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チョコレイト・ディスコ

山中さんはお茶にうるさい。

多分、山中さんの入れるお茶は何か違うレベルの味なのだろうと思う。飲んだことないから分からないけど。そもそも山中さんとは働く部署が違うのだ。

設計と事務、やってる仕事は全然違うけれど机のシマは隣同士。だから、僕の机からでも首を伸ばせば山中さんの席だって見えるし、声だって聞こえる。

他社から電話がかかってきた時の甘く味付けされた声、おやつの時間に「これおいしい」って驚いた声、そして新人の女の子を制して「私が入れてくるよ」と席を立つ声。そういう声だ。

しかし、お茶くみは新人の仕事じゃないか。僕だってそう思う。そんな面倒な仕事、誰だってやりたがらないだろう。確か最初の数週間は新入社員にお茶を入れさせていたのだ。

「久しぶりの新入社員だ、これで私にも後輩ができたのね」って喜んで、「全ての基本はお茶くみなのよ!」って宣言していた。

そこからしばらくはダメ出しの日々だった。よくもまぁそんなに指摘できるものだと思うくらい、お茶についての様々なツッコミが給湯室から聞こえた。

「お茶熱すぎるよー。口の中火傷したら最悪だよ、社食のラーメン食べられなくなっちゃう」から始まり、

「出す時間長いと思う、変な雑味が出てきちゃいそうで見てられないよー」、

「二杯目には二杯目の入れ方があるの、一杯目と同じやり方だとすごい薄いんだよ。お茶の気持ちになってみて」

「課長は濃いめが好きだから絶対に一番搾りなのよ、忘れちゃダメよ!」

といった様相だった。新人をいびることでお局様への道が開かれる! と息巻いているような。

でも、「山中さんが入れてみてください、私、おいしいお茶飲んだことないからどんなものだか分からない」と若干尖った声の新入社員の声に、

「いいよ、こう入れるんだよ」

と見本を見せてから様相が変わった。

「あれ、本当においしい」と驚いた声の新入社員に、

「でしょ、入れ方次第で味ってこんなに変わるんだよー」と山中さんは満足げで、

「今の私にはこんなレベルのお茶は無理です、研究のために、もうしばらくの間だけ山中さんのお茶を飲ませてください」などという見え透いたお世辞に、

「うん、努力して、技を盗んでよね」と答えていた。

いいのかそれで。なんか騙されてないか。そんなことを思ったのを覚えている。

結局、それからずっと山中さんがお茶くみを続けているのだ。別に本人が満足ならばそれで良いのだけれど。



ある日、試作用図面を工場に渡して帰ってきたときのこと。冷え込んで、また雪でも降りそうな天気だった。暖かいものを飲みたくて給湯室へ向かうと、そこには山中さんがいた。そして噂の新入社員も。そうだ、上村さんだ。名札を見てようやく思い出した。

「あー高井くん、ちょうどいいところに来た。一個お願いがあるんだけど、聞いて」

挨拶をする間もない山中さんの言葉。いつもと変わらないふわふわしたしゃべり方だけれど、有無を言わさない迫力がある。

「いいですよ、お願いの内容によりますけ「じゃあこのお茶を飲み比べてほしいんだけど」

食い気味で返された。「飲み比べて、どっちがおいしいのか判定してほしいの」

見ると、両手にはそれぞれカップがある。リラックマの湯飲みとクリーム色のマグカップ。どうでも良いけど、白くてきれいな指だな。

「高井さん、権力に負けちゃだめですよ。自分の気持ちに正直に、おいしいほうで選んでください」

傍らの上村さんが拳を握り締める。随分すごいことを言うね。

「すごい自信だね、上村さんも」

「当たり前ですよ、この10か月間ずっと練習してたんですから」

「それだけじゃ埋まらない差ってあると思うよ。アヤちゃん、私が一体何年間お茶を入れ続けてきたと思ってるの」

半ば乱暴に差し出される二つのマグカップ。人はこれをハーレムというのか。だとすると、それは随分怖いところなんだな。漫画だったら目に見えない火花がばちばちと音を立てているところだけど、現実のハーレムはただひたすらに寒い。外よりも鋭い冷気が吹き荒れている。

選択を間違えたら刺されそうだ。いや、手持ちの凶器は急須か湯飲みしかないから撲殺か。

まずリラックマの湯飲みに手を伸ばす。外から帰ってきた体にしみる。暖かくておいしい。

次にクリーム色のマグカップに手を伸ばす。こんな寒い給湯室の中でしみる。暖かくておいしい。

ちらりと目を上げる。僕の手の動きをじっと見て今か今かと答えを待ちわびている風情の二人。すっと深呼吸。こんなの答えは決まっている。

「どっちもおいしいです」

空気がほどける。その返答にあからさまに不満そうだったのは山中さんだった。

「どっちつかずの日本人的な答えだねそれ」

でも、そんなことを言われてもしょうがない。「だって、僕は寒い中で耐えてたんですよ。外はまた雪でも降りそうですよ。暖かいお茶なら何だっておいしいですよ」

上村さんはそれに追い打ちをかけるように、「高井さんの言ってることの意味が分かりますか? 料理は技術じゃありません、心なんですよ山中さん。確かに私の技ではあなたに太刀打ちできないかもしれない。けれど、寒がっている高井先輩を暖めることはできるんです。人が何を欲しがっているか、それを置いてけぼりでは心に響く料理なんてできないんです」

山中さんは気付いたように目を見開く。「私のお茶には心が足りなかったっていうの……?」

「そう、それが山中さんの敗因です」ゆっくりと諭すような上村さんの声。

「分かりました、今回は私の負けでいいわ。でも高井君、覚えてなさい。次こそはあなたを感動させるお茶を飲ませてあげるから」

そして僕の手元からリラックマの湯飲みを奪い取ると、躊躇なく飲んで、何かに頷いてから歩いて行ってしまった。

いいのかそれで。なんか山中さんが凄まじく負けたみたいな流れになってるけど。

「高井先輩、ありがとうございます」嬉しそうに手を握ってきたのは上村さんだった。白くて細い山中さんの手とは違う、小さくてふっくらした手。「これでようやく、お茶くみの仕事を任せてもらえますよ」

「何、お茶くみの仕事を争ってたの?」

「はい、ずっとお茶をおいしく入れる練習してたので、山中さんに挑戦したんです。誰か通りがかった人に飲ませて、どっちのお茶をおいしいって言うか」

「真面目なんだね、お茶くみの仕事なんてふつう誰もやりたがらないよ」

「いや、そんなことないです」首を振って、心もち小声になる。「私、気付いたんです。お茶くみをしてる30分も、取引先に怒られている30分も同じ勤務時間じゃないですか。その真理に気づいてしまったからには、絶対に簡単なほうをやりたいんです」

「なるほど」思った以上にしたたかな子だな。

「高井さんだから言うんですよ。なんか話しやすそうだから」

「そう、別に誰にも言わないから安心していいよ」

「じゃあ、ついでにもう一つ。秘密を教えてあげます」今度はこそこそと、耳元で囁くように。「私のお茶、置いてあるやつじゃなくて、じつは黙って高い玉露を使ってたんですよ」

おいしかったでしょ。そう言い残して上村さんは行ってしまった。

いいのかそれで。

味の違いなんてよく分からなかった。温かければよかったのだ。でも確かに、言われてみるとどちらもおいしかったような気がする。



それからしばらく、山中さんとは何となく冷戦状態みたいになってしまった。挨拶をしても返ってくるのは会釈だけで、目さえ合わせてくれない。別に悪いことしたとは思ってないんだけど。

そんな状況でバレンタインデーがやって来た。

山中さんは、去年はイタリアの何とかいうおいしそうなチョコレートを配って回っていた。部署が違うからもらえなかったけれど、雪の日の一件もあったし今年はくれるんじゃないか、そんなふうに期待をしていたけれど。今の感じだとくれそうにない。

バレンタインデーなのだから、おいしいチョコレートが食べたい。山中さんが配るはずの、きっと甘いチョコレート。

そんな日に限って仕事は積もる。資料作りや手直しの電話や急ぎの注文や。

3時のおやつに山中さんがチョコレートを配るのを横目で見ながらパソコン仕事。今回はフランスのチョコレートらしい。いいな。

『僕は酒飲みだから甘いものあんまり食べないけど、ミキちゃんのくれたチョコレートはおいしいよ。こういうの詳しそうだしさ』

『山中さんがくれたってだけでおいしい気がするよ』

なんだそれは。味が分からないなら欲しいんですけど。

そんな気分で進めた仕事は残業時間になっても終わらない。なんなんだよこれは。

次々と人が帰っていくのを横目で見送る。

「高井さん、仕事に埋もれてますね」

その声に振り返ると、机の横に立っていたのは上村さんだった。黒いボブを揺らして、残業時間でもいつもと変わらない元気な笑顔。

「バレンタインデーのチョコあげます」手には、お茶とチョコレートがたくさん載ったお盆があった。「普通のじゃないですよ。高井さんには特別なやつをあげます」

特別なやつ。一瞬すごく期待したけれど、上村さんが手渡してきたのはビッグサンダーだった。

「他の人には普通のブラックサンダーなんです、だから内緒」

一目で義理と分かるチョコ。ブラックサンダーがそうならば、ビッグサンダーはどうなのだろうか。

まぁ一緒だろう。

けれど、疲れてるときにはそれでも有難い。

「ついでにお茶もあげます」そんな心遣いまでしてくれるなんて、なんと良い子なのだろうか。

「これも玉露なの?」

「はい。せっかく買っちゃったんで、無くなるまでは使いますよ」

楽をするためとはいえ、誰かにあげるために自腹まで切るなんて、ある意味で真面目なのかもしれない。

ありがとう、と受け取ると、「じゃあ私は残業用のお茶を配ったら帰れるうちに帰っちゃいます」と手を振りながら去っていく。

玉露だというお茶に口を付ける。確かに言われてみると普通のお茶とは違う。あまり苦くなくて、代わりに濃厚な味が広がる。言ってしまえば、お茶漬けにしたくなるような味。

凝縮した高級感のようなものがあって、とても良い。仕事中なのに落ち着いて、気が抜けてしまう。こんなんじゃ仕事をする気にならない。

もう帰りたい。チョコレートももらったし。

「高井くん、椅子に埋もれてるよ」

後ろから声をかけられた。

ふり向くまでもなく、それが誰だかはわかる。覚えのある薔薇の香水がふわりと舞ったのだ。まるで春みたいだ。

「気が抜けすぎだよ、これでも飲んで気合い入れたほうがいいよ」

と、後ろから差し出されるお茶。僕の机の上で再び相まみえる、リラックマの湯飲みとクリーム色のマグカップ。

「机の上がお茶でいっぱいになっちゃったんですけど」

弱々しい抗議の声に、ようやく山中さんは気付く。いや、気付いたふりなのだろうか。

「うーん、無理して飲まなくても良いと思うよ、トイレに行きたくなっちゃうし」小首を傾げた山中さんの声。「それよりも、ねぇ高井くん、チョコレート食べたい?」

「チョコレート? 3倍返しを要求する義理チョコですか?」

「まさか、そんなわけないよ」山中さんはゆるやかに首を振る。

「義理じゃないんですか」という僕の言葉に、もちろん、と山中さんは答える。

「恩義がある人に渡すから義理チョコって言うんです。あなたにチョコを渡す義理なんてない、少なくとも今の私には」

「はぁ」なんだそりゃ。

「そんなあなたにはこれをプレゼント」

制服のポケットからピンク色の袋を取り出す。開けてみると、中には丸いチョコレートが5個入っていた。

「義理チョコに買ったヴァローナに比べたら安物も良いところだよ。だって手作りチョコを作った余りだし、もとは78円の森永ミルクチョコレート」

こんな安物で良いならばどうぞ。そんな言葉に促されるままにチョコレートを口に入れる。

おいしい。キャラメルたっぷりのガナッシュを包む、クリームが強いミルクチョコレート。口に入れた瞬間に、チョコレート自体が熱を持ったみたいに溶けてしまう。

「何これ、すごくおいしいんですけど」

「あとはお茶だよ、甘いものには絶対にお茶が必要なんだよ」

手に持っていたマグカップと、山中さんが持ってきた湯飲み。どちらを飲むか一瞬迷うと、

「飲み比べてみるといいよ。この前はたまたまコンディションが悪かっただけで、今回は負ける気がしない」と言う。

では、と手に持ったマグカップをそのまま口に運ぶ。口に含んだ瞬間に気づく違和感。

え、なんだこれ。全然おいしくない。

さっきまで上品な泡みたいだった濃厚な味が、今は何かトゲトゲしたものに思える。多分キャラメルの残り香と喧嘩しているんだ。

でも、逃げるように口に含んだ山中さんのお茶は違った。キャラメルの甘みも、濃厚な玉露の味も、全てを包み込んでくれる。

そして、またさっきの甘いチョコレートを食べたくなる。

にこにこと微笑みながら見ている山中さんに、正直に言う。「山中さんのお茶のほうがおいしいです、間違いなく」

「ありがとう」と満足げに頷く。

「あの子のお茶は自分を主張しすぎなんだよ、いろんなものと喧嘩しては抑え込んでいくみたいなお茶。だけどお茶ってそういうものじゃないの。結局最終的には、何が相手でもゆっくりと寄り添ってくれるような落ち着いたオトナのお茶に帰ってくるんだよ、誰でも。玉露なら煎茶に勝てると思ったら大間違い」

玉露だって気付いていたのか。

山中さんは、くれたはずのチョコレートの袋に手を伸ばす。そして小さな口でかじりつく。ちょっと甘く作りすぎちゃったかな、と独り言を言いながら。

それを眺めながら僕は気付く。

「そういえば、このチョコレート、手作りって言ってましたよね。余りものだって」

「うん。あと誰にあげるか知りたい?」

「あー……いや、別にいいですけど」ニコニコと笑う山中さんの顔は、口に入れた瞬間に溶けてしまうチョコレートみたいにやわらかい表情で、なんだかそれが悔しくて言葉を濁す。

「内緒だよ」まるで歌うように、嬉しそうに山中さんは言う。「今のあなたに教える義理はないもの」

そうですか。

まぁ別にいいけど。おいしいチョコがもらえたならばそれで。

残ったチョコの一つに手を伸ばす。やはりチョコレートは甘くなくてはならない。




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