31、Domine Quo vadis
見上げたシェートの目の前で、それは平野にいるもの全てに、影を落とした。
巨大。
それ以外の言葉で表現することを憚れるような、想像を絶する規模の構築物だ。
無数の鋭利な岩塊が密生し、鍋の底のような緩やかな曲線を描いている。自分達の立っている平原を、完全に塞げそうな外周。
その遥か上には壮麗な城が築かれているはずだが、丁度真下にいる自分には、その輪郭さえ見ることが出来ない。
一体どれほどの重量があるのかも見当がつかない。あれが降ってくる、と考えただけでも、心臓が締め付けられるような恐怖を感じた。
だが、魔王の居城は小揺るぎもせず、蒼穹の只中に存在し続けている。
ほんの数刻前まで影も形も無かったそれが、今や全ての条理を踏みにじり、圧倒的な不条理を体現しながら、宙にその身を浮かべていた。
「我が……主よ……」
魔将は跪き、掠れた声で、魔王に語りかけた。
「どうして、ここへ、お出でに?」
『貴様が言ったのではないか。シェートを受け取りに来い、とな。だからこそ、中央に魔獣の戦列を降らして後、おっとり刀で駆けつけたという次第だ。得心したか?』
「は……」
それまでの豪壮さなど欠片も無く、青ざめた顔でベルガンダがうな垂れる。
『我がいとしき魔物、シェートよ』
意識を失い、力なく震えている仔竜を狼に任せると、シェートは無言で城を睨んだ。
『どうした……怯えているのか? 俺を倒すと息巻いていた、威勢のよさはどうした?』
リンドルでの出会い以来、魔王の存在は心の片隅に、脅威の象徴として居座り続けていた。そして今、巨大な城という形で目の前に在る。
その全てを押しのけようと、シェートは空に怒鳴りつけた。
「違う! 俺、お前、倒す決めてる。だ、だから!」
『そうだ……それでいい。その調子で俺を楽しませろ。だが、俺が出向いた用向きは、それだけではない』
僅かな沈黙、奇妙な間の空気に、シェートは魔王を幻視した気がした。
玉座に座り、地上に這いずる全ての者を眺め回す姿を。
『魔将ベルガンダ、並びに我が精鋭よ。目の前の人間どもを、鏖殺せよ』
「う……」
地面を見つめ続けていた魔将は、びくりと肩を震わせ、押し黙る。
『どうした、俺の声が聞こえなかったか?』
「い、いえ……ですが」
『二度言わせる気か? 俺が命じたのだ、人間どもを、皆殺しにせよと』
無情な命令に、遠くに列を作っていた人間たちがどよめき始める。ポローたちは事態の変化に対応できるよう、互いに身を寄せ合い、魔王の声に耳を傾けていた。
「お、畏れながら、申し上げます!」
『……よかろう。言ってみろ』
「か、かの勇者の散り際に、私は約定を結んだのです。勇者軍は神の加護を失い、今や単なる市井の者どもに過ぎませぬ。故に、その命を安堵せよと」
『なるほど、それで?』
「わ、我が方の被害も、決して少なくは無く、こちら側としても、その条件は聞くに値するものとして、このまま、連中を見逃すのも一つの手であると」
必死に振り絞ったベルガンダの抗議に、魔王は楽しげに笑った。
『なるほど。神の助言があったとはいえ、自ら軍を率い、策を巡らせた貴様だ。機知に富んだ解答をするようになったな』
「は……はい」
『自らの軍の損耗を抑え、引き際をわきまえる見識も見事。俺は貴様のような部下を持ったことを誇りに思う』
「あ……ありがとう、ございます」
『故に命じよう。全力を以って、人間どもを皆殺せ』
絶望にまみれた顔を上げて、ベルガンダは呻いた。
「我が主よ! わ、私は……」
『我が魔将よ、俺は何だ?』
鋼鉄の強固さで、魔王の言葉が降り注ぐ。
「ま……魔王様です」
『そうだ。俺は魔の王。この地上にある、生きとし生ける者の全ての敵対者、万物の破壊者だ。重ねて問おう、貴様は、何だ?』
「わ……私は……っ」
言葉に詰まり、ベルガンダは瞼を閉じ、息を殺した。
だが、逡巡は一瞬。
迷いそのものを引きちぎるように、魔将は立ち上がる。
そして、その顔に厳しさだけを浮かべ、吼えた。
「今代魔王麾下、魔将ベルガンダ! 御身の令に、身命をとして付き従う者なり!」
『ならば我が魔将よ、今こそ命ずる。"謳え"、その身に秘めた、戦いの頌歌を』
「――御意」
斧の頭を大地に突きたて、石突を両手でかぶせるように押さえる。
胸を張り、喉を逸らし、牛頭の魔人は、大きく吸い込み、上半身を膨らませた。
その太い首に、くっきりと浮かび上がる真紅の呪紋。
『シェート! そやつを今すぐ殺せ! その鳴唱を謳わせてはならん!』
竜神の叫びは間に合わなかった。
ベルガンダの喉からほとばしった"聲"が、大気を震わせ、戦場に鳴り渡った。
『―――――――――――――ッ』
表現のしようが無い、大気を磨する大音声。
そこに込められた力が、シェートの魂にどっと注ぎ込まれた。
「あ……が、ぁあああああァアアアアアアアアアアッ!」
膨れ上がる熱情。
自分のどこにあるとも知れない、強烈な殺意と闘争心が、意識を塗りつぶしていく。
「アガ、アアアアアッツ、アッ、ウガアアアアアアアアアッ!」
『グート! シェートを抑えろぉっ!』
真っ赤に染まった視界の向こう、狼がこちらに襲い掛かってくる。
殺さないと。
滑らかに手が動き、その白い喉首に向けて腰の山刀が銀の軌跡を――。
「何やってんだ、おまえええええっ!」
白い背中から飛び掛った青い影が、その頭を思い切り叩きつけてきた。
「グッ、あああっ!?」
「しょ……正気に、もどれってんだよ、バカァッ!」
地面に投げ出されたこちらに馬乗りになり、フィーが必死に体を押さえてくる。
「フィー……おまえ、からだ、だいじょうぶか」
「そ、それはこっちの、セリフ……ぐ……げええっ」
顔を逸らし、戻した代物を必死にあさっての方にぶちまけると、仔竜は衰弱しきって大地に倒れ付す。
「お、俺……なに、やって」
『"狂奔"の鳴唱だ』
言い差す竜神の声を、絶叫がかき消していく。
シェートの体から消え去った強烈な熱情を、そのまま飲み込んだように、叫ぶ者達。
後ろに控えていた魔物たちが、戦いの勲を謳っていく。
「な、なんだ、あれ」
謳う魔物たちの目には、正気と呼べるものが一切無かった。充血した目がせわしなく動き、口元の涎にすら気付いていない。
『さあ、我が魔将よ。令を放て』
忌まわしき呪紋を輝かせ、ベルガンダは未だに知性を残した瞳で、人間達の戦列を睨みつけた。
『食い破れと、飲み尽くせと』
「……やめろ」
『砕き、磨り潰し、踏みにじれと』
「やめろ……っ」
『屑肉の峰を築き、血の大河で大地を真紅に染めよと!』
「やめろっ! ベルガンダ!」
その視線が、ほんの一瞬だけシェートを見、振り捨てるように前を向く。
「全軍――」
巨大な体が圧縮され、
「突撃!」
吶喊の号令と共に飛び出した瞬間、
「やめろおおおおおおおおっ!」
絶叫と共に、シェートは魔将の体を光で貫いていた。
鏡の向こうで絶叫するコボルトに、魔将の足が止まる。
だが、一度掛けられた号令は決して違えられることは無い。ベルガンダとシェートを置き去りに、魔物の群れはわき目も振らず、人間達に向かっていく。
『こ、こりゃはやばい! お前ら、とっとと本陣に戻れ! 逃げるんだよ!』
勇者軍の将軍をしていた男に急き立てられ、人間たちが逃げていく。
その背後を、怒涛となった魔物たちが追いかけていく。
「ふ、いいザマだ。そらそら、もっと急がないと追いつかれてしまうぞ? ははは」
だが、魔王はすぐに瑣末事から意識を外し、足下に目を向けた。
突進を止められ、今だ薄い煙を上げる斧を片手に敵を睨みすえる魔将と、苦しみに歪んだ顔を向けるコボルトに。
『お前、どうして! 勇者と約束、忘れたか!』
『そんなもの、我が王の命に比べれば、こだわることさえ愚かしき約定』
『ふざけるな! お前……お前、そういう奴、違う!』
「ほう?」
シェートの口から零れる発言の苦さに、魔王はそっと目を細めた。
「どうやら我が魔将は、大分シェートの心をたらし込んだと見える。見ろ、あの懊悩に満ちた顔を」
「そのことは報告に入っておりました。ベルガンダ殿も、ずいぶんご執心であったとか」
『貴様に、俺の何が分かるというのだ!』
声を荒げ、斧を構えなおす魔将の脇を、狂乱した部下たちが走り抜けていく。その一人一人に視線が移り、それでもベルガンダは己を奮い立たせた。
『俺は魔王様の部下! 命じられればそれに従うまで!』
『お前、その魔法! 使うしなかった! それ、こうなるの、分かってたからだ!』
手にした武器の存在も忘れ、シェートは必死に説得を試みている。先ほど、"狂奔"の鳴唱を喰らって狂気に飲まれるかと思っていたが、妙な仔竜にそれを邪魔されていた。
『みんな、自分の意思、違うこと、させられる! 無理矢理戦うさせる、お前、いやだった! 違うか!』
『何度も言わせるな! 俺にとっては魔王様が全て! その命は……絶対だ!』
「そう言う割りに……なんだ、その顔は」
今や魔王は上機嫌に、部下の苦悩を眺めやった。
忠誠心と道義、目の前のコボルトとの友情に苛まれ、それでも部下としての本分を全うしようと命を振り絞る姿。
「シェートよ、一つ教えてやろう」
その全てを愛でながら、魔王は言葉を降らせた。
「我が魔将の"狂奔"は、一度発動させれば、受けたものが死ぬか、魔将を殺すまで止まらぬぞ」
『な……なに!?』
「止めたければ必死でベルガンダを殺すことだ。ああ、そうそう」
魔王は鏡の向こうに映る人間達の姿を見て、口の端をゆがめた。
「このままでは、いまいちゲームが盛り上がらんだろう? そこで、更なる趣向を用意してやることにした」
玉座に深く腰を降ろすと、魔王は蒼天の覗く天井を見上げ、指を突きつけた。
「消えろ」
雲ひとつ無い空に輝く白日が、次第に黒ずんでいく。帳のように闇が世界を覆い、地上をうごめく魔物の瞳が、まがまがしい地上の星となって輝いた。
『な、なんだこれ!? 太陽、消えた!?』
「"吹き渡れ、魔界の底より湧き出でし、悪疫を撒く忌み風よ"」
聲に従い、闇の中に魔界の瘴気が満ち渡っていく。その腐った風は、戦場の隅々まで届き、打ち捨てられた魔物たちの上でよどんで溜まっていく。
そして、それが十分に染み渡った時、魔王は令を放った。
「俺の忠実な部下どもよ、今がその時だ。"目覚めろ"」
命令に従い、それらが起き上がっていく。
魔法によって焼かれ、槍によって腹を裂かれ、踏みにじられた魔物の死体が。
「今からこの場は、俺の部下の狩場となる。さぁ、シェートよ、早く俺の魔将を倒してみせろ。でないと、この場から一人たりとも、生きて出ることは叶わぬぞ?」
『……っ!』
魔将に悲痛な視線を投げ、シェートが弓を引き絞る。
『魔将、ベルガンダ……ここで、お前、狩る!』
『よかろう。力の限り、打ちかかって来い! 女神の勇者シェート!』
侠気を全身から発散させ、ベルガンダが斧を構える。
その二人を眺めやると、魔王は虚空に無数の鏡を浮かべた。
「見せてみろ、この俺に」
映し出されていく魔物と人間の姿。
その全てに向けて、魔王は朗らかに告げた。
「お前らの、命の華が咲いて散る、その様をな」
「い……一体、何が起こっているんだ?」
ウィルは本陣から、目の前の光景を呆然と眺めていた。
胸に下げた《ドッグタグ》は、シェートというコボルトに、勇者が滅ぼされたという連絡を伝えたきり、なんの反応も示さなくなっていた。
空は闇に閉ざされ、日の光どころか星明りさえ見えない。
その上、戦場に立った兵士たちに、赤い津波が押し寄せていくのが、遠目からでも分かった。
「た、隊長! どうして魔王がこんなところに! それに、空が!」
「勇者様が死んだって、コボルトに殺されたなんて、嘘ですよねぇ!」
あっという間に不安が伝播し、馬達も神経質にいななき続けている。
「し、静まれ! とにかく、落ち着いて状況を確認しろ! 武器は手放さず、仲間の姿を見失わないようにするんだ!」
こうして声を荒げて兵士達を鼓舞するのは何時以来だろう。《ドッグタグ》おかげで、昔ながらの方法などほとんど忘れかけていた。
「ウィル殿!」
「……おお、ラザブ殿か! そちらはどうだ?」
「とりあえず、外周の警備に回していたものは、皆こちらに戻した。しかし……」
生真面目な男は、遠方で蠢動を続ける黒い波を、恐れを帯びた視線で眺めた。
「あれは、魔物ども、なのだろうな」
「空が闇に包まれる前、響き渡った叫喚と、関係があるのだろうが……」
部下達も落ち着かない様子で、目前の戦場を眺め続ける。
「た……隊長、もう、逃げましょう! さっきの通信聞いたでしょう? もう、勇者様は……その……」
「分かっている。だが、あそこには、まだ取り残された者達がいるのだ」
ウィルはそっと手綱を握り、落ち着かせるように愛馬の首筋を叩く。
「あの場にいる者のほとんどは、タグの力によって兵士になったもの。それが無くなった今、彼らは市井のただ人、つまり我ら騎士が、守らねばならぬ者達だ」
自分の宣言に、部下達は恥ずかしそうに一瞬視線を逸らし、それから頷いた。
「今この場で、神の加護なしで戦えるものは少ない。外様よ、古い時代にこだわる頑固者よとさげすまれた我らだが、その力を保持し続けたのは、この一瞬のためだと、私は確信した!」
自分の傍らで、思いを同じくしたラザブが、笑顔で兜の面頬を下げる。
「騎士として従軍経験のあるものは私に続け! タグによって騎兵となったものはこの場で待機! 無理に戦おうとするな! 円陣を組み、槍や剣で敵を遠ざけるだけにせよ!」
大声で陣形を組み立て、その先頭にウィルとラザブが並び立つ。自分についてきてくれた部下の、不安の中にも勇猛さを浮かべた面魂に、騎士は笑みを浮かべた。
「では、行くぞ。ラザブ殿!」
そう言って、ウィルは傍らの同輩に向き直り、拍車を掛けようとした。
だが、視線の先にあったのは、肉だった。
「え」
汚らしい紫色をした、巨大な胴体が恐ろしい速度で通り過ぎる。その皮は一部が破れ、忌まわしい腐敗臭が鼻腔を貫く。
そして、遅ればせながら、巨大な質量が生み出した衝撃波が、ウィルの体を馬もろともに吹き飛ばした。
「うがああああああっ!」
鈍い音を立て、鎧ごと地面に叩きつけられる。兜が吹き飛び、陣屋の情景が視界一杯に広がった。
「た、たすけぇくれええええっ!」
「やめ、く、くるな、がっ、があああああああああっ」
腹に響く地鳴りが、幾度も世界を揺るがす。陣屋の中、溢れかえったのは、巨大な魔香のワームの屍骸たち。
目も無く、耳も無く、今や命さえ失ったワームの屍骸が、手当たり次第に生者をひき潰し、満たされる必要の無くなった腹に収めていく。
「た、たすけてっ! 隊長! むしが、あああああっ!」
騎兵の一人がワームの口に捕らえられ、とめる間もなく飲み込まれていく。
気がつけば、陣屋の中でまともに戦えるものは一人もおらず、手にした武器を闇雲に振り回しながら、悲鳴を上げて逃げ回るばかりだった。
「こんな、こんなことが……」
「う、うわぁっ! 隊長っ! 死体が、したいぐえっ!」
新たな断末魔に吸い寄せられ、ウィルの目が見たくも無いそれをしっかりと認識してしまう。
ついさっき、めちゃくちゃに砕かれた仲間の死体が起き上がり、近くの味方に襲い掛かっていた。
辺りに漂う腐臭と、その源である濃く粘りつくような霧。
それが死者の体に入り込み、偽りの生を与えられた者達が、更なる死を求めて動き出していた。
「あ、ああ……うああああああああああああああっ!」
ウィルは、腹の底から絶叫していた。
ほんの少し前、自分は騎士の誇りに掛けて馬を走らせようとしていた。
その更に前、自分は勇者の旗の下、魔王と戦う覚悟を決めていた。
だが、そんな全てを、目の前の屍骸が踏み荒らし、めちゃくちゃに打ち砕いていく。
「やめろ……やめろぉっ」
叫んでいる間にも、部下がミミズの下敷きになって肉片と化し、蘇った死者が更なる死者を生み出すべく、生者を殺していく。
「俺の、俺の部下に、仲間に、なんてことをっ!」
立ち上がり、必死に槍を構え、ウィルは目の前の敵にぶつかって行こうとした。
「あ?」
わき腹に鋭い痛みを感じ、視線を落とす。
そこには、顔を半分砕かれたラザブが、狂笑を浮かべて剣を突き出す姿
「あ、ああっ、うわあああああぁぁあぁあああああああああああ!」
涙を浮かべ、ウィルは叫び、仲間であった死体をめちゃくちゃに殴打した。
その上にむけて一匹の長虫が倒れ掛かり、自分共々全てを挽肉に変えるまで。
手にした杖が、やけに重く感じる。
必死に魔物の軍から逃げ出しながら、ヴェングラスは息を切らし、ポローに叫んだ。
「ポローさん! ここは私が食い止めます! 怪我人を連れて先に行ってください!」
踵を返して敵に向き直ると、驚いて立ち止まったポローたちに手振りで、先に行けと合図する。
魔将たちの側から離れ、何とか逃れてきてみたものの、怪我人を抱えた特殊部隊の連中と一緒では、追いつかれるのは時間の問題だった。
「それじゃ、俺もお供させてもらうかな」
剣を手に、エクバートが隣に立つ。こちらの行動に驚いた連中に、相棒は穏やかな笑みで退避を促した。
「早く逃げろ。加護を失ったお前らじゃ、連中にひねり殺されるだけだ」
「で……でも、アンタはどうなんだ!?」
農夫上がりのポローは、未だに垢抜けない顔のまま、不安を浮かべていた。
「見損なうなよ。加護の一つや二つ無くとも、あんな奴ら一ひねりさ」
「私もです。貴方達のために時間を稼ぐぐらい、どうとでもなります。分かったら早く行きなさい」
頭を下げた五人が足早にその場を去り、エクバートは肩をすくめた。
「時間稼ぎぐらいはしてみせる、だって? 魔法の修行から逃げ出して、インチキ呪い師で暮らしていたお前がか?」
「そういう貴方こそ、美人局の片棒を担いで、自力で戦った相手といえば、町のごろつき程度でしょう?」
迫ってくる敵は、どれも手に槍を構え、狂気ではちきれそうな顔をしていた。
群れはいくつかの塊に分かれ、自分達の背後にある本隊に、あらゆる方向から襲い掛かるつもりらしかった。
「どうして」
問いかける相棒の手が震えているのが、暗闇でもはっきりと分かった。
「どうして、こんな柄にもないこと、する気になったんだ?」
「多分」
杖を握った自分の手が、同じように震えている。
「嘘と虚構で塗り固めて、彼らをこんな場所まで引っ張ってきてしまったことへの、罪滅ぼしみたいもの、ですかね」
ある日、けちな稼業で日々の糧を得ていた自分のところに、勇者が現れた。
それからというもの、自分は有能な軍師ヴェングラスとして、たくさんの人を焚きつけて、騙して、勇者の軍に駆り立てた。
「何より、ポローさんは私が引き入れましたからね。責任を感じているんですよ」
「何が責任だよ。どうせ適当に戦ったら、姿をくらませて、トンズラこくつもりだろ? 俺も一枚かませろよな」
「ああ。そういう手もありましたね。私としたことが、うっかりしていました」
ヴェングラスは杖を掲げ、呪文を唱じた。
「"霜月より来たれ怜悧、凍てつく銀の祝福は万障貫く戒めの一矢なり"」
意志の力にしたがって、虚空に銀色の魔法弾が浮かび上がる。
その数、たった一発。
「はっ、最後の最後でしまらねぇな」
相棒が剣を抜き、身構える。
ヴェングラスは杖を掲げた。
「打ち払え、凍月箭」
虚空を駆け抜けた銀光が、魔物の波に吸い込まれる。
無数に光る真紅の目に、変化が現れることは無かった。全く無意味な一発のために、逃げる機会は永遠に失われた。
「本当に、最後の最後で、しまらないですね」
ヴェングラスが苦笑を浮かべた瞬間、
「ギヒャアアアアアアアアアアアアッ!」
魔物の絶叫が全てを押し包み、青いローブごと、その意識を打ち砕く。
その視界の端で、卵の殻のように、美麗な鎧が粉々に砕かれていった。
「おっ、俺らは、置いていけっ」
荒い息を吐いて、ファルナンが地面に崩れ落ちる。それを支えていたディトレも、にじみ出る鮮血にあえぎながら、膝を突いていた。
「も、もう、どこに逃げても無理だよ。加護を持たない僧侶に、こんな深手を治せるわけが無い。僕らのことは置いて」
「馬鹿野郎っ! あそこに味方の戦列が見えるだろ! 魔法が無くたって、傷薬や包帯ぐらいはある! 弱音を吐かずにとっとと走れ!」
魔物の進行は早いが、まだ本隊の連中は無事に立っている。何より、その背後には本陣があり、全うな騎士連中だっているはずだった。
「とにかく、逃げるんだ! あそこまで行けば……」
その言葉を、ポローは飲み込んでいた。
目の前の本隊が、突然大地とともに爆発していく。
「な、何だよ、あれは!?」
地面から生えてきたのは、長い管のようなワームの姿。
「た、隊長! に、西の、山を見て!」
悲鳴を上げるディトレに指差す方角から、何かが駆け下りてくる。
そこにいたのは、操り手を失ったはずの、無数の魔獣や忌まわしい虫の類。その全てが無傷な本隊のわき腹めがけ、猛烈な勢いでぶつかっていった。
「あ、あっちはだめだ! 本隊を迂回して、東から」
「だめだよ! あっちにもバケモノが!」
メシェが悲鳴をあげ、同時にその連中が、盛大にいななく。
魔法を徹底的にぶち込まれ、肉の塊と化したはずの牙乗りたちが、死に盲しいた顔に喜色を浮かべて、叫んでいた。
「なんなんだよ……こりゃあ」
がくがくと体が震えだす。
今まで倒してきた魔物が、全て起き上がり、こちらに向かってくる。
「ど、どうする!? どうするの隊長!?」
「ど、どうするって」
「避けろポロー!」
残った片腕で、レアドルがこちらを突き飛ばす。
その首が、宙を舞った。
「シャアアアアアアアアアアアアアアッ!」
血を吹き出し、膝を突いたレアドルを蹴り飛ばし、そいつは血刀を突きつけた。
長く鋭い曲刀を手に、リザードマンの狂戦士が新たな獲物を求めて、こちらに足を踏み出した。
「た、隊長! 早く逃げ」
幻のように、リザードマンの姿が消える。
空高く舞い上がったそいつは、ナイフを投げつけようとしていたファルナンを、脳天から真っ二つに裂き断った。
「い、あ、ああ、やめ、こな、こない、で」
その隣でしりもちをつき、必死に棒切れを振り回すディトレ。
熟れた果物に串でも突き刺すように、トカゲは肥えた顔を刺し貫き、絶命させる。
がくりと膝から力が抜け、ポローの股間から、熱い流れが漏れ出した。
「あ……は、ああ……っ」
まるで体が動かない。一切の抵抗すら考えられず、目の前の暴威に対して、ポローは頭を地に擦り付けていた。
「たっ! たすけてっ! たすけてくれっ! おれ、おれは、おれはっ! しに、しにたくないっ、こんな、こんなところで、えっ、あっ、あああああああっ」
こんなことをして何になる。魔物が、哀願などに耳を貸すとでも、思っているのか。
だが、新たに響いた声が、トカゲの足を止めた。
「こ……こっちだよ! バケモノ!」
「メ……メシェッ! やめろっ!」
顔を上げ、声の場所を探す。メシェはリザードマンの目の前、仲間達の死体が散らばった中心で、剣を構えていた。
「あ、あんたは逃げな! こ、ここは、あたしが、く、くいとめっ」
「やめろ! お前じゃ無理だ! 早く逃げろ!」
トカゲの頭が、一瞬こちらに向き直った。一度に二つの獲物を目にした魔物が、その判断を鈍らせる。
その瞬間、ポローの脳裏に、咲いて散った記憶。
見捨てた家族の顔、助けた村人の顔。
これまで共に過ごしてきた、メシェの顔。
「こ、こっちだ、このクソトカゲがあああああっ!」
地面に転がった剣を手に取ると、思い切り投げつけた。
一撃で弾き飛ばしたリザードマンに背を向け、一気に走り出す。
「そうだ! 俺のほうへ――」
だが、数歩も行かないうちに、背中に激痛と衝撃が叩きつけられた。
「ぐああああっ!」
そのまま、ポローは前のめりに倒れ、世界は一層暗くなっていく。
「メシェ……逃げ……くれ」
近くにあったトカゲの足音がこちらに近づき、何かを確かめるよう立ち止まる。
痛みを堪えて息を押し殺したポローを見つめた魔物は、興味を失ったように軽い足取りで走り去っていく。
突っ伏した頬に感じる魔物の足音も、次第に遠いものに変わっていく。安堵と、メシェのことを不安に思いながら、そろそろと鎧の背後に手を回す。
どうやら相手の剣は狂気で鈍っていたらしい。傷はそれほど深くはなさそうだった。
「く、くそ……」
体に喝を入れ、何とか立ち上がる。
あらためて周囲を見回したポローは、絶句した。
この世の悲惨と責め苦を、一同に集めたような世界が、そこにあった。
目を血走らせた魔物が、槍を持った人間達に襲い掛かる。
だが、応戦する槍の動きは鈍く、全く統制が取れていなかった。あっという間に引きずり倒され、肉を食いちぎられ、手足をもぎ取られていく。
隊列深くに潜り込んだ魔獣たちが、炎を吐きかけ、毒を注ぎ込み、あるいは不可視の牙で人々の喉笛を掻き切っていく。
蘇った魔物たちは人間達をひき潰し、潰された死者達が立ち上がって、さらに生者を死の国に引きずり込んでいった。
「な、なんだよ、これは……ええ? 神様よお」
痛みも恐怖も忘れて、ポローは声を限りに叫んでいた。
「俺達を、俺達をこんな責め苦に置き去りにして、あんたは、あんたらは何をやってるんだ!? 神が俺達を救うんじゃないのか! そのために遣わした勇者じゃないのか!」
全ての加護を失った一人の男は、胸元の《ドッグタグ》を引きちぎった。
「中途半端なところでいなくなるんじゃねぇよ! 今すぐ戻って、俺達を救って見せろってんだよぉっ!」
その叫びに対する答えが、無数の槍となって、ポローの砕けかけた鎧を刺し貫いた。
「が……ぁっ」
「ギヒイイイイイイッ!」
粗く削った木槍を手にした者達が、嬉しげに嬌声を上げる。
血走った目をむけ、長いマズルから泡を吹き、嗜虐の喜びに狂った、コボルトの群れ。
激痛と脱力で地面に転がった自分に、そいつらは一斉に群がってきた。
「や、やめ、っがあああああああああああっ!?」
木槍が太股を貫き、腕を縫いとめ、犬どもが嗤い、自分を取り囲んだ。
皆一様に、舌なめずりをし、目の前の晩餐を、期待の視線でなぶって行く。
「は……はっ、なん、だよ……おまえら……」
ケモノの匂いと血なまぐささ、狂乱の気配に押し包まれながら、男は皮肉に笑った。
「とりたてに、きたってのか、おれから、けいけんち、を」
得物を振り上げ、コボルトも嗤う。
「なぁ、神様」
その全てを見つめ、ポローは涙を流した。
「あんた、一体、どこにいるんだ?」
それが、彼の世界の、最後の一言になった。