4、魔の魅惑
目が覚めると、枕元に"参謀"が立っていた。
「魔王様がお待ちです」
相変わらず、その声は冷たい。とにかく魔王の言うとおりにさせる、それ以外の感情はわかないようだった。
突き刺さるような視線に急かされ、いやいやながらに服を着る。その上、香りを付けた水を霧のように吹き付けられて、正直気分が悪い。
「俺、女、違う。匂い、つける嫌だ。晴れ着、祭りの時、着るやつ」
「魔王様の前では正装が原則です」
準備が整うと、参謀は振り向きもせずに外に出て行く。赤い廊下を早足になりながら付いていくと、昨日の食堂があった場所を通り過ぎてしまう。
「あれ? ここ、違うか?」
「今朝は中庭でと申されておりました」
しばらく進むと、左手側の壁が全て透明な壁に変わった。水晶の様なそれが、"ガラス"と呼ばれるものであることは、昨日魔王に教えてもらっていた。
「では、中へ」
壁の一部は扉になっていて、女がシェートに道を開いてくれる。
一歩進み出ると、草の匂いが鼻腔に染み渡った。
懐かしいとも思える緑の香りに、思わず深呼吸すると、すでに席についていた魔王は、上機嫌で話しかけてきた。
「その様子なら、もう加減は良いようだな」
今日の机は長方形ではなく、大き目の丸いもので、魔王と自分の二人分の椅子がしつられられている。
「テレビやパソコンのモニターは、見慣れないものが見続けると、気分を悪くする場合がある。一晩休めば回復するものだが、大事がなくてよかった。」
席を片手で示しながら、魔王は笑顔で給仕を振り返る。
「とはいえ、今朝のメニューは軽めのものがよかろう。ポリッジでも出してやれ、俺にはガレットを頼む」
耳慣れない言葉を聞き流して椅子に座ると、給仕が昨日とは違う香りの紅茶を注いでくれた。匂いは控えめで、先に入れてあった蜂蜜の香りが漂う。
舌をつけると、甘みと暖かさがじんわりとしみた。
しばらくすると、白い深皿に暖かな麦の粥が運ばれてくる。その側に、蜂蜜や、少し生臭さを感じる茶色い粉の入った小さな器が置かれた。
「この粉は?」
「ああ。粉末のだしだ。少しだけポリッジに入れて食うと美味いぞ」
魔王は、何かの粉を生地にして薄く焼いたもので、魚の燻製や野菜を包んだものを食べている。気持ちとしてはあちらも食べてみたいが、そのまま粥をすすることにした。
「しかし、お前は物怖じしないな。その大胆さは生まれつきか?」
「違う。一杯怖い目、あった。だから、驚くの、泣くの、あんまりなくなった」
「なるほど。試練によって鍛え上げられた、というわけか」
蜂蜜入りの粥は口に優しい。病気のときでもなければ、食べさせてもらえなかった贅沢品に、薄れ掛けた家族の思い出がよみがえった。
「そういえば、昨日は俺のことばかりで、お前のことを何も聞けなかったな。今日は一日シェートの話を聞いて過ごすことにしようか」
「嫌だ、言ったら?」
「どうなると思う?」
氷のように冷たい参謀の視線が、魔王の背後から突き刺さる。対して青年の目は、どこまでも優しそうに細められていた。
「お前、ずるい」
「ずるいも何も、それが捕虜と言うものだ。それが嫌なら、必死に俺の手から逃げ出す方法でも考えるのだな」
とはいえ、この底知れない存在を出し抜く方法はまだ分からない。無駄だと知りつつ、シェートは一番気になっていることを問いかけた。
「フィーとグート、どうしてる」
「生かしてある。特にあの仔竜は面白い、お前に次ぐらいに、いろいろいじって遊んでみたいものだ」
「本当か?」
「奴らはお前の枷だ。生きているなら足手まといだが、死んでしまえばただの肉。打ち捨てられて終わりだからな」
どこかで聞いたような理由に、シェートはどっと疲れを感じた。騙しあい、腹の探り合いなどは、自分の手に余る。
「そういえば、お前の神の名はなんと言う? どういういきさつで、神はお前を拾い上げたのだ?」
「それは――」
口を開きかけ、シェートは昨日の研究室を思い浮かべた。
神と勇者の力を調べ、魔王の力にする場所。ここでサリアの存在を知られれば、自分が不利になるだけだ。
「言えない。お前、俺の神、わかる。調べて、秘密探る。俺、余計弱くなる」
「ふ……は……ははははは」
朗らかな、心の底から楽しんでいるといった顔。
青年はわずかにはにかんで、自身の失態を述べた。
「これはしまったな。こんなことなら、研究所など見せなければ良かった。お前にいらぬ警戒心を持たせてしまったようだ」
「お前、馬鹿にしすぎ。俺、秘密、絶対喋らない」
「そうだ、それでいい。俺を出し抜こうと言うなら、そのぐらいの用心が必要だ」
椅子に背を預け、魔王はくつろいでこちらを眺める。伸びた枝から差し掛かる影の下、青年の顔には一切の憂いがなかった。
「だが、気にするなと言うのも、また酷な話だぞ? 最弱のコボルトをわざわざ勇者に選ぶ神、興味がわいてしかるべきではないか?」
「そんなの、俺知らない。お前、調べる、勝手」
「無論、そうするつもりだ。だが、そんな酔狂をしかねない、力ある神々は残らず場に出揃っていた。ならば破れかぶれの小神か? いやいや、連中にそんな賭けに出る度胸は無い。それとも新たに生まれた、世間知らずの愚か者か?」
うっとりと目を細め、魔王は笑った。
「知っているか、シェート。謎というものは、解き明かす過程にこそ面白みがあるのだ。お前を拷問し、情報を吐き出させない理由もそこにある」
こいつにかかっては、この世のあらゆる物が興味と関心の対象になるのだろう。子供の好奇心に暴君の権力、最悪の組み合わせだ。
「とはいえ、最良なのは、お前のその口から、お前の意思で、直に聞かせてくれるようになることだがな」
「ふざけるな」
「だろうな」
くつくつと笑いながら、魔王は紅茶を飲む。
「それでは、少々話題を変えようか」
目の前から食器が下げられ、朝食の席が歓談の場に変わって行く。シェートの器には新しい茶が注がれ、花を生けた壷が飾られる。
「お前は、どこで生まれた?」
「……え?」
「何を驚いている。お前のことを聞きたい、と言っただろう。生まれた場所、家族、仲間の話、そういった話をして欲しいのだ」
世界を恐怖に陥れる存在から問われるには、異質な質問だ。
何の意味があるのだろう、これも自分を陥れる罠なのかもしれない。
「ちょっとした世間話の類に過ぎん。言いたくないことは言わなくてもいい。どうだ、聞かせてくれないか?」
生まれた場所、家族、仲間、それらはもう、この世には無い物だ。
話したところで、死んでしまったものを、人質に取ることなどできない。生ける屍にしようとした所で、炭屑になるまで焼けた死体を使えるとも思えなかった。
それでも、何があだになるかも分からない。硬く口を結び、沈黙を選ぶ。
だが、魔王の方は、頑なな姿に、別の感慨を抱いたようだった。
「俺が憎いか」
「え……」
「コボルトを最低の境涯に貶め、生まれながらの隷属を強いた、暴君たる俺を、憎むが故の沈黙なのか?」
胸の内に、ふつふつと憤りが沸いた。
いくら友好的に話を進めようと、こいつが全ての苦しみの根源。そのことを思い出し、自然と口調がきつくなる。
「そうだ。俺、お前、嫌いだ」
「なるほど。では、その思いを俺に語ってくれ。憎いと思う理由を、世界がお前に与えた苦痛を、この俺にぶつけるといい」
自分がこんな状況に陥っているのも、元はと言えば魔王のせいだ。
苦しい胸の内を、シェートはかみ締めるように、口にする。
「お前……全部、悪い。コボルト、みんな、いじめられる」
だが、声に力が乗らなかった。
相手を糾弾するはずが、まるで哀願するような、苦しみに満ちた声になっていた。
「俺たち、ずっと山奥、隠れて暮らした。魔王軍、俺たち、奴隷する。だから!」
「お前の集落も、俺の軍が焼いたのか?」
「それ……違う。やったの、勇者」
過去の記憶が脳裏に蘇る。
燃え落ちていく村と、死んだ仲間達、最愛の人の惨い姿が、幻影となって視界に踊る。
「勇者、経験値、欲しい。だから……皆、殺した」
「お前のほかに生き残ったものは?」
「……いない。俺だけだ」
一人であること、その事実が急に思い出された。サリアや仲間たちから切り離されたことで、悲しみが掻き立てられたのかもしれない。
「俺、刺された。死に掛けた。それで――」
「神が救い、お前は勇者の力を手に入れた、ということか?」
「……ああ」
魔王は頷くと、席に身を預けた。手に入れた情報を吟味しているわけではなく、まるで哀悼を捧げるように、目を伏せていた。
「俺は最初、お前は神の酔狂から生み出された、異端の存在だと考えていた。いまだ知らぬ、隠れた実力者の遣わした駒なのだと」
「違う。あいつは」
危く口にしそうになった言葉を、必死に押しとどめる。雰囲気に流され、魔王の言葉に釣り込まれる寸前だった。
目前の青年は、こちらの動揺に気づかなかったのか、別のことを考えていた。
「酔狂ではなく憐憫。考えられぬことではない。しかし、非常に珍しいケースだ」
「俺と同じ、救われた魔物、いたか?」
「魔物ではないが、ごく初期に、死に掛けた現地の人間を救い上げ、勇者と成した神がいた。その後、現地の人間を使うことは禁じられたがな」
「なんでだ?」
考えてみれば、わざわざ異世界の人間を呼ぶ意味が分からない。自分の世界なら自分たちで守らせればいいはずだ。
「現地の人間を使うと、利害関係が生じるからだ。どこの国の某が世界を救ったのだから、この世界はその出身国のものだ、などと、下らない事態が起こるのでな」
「……そうか」
「異世界からの人間であれば、そうした軋轢を抑えることができる。あるいはその勇者の名の下に、世界を統治しても問題はない。何しろ相手は神の遣わした使徒だからな」
本当に下らない。
限りない陰謀、果てしない権力闘争、利益を貪るべく続けられる内輪もめ。
その中に巻き込まれて、コボルトは擦り切れ、使い捨てられていく。
「ため息か。まあ、無理もない。こんな下らぬことで振り回されるのではな」
「それ、お前もだ。魔王、魔物、戦わす。コボルト、振り回す」
「耳に痛いが、それは俺とて同じだ」
魔王は顔を歪めた。
そこにあったのは、限りない自嘲。
「考えても見ろ。汎世界の名だたる神々が、あれやこれやと趣向を凝らし、数百の単位で勇者を送りつけてくるのだ。対する俺はただ一人、どんなに強大な力を持っていたとしても、数という暴力に勝つことはできん」
「だから……お前、調べるか」
あれほど熱心に、自分とは関わりの無い遊戯のことまで調べ上げた理由。自分が生き抜くために、抗うための力にするために。
「お前もその身で感じたろう。勇者の力は、いともたやすく俺たちを殺しうる。はじめから、俺たちは負ける戦を強要されているのだ」
昨日のゲームを思い出す。
勇者たちの始祖も不死であり、魔王を殺すまで何度でもよみがえると聞かされた。逆に魔王は、一度死ねば二度とよみがえらない。
「ひどいな」
「ああ。実にひどい話だ。神は遊戯を開くごとに、いや増しに力を蓄える。翻って、俺たち魔物は、ひたすら奴らに絞られるばかりだ」
「そんなの、ダメだ」
こんなことが続いていいわけが無い。殺されるために生まれてくる命など、あってはならない。
そのために、俺とサリアは。
「そう思うならシェートよ。俺と共に来い」
「……え?」
魔王はすでに笑っていなかった。真摯な感情を込めて、こちらを見つめている。
「俺はこの遊戯に勝利し、神を殺すつもりだ」
椅子から立ち上がり、青年は空を見た。
痩せた体は、それでもしっかりと地を踏みしめ、細い指先が天へと伸ばされる。
「無論、ただひとたびの勝利では足りぬ。遊戯の続く限り、全ての勇者を鏖殺し、傲岸不遜な神々を焼き尽した先に、それは成るだろう」
その顔は、遥かな先を見つめていた。異形の目は日に輝き、強烈な意思と情熱に燃え立つようだった。
「お前は俺に似ている。弱き者として生まれ、誰かの都合で命を左右され、その運命に否と言ってのけたもの同士だ」
声は強く、深く、決然としていた。その威力が体を包み、その場に繋ぎとめる。
見つめる目の真剣さに、意識を反らすことができない。魔王の姿が大きく、視界一杯に広がっていく。
「条理に合わぬ遊戯を廃し、あらゆる勇者を殺さんと欲するなら、俺とお前の望みは共に等しい。ゆえにシェートよ」
日輪の輝きを、その背に負って、青髪の魔王はこちらに手を伸ばした。
「最も弱き勇者よ、この魔王の物となれ」
初めて会った日と、同じ問いかけ。
だが、あの時のふざけたような調子は微塵も無い。
こちらの存在を認め、その全てを欲しいと言っている。
もし自分が、魔王の仲間になったらどうなる。
自分の力は、自分だけの物じゃない。
サリアがこの場にいたら、なんと言うだろう。
『全て、お前に任せる』
シェートは胸元を強く握り、首を振った。
「断る」
女神は言った、全て任せると。共に戦ってきた仲間を信じると。
だったら自分も、サリアを裏切らない。
「俺、お前の仲間、ならない」
魔王の姿が、急に小さくなった。
実際には、ただ座っただけに過ぎない。それなのに、先ほどまでの強力な存在感が、すっかり失せている。
「なぜだ?」
「俺、神と契約した。破るまで、消えない約束」
「契約の破却は自らの意思で行えるはずだが」
魔王の問いかけに、シェートは笑った。
「俺、契約切る。そしたら、ただのコボルト。お前、弱いコボルト、欲しいか?」
少しからかってやろう、そのくらいの気持ちで告げた言葉だった。
青年の顔は、当惑と失望に歪んでいた。
「――――か」
「え?」
侮蔑をはらんだ囁きを吐き出すと、青年は無表情にこちらを見やった。
「興が削がれた。後は好きにしろ」
一切の感情を消したまま、魔王は草地を歩み、朝食の座を去っていく。
主人と共に参謀も席を辞し、給仕のゴブリンたちが一礼して台車と共にいなくなる。
取り残されたシェートは、呆然と全てを見送るしかなかった。
火の様な熱情から、唐突に氷の無関心へ変わる。本当に、子供のような気性だ。
なにより、最後に漏らした言葉が、シェートの耳に残っていた。
『操り人形か』
そんなことはない、心の中でそっと否定する。
神に操られていると、魔王は思ったのだろうか。だが、サリアと自分の間は、そんなものではない。
そんなものでは、無いはずだ。
「サリア」
青い空を見上げ、シェートはそっと手を伸ばす。
その果てに居るはずの女神に向けて。
「サリア」
だが、その呼びかけに答える声が、降る事はなかった。