3、実物提示教育(前編)
目が覚めて、シェートは己が示した図々しさに、ため息をついた。
自分の体を包むのは、信じられないぐらいにふかふかとした寝具。枕にもたっぷり詰め物が入っていて、快適を通り過ぎて、少々居心地が悪い。
小さな小屋のように天井が差し掛けられ、四方も薄い布で仕切りが作られている。
寝られれば獣の皮一枚、わらの一抱えでもあれば十分なコボルトにとって、なにもかもが大げさすぎた。
きっと寝付けないだろう、そう思っていたのに、気が付けば朝だった。
寝所を抜けると、改めて自分の衣服に気が付く。
丁寧に縫製された上下は、あつらえたように体になじむ。神器と青い輝石はそのまま残されていて、奇妙に浮いている気がした。
床も石ではなく、厚手の織物が一面に敷かれていた。複雑な模様が刺繍を見れば、気の遠くなるような歳月を掛けて製作されたものだと分かる。
壁には花木を象った図柄が描かれ、扉も浮き彫りと金銀の装飾。天井にさえ絵画がびっしりと描き込まれているのを見て、尻尾が股に逃げ込む思いだった。
「なんだ……これ」
自分ひとりを閉じ込めておくために用意された、恐ろしく手の掛かった部屋。
その全てに薄ら寒いものを感じ、身を縮めたとき、
「お目覚めになられましたか」
扉を開けて、参謀が姿を現した。
「え……あ……ああ」
返事にならない言葉に、それでも女はうやうやしく一礼する。
「魔王様がお呼びです。ご一緒に朝食をと」
態度こそ丁寧だが、感情が一切こもっていない。風呂場でされた仕打ちを思えば、自分に対する敬意どころか、手加減さえする気が無いことが分かる。
「嫌だ、言ったら?」
「魔王様の言葉は絶対です。私はそれを厳守し、確実に実行するだけです」
「わ、分かった! 行く! すぐ行く!」
言うことを聞かせるためなら、こちらの腕の一本もへし折ってきかねない。シェートはそそくさと扉に向かう。
「その前に」
むっつりと、参謀は言い放った。
「お召し変えを」
「はははははははははははははは!」
参謀に連れられてやってきた食堂で、真っ先に出迎えたのは、爆笑だった。
目に痛いぐらいの白布が敷かれた長机、その果てに座った魔王は、こちらの姿を見るなり笑い転げていた。
「どうした、だいぶかわいらしい格好になったな、ええ?」
「き、着たくて、着た、違う!」
参謀の圧力で身につけさせられたのは、襟から胸元にかけて、妙なひだの付いた上着。
下に着けたものも、足全体にまとわり付くようで窮屈で仕方ない。
おまけに靴まで履かされて、居心地は最悪だった。
「俺の命令には逆らってみせたくせに、参謀殿の命令は聞くのか?」
「……仕方ないだろ」
屈辱と恥ずかしさを必死にこらえながら、シェートは絶叫した。
「いきなり服、破かれる! お湯放り込まれる! あんなむちゃくちゃ、二度と嫌だ!」
シェートはしばらく、魔王の遠慮ない爆笑に晒され続けるしかなかった。
「災難だったな。あれは生真面目で、融通が利かないのだ」
やっと落ち着いた魔王の隣に席が作られると、促されるままに椅子に座る。
目の前には銀色に光る食器と、見たことも無い素材でできた皿が並ぶ。透明な杯もふんだんにあり、それが自分の分だと気づくのに、少し時間が掛かった。
「よく眠れたか?」
「ああ」
「良いことだ。余計なことをしなければ、お前に害を与えるものはひとりも居ない。無駄な警戒心で神経をすり減らすのは、下らぬことだ」
食堂の扉が開き、数名のゴブリンたちが台車を押して中に入ってくる。全員が黒いぴったりとした服を身に付け、無言のまま、魔王とシェートの側に近づいた。
「おはようございます。朝食を始めさせていただきますが、よろしいでしょうか」
「そうだな……シェート、何か食べられないものはあるか?」
「……毒以外、何でも食うぞ」
こちらの嫌味に口をゆがめると、魔王は給仕たちに視線を流した。
しつけられた魔物たちは、無言のままそれぞれの仕事を始める。白い深皿に、湯気の立つスープが注がれ、パンの盛られた籠から、甘い香りの立つ塊が皿に乗せられる。
「テーブルマナーをとやかく言うつもりは無い。好きなように食え」
魔王はさじを手に取り、静かにスープを口にする。その様子を盗み見つつ、同じように汁を口に入れた。
「う……なんだ、これ……」
強烈に濃縮された、舌にべたつくような味だ。塩気は強くないが、いくつもの野菜や骨髄、肉汁の混ざり合った代物と分かる。
「コンソメは口に合わなかったか」
「こたっこい。それに、食ったことない味、いっぱいする」
「シェートに水を。それは下げてハムでも出してやれ」
スープ皿に代わり、薄切りになった燻製の肉が緑の葉に飾られて出される。魔王の方はなれた調子で、酒盃に泡の立つ飲み物を注がせていた。
「お前も飲むか?」
「それ、酒か?」
「ただの炭酸水だ。飲みたいのなら注がせるが」
無言で首を振ると、三又になった串のようなもので肉を突き刺し、口に運ぶ。
塩味を抑えた燻製は、思った以上にうまかった。噛むほどに味が広がっていき、気が付けば夢中で口に運んでいた。
「やはり山育ちだな。複雑な風味より、素材の滋味を好むか」
肉がきれいになくなると、次はきれいに焦げ目の付いた腸詰が、鳥の卵を焼いたらしいものと共に出された。
湯気の立つ料理は、ゴブリンのひとりが台車の上で調理していた。どうやら、食材を運ぶものや、調理をする役割に分かれているらしい。
「これ、人間、食べる料理か?」
「その通りだが、少し違う」
魔王はパンを裂き、獣脂のようなものを塗りながら言った。
「これは、異世界の勇者たちが食べるものだ」
「そうなのか?」
「とはいえ、朝からこんな優雅にものを食べるのは、ごく一部だろうがな」
腸詰は全く文句無く美味かった。銀器を突き刺すだけで肉汁が染み出て、噛むと脂肪と肉のうまみが、口いっぱいにあふれ出す。滴る汁をパンでぬぐうようにして食べ、さらにもう一本食べる。
気づけば金色の黄身を上にした、丸い卵焼きだけが、皿の上に残るばかりになった。
「卵は初めてか」
「普通、焚き火、埋めて焼く。こういうの、見たこと無い」
「塩でもかけて食えばいい。パンに乗せて食っても美味いぞ」
かぶりついたとたん、こぼれる黄身に苦労したものの、何とか食べきってしまうと、シェートはほっと息をついた。
「美味かったか」
「肉は。卵、普通違う。スープ、あんまり好きじゃない」
「じきに慣れる。俺も、初めて口にしたときは、いろいろ面食らったものだ」
あらかた給仕が去っていき、残った者が魔王に湯気の立つ飲み物を出していた。焦げた匂いのする、消し炭を溶いたような代物だ。
「お前、毎日、こんなの食ってるか」
「出すものは変えているがな。基本的に、異世界の勇者が食するものを再現させて食べている」
「……何のために?」
苦そうな汁を平然と飲み下しながら、魔王は涼やかに答えを返した。
「お前と同じだ、シェート」
「……俺?」
「勇者を殺すためだ」
器を置き、立ち上がると、魔王は告げた。
「ついて来い。お前に見せてやろう」
「何を?」
「俺の研究所だ」
回廊を歩きながら、魔王はシェートに問いかけた。
「シェートよ、お前は勇者をどう思う」
白い壁と赤い敷布の道を、魔王は迷うことなく進んでいた。目印になりそうなものは一切無く、道順を覚えることも難しい。
脱出路を探るのをあきらめると、シェートはぞんざいに答えを返した。
「別に。俺、あいつら、もう、どうでもいい」
「どうでもいい、だと?」
青年は立ち止まり、毒気を抜かれた顔でこちらを見つめた。
「なぜだ、奴らは我らにとって不倶戴天の敵。お前も勇者となったのなら、なおさら」
「あいつら、遊び来てる、ただの子供。俺たち、同じもの、考えない。経験値、モンスター、そういう"物"、思ってる」
「感情のやり取りは、お互いを同列と見なすもの者でしか起こりえない、か」
なぜか、魔王はひどく悲しげな顔をして、ため息をついた。
「敵がお前を物として扱うなら、お前も連中を狩るべき獲物としか考えないのだな」
「ああ」
「シェートよ。お前は優れた魔物だが、その考えだけは、改めたほうが良いぞ」
「何でだ」
再び歩き出した魔王は、振り返りもせずに諫言を投げた。
「相手がゴーレムや死人なら、それでも良かろう。だが、勇者は心を持った存在だ。情を排する姿勢は立派だが、獲物の思考から目をそらすのは自死を選ぶに等しい」
「分かってる! 俺、別に」
「着いたぞ、ここだ」
目の前に、巨大な鉄扉がそびえていた。
シェートの背丈の五倍は高いそれの前に、ホブゴブリンが歩哨として立っている。武装は小剣のみで、給仕たちの着けていたものとは、違う制服を身につけていた。
「ようこそお出でくださいました。誰ぞ火急のお召しでしょうか?」
「いや、客人を資料室に案内したくてな。お前たちはそのまま仕事を続けろ」
一礼すると、歩哨たちは扉を開き、魔王を招き入れる。その後について室内に入ったシェートは、驚きに目を丸くするしかなかった。
先ほどの食堂など比べ物にならない、巨大な空間が広がっていた。自分たちが立っているのが小高くなった場所のためか、全体が良く見回せる。
「ここが戦術解析室だ」
いたるところに無数の間仕切りが作られ、魔物たちが熱心に仕事を行っていた。
光る板を前にして、突起のついた板を叩くもの。紙の束を重ねたものをめくり、何かを検分しているもの。あるいは数名の魔物同士で語らっているもの。
紙の束や飲み物を持ってコボルトたちが動き回り、雑事をこなしているのも見えた。
彼らは高台に居る魔王に気づき、一斉に立ち上がって会釈をした。青年が片手を挙げて制すると、仕事は再び動き始める。
「連中には、過去から現在に至るまでの、勇者たちの行動や能力を調べさせている」
作業場に続く階段を降りながら、魔王は仕切りの中の魔物を指し示した。
「あの仕切り、パーティションごとに、一名の勇者を研究させている。今は第三十五次の遊戯を分析中だ」
「さ……三十五回も、遊戯やったか!?」
「それ以上だ。神々の遊戯と言っても、今回のような大規模なものばかりではない。お前のあずかり知らぬところで、大小さまざまな遊戯が、連綿と続けられてきたのだ」
パーティションと呼ばれる小部屋を通り抜けながら、魔王は作業の進み具合を眺め、時折指示を与えていく。
その途中、大き目の囲いの中に入ったところで、一匹のゴブリンが顔を曇らせていた。
輝く画面には、軽い鎧を身につけた少女が、魔物を輝く拳で撲殺している光景が写っている。
「どうした、何を悩んでいる?」
「こ、これは、魔王様!」
「三十五次の優勝者、ニミリ・ルェイの勇者か」
画面の中の光景を眺め、一目でその存在を得心した魔王に、部下は悄然と頷いた。
「音楽系の神規は、概念が複雑すぎて……いったい、どう手をつけてよいものか」
「これは"自己覚醒型"だ。六十一次と十七次に似たケースがある。歌による能力上昇と神器変形に惑わされるな」
得られた答えに満足したのか、ゴブリンは首から提げていた"スマホ"に、何事か話しかけ始めていた。
「あれ、フィー、持ってるのと、同じ」
「スマートフォンか。城内の連絡と個体認証に便利なのでな、基地局を作って使用可能にしているのだ」
よく見れば、魔物たちが向き合っているのも、"スマホ"を大きく引き伸ばしたような代物で、フィーが良く見ていた画面と似ている気がする。
「これ、もしかして、勇者の」
「そうだ。ここで使っているパソコンは、勇者たちの世界から持ち込んだものだ」
小部屋の群れを抜けると、今度は透明な壁で仕切られた場所にたどり着いた。その手前には、木でできた長机のような物が据えられ、浅黒い肌をした雌の魔物が座っている。
とがった耳と濃緑の髪、おそらく" 堕落せし森の精"の一族だろう。
「ようこそお越しくださいました。お手伝いさせていただけることはございますか」
「構い立ては無用だ。資料室と、場合によっては視聴覚室を使うかもしれん」
「はい。他の者にも申し伝えておきます」
透明な板の一部が音も無く開く。わずかに気おされながら、シェートは魔王に続いて中に入った。
「ここが資料室、勇者たちの分析に必要な物を保管している場所だ。数値化できるデータは全てマスターサーバに入れてあるが、"実物"に触れさせる必要があるのでな」
さっきの部屋とは違い、ここにはほとんど物音が無い。そして、細長く背の高い壁が、いくつもの通路を作り出している。
壁は中がくりぬかれていて、そこに色とりどりの何かが、行儀よく収まっていた。
「本を見たことはあるか?」
「ない。でも……」
話には聞いていた。魔法使い連中が、自分の秘術や研究の成果をまとめ、文字の形で後世に伝えるためのものだと。
魔王はその一部を指に掛け、軽々と"本"を取り出してみせる。
「ここには、この世界で出版された数百あまりの本と、勇者たちの世界から取り寄せた、数百万の出版物が収められている」
「な……なに?」
百、という単位はなんとなく分かる。
だが、魔王は聞いたことも無い桁を言ってのけた。
つまり、この場所にあるほとんどの本が。
「これ、みんな、勇者の……」
「そうだ」
繊細な手の中に納まっている本は、妙につやつやした素材でできている。
奇妙な描き方をされた人間らしい絵。飾り気の多い剣を構えた少年の姿は、過去に見た勇者の姿を思い出させた。
「ここには、勇者たちの住む"地球"と呼ばれる星の、さまざまな資料が保管されている。天文、地理、歴史、科学といった文明に関するものや、宗教書や民俗学をはじめとする精神文化についての資料がな」
「お……俺、むつかしいこと、わからないぞ」
「だが、それらはあくまで、勇者の精神面を掘り下げる補追資料のようなもの。本命はこっちのほうだ」
魔王はぱらぱらと、手の中の本をめくった。中にはびっしりと、細かい文字が書かれているが、元々読み書きのできないシェートにとって、どこの言葉なのかさえ分からない。
「『ライトノベル』そう呼ぶのがあちらでは一般的だが、これが勇者たちの、いわばお手本としているものだ」
「え……?」
魔王は本を棚に戻し、歩き出す。
「あちらの暦で言えば八十年代の中期ぐらい。十代の若者が読みたがるであろう物語を、幾つかの出版社が刊行し始めた。当時はまだ、統一された呼称も無いに等しかった」
シェートの当惑をよそに、青年は全く理解できない説明を続けた。両脇の戸棚に並ぶ、無数の本を指差しながら。
「九十年代に入り、専門のレーベルがいくつも勃興し、それらは爆発的に広まった。時を同じくして、荒唐無稽で、空想を掻き立てられる、十代後半以降の青年に向けた小説全般を、ライトノベルと大まかに呼称するようになった」
「だ……だから! 俺、そういうの……」
「その中で、過去から現在に至るまで、根強く人気を保つ、一つの題材がある」
魔王は二冊の本を手に取り、シェートに見せた。
片方は騎士鎧を着けた少年の絵が、もう片方には、書架を背にした、桃色の髪の少女が描かれている。
「『異世界冒険譚』地球生まれの人間が、異世界を旅し、何らかの伝説を打ち立てる、そういう物語だ」
「これが……そうなのか?」
「無論、これだけではない。この両側に並んだ棚の大半が、そういう話だ」
コボルトは首をめぐらせ、そして戦慄した。
両脇にある棚の本は、十や二十ではきかない。おそらく百を超える数の、異世界を旅する物語が集められていることになる。
「全てが"異世界"を扱っているわけではない。しかし、大体内容は似たり寄ったりだ。ごく普通の主人公が、突然特殊な力を授かり、冒険を繰り広げるという点では」
「勇者……自分の世界、普通の人間、してる聞いた」
「その通り。これはそういう連中を、慰撫するために書かれたものだ」
魔王は本棚から、手当たり次第に引き抜いて抱え込んでいく。
「凡俗の願いを、ひとたびの夢幻にて叶えるために編まれた、無数の物語」
そして、シェートの手をとり、その上に本を載せた。
「こ、これ、は?」
「そして、あろうことか、異世界の勇者となり、魔王を倒す物語さえ、平然と編まれ続けている」
その上に、さらに本を重ねる。
またその上に本を重ね、勇者の絵姿の上に、別の勇者の絵が重ねる。
「連中は貪欲だ。見ず知らずの異界で、己の知識を嵩に栄達を手に入れたいと願い、神から無償で万夫不当の力を得たいと願い、惨めな現実を離れ、異なる存在に生まれ変わって完成された生涯を得たいと願う」
すでに本はシェートの目線を超え、積みあがっていた。
重さに手が震え、それでも魔王は書物を積み上げ続ける。
「う、お……おも、い! おれ、こんな……もてな……」
「感じるかシェート、その重さこそが、連中の業の重さ! 利己主義をうずたかく積み上げた、浅ましく度し難い、醜悪な我欲の積層だ!」
不自然に積まれた本が、崩れて地面に落ちる。床に散らばったそれを、魔王はさも楽しそうに眺めた。
「そして、その本の主人公たちのように振舞いたいと願う者どもを、神々は拾い上げる。実に、度し難いではないか」
「う……」
「まあ、その本の中には、己の勇者を造り上げ、自らの欲望を満たす神の話もあるから、人間たちも、神の下らなさを承知しているのだろうがな」
青年の異形の目が、輝いていた。
地面に落ちた本の中に、自分が見出したいものが、隠れているとでも言うように。
「片づけを手伝ってくれ。少々遊びが過ぎた」
「お……おお」
埃を払い、全ての物語を棚に戻すと、魔王は気遣わしげにこちらを見た。
「見慣れぬものばかりで、気疲れしたろう。少し休憩にするか」
その声に、毒気はひとかけらも無い。
初めて会ったときの、底冷えのするような汚濁の気配も、さっぱりと消えていた。