と向き合うものであった。口下手で、内向的で、正直な言葉が端的に口から出ているだけであった。
ただ、対話に必要な『相手の気持ちへの配慮』が欠落しているのは確かであった。
実嶺は京子の書を認めていた。書道は個人の精神鍛錬であることも理解している。だからこそ、お互い高め合う仲間として、もっと話をしたかった。
どうして?と聞き返しても黙り込む小林京子。
一度も話し掛けてくれない小林京子。
私の書を無視する小林京子。
暗い子。
自閉症?
なぜ書道をやっているの?
書写を馬鹿にしているの?
…私のことを馬鹿にしているの?
独りで、影みたいに、誰とも話さず、心の中では人を嘲笑って…幽霊みたいな女。
一年生の12月、実嶺は京子の下駄箱から靴を取り出し、校庭へ投げた。
灰色の空から降るみぞれが、転がる京子の靴を冷たく打ちつけていた。
クリスマスも、冬休みも、正月も、悲しさと悔しさと自己嫌悪が入り混じった暗雲の中で、実嶺の時間は過ぎていった。
三学期が始まった1月、実嶺は退部届けを出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「まず、僕が考えた案を説明します。」
書道部部室で、長瀬は模造紙にマジックでレイアウト案を書き込みながら、即興パフォーマンスの原案として説明した。
「実際の大きさは縦幅1.1m、横4mで、これで、文字をここで区切って、全員に言葉を振り当て、一人ずつ書いていきます。この部分の大きな文字は、三年生が担当します。」
「部長、音楽とか、流さんの?」
三年の富沢健之が腕組みしながら質問をした。
中学入学時に関西から引っ越して来た男子で、書道を本格的に始めたのは中学からである。なんでも、富山県にある水墨画美術館で感銘を受け、ゆくゆくは書道より水墨画をやりたいらしい。
「ああ、あった方が良いと思う。まだちゃんと考えてないけど、『翼をください』とか、どうかな…。」
「うお、べたべたやな。」
部室内に軽い笑いが起こる。
不安でいっぱいだった長瀬にとって、緊迫感の解けたこの空気はありがたかった。
三年はこの富沢と、長瀬、小林京子の3名しかおらず、裏表ない明るい性格の富沢は長瀬にとって心強い存在である。
「色墨も使ったらどう?空に青とか、虹とか、花とか。」
「墨の桶、誰が持つんですか?」
「桶、重たそう…。」
「荒野とか荒地とか、なんかすさんでまーす。」
「音楽、サラBが希望!」
「個性の尊重より、協力とか協調がよくないですか?」
「舞台上ですか?床でやるんですか?」
「袴とか着たいですねー。」
空気が緩み、私語発言が増えてきた。
長瀬は一旦整理するために、発言を制した。
「意見どうも。だいたい書道パフォーマンスがどういうものかイメージ出来たところで、まず『やる』か『やらない』か、から話し合います。」
長瀬は一呼吸置くと、続けた。
「この書道パフォーマンスに反対の人、いますか?挙手で発言して下さい。」
挙手は無い。
賛成の人、と聞くと手が挙がらない人もいるが、反対の人と聞くと、居ない。ううむ…
少し間があり、オドオドと手を挙げる者がいた。
( きた…小林さんだ… )
「はい、小林さん。」
「みんなが見てる前で、気が散って、気持ちが入らない。」
むう、房生さん達との昼休み打合せでは『やる意思』を見せてくれたのに…
気持ちが入らないから何だよ、言葉が足りなくて解らんよ…
長瀬は、ネットで調べたティーチングとか言う誘導方法を試みた。障害とか制約とかを潰していくための、否定意見を消していく方法。
「小林さんは、どうすると気持ちが入るようになると思いますか?」
「えと、気が散るのは仕方ないから、その場で言葉を考えて書く。」
「その場で考えた言葉は、どうして気持ちが入るんですか?」
「え…えと、本当に思ってる言葉だから。」
「今ここで考える言葉と、その場で考える言葉の違いは何だろう?」
「え…」
質問が続き、京子は言葉に詰まった。
その時、富沢が小声を挟んだ。
「京子ちゃん、ええこと言ってるで、がんばれ。」
京子はチラッと富沢を見ると、こう答えた。
「えと、んと、人が考えた言葉だと、書体とか気にして冷めちゃう。その字が良いのか悪いのか、考えた人じゃないと判らなくて、自分から出てきた言葉なら気持ちが逃げていかないまま書ける。」
長瀬は少し考え、京子に解りやすい表現を探し、質問を更に掘り下げる。
「その字が良いのか悪いのか、誰が決めるんですか?」
「自分…あ、ああ、あそっか。見ているみんなだ。」
やった。長瀬は京子が『殻』を一枚破った音を聞いた気がした。
「見ている皆、と言うことは、小林さんの論理だと、言葉に気持ちが入っているかどうか、良い書なのか悪い書なのかを…」
長瀬の言い掛けの言葉に被せて、京子は言った。
「自己満足だった。みんなには見えない、私だけの気持ちで、見る人が決めればいいのに、自分が納得しないとダメと思ってて、ああ、じゃあ、部の全員で同じ気持ち、作らなきゃ!」
富沢が言う。
「そや、良いこと言うたで、京子ちゃん。100%でなくてええ、緊張して少し失敗しても、書道部全員で同じ気持ちを表現する、それを全校生に見せる。」
腕組みを解き、更に富沢は全員に向かって言った。
「全員で一枚の紙に書くなんて、書体がデコボコになるの当たり前や。それが良い。わくわくせんか?」
辿り着いた。
京子には有り得なかった外に向かう解放の書道。
正直なところ、京子の発言だけでは彼女が『感情の薄まり』『感情の共有の難しさ』にどう気付き、どう対処しようとしているのかは読みきれないが、他者と同じ気持ちを作ることが大前提であることへの気付き、それだけで充分である。
「そうですね、このパフォーマンスは、1人の100%ではなく、全員の共有が大事です。では、全員一致で即興パフォーマンスを行うことにします。」
そう言うと長瀬は、文言の練りこみ協議に議題を進めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
各運動部二年生の文化祭参加先が決まり、女子バスケ部の大場羽須美は書道部の発表に参加となった。
文化祭まで残り2週間となり、第七中学校は全校で準備に慌ただしくなる。
運動部ではこの2週間二年生の不在が多くなり、一年生がダラける時期でもある。
「ああ、また房生先輩と向川先輩来てるし…。」
「ちょっと、川村先輩まで来たよ、ほら…。」
「あーん、手抜けないね…。」
舞衣と典子に加え、夏で引退した川村亮子も一年生の様子を見に来た。亮子は副キャプテンを務めており、物腰は柔らかいが、後輩には最も厳しい選手だった。
「いやー、亮子はいるだけで一年が張り切るねぇ。」
「ふふ、そうかな。舞衣は行きたいんでしょ、書道部。いいから見て来なよ。」
「そうそう、行って来なよ、ちゃむ。私達で見てるから。」
「そお?じゃ、ちょっと覗いてくるね。」
舞衣はそう言うと練習中の一年生に、
「一瞬一瞬に頭使うのよー!なんとなくやってると上手くならないんだからねー!」
と発破をかけて、体育館を出て行った。
北校舎の一階から西階段を上がり、二階の廊下へ出ると、遠くに女子生徒が二人、教室との境の壁に耳を当てている姿があった。
「何してんだろ?」
北校舎にクラス室はなく、音楽室や理科室などの特別室と文化部の部室しかない。
近付いていくと、どうやら書道部部室の前辺りのようだ。
「あ、同じクラスの…」
同級生だと判り声を掛けようとすると、二人は舞衣に気付き、そそくさと立ち去っていった。
「なにあれ。感じ悪っ。」
あれは確か実嶺とよく連んでいる子達だ。
「こそこそと何してんだか。」
舞衣は書道部の部室まで来るとノックをし、カラカラカラ、と引き戸を開け、
「すみません、見学、いいですか?」
と言いながら部室に入っていった。
「お、いらっしゃい。」
と応じる長瀬に、定食屋かオイ、と内心で突っ込みつつ、壁際に積まれている椅子を一つ取り、腰かけた。
顧問は来てないのか、どこも放任だなぁ、この学校は…などと思いながら部員を見回すと、大場羽須美の姿が目に入った。
合計13人。と言うことは、運動部応援は羽須美1人か。
既に発表内容は決まっているようで、畳の上に大きな紙が敷かれ、各自が墨の付いてない筆や空の桶などを持ち、実演のシミュレーションを行っているようだった。
羽須美は、前半で筆を持って紙になにやら空書きをしている。最後の大詰めで京子が振るう筆モップの墨桶を持つのは長瀬のようだ。
三味線と打楽器の、舞衣は聴いたことのない音楽に合わせて、演技は進んでいった。
舞衣は、京子と羽須美を目で追った。二人とも真剣な顔付きである。
楽しんでる?はすみん。
相変わらず筆を持つとかっこいいね、小林さん。
一通り演技がおわると、長瀬が言った。
「BGMが少し長くて余るね。書き終わって書を起こしたらフェイドアウト、にしよう。よし、形になってきたね。僕と富沢君でやる前座は二人で練習しておくので、今日はここまでにしよう。」
緊迫感が解かれ、部員各々の反省の声が漏れ始める。
舞衣は羽須美に声を掛けた。
「どう?上手くやってる?」
「完全にスポーツです、これ。」
「ふむ。」
「前の人が書き終わって、タイミング良く入れ替わって自分が書くんですが、歩くコースを間違えると人の書を踏んじゃいます。常に小走りだし、墨桶を持つ人のコースも適当では駄目です。」
「だろうね。」
「バスケのフォーメーション思い出しますよ。私が中で向川先輩のパス受けて、外の房生先輩にすぐ切り返してそのまま外に走り最後は私が打つやつとか。パスコース、シビアじゃないですか、あれ。」
「なるほどね。」
「ただ…」
「ん?」
「字、上手い下手は関係ないって言われてるんですけど、私の字、なんか弱々しくて、見劣りするのが…」
「んじゃ太く書きなさいよ、ぶっとく!」
「そんな簡単なものじゃ…」
舞衣は他の部員となにやら話し込んでいる京子を見やり、言った。
「はすみん、小林さんてさ、普段、小さい声でぼそぼそ話すでしょ。」
「え、はい、まぁ…。」
「夏の一回戦、四中戦ね、覚えてる?小林さんが駆けつけてくれた時のこと。」
「はい。」
「『飛べ!七中!』」
「あ、はい、よく覚えてます。」
「小林さん、あの声、どこから出したんだろうね。」
「…」
「気持ち、気合。小林京子に負けるな。あんたもバスケ部の副キャプテンになったんでしょ!」
羽須美は少し考えてから、
「はい!」
と答えた。
「あ、それと…何着るの?本番。」
「ああ、剣道部の袴を借りるみたいです。」
「おお。」
「だけど…」
「だけど?」
「上は体操着に赤いタスキですって。」
「体操着ぃ!?かっこわる…あの着物みたいなあれ、上衣?あれ着ないの?」
「上衣は高いし、剣道部の道着は墨がはねると落ちないし目立つから駄目らしいです。」
「そっかぁ、でも袴はいいね。はすみんの袴姿、楽しみだわ。」
「やめて下さい…」
「ふふ。頑張ってね。」
舞衣はそう言い残し、京子の方へ行った。
「小林さん。お疲れ様。」
「お疲れ様、房生さん。」
「ちょっと、いい?」
「え?」
舞衣は京子を部室の隅まで連れてくると、表情を少し曇らせた。
「なに?」
「あのね、小林さん、聞いていいことなのか判らないんだけど…実嶺のこと、あの子と何かあった?」
「房生さんには関係…」
「ある!あるよ!この前、私の目の前で小林さんの足を引っ掛けた。」
「私の問題。」
そう言い、京子は下を向いた。
舞衣は言葉を選びながら、京子の左腕に手をやり、続けた。
「小林さんは、下駄箱が汚されてた時、『大丈夫、心配しないで』って言ったから、私、京子がそう言うなら余計な詮索はよそうって思った。」
舞衣は無意識に、初めて『京子』と名前で呼んだ。
「でもね、友達でしょ?友達があんなことされて、我慢できないの。」
友達。
京子は生まれてからの15年間、友達というものを持ったことがなかった。
舞衣とは夏休みの一件からよく話すようになったが、これが友達なのか、友達とはどういうものなのか、解らずにいた。
「だって…」
京子はうつむいたままだったが、左腕を掴んでいる舞衣の手の感触が、ふんわりと温かいその感触が、顔を見なくても、今舞衣がどんな目をしているかを伝えてくるのを感じた。
「だって…話しても、迷惑だろうし、私が悪いことだし…」
友達?
友達って、不愉快になる話でも、聞いてもらえるの?
左腕、温かい…
「京子、迷惑とか考えないで。京子が話してくれるまで、勝手なことはしない。実嶺は、私は実嶺のこと、別に嫌いではないもん。苦しいことなら、終わらせようよ。落ち着いたら、話して。ね。」
舞衣はゆっくり手を離すと、書道部部室から出て行こうとした。
その時…京子がささやくように何か言った。
「まい…」
「え?」
舞衣が振り返ると、京子は顔を上げ、震える声でこう言った。
「舞衣さん、て、呼んでいい?」
舞衣はニコッと笑い、
「舞衣でも、ちゃむでも、チョメでも、好きに呼んで、京子。」
そう言って、部室を出て行った。
京子の腕には、舞衣の手の温もりがいつまでも残っているように感じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日。
残暑厳しい放課後、三年三組の教室には、部活に行った生徒のカバンをまばらに残し、ほとんどの生徒は帰宅していた。
福元実嶺は連んでいる女生徒と3人で、書道部の文化祭発表について『報告』を聞いていた。
「ふーん。書道の甲子園、みたいなやつ?」
「多分そんな感じ。音楽に合わせて、体育館で大きい字を書くらしいよ。」
「んじゃあ、筆モップを使うわね…。決め書の一番大きい字、誰が書くか判る?」
「三年が担当する、って聞こえたね。」
「墨桶とかいうのを長瀬が持つみたいなこと言ってたから、書くのは多分あの幽霊女じゃないの?」
「ふぅん…。」
実嶺はあごに手をやり、何やら考え込んだ。
奪われた私の時間と書道…奪い返してやりたい…あの女に恥をかかせたい…
小林京子の机に目をやると実嶺は、つかつかと歩いて行き、彼女のカバンを開けた。
「あら、何これ、ちょっと見て。」
意地悪い笑みを浮かべ、京子のカバンの中にあった携帯電話をつまんで取り出した。
「なになに?」
「ちょっと何これ、キッズ携帯じゃない!」
「きゃはは、ほんとだ。」
「お守り!ストラップにお守りって…痛過ぎ!」
「って言うか、なんで持ち歩いてないの?携帯の意味なーい。」
「しかも傷だらけ。何年使ってんのよ。」
「それって、電話帳、10件くらいしか入れられないんじゃなかったっけ?」
他の2人も軽蔑の笑みを浮かべている。
「どれ、見てみよっか。」
実嶺は京子の携帯の電話帳を開いた。
「うっわー、マジで10件しか入らないわよ、これ。」
「登録、誰の番号?」
「待ってね…」
さらに実嶺は登録番号を見た。
「あっははは!見てよ!『自宅』『母』『ふさおさん』だって!3件よ、たった3件!」
「中三でキッズ、しかも3件て、きゃははは!」
「せめて『父』くらい…あ、いないんだっけ?」
「あいつは母子家庭よ。母親しかいないわ。」
実嶺は『ふさおさん』を見て内心思う。
なぜあの幽霊女が舞衣の番号を持ってるのよ…
実嶺の表情が一瞬険しくなり、そしてつまみ上げるように京子の携帯を目の位置まで上げると、言った。
「これさぁ、トイレにでも捨ててこようか。いらないでしょ、3件しか入ってない携帯なんて。」
「そ、そうねぇ…。」
取り巻き2人は、実嶺の険しい表情と座った目に、少し引いた。
その時、3人の背後から男子生徒の声がした。
「お、小林の携帯?いいねぇ、さすが小林。」
畑中という同級生だ。
彼は帰宅部で、友達は多いようだが群れることを好まず、独りでいることが多い。
試験の成績は学年トップ10位から落ちたことが無いが、もっぱらカンニングで出している結果だというのが、誰でも知っている噂であった。
本人も認めており、カンニングマスターなどと呼ばれていたりする。知らぬは教師ばかりなり。
「なによ畑中。用が無いならとっとと帰ったら?」
実嶺は不機嫌そうな顔を彼に向けた。
畑中は穏やかに笑いながら、
「ああ、うん、クソ暑いしな。もう帰るよ。」
と言い、実嶺がつまみ上げている京子のキッズ携帯を見て、続けて言った。
「それ、さすがだなぁ、小林。」
「なにがよ?」
実嶺が眉をひそめて聞き返すと、
「携帯電話会社ってさ、搾取することばかり考えてそうじゃん?いかにユーザーから金を取るか。まぁ、オレの偏見かも知れないけど。」
と言い、畑中は京子の机に腰かけて、話を続けた。
「100万人から1円多く取れば、それだけで100万利益アップだもんな。企業としては当たり前だけど…。小林、キッズ契約か、反骨精神を感じるねぇ、金をバンバン取られてたまるか!的な、ね。いやいや、さすがアウトロー小林!いいねぇ。」
そう言うと畑中は立ち、教室の出入り口へ歩き出した。
そして、こう付け加えた。
「あ、そうそう、人の携帯、本人に黙って勝手に触るもんじゃないぞ。じゃあな。」
やられた。釘を刺された。
京子の携帯が無くなったら私達が犯人にされる。
実嶺は歯をぎゅっと噛み、悔しがった。
あの幽霊女、全員から無視されていると思っていたのに。
舞衣といい、畑中といい、なんなのよ。
あんな気持ち悪い女をなぜかばう?
実嶺は京子の携帯を彼女のカバンの中に投げ込むと、
「あーあ、暑いし、どっかでお茶して帰ろうか。」
と、2人の取り巻きに言い、頭の中では書道部発表をどう邪魔するかを考えながら、教室を出て行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
文化祭当日、午前8時。
空は曇り、比較的過ごしやすい気候の中、体育館では実演発表を控えた各文化部が緊張の面持ちで準備を進めている。
各クラスは本番15分の時間が振り当てられ、それぞれ合唱を行うクラス、小劇を披露するクラス、テーマに沿った評論発表を行うクラスがあり、各教室で最後のリハーサルが行われていた。
書道部は、初の試みである書道パフォーマンスの実演段取りに、緊張よりも不安が勝る空気の中で道具のチェックが進められていく。その中に混ざる女子バスケ部二年の大場羽須美は、自分の動くタイミングや歩くコースを念入りに確認していた。
書道部の顧問教師が部員に通達する。
「書道部の発表は午後1時半スタートです。所要時間は20分。体操着と袴への着替えは、12時半から体育館の用具室で行ってください。先に女子、30分以内に。男子は1時から、そうね、3分で着替えなさい。」
「先生、3分て、冗談きついわ。」
三年の富沢が突っ込む。
笑いが起こる。
「そうね。着替えが遅くなるだけ本番への用意が遅くなるだけよ。素早くね。」
「確かに時間に余裕ないですね。女子もなるべく早くお願いします。」
部長の長瀬が付け加えた。
顧問は横目で長瀬を見ると安心したような表情をし、手元の資料をチラッと確認してから小脇に戻し、言った。
「一般の父兄は10時に体育館に入られます。10時を回ったらあまりうろうろしないように。初めての即興パフォーマンス、私も楽しみにしているので、みんな、がんばってね。」
「はい!」
部員はそれぞれの準備に戻る。
京子は、自分が扱う筆モップの先を水で浸し、広げたビニールの上で何度も空書きを繰り返していた。
そんな京子を見ながら、羽須美は思う。
普段はうつむいて頼りなさげな小林先輩が、筆を持つとなんと凛々しく見えることか。背筋が伸び、その立ち振る舞いは、男子顔負けの猛々しさすら漂う。
『本気』と、それを維持する集中力。
羽須美の、小林京子に対する尊敬の念は、この2週間で更に深まっていた。
バスケの試合では、心の支えとなる先輩が3人もいる。
少し怖い厳しさがあるが失敗した時に優しい声を掛けてくれる川村先輩、
チームが落ち込みムードの時に落ち着いた笑顔で空気を変えてくれる向川先輩、
そして、実際のプレーで本当に試合を引っくり返してしまう房生先輩。
( 私は…新しい副キャプテンとして、先輩達のようにチームを引っ張るには… )
…まず『本気』とそれを維持する集中力、精神力を強くしたい。
…小林先輩をもっとよく見よう。
羽須美は意識して背筋を伸ばすことから始めようと思った。
でかくて何が悪い、周りの目はもう気にしない、そう思った。
午前10時20分。
校長先生の開会の言葉、実行委員会からの諸注意と続き、実演プログラム1番の一年生クラス発表がスタートした。
午前中のプログラム、一年生3クラス、創作ダンス部、合唱部の発表が滞りなく進み、昼食の後に午後のプログラムへと移行していく。
午後1時。
舞台で演劇部の実演が開始された頃、書道部は着替えを終えた女子が先立ち、準備に取り掛かった。
「緊張するー。」
「墨の片手桶、揃った?」
「紙広げる時、私達がこっち側だよね?」
「青い色墨、少なくない?もう少し出したら?」
「あれ、私の筆どこ…あ、あった。」
「くつした履きっぱじゃん、早く裸足になりなよ!」
「タスキゆるい、誰か結ぶのやってぇ。」
「BGMのテープ、チェックした?」
「あー足震えるー。」
部員の声が錯綜する中、1時15分頃、男子が着替えを終えて出てきた。
「おー、女の子達、順調にうろたえとるな?」
「あせらなくていいから。20分の枠で実演12分、落ち着いていこう。」
富沢と長瀬の声に、浮き足立った空気が落ち着きを取り戻していく。
長瀬は京子の様子を見た。隅で正座をし、顔を下に向けている。
…普段通りなんだか、緊張しているんだか、よく判らん…
声を掛ける、べき、だろうな…
「小林さん、段取りはOK?」
「あ、うん。長瀬くん達終ったら、最初、紙の裏表見て、立てる棒貼ってる方が裏。みんなと持って出て、紙広げて、文鎮置いて、あとは正座して、2行目が終ったら筆取りに行って、長瀬くんが桶で、一緒に。」
「うん!頑張ろう。」
「うん。」
京子はにこりと笑った。
いつもの小林さんだ、よし…長瀬は安心すると、自分の準備に取り掛かった。
京子の意識はシンプルである。
今日の即興は部のみんなで考えたメッセージを書くもの。自分独りのものではない。
みんなの顔を思い描いて、書く。
書道部の即興パフォーマンスは以下の順で進む。
・BGMスタート
・下敷き代わりとするビニールを一年生が舞台上へ運び、同時に長瀬と富沢も出る
・一年生が下敷きを広げ、その上に1mの縦長半紙を2枚置く
・長瀬と富沢が持参した片手桶と太筆で、それぞれ1枚づつ書く
・長瀬、富沢は書を一旦端に避け正座、小林京子と二年生が本書の1.1m×4m用紙を運び入れ広げる
・全員正座。順番に立ち、割り振られた模様、文字を本書にそれぞれ書いていく
・大場羽須美の担当文字は1行目の後半
・文字は最後の極大文字含め4行、2行目が書かれる頃に長瀬と小林京子は大桶と筆モップを取りに出る
・長瀬が大桶を持ち、小林京子が筆モップにて4行目の極大文字を書く
・二年生2名が立ち、本書の両端に貼ってある棒を持ち、書を起こして会場に見せる
・本書のたるみを残りの二年生と一年生により手で持って支える
・長瀬と富沢が最初に書いた書をそれぞれ持ち、本書の右端に添えて立つ
・BGMフェイドアウト
・全員で、書かれた書を読み上げ終了
演劇部の実演が終わり、実行委員アナウンスが流れた。
「次は、午後の部2番、書道部による書道パフォーマンスです」
午後1時34分。
書道部演技開始を告げるBGMが流れ始める。
尺八ソロに竹を叩くような打楽器がフェイドインで重なってくる、和風のインストルメントである。更に三味線が重なり、書道部の一年生が元気よく舞台袖から現れた。
そして、長瀬と富沢が片手桶と筆を持って続く。
用意が済むと、長瀬、富沢、一年生は会場に向かって一礼をし、揃って正座。
長瀬と富沢は少し腰を浮かせ、半紙に臨んだ。
『七色の虹が如く』富沢、書。
『世界を翔る七中生』長瀬、書。
その時、遠くで雷が鳴った。
BGMの流れる会場では気付きにくかったが、舞台裏にいた京子達には雷がはっきり聴こえた。
「雨、ですかね?」
緊張で静まっていた部員の中、ポツリと羽須美が言った。
「天気予報は今日1日曇りだったような…。」
二年生部員が1人、呼応するように言ったが、それきりまた沈黙となった。
「いこ。」
舞台の進行に集中していた京子が、本書の用紙の端を持ち上げながら言った。
それを合図に京子と二年生が舞台へ出て行く。
本書の書き入れが始まった。
用紙の左上の角と右下の角に青、緑、黄、赤、四色のアーチ模様が、まず書かれた。虹をイメージしており、虹の本来の形である円、その中に文字が浮かんでいる構図である。
そして、順番に文章が書き込まれていく。
『無限の』
『可能性を』
『秘めて』
3人による1行目。羽須美が書いたのは『秘めて』。
羽須美はこの『秘めて』に、文章の流れとは別の、自分なりの意味合いを込めていた。
私はどうしてバスケットボールを始めたのか?
どうして今も続けているのか?
親友と呼べる友達も出来ず、孤独感を感じているのはなぜか?
居場所を求めて、逃げて、たどり着いた場所がバスケ部…
でも、それでは駄目なんだ…
バスケにはもっと情熱を向けて、本気を胸に『秘めて』。
他人から逃げずに、もっと人から好かれる人間になれるよう、思いやりを心に『秘めて』。
本気も、思いやりも、保ち続けることは決して容易ではない。
本気は自分の内側を広げる努力、思いやりは他者への理解を広げる努力。
…そんな想いを込めた『秘めて』は、練習での貧弱さはなくなり、力強い書となった。
( 房生先輩、書けましたよ、ぶっとく。 )
書き終えて後ろに下がり正座した羽須美は、自分の字を会場に見せる最後を待ち遠しく感じた。
会場で見ていた舞衣は、正座をした羽須美が背筋を伸ばし堂々としている様子を見て、すぐ前に座っている典子に耳打ちした。
「ね、見て、はすみんさぁ、バスケより書道の方がかっこよくない?」
「えー、困るよ、はすみんが抜けたら。」
「ふふ。だねぇ。」
「でも確かに、堂々としてるし、やり切った感出てるね。時々見る弱虫はすみんと全然違う。」
「うん。なんかちょっと悔しいわ。」
「悔しいわりにはすごいニヤけてるよ、ちゃむ。」
「うん。悔しいけど嬉しくて。」
そんな会話の中、典子は体育館の屋根を打つ雨音に気付いた。
「あら?降ってきたね。」
中二階の大窓へ目を向けると、確かに雨が降り始めている。
雨は少しづつ強さを増していった。
書道部の演技は続く。
『十人十色に』
『咲き』
『誇れ』
3人による2行目が書かれている時、大桶と筆モップを取りに舞台裏へ出た長瀬と京子は、目を疑いたくなる光景を見て、愕然となっていた。
筆モップの持ち手が折られ、筆先はバラバラに散乱していたのである。
絶句していた長瀬は、我に返り、
「あ、ああ、と、とにかく、ガムテープか何かで、探して、小林さん!」
と言い、筆先を拾い集め出した。
「紐、紐で束ねられないかな、小林さん、なんとかしないと、早く…」
「長瀬くん。」
「え?」
「それ、かして。」
京子は、うろたえる長瀬の手から拾い集められたバラバラの筆先を受け取ると、それに顔を近づけてささやいた。
「こんなにされて、ごめんね…」
長瀬は言葉を荒げた。
「早く!なんとかしないと!」
舞台では4人による3行目の文言が書き終わるところだった。
『そこが』
『荒野でも』
『嵐が』
『吹き荒れても』
「小林さん!」
悲鳴のような声を上げる長瀬に、京子は静かに言った。
「長瀬くんは大桶、持ってきて。」
京子は筆先を舞台裏の隅に置くと、舞台に出て行こうとした。
「ちょっと、小林さん、どうするんだよ!筆が無いと!」
「大丈夫。心配しないで。」
京子のこの落ち着きようは何なのか長瀬には解らなかったが、長瀬は墨の入った大桶を持ち、京子の後に続いて舞台へ出た。
舞衣と同じ列に座っていた実嶺が、手に何も持たずに出てきた京子を見て、口を両手で覆いながらニッと笑った。
( どうするつもりかしら、あの幽霊女。素手で書くつもり?… )
状況を何も知らない舞衣と典子は、舞台に戻ってきた京子に期待の目を向けて見ている。
書道部の顧問は、「あら?筆は?」と怪訝そうな表情をした。
舞台上の書道部員達は、京子が筆モップを持っていない異変に気付き、心配そうな表情を長瀬に向けている。
雨は大降りになり、体育館の屋根を打つ音は轟音となっていた。
クライマックスを迎えているBGMと重なり、体育館の中に響く激しく荒々しい音像が、独特な重たい世界を作り出していた。
例えるならそれは、敗戦濃厚な合戦の最中、折られた刀で敵将へ切り込むずぶ濡れの武士の姿、といった心象か…。
京子は、紙に目を落とし、残った4行目、極大文字のための空白を確かめると、肩から赤いタスキを抜き外し、そしてあろう事か、自分の着ている体操着を脱ぎ始めた。
「ちょっ、え、ええぇえ!?」
長瀬は桶を持ったまま、驚きの声を出してしまった。が、轟音に包まれる会場にはほとんど聴こえない。
「あらま!小林さん!」
書道部顧問を始めとし、教員達が一斉にざわつき始めた。
「おい、あれ、演出の一つか?違うだろ?」
「脱ぐなんて、やめさせないと。」
舞衣もさすがに気付いた。
「あれ?ちょっと、下着、スリップ出てる!何してんの京子!?」
舞台上では長瀬が部員に叫んでいる。
「誰か、誰か上着、ジャージかなんか、取ってきて小林さんに着せて!」
富沢と羽須美がいち早く、同時に舞台裏へ走った。富沢は羽須美を制し、
「大場さん、とりあえず君は舞台におって、な。」
そう言うと、舞台裏に置いておいた自分のジャージを掴み、舞台上の方へまた戻った。
実嶺は、一人だけ、この体育館にいる全員とは違う感情にとらわれていた。
それは、恥をかかせて思惑通り、とか、そういった気持ちとは全く無関係な、別の感情だった。
まさか、もしかして、あいつ…
京子は脱いだ体操着を両手で持ち、紙の余白と見比べながら何かを測っているようだった。
舞台へ走り込んできた富沢が、よろけながら、京子の背中からジャージを彼女の両肩にはおらせた。
「京子ちゃん、あかんて、これ着な。」
京子は、右肩を上げ下げし、左腕のひじを軽く動かすと、
「じゃま。動きにくい。」
と言って、掛けられたジャージを後方へ落とした。
袴をはいているものの、上半身はスリップ姿である。
「長瀬くん、私の右側に。」
「いや、小林さん、そのかっこはマズイ…」
そう言いながら京子の右側から近付いた長瀬の持つ桶に、京子は両手で持っていた体操着をジャブっと墨へ一気に漬けた。
「うああ…」
うろたえる長瀬をよそに、京子は紙の余白をキッと横目で睨むと、スーっと体操着を桶から上げ、左足を少し前に出し、腰を据えて、墨で真っ黒になっている体操着をそのまま斜めに振り下ろした。
ビタンッ!
紙に叩きつけられた黒い体操着は、そこから左下に向かって払われた。
大きな『ノ』の字が書かれた。
そして、フワッと持ち上げられた体操着は、その下に再びビタンッと叩きつけられ、今度は右真横に向かって引きずられた。
『ノ』の下に『一』。
体操着で文字を書く京子の姿は、会場にいる全ての人の度肝を抜いた。
そしてそれは、扇を使う演舞のように見え、また、赤い布を振るうスペイン闘牛士のようにも見えた。優雅さと華麗さがあり、見る者の目を奪った。
「あいつ、やっぱり…あれを試してるんじゃ…。」
実嶺の頭には『フォント特性と毛筆の関係性』がよぎっていた。
例えば明朝体をフリーハンドで描くとき、蛍光ペンなどによくある先を斜めにスパッと切ったような平らなペン先が良い、とされる説が昔あった。それは毛筆の書道とは一見関係がないことに思えるが、文字の表情を豊かにする表現力を追求していくと突き当たることで、毛筆で出来ること、出来ないこと、というテーマに関連する。
体操着のような四角い布は、太さの操作は困難だが、均一な直線の引きやすさにおいて毛筆に勝る。
そして、折りたたんだり広げたり、を、書いている最中に調節できるとしたら、書体表情を変えていくことが出来る。
実嶺は、なんとなくだが、京子は追求している方向性が自分と似ているのでは、と常に感じていた。
それは『教育書道』の皆伝から『芸術書道』の探求へと進む道。
今となっては、それは腹立たしい以外の何物でもないのだが…。
「長瀬くん。」
呼ばれた長瀬は、京子の目を見て、桶を近付ける。もはや何も言うまい、小林さんのサポートを続けるのみだ。
ジャプッ
ビシャン!
ズズズ…
次いで書かれたのは縦棒。
次は左下への払い、そして右下への止め。
『禾』
続いてその右に『ム』が書かれ、極大文字の最初の一文字目となったのは『私』。
長瀬は思う。
4行目の決め文字は『飛翔』なのに…
もう、僕に彼女の暴走は止められない。自由にやってくれ、小林さん…
内心、京子のやらかすことに好奇心すら湧き始めていた。
京子は桶に体操着を漬けながら、富沢の方を向くと、言った。
「わ。」
富沢は京子を見つめたまま、目を丸くし、
「え?」
と聞き返した。
京子は、墨で真っ黒な右手を体操着から離し、書いた『私』の下辺りを指差すと、
「普通の太筆で。わ。」
と言った。
「あ、ああ、書くんか?わ?どんな漢字?」
「わ、じゃない、はひふへほの『は』。私は、の『は』。」
「あ、ああ、わかった。」
富沢は自分の筆に墨を付けると、『私』との位置関係を目測し、真剣な目で京子に聞き返した。
「この筆に合う大きさでええんやな?『私』よりだいぶ小さなるよ?」
「うん。いい。」
「よしゃ。」
富沢の手により、『私』の下に『は』が書き入れられた。
それを見やると京子は、正座している後輩達の方を向いて、
「二年生のみんな、はすみんさんも、もう一つ『私』書こう。体操着、なかなか良いよ。」
二年生はお互いの顔をキョロキョロと見合いながら、京子の言葉を飲み込めずにいる。
京子は、続けて言った。
「二年生、はすみんさん入れて5人だよね。のぎへん。5画。つくりは私書くから。一年生のみんなは、また今度ね。」
「あ、1画づつ、ですね?」
「うん。」
二年生は全員立ち上がり、一人づつ、京子の体操着を使い、残りの余白を埋める大きさをイメージし、1画づつ5人で『禾』を書いた。
先に京子が書いた『私』を見ながら、初めて扱う『体操着筆』で、不恰好ながらも書かれた『禾』は、一つ一つの画の表情が違う不思議なバランスの『のぎへん』となった。
羽須美の書いた最後の右への止めだけが妙に太く、羽須美は自分でクスクス笑ってしまった。
二年生は皆、手首から先が真っ黒になり、羽須美につられて笑った。
そして、京子が最後に『つくり』となる『ム』を書き入れ、書は完成となった。
二年生が書を起こしている間に長瀬は、
「小林さん、早く富沢のジャージ着て。」
と、落ちていたジャージを手渡した。
そして、起こした書の右側、客席から見ると左側、に富沢と並んで立ち、最初に書いた1m半紙を自分の前に掲げると、部員全員による読み上げを始めた。
『無限の可能性を秘めて』
『十人十色に咲き誇れ』
『そこが荒野でも嵐が吹き荒れても』
『私は私』
『七色の虹が如く』
『世界を翔る七中生』
「以上、書道部の即興パフォーマンスを終わります!」
長瀬の締めの言葉に続き、全員で一礼する書道部に、会場より大きな拍手が贈られた。
『私は私』という巨大な文字。一つ目の『私』は、横棒が細く縦棒が太い明朝体のようなスッキリした文字だが、どことなく色気のある「揺らぎ」を携えている。
『は』は小ぶりに書かれているが、『私』の書体に合わせて楷書よりに書かれており、見事にその役割を果たしている。
二つ目の『私』は、1画1画がバラバラにヨレており、太さに統一感もなく、それが逆に『十人十色』を表しているようで、期せずして、観客には「意図した不恰好」に見えた。
すでにBGMは曲が終わっており、雨音も弱まっている。
27分を使い、割り振られた時間を7分オーバーしていた。
舞台裏へ戻ると、顧問教師が立っていた。
「長瀬君、小林さん、どういうことなの!?」
長瀬が精魂尽きた表情で答えた。
「筆モップが壊されていて、すみませんでした。」
京子が上目遣いで答える。
「こうするしかありませんでした。」
顧問は腕組みをし、深刻な顔で、
「父兄の皆様の前で、生徒が下着姿になるなんて、大問題ですよ。私も処分を受けなければならなくなります。」
と言い、部員全員を手招きし集めると、小声でこう続けた。
「ですからね、小林さんが体操着の下に着ていたものは、あれは下着ではありません。キャミソールです!もしくはタンクトップ。前衛的な書道の衣装として。演出の一つ。そういう事で口裏を合わせます。いい?」
いや、完全にスリップでしょ、と女子全員が思ったが、
「はい。」
という返事をもって、書道部全員、羽須美も含め、シラを切り通すことに決まった。
最も気疲れした長瀬は、なんとか事無きを得そうな流れに心底ホッとしていた。
会場の席では、実嶺が、敗北感のようなものを感じると同時に、心の奥底に押し隠している京子への嫉妬心が頭をもたげてきているのを抑えられずにいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
文化祭のプログラムが全て終了し、生徒達が後片付けに追われる中、書道部の部室では壊されていた筆モップを前に、顧問教師と三年生3人が対処を話し合っていた。
「演技開始の時は壊れていなくて、僕と小林さんが舞台から取りに戻った時にこうなっていたので、その10分弱の間、ってことになります。」
長瀬の状況説明を聞き、顧問が言う。
「ともかく、備品を管理する立場としては、誰が何の目的でこんなことをしたのかを学校に報告しなければなりません。全学年全クラスに通達しヒアリングを依頼します。」
それに対し京子が聞いた。
「これやった人、どうなるんですか?」
「動機や理由にもよるけど、弁償というかたちになると思います。場合によっては反省文を書いてもらい、私が書く始末書に添付することも。」
顧問の答えを聞いた京子はしばらく考えてから、こう言った。
「私、弁償をお母さんに頼んで、反省文書く。」
顧問は驚いた顔で言った。
「ええ?あなたがやった訳ではないでしょ?」
「そや、京子ちゃん、僕らは被害者やで。なに言うんや。」
富沢も驚きの表情をした。
長瀬が京子の顔を見て聞いた。
「小林さん、もしかして犯人を知ってるとか?かばってるんですか?」
「知らない。だけど、管理、使ってる間は私だし…それで、その…」
京子は言葉を詰まらせたが、正直に思っていること話した。
「…えと、多分、私が使うことになったから壊されたと思う。私じゃなかったら壊されてなかった。」
「誰に?」
顧問がさとすようなニュアンスで聞く。
「だから、わからないけど、私を恨んでる人…」
「心当たりがあるのね?」
顧問は努めて優しく聞いたが、京子は下を向いて首を振るだけであった。
2年半の間ずっと京子と接してきた顧問、長瀬、富沢の3人は一様に思った。
京子は人をおとしめたり、悪口を言ったりしたことがただの一度も無い。
何かを知っていても、他者が不利になることは自分の口から決して言わない。
抱え込み、自分で背負い、処理しようとする子だ。
こういうところにおいて、京子の頑なさは、誰にも破れない。
富沢が口を開いた。
「そか。タンクトップの嘘もあるし、ここまで来たら一緒や。僕が壊した!僕が反省文書く!」
「待った。富沢君はあの時舞台裏に行ってない。壊したのは僕だ。うっかり転んで、持ち手折れて、筆先を踏んでバラバラになった。部長として僕が負う!」
長瀬が意を決したように言い放った。
「だめだよ長瀬くん、私の責任。」
京子が顔を上げて言う。
3人のやり取りを見ていた顧問は、額に手を当て、こう言った。
「まったく、あなた達は…。解りました。ではこうしましょう。長瀬部長が触った時に、老朽化していた筆モップが壊れてしまった。いい?壊した、ではなく、壊れてしまった。折れた部分にはもともとヒビが入っていた。筆先もボロボロで、いつバラけてもおかしくない状態だった。」
額の手を下ろし、三年生3人の顔をそれぞれ見回してから、
「反省文ではなく、報告文として、長瀬部長が書く。その報告文には、『部長の報告に相違なし』と富沢君と小林さんも一筆入れること。私は備品買い替えの申請を出します。いいですね?」
と言い、苦笑して見せた。
「はい!有難うございます!」
と長瀬が返事をし、富沢と京子も頷いた。
最後に顧問はこう付け加えた。
「ただね、小林さん、この事だけは頭に入れておいて欲しいのだけれど、備品を故意に損壊させることは軽犯罪に当たることなの。学校としては再犯防止策を打つのが普通です。何か思い出したことがあったら、必ず私に教えてくださいね。」
「はい。」
京子はうつむいたまま弱々しく返事した。
一通り後片付けを済ませ、書道部は解散し、京子と羽須美が部室から廊下へ出ると、舞衣、亮子、典子の3人が待っていた。
舞衣が二人に駆け寄り、抱きつかんばかりに言った。
「京子ー、はすみーん、二人ともかっこよかったぁー!でもはすみん、書道部に移籍とかダメよ!バスケの試合に袴で出るのもダメよ!京子はもっとダメ!人前でスリップになったらだめ!でもハイタッチ!」
両手を挙げて向かってくる舞衣に、怯えたまま耳を立てているウサギのように応じる京子は、慌てて言った。
「舞衣さん、下着の話はダメ。あれはタンクトップ。衣装。じゃないと問題になっちゃうんだって。」
「あら、そうなの?でもモロにスリップだったよね?」
「だからダメ。しっ。」
「そうですっ。しっ。」
京子は苦笑しながら人差し指を口に当て、羽須美も真似して指を口元に立てた。
その手は、二人共、手首から先が落ち切らない墨でうっすらと灰色に染まっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
文化祭の翌週、火曜日の放課後。
三年三組の教室で、実嶺はカバンに教科書類をバサッバサッと詰め込みながら、沈んだ面持ちで考えていた。
書道部の筆モップの一件、昨日も今日も音沙汰なし…
学校は犯人探しをしているのかしら?
私が下級生の男子にやらせたこと、バレないとは思うけど…
ホームルームで話題にも出ないのは不気味…
席から立とうとした時、後ろから誰か近付いてくる気配に気付いた。
振り向くと、小林京子だった。
無視して立ち去ろうととする実嶺に、京子が話しかけた。
「あの、あのね、」
「帰るんだけど。どいて。」
「あの…」
京子は下を向いて、小さなメモ書きを差し出した。
「ああ?何それ。」
吐き捨てるように言う実嶺の机に、そのメモ書きを置くと京子はそそくさと教室を出て行った。
「うざ…」
そう言って実嶺は、メモ書きを見ずにクシャっと丸めると、京子の机の方に投げた。
教室を出ようとした実嶺は、筆モップに関することかも知れないと思い、投げたメモ書きを拾いに戻り、広げてみた。
『よかったら書道部部室に来て。今日は私しかいないから。小林』
なにこれ。
行くわけないでしょ、今更。
嫌がらせのトラップでも仕掛けているのかしら。
実嶺は、『今日は私しかいないから。』の部分を見て、確かめに二組を覗きに行った。富沢のクラスだ。
富沢はまだ教室におり、数人の男子と雑談をしていた。
「ねぇ、富沢。」
声を掛ける実嶺に、振り向く富沢。
「あ?なんや福ちゃん、珍しいな。」
「あれ、今日、部活は?」
「ああ、休部の日や。行かんで。どした?書道部に戻るんか?」
「いや、戻らないけど、そう。ふぅん、休部ね。」
実嶺はそう言うと、いなくなった。
「なんや、あいつ。戻りたそうな顔して。」
富沢は、内心、なんとなく筆モップの一件に福元実嶺が関わっているような気がしたが、終わったことを詮索する気はなかった。
実嶺は中央階段を降り、二階で立ち止まった。
階段の正面に伸びている渡り廊下を行けば、書道部の部室がある。
このまま一階まで降りれば何事もなく下校だが…
私、逃げてる?
違う。あんな女、無視よ。
部室でなにしてるのかしら。気持ちの悪い。
そうだ。きっと、本番直前で筆モップが使えなくなったことをイジイジと責めたてる気だ。
「ふん。返り討ちにしてくれるわ。」
実嶺は渡り廊下を北校舎へ向かい、つかつかと歩き出した。
書道部の部室に着き、引き戸に手をかけた実嶺は、自分の手が震えていることに気付いた。
なによ。
証拠なんか無いんだから。
でも、休部といっても、顧問がいたらどうしよう。
卑怯な女…卑怯?
実嶺は、京子が卑怯とは無縁な性格であることを知っている。嘘をついたところも見たことがない。
震える手を抑え、思い切って引き戸を開けた。
カラカラカラ…
恐る恐る中を覗くと、壁一面に書が貼られていた。
よく見ると、それは一年の時に実嶺が書いた書写であり、全ての書のすぐ横に、全く同じ文字が書写された別の書が並べて貼ってある。
それには『小林京子』と名が入っている。
実嶺は一歩、部室に入った。
1年9ヶ月振りに入る部室は、記憶の中の部室と何も変わっていなかった。
墨汁の匂い、道具棚、畳と長机…
その長机に向かい、正座している京子がいた。
よく見ると、壁に貼られている書は、実嶺が一年の時にこの部室で書いたものだけではなかった。
去年、実嶺が二年生の時に校外の書道クラブから出展した全国書写書道展の作品が、原寸大に印刷されて、貼られている。
実嶺が「なんのつもり?」と言おうとした時、京子が口を開いた。
「やっと、福元さんに追いつけそう。やっと少し余裕できた。いろいろ話したいな、福元さん。」
何よ今更、と言おうとした実嶺の目に、涙が溢れてきた。
ちょっと雨降る文化祭
【完】
舞衣ちゃん、人の世話焼きばかりに走り回っているようですが、受験勉強は大丈夫?四字熟語や故事ことわざ、ちゃんと覚えましょうね。
京子ちゃん、あなたの器の大きさにびっくりです。でも、真っ黒にした体操着、またお母様に叱られないか心配で夜も眠れません…。