2、焚き付け
不快極まりない感覚にゆすぶられ、フィーは目を開けた。
肌身に響くかすかな振動と、周囲の大気が弾けるような触感、鼻を刺すかびの臭気。
何より、目の前を閉ざした鉄格子が、気分を混乱させた。
「……なんだ、これ?」
まだ痛む頭をこすり、必死に途切れる前の記憶をたどる。ベルガンダの咆哮と、暴走するシェートを体で止めたこと。
猛烈な吐き気と頭痛で目が回り、意識を失った。
「まさか、シェート……あいつに負けたのか?」
魔将はシェートを気に入っていたから、おそらく殺すことは無いだろう。それでも、一体何があったのかは知っておきたい。
首元にはスマホがかけられたままだ。それ以外の装備は持ち去られているが、これで連絡ぐらいはできるはず。
短縮ダイアルで竜神にコールをかける。呼び出し音が二度続き、回線が切り替わる。
「もしもし!? 俺だけど、一体何が」
『お掛けになった電話は、現在電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、掛かりません』
聞き覚えの無い女性の声と共に、通話が打ち切られる。
リダイアルを繰り返すが、結果は変わらなかった。
「な……なんだよ、これ」
今までどんな状況でも掛かっていたはずの電話が、通じなくなっていた。ためしにメールも送信してみたが、竜神に届くことも無く戻ってきてしまう。
「まさか、上で何かあったのか?」
不安に駆られながら、それでも他のアプリを機動させる。
"通信障害が発生したため、一部のアプリが機能を停止しております"
「え!? 機能停止って何だよ!?」
驚くフィーの前で、エラー内容が画面に表示される。
『龍サイクロペディア』――サーバアクセス不能のため全機能停止。
『ただたかくん』――位置情報の取得不能により、フィールドマップ表示停止。
『ステータスチェッカー』――龍サイクロペディア停止により敵情報表示不可。
『かんたんぐ』――辞書ファイル更新停止のため、一部言語に非対応。
その他、天界へのアクセスを必要とするゲームの全てが機能を停止していた。
「マジかよ……」
フィーはため息をついて、座り込んだ。石造りの冷たい部屋だが、きれいに干された寝藁が敷かれ、割と清潔に整えられているらしい。
入り口近くには木の盆に載せられた水差しとカップ、食べ物らしい塊が置かれている。
「ただのパンか……こっちは、普通の水、っと」
念のために匂いを確かめるが、問題は感じられない。そのまま水差しからカップに注いで一杯飲み、パンをちぎって口に運んだ。
「なんだこれ、ベリーが練りこんであるのか」
思わぬ甘味に、そのままかぶりつく。幾つかのベリー類と、クルミなどの香ばしい木の実の入ったパンは、憔悴していた体に染みた。
「それにしても……ほんとにここ、どこなんだよ」
暗闇を透かして鉄格子の向こうを見るが、人影は無い。おそらく牢番の詰める場所らしい空間があり、外に出るドアはそのひとつしかない。テーブルに椅子、火の消えたランタンがひとつ。
「こういうとき、脱出ゲームなんかだと、置き去りになった鍵とかがあって、部屋の中にあるアイテムで何とかするんだけどなぁ」
思わず口をついて出た言葉に、それでもフィーは腕組みをして考えた。
部屋の中には寝藁と木の盆に、水差しがある。他に役立ちそうなものと言えば、部屋の隅におかれた桶のようなもの。
「でも、アレって……たぶん、アレ……だよな」
用を足すための汚物入れ、正直あまりお世話になりたくない代物だ。
「いや、でも、こういうとき、あの中に重要なアイテムとかある場合もあるし……」
匂いからすれば誰も使っていないようだが、以前の誰かの"落し物"が、残っているかもしれない。
「や、やだなぁ……でも、とにかく、一応、調べておかないと……」
「糞桶がそんなに珍しいか、仔竜よ」
突然の声に、体が飛び跳ねる。振り返った鉄格子の向こうに、見たことも無い青年が立っていた。
薄暗がりの中、青い髪に竜の瞳を持った相手は、机に腰かけて笑みを浮かべた。
「それとも、糞でも食いかねないほど腹が減っていたか?」
「んなわけあるか! 念のために調べたかっただけだ!」
「ふ、はは、そうだな。何か面白いアイテムでも入っているかも知れんしな」
青年はランタンを傍らに置くと、小さな箱から棒を取り出して、すばやく擦った。
小さな灯が燈芯に移り、部屋の暗がりがほの明りに和らいだ。
本当に何気ない動作。
だが、青年のそれは、はっきり言って異常だった。
「そ、それ……マッチ……か?」
「ほう。知っているのか」
細い指が小箱を振ると、しゃらしゃらと音が鳴る。中にまだ、何本もの替えが残っている証拠だ。
「何で、そんなもんがあるんだよ!? この世界は……」
「いまだ火打石と火口のレベルから抜け出せず、魔法による着火の方が一般的なのに、と言いたいのか」
なんだ、コイツは。
フィーは恐る恐る、鉄格子のほうに近づいた。
青年は、役目を終えたマッチを部屋の隅にはじく。青い煙を出しながら燃えた軸木は、やがて黒く縮んた燃えカスになった。
「お前、一体何なんだよ。ここはどこだ?」
「なぜ俺が、そんなことを説明してやる必要がある」
尊大な物言いに、フィーの中の何かが直感を導いた。
竜の瞳孔を模したような両眼、飾り気は少ないが、見事な仕立ての衣装。
そして、どこか遠くから絶えず漏れ聞こえる、大気が悲鳴を上げる聲。
それらから導き出される答えは。
「お前が……魔王、なのか?」
「もし、そうだとするならば、ここはどこだ?」
「お前の城だ。天空に浮かぶ、あのでかい岩の塊」
軽い拍手が、青年の両手で弾けた。
大げさに頷きながら、魔王はこちらの洞察力を褒めそやした。
「すばらしい。竜であることを差し引いても、その思考の飛躍、マッチという、この世界に無いはずの技術を知る見識、見かけどおりの存在ではない、と言うことか」
なんだ、コイツは。
さっきから"角"を凝らし、鼻の力を引き上げても、相手の異常を全く見つけられない。
立ち居振る舞いは、どこにでもいそうな人間の青年でしかない。匂いにも異常は無く、芳しい香りさえ感じられた。
「どうした、俺の姿がそれほど珍しいか?」
「いや、その……」
「まさか、今時の魔王が、見た目にも仰々しい、異形のバケモノ然とした格好でうろついているなどと思っていたのか?」
こちらの動揺を眺めて、青年は楽しそうに笑う。痩せた体はどう見てもひ弱そうで、荒ぶる魔物を従える強さは全く感じない。
「でも……そうか。確かに、魔王が魔王っぽい姿してるのなんて、あんまり無いもんな」
それでも、フィーは警戒を緩める気はなかった。
自分の"経験"に掛けて、目の前の青年が見た目どおりの存在であるなど、絶対にありえないからだ。
「むしろ、アンタみたいな、チャラい感じのキャラの方が多いぐらいだし。それにしたって、ちょっと地味なカッコとは思うけどな」
「残念だが、俺はサービス精神という物に欠けていてな。スマホゲーのウルトラレアよろしく、ごてごてと着飾る趣味は無いのだ」
なんだ、コイツは。
フィーは鉄格子から後ずさり、目の前の"魔王"を睨んだ。
この青年から感じる、違和感の源。その言葉の端から、流木のように浮かび上がってきた"この世ならざる知識"に、全神経が警戒を発する。
「アンタ、どうして、お――勇者たちの世界のことを知ってる」
「それこそ、俺もお前に尋ねたいことだ。どうしてお前のような仔竜が、そんな"この世ならざる工芸品"を首からぶら下げている」
二組の竜眼が、互いの意図を乗せてぶつかり合う。いつの間にか青年の顔は、石膏彫像のように白く冷え、無言の圧力を放っていた。
「お……俺のは、上司から貰ったんだよ! こっちに来るときに!」
苦し紛れに吐き出した言葉に、魔王は目を細め、頷いた。
「上司、とは?」
「き、聞きたいなら! 俺の質問に答えてからだ!」
「口だけは達者だな。だが、それに答えてやる気は無い」
そこで初めて、青年は鉄格子に歩み寄ってきた。膝を折り、同じくらいの目線に顔を下げると、上から下までこちらをじろじろ眺めていく。
「全く、普通の仔竜と変わらんな。魔界にたむろしていた邪竜の一族にも、お前ぐらいの幼体はいくらでも居た。だが」
「な、なんだよ」
「勇者たちの世界に親しみ、それを己が知識として口にできる仔竜など、ただの一匹も存在しなかった」
面白い物を見つけた、とでも言うように、魔王は目を細めて頷いた。
「お前、名前は」
「し、知りたかったら俺の質問に」
「"斯界の彷徨者"にして"万涯の瞥見者"、黄金神竜エルム・オゥド。お前の上司はそいつだろう? 知っているぞ、奴は汎世界の知識に通じ、勇者の世界にも造詣が深いとな」
まるで、それが全ての答えだとでも言うように、魔王は笑顔のまま口を閉ざす。
コイツは一体、どこまで知っているんだろう。
地球のこと、勇者のこと、天界の神のこと。
「ホ、ホント、何でも知ってるんだな。どうせ、俺のことも最初から知ってたんだろ」
「何でもというわけではないぞ? 知っていることだけだ」
魔王は、喉の奥を鳴らして、おかしそうに笑い始めた。
何かの冗談なのか、それともこっちの気持ちを乱すためのブラフか。
「仕方ない。これ以上からかっていると、疑心暗鬼で答えが引き出せなくなるからな」
こちらの気の迷いを察したのか、魔王は勝手に態度を改めた。
「俺があれこれ知っているのは、事前に調べたからだ。天界のことも、勇者の世界もだ」
考えてみればこれほど単純なことも無い。神が異世界について知っているなら、魔王もそれを知っていて当然だ。
「で、でも、それにしたって、ちょっと詳しすぎるんじゃないか? スマホのことはともかく、ゲームのことまでなんて」
「勇者の使う神器や神規は、ゲームや漫画、アニメなどのサブカルチャーから材を採られることが多い。ならば、そこまで調べてこそだろう」
本当に、なんだコイツは。
思い描いていた魔王と、全くイメージが違いすぎる。いや、おそらく探せば、この程度の変化球、ラノベやアニメにはいくらでも出てくるんだろうが。
オタク研究家の魔王、いやむしろ。
「オタ魔王、だな」
「なに?」
「アンタのことだよ。オタクの魔王、略してオタ魔王だ」
魔王は目を丸くし、
「ふ……は、ははっ、は、ははははははははははははははははははははははは!」
その場にのけぞって、笑い出した。
「え……え? ちょ、ちょ……」
「ははははははははははははは、オ、オタ、魔王か! ははははは! まさか、この俺が……ははははは! そんなかわいらしい呼ばれ方を! ははははははは!」
魔王は笑い、笑い転げ、涙を流し、息を切らして、さらに笑い続け、ひたすらに感情を爆発させた。
「ああ……まったく、実に面白いな」
ようやく笑いが収まると、衣服を正した魔王は、影のように立ち上がった。
「お前に興味がわいたぞ、仔竜よ」
「そ、そうかよ。俺はアンタが、気持ち悪いとしか思わないけどな!」
「いい返しだ。さすがシェートの仲間だな」
一番知りたかった者の名前に、フィーは格子にかじりつくようにして叫んだ。
「あいつはどこだ! グートは!?」
「答えてやる義理は」
「フィアクゥルだ」
歯を食いしばり、怒りをむき出しにして、唸るように告げる。
「俺の名前はフィアクゥルだ! 覚えたか、このオタ魔王が!」
「ふ。なら、教えてやろう」
青年は背中を向け、牢獄を出て行った。肩越しに、ぞんざいな答えを残して。
「どちらも生きている。どこにいるかは教えてやらんがな」
扉が閉じられ、再び部屋が一人きりの沈黙で満たされる。
青い仔竜は、肩を怒らせたまま、消えた魔王の背をずっと睨みつけていた。
城の中で一番高い塔、そのテラスに立ちながら、魔王は夜の世界を眺めていた。
巨岩を台座にして造られたこの城は、長大な船を思わせる威容があった。
雲の海の中を、波を蹴立てて走る巨船。さながら、自分の居る場所は、巨大なマストの上の物見台だろうか。
十字に配置された四つの小城と、中央にそびえる居城。全て大理石で造り上げられたそれは、どこまでも精緻に、対象形の美を重んじて構成されていた。
とはいえ、そこに何か意味があるわけでもない。こんな形であれば、魔王を名乗るものに相応しいだろう、という程度の話だ。
「シェートはどうだった」
鳥も飛べぬほどの高みにありながら、居城の周囲には穏やかに凪いでいる。魔力による多重の障壁が、外部からの干渉を完全に退けていた。
そんな静穏の空間を破ることなく、"参謀"は無音で影に侍る。
「多少脅しつけましたが、一度湯に入ってしまえば、おとなしいものでした。だいぶ疲れが見えたので、そのまま寝所に」
「ご苦労。そういえば、コボルトどもは存外きれい好きなのだったな」
参謀のほうに向き直ると、魔王は手すりに腰を下ろした。その動きを見計らい、彼女は淡々と報告を続ける。
「闘魔将ゾノ敗北の報、大陸中に広まった模様です。"愛乱の君"が遣わせし勇者、サンジョウヒミカは、再び行方をくらませました」
「あくまで手の内を見せる気は無い、といったところか。毎回、派手に動く女だとは聞いていたが、今回は打って変わって慎重だな」
「北のヘデギアス大陸、コクトゥス殿の支配地で活躍している勇者も同様です。名前さえ広めず、幾つかの迷宮を攻略しているようですが、芳しい動きは未だ」
「"闘神"の勇者は独立独歩で、実力を蓄積してから動くものが多い。今はレベルアップの真っ最中、といったところだろう」
どちらも、現状ではたいした動きではない。
ゾノの敗北は予想済みで、早いか遅いかの程度でしかない。魔界では多少鳴らした武人だが、勇者という異質の戦士に対しては無力だと見立てていた。
コクトゥスに関しても同様だ。すでに吸血鬼の神秘はあらかた剥がされている。異世界の人間が信奉するほどに、夜の種族は強くも美しくも無いのだ。
「ケデナはどうだ」
それまで上機嫌だったはずの魔王の顔が、険しくゆがんでいた。この世界にある四大陸のひとつであり、もっとも魔王軍の侵攻が激しかった地域。
操魔将エメユギルが治め、もっとも苛烈な施政を行った場所。
「"英傑神"の勇者の名が判明しました。イワクラユーリ、現在はケデナ南方、ジェデイロ市を拠点に活動中とのことです」
「和名は?」
参謀が無言で差し出す書面、その最初に記された名前を一瞥する。
「岩倉悠里。なるほど」
名前の下には勇者の活動や仲間の名前、彼らの能力について報告が続く。
読み流し、鼻を鳴らすと、魔王は服の隠しからマッチを取り出した。
側薬に軸木を擦り付け、火を点すと、報告書に近づける。
「警戒と監視を怠るな」
燃えていくマッチと紙切れを、そのまま虚空に放る。軸木はすぐに燃え散ったが、報告書はわずかにひらめいて、中庭の上空で踊った。
面倒ごとが片付いてしまうと、魔王の中には上機嫌しか残っていなかった。
「俺は、しばらくシェートと遊ぶことにする。いや、シェートとフィアクゥル、とだな」
「それが、あの仔竜の名前ですか」
「"光と闇を孕むもの"あるいは"空を統べるもの"という意味の竜語だ。実際にはもう少し面倒な発音になるが」
あれは思わぬ拾い物だった。報告では、多少知恵が回る程度で、旅のお荷物のような存在だと聞かされていたのだが。
「だが、形容ではなく、名として使われる場合は、少々意味合いが変わる」
「その意味とは?」
「雷霆」
地の者を等しく打ち据える、紫電の鉄槌。怒り狂える竜の咆哮にも喩えられし、焼灼の暴威。
付けた存在の願いが勝ちすぎたとしか思えない、身の丈に合わぬ名前だ。
だが、あの仔竜には何かがある。
自分を驚かせ、楽しませてくれるという予兆を秘めている。
「城詰めの各員に通達。明朝、五時をもって警戒レベルを五から四に変更、迷宮機能を活性化し、哨戒を再開させろ」
「捕虜の扱いは、いかがされますか」
薄く笑うと、魔王は決断を下した。
「お前たちに任せる。重大な変事が無い限り、俺を煩わせるな」
「仰せの通りに」
女は一礼し、姿を消す。
魔王は、マッチの箱を取り出し、さらさらと振った。
勇者たちの世界には、これよりも便利な代物があったし、火を点す魔法であれば道具立てさえ必要ない。完全にいらぬ手間を強いる代物だ。
それでも、確かな手ごたえと共に、小さな息吹を吐き出して燃える様は、何度繰り返しても、飽きることは無かった。
もう一本、軸木を取り出し、側薬にこすり付ける。
「無駄なものにこそ、価値がある」
放り捨てた火が揺らめきながら消散し、テラスの床に燃えさしが転がる。
「共に燃やし尽くそう、シェートよ。この世界の、何もかもを」
星明りだけが照らす薄闇の中、魔王は手の中の小箱を、いとおしむ様にさすった。