32、魔将
ぱんっ、と、軽い破裂音が玉座の間に響いた。
虚空に浮かべた鏡の一枚が、砕けて落ちて、鈴のような音色を立てる。
「見ろ、この光景を」
魔王が指差した鏡の向こうで、必死に槍を構えた男が見える。恐怖に震え、涙を流しながら、必死に目の前の魔物を貫こうとあがいている。
『やめろ! くるな、くるなぁあああああっ!』
その真横から、一匹の魔獣が首筋に喰らいつき、泣きはらした顔をもぎ取る。
ぱしん、と鏡が砕け、幻のように映像が消えた。
「もがき、あがき、そして虚しく散る」
映し出された光景は、今や一つの終結に向かいつつあった。
狂気に犯された魔物の群れが、無情の牙をふるって、人間どもを駆逐していく。
『う、うちはらえ、凍月せ、ぎゃああああああっ!』
『で、でろっ! 魔法出ろよっ! たのむからでて、うわああああああああっ!』
役に立たない杖を振り回し、あらゆる体液を絶望と共に漏らしながら、それでも貪り食われる人間。
『隊長! 隊長おっ! こたえて、こたえてくれよおおっ! まものがっ、あああっ!』
『どこに逃げりゃ良いんだ! おしえてくれよ、なぁああっ!』
胸元の板に必死に叫び、何の答えも得られずに首を刈られる人間。
『いやだぁあっ! 死にたくないっ! しにたくなああいっ!』
『神様! 勇者さまぁあっ! おねがいだぁっ! かえってきで、ぐぶああああっ!』
口々に神の名を、勇者の名を叫びながら、それでも死んでいく人間。
立て続けに、鏡が割れていく。
死に際の恐怖と絶望を凍りつかせたまま、屍が積み重ねられていく。
「この足の下、分厚い岩石の遮る先に、奴らがいる。悲嘆にくれ、絶望を吐き出し、死の泥濘に沈んでいく」
魔王の心を、しみじみと歓喜が満たした。
「悪を懲らし、人々に希望を与えるのが勇者なら、善を挫き、世界に絶望をもたらすのが魔王。これこそ我が本懐。この地に満たすべき、美しき世界の在り様だ」
急激に数を減らしていく鏡の向こうで、広がっていく死の版図。血と肉と臓物が大地を穢していく。
「だが」
薄い壁に隔たれたように、魔王の意思に染まない部分があった。
敵を威圧する巨躯と、長大で無骨な双頭の斧を構える魔将。
神器の力を揮い、矮小な体に勇気を込めて立ち向かうコボルト。
まるで聖別されたかの様に、二人のいる場所だけが元の土肌を剥き出しにしていた。
「穢れの大海原にあって、なおも穢れぬもの。その姿もまた、清冽なる美」
魔王の手が有象無象の鏡像を払い散らし、シェートとベルガンダの姿を、巨大な鏡へと映しだした。
「楽しませてもらうとしようか」
魔王の見つめる前で、二つの影が同時に地を蹴り、間合いが詰まる。
「我がいとしき魔物たちの、鎬を削って舞い踊る様を」
互いの持った武器がぶつかり合い、闇の世界に光が生まれる。
文字通り、火花を散らす戦いが始まっていた。
じんじんと痺れる腕をかばいながら、シェートは大きく跳び退った。
初めて腕試しをされた日と同じように、ベルガンダは斧頭をこちらにつきつけ、体の前面を常に正対させる構えを取っている。
今ならわかる。あの構えはこちらのすばやさに翻弄されず、確実にこちらを捕らえるためのものだ。
大回りして、斧の攻撃範囲を避けなければならないこちらに対し、ベルガンダはほんの少し体を回せば済む。闇雲に突っ込んでいっても勝つことは出来ない。
すばやく二刀を弓に戻し、大きく引き絞った弓弦に銀光の矢を番えた。
「やはりな。そう来ると思っていた」
深く落としていた腰を上げ、ベルガンダが構えを変えた。斧の柄を片手で持ち、切っ先を自分の前面、大地に着くくらいに落とす。
「神器を手に入れ、俺の弱点である魔法の力を手に入れたお前だ。俺の斧が届かぬ範囲から光弾を連射、削りきって勝つ、というところか」
シェートの全身が、強烈な警告を発している。左足を僅かに引き、半身になったベルガンダの体は、今にもこちらに突進してくる姿勢。
リンドル村で見せた、弓矢を物ともしない体当たりを思い出し、引き手が緩む。
「だが、そんな弱腰で、この俺を殺せるなどと、思わんことだ!」
ベルガンダの体が、巨大に膨れ上がった。
彼我の距離が一瞬で詰まったために起こる錯覚。
恐怖、絶望、死の予兆。
「ぬがああああああああああっ!」
その全てに否定の叫びを上げ、シェートは力いっぱい背後に飛ぶ。
ゆんっ、と弦鳴りが響き、魔法の矢がベルガンダの膝めがけて殺到した。
「しゃらくさいわあっ!」
振りかぶられた斧が、大地を爆発させた。輝きのいくつかが飛礫に叩き落されるが、残った魔法は敵の足に収束する。
だが、魔人の体が、突然加速した。
丸太のような巨大な足が、槍のように突き出される。
「な……っ!?」
シェートの体に、ベルガンダの足の裏が深々とめり込んだ。殺しきれなかった衝撃が胸骨を軋ませ、あばらのいくつかが砕ける音が耳朶を打つ。
「ぐ……がはああっ!」
どっと溢れかえる血を吐き出し、シェートの体が大地に転がった。
潰れた肺のせいか、空気を求めて喉が必死にあえぐ。
「がはっ! ひっ、ぜぇっ、はっ、ぐは、あぐうっ!」
「そんなおもちゃ一つ手に入れた程度で、俺に勝てる気になっていたのか」
斧を拾い、地面に転がったこちらを厳しく睨みすえた。
斧頭のあった辺りの大地が激しく抉れ、土が掘り返されている。
「貴様の魔法弾を土くれで叩き落し、命中の寸前で、斧を支えに体を押し出したのだ」
ご丁寧に解説まで加え、魔将が再び突進の構えを取る。
「どうした、貴様は自動で傷の治る加護かかかっているのだろう? ならば立て。勝負は始まったばかりだ」
「うっ、ぐは、がっ、がはっ、はっ、はあっ、はっ、はあっ」
息を吸う度に、痛みが遠のいていく。あばらの痛みが少しずつ引くのを感じ、よろめきながら立ち上がる。
「武器とは、己の体の一部だ。どれほど強力な魔法、神の奇跡が封じられていようと、扱うものが鈍らでは、子供の棒振りに過ぎん!」
再び暴力的な突進。右肩に担いだ斧を認め、シェートはがら空きになった左側へ向けて飛んだ。
「持ち手と逆に飛べば、避けられると思ったか?」
こちらの動きにぴたりとあわせ、ベルガンダの体が左に回転した。そして、肩にかついていたはずの斧が、唸りを上げて襲い掛かる。
垂直に立てられた斧頭が、シェートの体を吹き飛ばした。
「がはああああっ!」
なおも回転しようとする全身を、たくましい両足が制動した。地面に半円の痕跡を残しつつ、ベルガンダはすっとその場に立つ。
再び転がったこちらを、魔将は感情の失われた瞳で見下ろした。
「貴様が円の動きで二刀を扱うように、俺は全身に備わった"円"を使いこなす。魔界の斧術、しかと見たか」
叩きつけられた斧で左半身が酷く痛む。折れてはいないが、肘や手が、衝撃でまともに動かせない。
「あがけ。あがかねば、死ぬぞ」
「ぐ……っ」
震えながら立ち上がり、目の前の魔将を、必死に見据える。
さっきの動きは、全く理解を超えていた。
肩に担いだはずの斧は、いきなり腰に当てられていた。
振りかぶって、力任せに回したわけではない。ベルガンダがこちらに向けて体を回す瞬間、もう斧頭は相手の腰の前にあったのだ。
『体幹の円を使った動きか。魔界の武術、侮れんな』
それまで沈黙していた竜の声が、苦渋とも感心ともつかない心情に揺れていた。
『シェートよ。このままではやつに勝つのは無理だ。あの体のどこにでも、やつは己の武器の好きな部位を出現させ、それを渾身の力で叩きつけることが出来る』
「そ、そんな……」
『無論、肉体の構造上、届かせられぬ場所もあるが、そんなことは瑣末事だ』
確かに、ベルガンダの斧は変幻自在だった。魔法弾を砕き、遠くへ飛ぶための支えとして使い、重さなど気にせず、斧頭を好きな場所に出すことが出来る。
「なんだ、もう抵抗は終わりか」
ずい、と、牛の巨体がこちらに迫る。
その圧力に、思わず体が引けた。
「何をしているのだ、シェート」
びたり、と斧をこちらにつきつけ、魔将は冷たい目でこちらを睨む。
「言ったはずだぞ。大きなものに恐れを抱けば、死につながると」
「う……」
あの時、背中に負われながら聞いた言葉。かつては激励だったものが、今はこちらの死を宣告する、呪いの言葉のように思えた。
「神の力を手にいれ、智謀に支えられ、弱き魔物の身で生き抜いてきた貴様だが、所詮はその程度」
ベルガンダが分厚い唇を曲げ、せせら笑う。
「大した珠かと珍重してみれば、何のことはない、そこらに転がるクズ石の類だったということか!」
「ぐ……っ」
「貴様のような者、我が主に献上するに値せん。その首叩き落し、勝利の宴の肴としてくれるわ!」
腰を落とし、その背中に横一文字になるよう柄をあてがうと、ベルガンダはゆっくりと息を吐き出していく。
むき出しになった腕と足の筋肉が、見る見るうちに引き絞られ、血管が浮き上がっていく。顔に宿るのは必殺の気合、その喉で、真紅の呪紋が輝きを増す。
恐ろしさが全身に染み渡り、声も上げられない。
痛みが遠のき、心臓の音が耳の奥で木霊していく。
死ぬのか、自分は、ここで。
「――いやだ」
零れた言葉が、胸の奥に染みる。
熱くなる全身と、胸元に下がった冷たい石の感覚が、気力を呼び覚ます。
死なない、死ねない、生きていたい。
それならば、どうする?
「死ね」
ベルガンダの体が、宣言と共に襲い掛かる。
腰だめにした斧の一振り、それを間合いに入った瞬間、こちらの逃げ場ごと雑草のように刈り切る気だ。
その全ての軌跡を、シェートの目が捉える。
解き放たれた矢の軌道を、すばやい野鳥の飛び立つ方向を、はしっこい魚の泳ぎを、見つめ続けた目が。
「ふうっ!」
全身の筋肉に、突進を命じた。
その動きを切り裂くように、ベルガンダの腰から唸りを上げて、斧が解き放たれる。
避けは間に合わない、斧頭が大気を切り裂き、鋭い刃が完璧な間合いでシェートの胴へ襲い掛かる。
「来いっ」
その進路を遮るように、両手を叩きつけた。
「スコル! ハティッ!」
顕れた神器が斧とぶつかり合い、放たれた魔力が一気に開放される。
「ぬううっ!」
「くああああっ!」
強烈な爆発が武器の間で弾け、シェートの体が加速をつけて前に押し出される。
その目の前に顕れた、がら空きになったベルガンダの胴体。
「うおおおおおおおおおっ!」
二振りの刃が閃き、シェートの体が舞うように脇をすり抜ける。
その両足が大地に真円を描き、大きく間合いを取るように跳び退った。
「お、おおっ」
苦しげにうめいたベルガンダが、苦痛を漏らしながらシェートに向き直る。
下半分を断ち割られた鎧の下、脇から少なくない血を流し、魔将はそれでも斧を構えなおし、笑った。
「それでいいのだ。さぁ……続きと行こうか!」




