34、いつか空に届いて
己の体が、膝を屈して座り込む。
腹に刺さったままの弓をもぎ取られたことにも気付かず、小さなコボルトが、悲嘆に暮れた目で、こちらを見つめていた。
「なんて、顔をしているんだ、お前は」
困った奴だ、俺を討ち果たしたやつが、そんな顔をするな。
残った左腕をそろそろと伸ばして、その頭に載せる。
「まだ、敵が生きている時に、気を抜く奴が、あるか」
口元をゆがめて、こちらの苦痛に気付かせないよう、何とか笑みの形を作る。
それでもシェートは、泣き出しそうな表情のままだった。
「とはいえ、これ以上、どうすることも……できんがな」
開放された魔法の衝撃で、腹筋はズタズタに裂けている。その内側にあった腸も、痛みと無感覚の坩堝のように感じられた。
断ち切られた右腕の血の流れが、次第に弱まっていく。止まるのではなく、流れそのものが途絶えつつあった。
「どうして……」
掠れた声で、コボルトが問いかける。
「どうして、お前、刃、使わなかった」
「……約束だ。わが、主との。貴様を、無傷で、献上する、と」
「だから、手加減、したか」
そんな器用なことが出来るのであれば、こんなザマになどなっているものか。
軽口の一つも叩いてやりたかったが、すでに顎を動かすのさえ、難しかった。
「いいや」
「お前……バカだ」
コボルトの頬を、雫が落ちていく。
一体、どちらがバカだと、言ってやりたかった。
そんな顔をするぐらいなら、始めから戦うなどと言わなければいいものを。
「胸を張れ……モラニアの、魔将、ベルガンダを討ち果たした、勇者、シェート」
終わりが近づいていた。
もう、こいつに言ってやれることはない。
後は臣下の礼を尽くすのみ。
「魔王様」
空を見上げ、闇の天蓋にそびえる城へ、ベルガンダは言の葉を紡いだ。
「不肖、ベルガンダ。これ以上、御身の覇道を、お助けすることは、出来ぬようです。遺憾では、ございますが……お暇を、頂戴いたします」
散々目を掛けられ、取り立てられておきながら、最後はこの体たらく。
さぞかし、俺の不甲斐なさに、苦笑いを浮かべているだろう。
『我が魔将よ、貴様の働き、見事だった。今はゆっくりと休むがいい』
ベルガンダは、呆然と口を開いた。
幻聴とは思えない、いたわりを含んだ声は、鋼の強さの令に取って代わられた。
『だが、例え泉下に瞑し、死の影差す遠国に憩うとも、この俺が呼ばわりし時、いつ何時なりとも、きっと傍らに馳せ参じよ! 我が忠臣、この世でただ一人の"魔将"よ!』
魔王の宣言を聞きながら、ベルガンダは心から、深い喜びを感じていた。
俺がなぜ魔将とだけ呼ばれたのか、その意味を理解して。
後にも先にも、"魔王"の下にある"魔将"は、自分以外無いのだと。
「ああ……まずいな」
思わず浮かんだ物思いに、ベルガンダは苦笑した。
「こんなことを、知られては、また、コウモリ殿、が……やかましく……」
力なく、ベルガンダの首が倒れる。
吐息も漏らさず、光を失った目が、何も見つめないままに見開かれていた。
「ほんとに、バカだ、お前」
そっと手を伸ばし、瞼を閉じてやる。
まるで、肩の荷が下りたとでも言いたそうな顔で、魔将であった一匹の魔物は、物言わぬ躯となって、永遠に沈黙していた。
神器を収め、シェートは自分が捨てておいた装備を取るために、歩き出した。
「くぉん……」
傍らに、幻のようにグートが寄りそう。背に乗ったフィーは、ぐったりと狼の背に体を預け、眠りについている。
荷物を拾ろおうと手を伸ばし、シェートは首を振った。
「サリア」
そのままベルガンダの方へ向き直り、その背後に広がった世界を見た。
「なんなんだ、これは」
気が付けば、全ての音が絶えていた。
剣戟も、怒号も、地を踏み鳴らす音も、長蟲達の這いずる振動も、何もない。
見渡す限りの大地に、無数の死体が転がっていた。
歩兵も、騎士も、魔法使いも。
コボルトも、ゴブリンも、オーガやトロール、リザードマンたちも。
死から蘇った巨大なワームも、死肉をいじましく漁ろうとした蟲たちも。
「みんな……死んだ」
折れた槍、曲がった剣をにもたれかかる死体。
喉笛を噛み裂かれた死体。
腹を貫かれた死体。
巨大な質量に磨り潰され、元が何であったのかさえ分からない死体。
その全てが泥と混ざり合い、赤黒い肉の湿原を作り出していた。
「誰も、死にたくなかった。勝つ、相手殺す、そう思ってた」
よどんだ大気に、生臭く腐敗した大気が充満していく。
何もかもが死に絶え、動いているものが自分達しかいない。
「こんなの、俺……嫌だ」
一体自分は、何をやったのか。
勝ち抜くために、生き残るために、必死で抗った先にあったもの。
情を交わした者達も、鎬を削った敵達も、誰一人、生き残らなかった。
「どうしてだ、どうして、俺、こんなの、こんなの、見たくなかった!」
『何を言っている』
嘲りが、空から降り注いだ。
視線を上げ、シェートが睨んだ先に、威圧的に浮かぶ城。
それを支える岩塊の用に向こうから、魔王の声はおかしそうに笑い、嘲り続けた。
『分からないか、ここにすべてがあるのだ。嘆き、悲しみ、怒り、憎しみ。人と魔の情動の全てが。それらが一同に介し、乱れ、狂い咲き、この一期に織り成された壮観こそ、見るに値する究極の美ではないか!』
高みからの聲。
もがき苦しんだ者達の姿さえ、相手にとって見世物にしか過ぎない。
「ベルガンダ……最後まで、お前、従った」
拳を握り、シェートは、声の限りに叫んだ。
「あいつ! お前、信じてた! それを、お前は!」
『信じていたからこそだ。奴は必ず、俺の命令を聞く。俺の欲しがるものを必死に探し出し、こうして献上したようにな!』
こちらの怒りを知らぬまま、いや、むしろ煽り立てるように、魔王は心の底から歓喜を叫んだ。
『我の下に来い! 待ち焦がれた魔物、いとしき仇敵、コボルトの勇者シェートよ!』
全身の毛が、怒気に逆立った。
感情が弓となって結晶し、弓弦を引き絞る。
歯を食いしばり、金と銀の輝きに、ありったけの加護込めて一本の矢へと変える。
「魔王」
その切っ先が向かうは遥か彼方、天に座した悪逆の王の城。
「俺、お前、必ず狩るっ!」
沸き立った怒りと憎しみを、シェートは解き放った。
光が、暗い平原から飛び立つ。
それは死の大地を離れ、瘴気に覆われた大気を抉り、遥か高みへと昇っていく。
強烈な風鳴りを後に引き、昇り続けた光は、石の大地に吸い込まれ、見えなくなった。
その軌跡を、小さな影は睨み続けた。
その向こうに、まだ見ぬ敵の姿を求めるように。
長かったこの章も、次のエピローグで一旦区切りです。
読んでくださった方に、心よりの感謝を。
それでは。