プロローグ:突然の衝撃
水鏡のゲートを抜けると、馴染み深い神座の光景が広がっていた。
白石の敷かれた舞台と、それを囲う半円状の観客席。三々五々と集まって、技芸の相談に余念の無い踊り女たち。
その全てに向けて、"愛乱の君"、マクマトゥーナは呼びかけた。
「みんな、ただいま! 今戻ったよ!」
小神たちは一斉に立ち上がり、我勝ちに主の下へ駆け寄ってくる。
「お帰りなさいませ、おひい様!」
「勇者殿の方はいかがでしたか? 魔将討伐は?」
「先ほど合議の間で、決闘が終わったようです! 勝利されたのは」
「はいはい、一度に喋らない」
騒々しい集団を押しとどめると、女神は振り返り、舞台に残された水鏡に歩み寄った。
ピンクを基調にしたドレス、緩やかなドレープとフリルをあしらったスカート。上半身は体のラインを強調するように裁断され、胸の豊かな双丘が形良く盛り上がっている。
濃紫の髪は輝石をあしらった櫛で結い上げられ、細いうなじを強調している。
鏡の向こうから見つめ返すのは、子供の無邪気さと女のしたたかさが混交された丸顔。
一切の陰りを持たない美貌に満足すると、マクマトゥーナは水面を指ではじいた。
「中央大陸の鎮定は成ったわ。ヒミちゃんの力で、闘魔将ゾノとその配下十万の魔獣は、きれいさっぱり跡形も無く消えた」
はじかれた水は砕け、地面の敷石に広がる。あっという間にその嵩が増して、女神の足首を濡らすほどの深さに変わった。
「さすがはおひい様のお選びになった方です。海魔、闘魔の二人の魔将を平らげ、勇者としての名声は否が応でも高まりましょう」
「とはいえ、今まであたしの指示で、顔見せほとんどさせてなかったからなぁ。知名度って点ではいまいちかも?」
側付きの端女が衣装を脱がせ、白く抜けるような肌があらわになる。いつの間にか、円形劇場は、女神の沐浴の場に変わっていた。
「それでも、魔王の腹心二名を討ち果たした名声は、早晩世界に広まりましょう」
「当然よね。ところで、例の決闘が終わったんでしょ? どちらが勝ったの?」
「それも、おひい様にとっては吉報でございます」
隠しもしない端女の喜色に、女神はにんまりと笑った。
「そっかぁ! サーちゃん勝っちゃったのね! あははははは、すっごい! 一体どうやったの!?」
「申し訳ございません。あれを語り尽くすには、腕の良い吟遊詩人でも七日七晩、休むことなく歌い続けねばならぬでしょう。それほどの大戦でございました」
「なるほどなるほど。じゃあ、竜のおじさんに言って映像をもらってきて。後でじっくり楽しませてもらうから」
冷たい清水を跳ねかせながら、女神は髪留めを払い、豊かな長髪を腰まで流した。
「そういえば、まだみんなは合議の間にいるの?」
「はい。実は"知見者"の軍が無力化されて後、モラニアの魔将ベルガンダと、例のコボルトが一騎打ちを始めたようで」
「そういうのは早く言いなさいよ! まだやってるの!?」
一糸まとわぬ姿で門へと歩きだす主に、端女や近習がすがりつく。
「お待ちください! そちらも、つい先ほど決着がついたという報が!」
「……で、どっちが勝ったの?」
「例のコボルトが、魔将討伐に成功したようです」
「そっか……よかったぁ」
端女たちがささげる水盆から、掬い上げた水を顔いっぱいに浴び、その潤いを確かめるように全身を撫でて行く。
「あの忌々しい戦争オタクが、無様に敗退するのは最高に気分が良いけど、そのとばっちりでサーちゃんがいなくなるのは勘弁だものね」
「おひい様、お言葉が過ぎます」
「えー? いいじゃない、あんな空気の読めないガキ」
荒々しい悪罵に、周囲の小神が顔をしかめる。それでも、マクマトゥーナは腐すのを止めるつもりは無かった。
「そもそも、あいつのやったことって、神々の遊戯が持っている意義を根底から破壊する行為よ? せっかく取り除けておいた毒を、ドヤ顔して鍋にぶち込むような奴、嘲弄されてしかるべきだわ」
「ですが、その点においては、"平和の女神"も同様かと……」
片手を振って、女神は水滴と端目の言葉を払いのけた。
「サーちゃんは元々被害者。神々の遊戯を憎み、それを破壊したいと願うのは正当な権利だわ。そこに目くじらを立てる方が、どうかしているの」
「ですが、その願いは――」
「そこまでにしなさい。諫言を聞く耳はあっても、決裁に異議を唱えのは許さない。わかってるでしょ?」
複雑な顔をした端女は、それでも頭を垂れて引き下がる。同時に沐浴の場に張られていた水は全て消え、一瞬で鏡張りの衣装室へと変わった。
「まだ合議の間に神々は残っているのね?」
「はい。さすがに一頃より、少なくなってはおりますが」
「見苦しい端役は舞台から消え、前座は終わった。いよいよ、あたしの出番ね」
まるで鎧兜を身に付けるように、女神は豪奢な衣装をまとっていく。
深い赤のドレスは胸が強調され、膝丈のスカートには無数のフリル。長い髪は襟足の辺りで銀のバレットで留める。
黒の長手袋は繊細なレースで造られ、棘のついた蔓が絡み付いているように見えた。
あどけない少女の装いから、あでやかな女性の風姿への変貌を果たすと、女神はヒールの靴音も高らかに、門を抜けた。
「みんなー!」
軽く踏み出した足と共に、体が虚空に舞い、そのまま緩やかに地面へと降りて行く。
「ひっさっしぶりー!」
合議の間の中心に設けられた東屋、その傍らへと投じられる一輪の花。スカートをひらめかせながら、女神は踊るように一礼した。
「"愛乱の君"マクマトゥーナ、ただいま参上!」
辺りに甘い香気が流れ、呆然としてこちらを見つめる神々の視線が、一気に集まる。
その中で、完全に面食らった顔のサリアーシェと、まずいものでも飲み込んだような竜神がこちらを見つめていた。
「やあやあサーちゃんお久しぶり! 見事あいつの軍をぶっ飛ばしたんだって? 快勝おめでとー! よかったねー!」
「あ……あ、はい。これは、ご丁寧に」
こちらの賞賛に、"平和の女神"は胡乱な顔をするばかりだった。肩をすくめると、同じく珍妙な顔のままの竜に向き直る。
「おじいちゃんもそこにいたのか。それなら話が早いね、さっきの決闘の映像、撮ってあるでしょ? 後で分けてちょうだい」
「誰がおじいちゃんか。今、うちの若いのが編集中だ、出来上がり次第くれてやろう」
「ありがとねー。後で何かお礼するから。さて、と」
マクマトゥーナは居並ぶ神に振り返り、高らかに宣言した。
「さてさて皆さんお立会い。居並ぶ貴顕、貴種なる万世諸邦の神々よ、ちょっと大事なお話があるので注目してー!」
胸を反らし、大きく両手を広げると、その傍らに黒い刻の女神が音も無く付き従う。
そして女神は、高らかに声を張り上げた。
「ただいまをもって、"愛乱の君"の銘の下に、神々の遊戯の即時停止を宣言します!」
合議の間は一瞬、静まり返り、激しく揺れ動いた。
事の真偽を取りざたする者、一方的な宣言に怒りをあらわにする者、事態がまったく理解できていない者、あらゆる表情で大気が沸き返る。
言霊が十分な威力を発揮したのを確認すると、マクマトゥーナは満足して頷いた。
「はいはい! みんなが驚くのも無理ないけど、これはイェスタにも承認してもらったことだから。あたしの全権能、神威、あらゆる領土にかけて、今回の遊戯は停止!」
重ねての停止宣言に、再び言葉は失われた。だが、その内容が"中止"では無く"停止"であることに何名かは気づいた様子で、期待と不安のまなざしを向けてくる。
ここまで漕ぎ着けるのに、本当に手間が掛かった。
本来なら派手に宣伝するべき勇者の存在と、その神規をひた隠しにし、自分の計画に邪魔な魔将を迅速に排除した。
そして、サリアーシェとその勇者によって、一番の厄介ごとだった"知見者"が消えた以上、自分の計画を邪魔するものは何も無い。
「同時に、現在天界に存在しているあらゆる神、伴神、隷下にあるものも含めて、全員をこの場へ招致するわ!」
意外に次ぐ意外に、聴衆は顔を見合わせ、固唾を呑んで次の発言を待つ姿勢になる。
聴衆は十分暖まった。
あとは最後の"爆弾"をこの場に投下すれば――。
「まことに済まんのだが、その発言、ちょっと待ってくれ」
苦笑いを浮かべて、黄金竜が進み出る。その足元に付き添うサリアは、沈痛そのものの表情だった。
「……いったい何? 異議があるなら、あたしの説明が終わってからでも」
「そうしたいのは山々なのだが、こちらにも事情があってな」
妙に硬い表情のサリアは、搾り出すように告げた。
「シェートが、魔王城に連れ去られたのです」
「…………は?」
思わず素で問い返すこちらに、竜神は処置なし、といったように首を振った。
「魔将との戦の直後、魔王の干渉があってな。あっという間にシェートはおろか、フィーもグートも城の中だ」
「な」
冗談を言っている雰囲気ではない。自分が身支度を調えている間、ほんのわずかな時間に起こった予想外の出来事。
「そなたも知っての通り、魔王の行動には一切不干渉が原則。その上、城の中に入った勇者とは、一切連絡ができぬ。彼らの安否を確認する手立てさえ無い有様でな」
「な、な、なな……」
勇者が魔王の城に拉致される。前例が無い、とは言えないが、よりによってこのタイミングで、どうして、そんな。
「その様なわけですので、"愛乱の君"よ。その宣言、今しばらくお待ちいただければと」
「生きて帰るにせよ、敗退するにせよ、勇者が魔王の城に入ったのだ。そなたの重大発表は、今しばらくおあずけということだ」
気が付けば、神々が視線こちらに向ける視線が、微妙に冷えていた。
まったく関係ない場面にさまよい出た、道化を見るような目つき。
「…………ん……な」
両腕を開き、石畳も割れよとばかりにヒールを踏み込むと、"愛乱の君"マクマトゥーナは、三千世界に響き渡る声で絶叫した。
「なんじゃあそりゃああああああああああああっ!」
大変お待たせしました、新章開幕です