3、実物提示教育(後編)
「この研究所には食堂が併設されていてな。仕事に疲れたとき、自由に飲食ができるようになっている。休憩時間は個人の裁量で、プロジェクトさえ進行していれば、何をしていてもいい」
本棚の群の奥へ歩いて行くと、また透明な仕切りが現れる。その向こうには、魔王のものよりは簡素な長机がいくつも置かれていて、制服を着た魔物たちが、厨房に向かって給食の列を作っていた。
「福利厚生は組織運営の要だ。十分な食事、適度な休息、そしてやりがいのある仕事。これらを与えてやれば、魔物だとても優秀な働き手となるのだ」
魔王は食堂には向かわず、その隣にあるこじんまりとした部屋に入った。同じく透明の仕切りで作られたその場所は、緑なす庭園が眺められる、落ち着いた空間だった。
「こうした施設も、勇者たちの世界を模して造ったのだが、実際、連中は天才的だ」
皮で張られた座椅子に腰かけ、魔王は再び、こちらに分かるはずもない解説を始めた。
「鞭を振るい、恐怖で縛り付けて働かせるより、食住の憂いを断ち、自分の存在が有用であると認めてやると、人は進んで、支配者に己を差し出すようになる」
「そ……そうなのか?」
「ではシェート、お前は奴隷になるのと、群の仲間と暮らすの、どちらがいい?」
「そんなの、群だ。決まってる」
「組織も同じだ。その群に属するものに"そこにいたい"と思わせる。ただ、お前たちのような血族社会と会社組織の運営では、働いている力学が違うがな」
会話を区切るように、給仕が台車で軽食を運んできた。奇妙な形をした壷が乗せられ、湯気と一緒に枯葉に似た香りが漂っている。
それ以外にも、パンに肉や野菜をはさんだものや、ごつごつした焼き菓子のようなものが、塔のように積み重ねられた盆に盛られている。
「"英国式"という奴だ。この世界で初めて開かれた、勇者と魔王の茶会、と言ったところだな」
二つの器に小さな"ざる"のようなものが掛けられ、壷から注がれる飲み物が漉されていく。予想したとおり、中身は枯れた葉を煮出したもののようだった。
「コーヒーよりも紅茶のほうが気に入ったか?」
「なんで、そう思う?」
「朝食のとき、眉間にしわがよっていたぞ。どうしてそんな、消し炭の汁を飲むのか、といった風情でな」
魔王はしきりに、中身を試してみろと勧めてくる。
仕方なく、シェートは煮汁に舌をつけた。
「まず、くない。風邪引いたとき、母っちゃ、煮た草の汁、作った。あれよりは」
「茶の葉、というのはそういう薬効を期待されたものでもあるからな。加えて、異世界の人間たちには、気分転換や精神の安定のため、酒の代わりに茶を喫する者も多い」
給仕が焼き菓子と一緒に、木の実のジャムを添えて出してくれる。ようやく見覚えのある代物を手にして、シェートはそのまま口にほおばった。
「ちなみに、俺が飲んでいたコーヒーも意味がある。食事の脂を落とし、精神を高揚させる効果を期待してのことだ」
「勇者、食い物、いろんな意味、あるか」
「連中は五感を楽しませることにも貪欲だ。そのためならなんでもする。それに比べれば魔族の単純な欲求など、清貧に等しい代物だな」
シェートはもう一度、紅茶に口をつけた。
複雑に絡み合った香りの中に、もぎたてのぶどうの皮を、口に含んだような風味が混ざりこんでいた。
「勇者、こんなの、飲むか」
「いや、さすがにそんなものを飲めるのは、ごく一部だろう。その一杯をあがなうのに、向こうの金で五、六千円はする。こちらの感覚で言えば銀貨一、二枚、くらいか」
おそらく、途方も無い金額なのだろう。そんな異世界の代物を再現させるのに、どれだけの時間と財をつぎ込んだのか。
そして何より、これまで見せられた勇者たちの背景に、コボルトは深く嘆息した。
「俺、着てるもの、履いてる靴、寝床、壁、天井、飯の時使ったもの、あれもこれも、みんな、そうなのか?」
「そうだ。この城はな、シェート、勇者たちの世界を模して作られているのだ」
空に浮かぶ巨大な岩塊、その中に隠されていたのは、この世ならざる世界の秘密。
勇者たちの住む場所、つまり『異世界』が、ここにあった。
「俺、勇者の世界、見せる。何、考えてる」
「さて……どうしてだと思う?」
魔王は茶を含み、それきり黙ってしまう。部屋の中には、シェートの知らない楽器で弾かれた、静かな音色が流れている。
返らない答えを探すように、シェートも紅に染まった湯を静かに舐めた。
「そろそろ行くか、資料室の最奥に」
「まだ、何かあるか?」
「嫌そうな顔をするな。とりあえず、今日は次で最後だ」
残された料理を振り返りもせず、魔王は部屋を出て行く。
「気になるなら、それは包ませよう。昼飯にでもするといい」
「あ……うん」
魔王が、朝のスープを何気ない調子で、捨てさせていたことを思い出す。
贅を凝らした食事、それを打ち捨てることにこだわりも無い姿。そんな態度に勇者たちの幻像が重なった。
あいつらも、こうして自分の身に付いた贅沢を、簡単に捨てられるのだろうか。
そうかもしれない、だってあいつらは。
「早く来い、道に迷っても知らんぞ」
古傷のようにうずいた、勇者への嫌悪を振り払うと、シェートは魔王の後を追った。
無数の棚の並ぶ資料室を抜けると、今度は灰色の壁が立ち塞がった。衛兵が立ち、誰も寄せ付けない空気で、周囲を警戒している。
「魔王様、お待ちしておりました」
「例の部屋を、客人に見せる。誰か使用しているものはあるか」
「ございません。では、これ以降、他の者の入室を禁じますので」
石の壁には、これまでとは違う金属の扉がついていた。魔王は服から一枚の板切れを取り出し、錠前のある辺りに近づけた。
小さな異音と共に扉が横に退く。中で明かりが点り、通路が続いているのが見えた。
「ここは?」
「これまでお前は勇者の世界全体を見てきた。次は、勇者の小さな世界を見せてやろう」
解答になっていない言葉にうんざりしながら、それでも青年と共に廊下を歩く。
その行き止まりに、妙なものがあった。
安っぽい木でできた、一枚の扉だ。取っ手は丸い金属でできていて、鍵穴らしいものがついている。
「開けてみろ」
「何で、俺が?」
「お前の手で開けろ。そのほうが、きっと楽しいぞ」
促されるまま、シェートは扉を開けた。
そして、その向こうに広がったものを見て、呆然となった。
「なんだ、これ?」
まず最初の印象は、狭い、と言うことだった。これまで見たどの部屋よりも狭く、息苦しささえ感じる。
長い四角の形をした部屋の中を、本棚や寝床らしい寝台、机が占拠して、座る場所もほとんど無い。壁を作る木材もどこか安っぽく、さっきの"ライトノベル"で見たような、女の姿を描いた紙が張られている。
机の上に載っているのは、魔物たちが使っていた道具だろう。今は光っておらず、暗い面をこちらに見せていた。
「さて、ここは何だと思う?」
魔王は床に座り込み、面白そうにこちらの様子を観察している。シェートは、小さな部屋をじっくりと眺め回した。
本棚には、さっきの資料室で見た本が、いくつも飾られている。それ以外にも、鎧姿の騎士のような人形が、透明な仕切りの奥で大事そうにしまわれていた。
「ああ……そうか」
部屋の中にある物の一貫性に気づき、シェートは答えを導いた。
「勇者の、部屋か」
「正解だ」
人形を目にしたとき、思いついたことだ。これは子供のための部屋、子供が好きなものを溜め込んで造り上げた、自分だけの世界だ。
「だからお前、勇者、小さい世界、言ったか」
「やはりシェート、お前は賢いな」
何気ない様子で、魔王の手が長細い物体を指で操作する。同時に、部屋の隅で黒く沈黙していた箱が、煌々と輝いた。
「本当は、テレビ局まで作って、アニメ専門チャンネルでも流してやろうと思ったが、部下が"帰ってこれなくなる"のも困るのでな、今は砂嵐の光景だ」
なにかえらく物騒な言葉を、笑いながら口にする。何を流すのかは知らないが、帰ってこれなくなるほどのものだから、おぞましい毒液か何かだろう。
嵐の雨のような音が、細かい砂粒と一緒に舞っている光景。それが一瞬で闇になり、再び光が蘇る。
同時に、軽やかな音色と共に、青く染まった。
「こっちへ来い。お前も少し遊んでみろ」
床に置かれた白い箱のようなものから、暗い赤色の板切れを取り外し、こちらに手渡してくる。
「あ、あそぶ? これを?」
青く輝く画面には、白と灰色の文字で、異国の言葉がつづられている。文字列の右端には剣が、左端の文字からは、竜が首をのぞかせていた。
「いいか、画面を良く見ていろ。後は俺の言うとおり、ボタンを押せ。まずは、これだ」
魔王の指示通り、見慣れない代物を動かして行く。画面は白と黒に移り変わる。
「最初に名前の入力だが……ああ、このころは長音記号が無かったな。ちと間抜けな名前になるが、仕方あるまい」
ボタンというものの動きは、画面の中の矢印と連動しているらしい。やがて画面は明るい茶色と灰色の光景を映し出す。
その中央に、ひときわ目立つ青い人型のようなものが映った。
「こ、これからどうする?」
「こんなメッセージは重要ではない。とっととボタンを押して飛ばせ」
わけが分からないまま、シェートはボタンを押して行く。最初は右手の丸いボタン、状況が進むと、今度は左の十字のボタンさえ動かすように言われた。
こちらの動きに反応するのは、どうやら青い人型だけらしい。そいつはこちらの指示に従って、画面をうろついている。
その光景に、閃くものがあった。
「これ、城……か?」
「そうだ。簡略化しているが、これは人間の城。お前はその、中央の人間を動かしているのだ。さて、そろそろ城から出て、装備でも整えるか」
画面はめまぐるしく移り変わる。城の二階から一階へ。その外に出ると、緑の空間が広がった。
「城の外……こんなのまで」
「そちらの灰色の絵が町だ。入って装備を整えよう」
こちらもひどく簡略だったが、言われてみれば人間の町だった。兵士や街の男女が、ちまちまとした絵で表現されている。
「人間の町、屋根無いか?」
「いろいろな事情があってな、無いものとして描かれているんだ。ああ、上から二番目と四番目を買え」
買えといわれているからには、これは商店なのだろう。こんな小さな世界の中に、虚構の町さえ構成する。これもまた『勇者の小さな世界』なのだろうか。
「さて、いよいよ本番だ。町の外に出ろ」
青い服の人間は、そのまま外に出て行く。そして、流れていた音が不穏なものに変わった。画面に青い球根のような物体が映っていて、男の姿は見えなくなっていた。
「あ!? お、おい、なんだ、これ!」
「戦闘だ。目の前のコイツが、お前の動かしている男を殺そうとしているのだ」
「ど、どうする! どうすればいい?」
「とりあえず、そのボタンを押していろ。最初はそれ以外、することが無い」
言われるまま、シェートは夢中でボタンを押し、やがて敵が消えた。
「これで、いいのか?」
「ああ。それではもう少し、うろついてみろ」
魔王はニヤニヤと、先を続けるように促す。いつの間にか汗ばんでいた手をぬぐうと、同じように男を動かし、敵を屠っていく。
「さて、そろそろか」
「そろそろって、なに、え!?」
画面から、聞いたことの無い音色が流れる。敵を倒し終わったはずなのに、しばらく読めない文字が流れすぎた。
「おめでとう、これでこの男は先ほどよりも強くなった。これを続ければ、そのうちに敵が逃げ出すほどの実力を手に入れられるだろう」
「――あ」
シェートは、画面に向き直った。
手にした武器を揺らめかせ、こちらの指示を待つ男。繰り返させられた敵との戦闘、戦うほどに強くなるという言葉に、全身の毛が逆立つ。
「こ、この、中いる奴! これ、まさか!」
「そうだ」
シェートの肩に手を置くと、魔王は画面を眺め、愛おしむように言った。
「これこそが連中の原初。世界を救うべく遣わされる、神の勇者の真祖だ」
薄暗い部屋の中で、シェートはぼんやりと座っていた。
どこか落ち着かない気分で、それでも身動き一つできないまま、あてがわれた部屋の椅子に、背を預ける。
昼間に見せられた数々の代物。
魔王の、勇者に対する偏執的なほどの情熱を思い出し、ため息が漏れる。
何よりあのゲームのことが、頭から離れなかった。
画面の中の、勇者の死と再生の顛末に。
凄絶な敵の一撃に画面が揺れ、世界が赤く染まる。
悲しげな音が流れ、動きが止まった。
『ああ、とうとう死んでしまったな。回復を怠るからそうなるのだ』
『死んだ? 勇者が?』
呆然としたまま、シェートは無意識にボタンを押した。
『あ、あれ?』
画面が城の二階に変わる。そこにあったのは、ゲームを始めた時と変わらない光景。
『何を驚いている、勇者が死ぬわけが無かろう』
全く問題ないとでも言うように勇者は動き、王を示す人型が何事かを話しかける。
魔王は嫌味たっぷりに、その内容を翻訳した。
『おおしぇとよ、しんでしまうとはなにごとだ! しかたのないやつだな。 おまえにもういちど、きかいをあたえよう!』
殺されたはずのものが生き返り、そのまま魔を殺す旅に出る。
『そんな……』
『言っておくが、こいつに死の上限は存在しない。敵の大将を殺すまで、無限に蘇り続けるのだ』
思い出すだけで、全身に怖気が走る。
永久に死ぬことなく、目的を果たすべく魔物を殺し続ける存在。まるで自分を、仲間たちを、大好きな人を殺した、あの勇者の再現だった。
ひどく気分が悪くなり、しばらく立つことができなかった。
夕食も食べる気が起こらず、そのまま自室に運ばれた。
「最初の、勇者」
小さな二つの目が、じっとこちらを見つめていた。
言葉も無く、死ぬことも無く、敵を屠るだけの者が。
「どうして、お前、あんなの……見せた」
魔王は何も語らなかった。
人間たちの、異世界の人間たちの行状を、並べて見せ付けただけだ。
英雄になることを夢想し、神に導かれ、無慈悲に魔物を殺す者となることを、望み続ける者たちがいる世界を。
「どうして、あんなの、調べる」
『お前と同じだ、シェート』
記憶の中の魔王は、嗤っていた。
なぜそんなことを聞くのか、意味が分からないと、肩をすくめて。
『勇者を殺すためだ』
体を抱くようにして、シェートは椅子の上に縮こまる。
魔王の幻影から身を守るように。
それでも、逃げ場の無い夜はひたひたと押し寄せ、小さな体を責め苛んだ。
結局、その晩は、一睡もできなかった。