27、黎明
世界がぐるぐると回っている。
冷えているのに熱く、痛みを感じるのに何一つ、手の中に残らない。
「――っ! ――――っ」
意味のある音が何一つ聞こえない。意識があまりに内側に向きすぎて。
『とにかく、一度休め』
切り抜いた写真のように、スーツ姿の初老の男の姿が浮き上がる。
『棋士だって人の子だ。誰しもが、八十一枡精魂注ぎ、我、斯道を往く鬼神と成らん、って訳にはいかねぇよ』
白い病室の冷えた空気を思い出す。
間に合わなかった約束が、線香の煙と共に、灰になって崩れ落ちていく。
『実はな、あの人のことはちょっと話題になってたんだぜ? 若い頃は大分跳ね返ったらしくてな。協会のお偉いさんとも揉めたって聞いた』
火葬場の分厚い扉の向こう、燃えていく音が耳を焼くようだった。
そして、線香の灰のように、白く燃え残った個人の残滓に、康晴は見た。
失われた右手の人差し指へ添えられる、親指と中指の形を。
『そのことは、俺も知らん。まぁ、与太の類だが……わからんからこそ、夢があるって思わねぇか?』
永遠に求め続けた盤上の一手。
死してなお、棋士であり続けた男の終焉。
「じいちゃん……」
しわがれた声が、救いを求めて絞り出される。
滲んだ視界の先に、何かが見えた。
「じ……」
黒い巨岩のような姿が、こちらを見下ろしていた。その頭に双角を生やし、異形の牛頭を持った魔物。
「ひ……っ」
「神よ、貴様らは実に下らんな」
その目には哀れみがあった。まるで、ふとした弾みで転げ落ちた、小鳥の雛でも見るような。
「神威を与え、権力を与え、無邪気に力を振り回させ、子供の無思慮と無分別、怖いものしらずを暴力に変える。それで戦に勝てると踏んだか?」
『聞いた風な口を! 貴様とて、結局は彼の魔物の、気まぐれな助力で勝ちを拾ったに過ぎぬ!』
「だが、俺達は自分の意思で力を揮う。そして敵を、人を殺す」
哀れんでいた。
目の前の魔物は、自分を哀れんでいた。
「何をやっているのだ、貴様らは。俺にこんな乳飲み子を殺せと言うのか? 殺すことの意味も、己の意思も、今だ定まらぬ、産み立ての卵のような子供を、戦に駆り出して」
その哀れみが、静かに燃え上がっていく。
立ち上がり、魔物は空に顔を向けた。
「一体何をやっているのだ! 答えろ! 傲岸不遜な忌々しき神々よ!」
本当に、自分はなにをやっているんだろう。
吼え猛る魔物の姿を見上げながら、康晴は自問していた。
『そうやって、無為に時間を過ごすのは楽しいか?』
暗い部屋の中、モニターに写された戦場を無感動に見つめる。視線の先で傭兵達がローマを劫掠し、別働隊がアレクサンドリアの図書館を焼き討ちしていく。
『いずれは名のある棋士に、その願いは捨てたか?』
癇に障る幻聴。空になった本棚へ、無意識に視線が走る。将棋に関するものは、全て物置の中に封じていた。
『貴様がなぐさめにしているその遊戯とて、煎じ詰めれば盤上の遊戯と変わらん。貴様は結局、思いを捨てることなどできんのだ』
だからなんだというんだ。
一日駒に触らなければ、取り戻すのに三日は掛かる。自分はもう、戻ることは出来ないほどに、離れてしまったんだ。
『だが、この私なら、貴様の実力を、文字通り神の領域に引き上げることが出来るぞ』
笑うしかない。神の領域、入神の域、そんなもの、絵空事だ。
『では、少し貴様にも見せてやろう』
唐突に、世界が白一色に染まる。
大理石で囲われた異様な空間、その中央に座する、真紅の髪をした青年と、整えられた将棋盤。
『好きなように打ってくるがいい。そして、得るべきものを得るがいい』
嫌がりながら、それでも盤面を見つめていた。
最初の一局、苦もなくひねられた。
次の一局、手も足も出ない。
三局、計り知れない沼にはまり込むように負けた。
四、五、六、七、負け、負けが続く。
『どうした、その顔は』
百を越える対局の果てに、掛けられた声。
青年の嫌味に、康晴は自分の変化に気がついていた。
笑っていた。顔が、引きつるような、歪んだ笑みを浮かべていた。
『私に従え、康晴。そして遊戯の勝利を、私に捧げよ』
神の傲慢な声が福音となって響く。
『さすれば貴様が望む限り、静止した時の中で、あらゆる棋士、あらゆる盤面、あらゆる定跡の悉くを、その身に注ぎ込んでやろう』
とどめの一手が、自分の精神に振り下ろされる音を、康晴は聞いた。
永遠に近い時の中で、望む限り、自分の棋力を上げ続けることができる。それは、棋士を目指すものが、喉から手が出るほどに欲しいものだ。
何より、より完璧に、万夫不当の名人になることで、あの不名誉を雪ぐことができる。
悔やんでも悔やみきれない、あの4五桂を。
なかったことにできる。
『リセットなどしてくれるなよ』
「あ」
『待った待ったで勝ちを拾う、素人同然の縁台将棋』
「あ……ああ……」
『亡き祖父が見たら、なんと言うであろうな?』
「うぁああああああああああああああああああっ!」
魂全てが、業火の中に再び返っていく。
出口のない自己嫌悪の牢獄に、康晴は自らの意思で、堕ちて行くしかなかった。
「役立たずが」
悲痛な思いで水鏡を見つめていたサリアの耳を、不快な音がやすった。
対面の知見者は、疎ましげな顔で全てを見やっている。唾棄、という言葉がしっくり来るような、歪んだ表情で。
「内に秘めた暗き情熱を御しきれる、そう踏んでいたのだが。思い違いであったか」
「知見者殿、貴方は、何を言っている?」
「騒ぐな。私は今、己の不明を恥じているのだ」
言葉とは裏腹に、知見者の顔は傲慢そのものを体現していた。崩れ落ち、絶叫し続ける己の勇者に冷たい一瞥を投げると、虚空に声を放つ。
「イェスタ」
「はい」
「神規の解除と払い戻しを頼む」
無表情に知見者の側に侍った時の神は、その先を促すように杖を掲げる。
「セーブとリセットの神規を返上し、賭けられていた星を払い戻せ」
「神規の返上による下取りは、減額が行われますが、それでもよろしいので?」
「グロウサ、メーランディアの二つが取り戻せればよい。余りが出るようなら、各地に分散した"目"を解除、少しでも多く星を残せ。それと」
「一体、何をしておいでなのだ! 貴方は!」
もちろん、行動の意味など見れば明らかだ。
だが、言わずにはおられなかった。
「貴方の勇者は、まだあそこにいるというのに! その働きを見つめる神の貴方が!」
「庇護に値せん勇者に、意味などない。そもそも貴様は、我が神規の解除を望んでいたはず。その抗議こそ、何をしているのか、だ」
飽いた子供のように、知見者の目の中から、全てに対する興味が失われていた。
「戦において最も重要なことは、攻め際と引き際の見極め。このまま続けようとも、奴に勝ち目などは存在しない」
「だ、だからと言って!」
「サリアーシェ・シェス・スーイーラ、貴様はなにか勘違いしているのか?」
物分りの悪い生徒に教えるように、目の前の神は苦りきった説明を吐き出した。
「これは遊戯、賭博なのだ。投じられた玉の行方を追い、互いに握り締めた札を洞察し、あるいは数多の駿馬から、勝ちうるものに票を投じる、そういう類の代物だ。そこにじめじめした個の情感など、交える方がおこがましかろう」
「やはり……私は、間違っていなかったようだ……っ」
拳を硬く握り締め、サリアは立ち上がり、叫んだ。
「命を掛け金に、道理もわからぬ子供を競技のためと駆り立て、必要がなくなれば塵芥と払い捨てる! こんなものに、神威も道理もあったものではない!」
「何とでも言うがいい。そんな青臭い言質を支持するものなど、一つ柱とておらぬ」
こちらの声など全く聞く様子もなく、対面の神はぞんざいに片手を振ってみせた。
「それでは、中央大陸に飛ばした百と、モラニアの二十七を含めた目の全て、およびセーブとリセットの加護を払い戻させていただきます」
軋むような音を立てて、時計杖の針が逆回転していく。
やがて、がちりという音共に、何かが喪失された感覚があった。
「康晴」
知見者の声が、ようやく体の震えを止めた勇者の上に降り注ぐ。
「先ほど、セーブとリセットの機能を解除した。喜べ、これで貴様は下手な将棋打ちと揶揄されることもなくなった」
少年はなにも答えなかった。
その魂は完全に焼き尽くされ、抜け殻になったように見えた。
「それ以外の機能のほとんどは残してある。後の差配は貴様の好きにせよ。恐ろしければ天幕の中に引っ込んでいればよい。ただし、棄権はさせぬ」
そして神は、傲慢に告げた。
「戦って死ね。それ以外は許さん」
冷え切った神の言葉に、サリアの中で紅蓮が猛り狂った。
厚顔で身勝手な、対手にも値しない男への、怒りが湧き上がる。
「よせ。サリア」
「今度ばかりは、その言葉、聞くわけには参りません」
「よせと言っておるのだ! 儂は!」
振り返った先にあったのは、竜の苦みばしった顔だった。
その瞳に、心痛さえ浮かべて、死んだ少年の抜け殻を見ていた。
「確かに奴は、心底性根の腐った男だ。今すぐばらばらに引き裂き、魔界の塵埃の底に住む、糞喰らいの餌にでもしたいほどの。だが、そんなことをして、何が変わる」
動かない勇者を眺めていたベルガンダが、ゆっくりと背を向ける。それに習ってシェートも、戦場を後にする。
「儂は彼の心が砕けるやもしれんと思っていた。それを承知で、最後の毒矢を放った」
「竜神殿っ、貴方まで!」
「こうならないよう、こうではない未来を、少しは願っていたのだぞ? 奴がもう少し、手駒というものの扱いを心得ていたのなら、こうはならなかったろう」
空しい幕切れ、そうとしか言いようがなかった。
すでに勇者の軍は、戦わずして機能を停止したも同然だった。
中核を担う心臓、勇者と神という二つの心室が、竜の毒によって砕けたのだ。その巨体を動かす術は、もう無い。
願っていたはずだ。争いの無い、静かな終焉を。
彼は早晩負けるだろう。後は加護を失った人々をいかに逃がすか、そして、魔将を討ち果たせば、シェートと自分の勝利が決まる。
だが。
『サリア』
水鏡の向こうで、コボルトが振り返っていた。
『お前、バカだ』
シェートは首を振って、それからこちらを見た。
『戦、これで終わる。勇者、これで終わり。俺達、勝つ、違うか?』
「その通りだ。その通りなのだ。だが、こんなものが、勝利などであってたまるか」
バカバカしすぎる。こんなもの、偽善に過ぎないのだと分かっている。
それでもなお、言わずにはいられなかった。
「お前が自らの故郷を焼いた勇者を懲らしたように、私は遊戯によって打ち据えられたものを、見過ごすわけには行かないのだ」
『俺達、敵、みんな。あの時、そういう話、したな。神、魔王、全部狩る』
「ああ。その通りだ」
『おい……シェート、どこへ行く?』
去っていこうとするベルガンダと別れ、再び勇者のところへ歩み寄っていく。少年を支えていた二人が、油断無く身構えた。
『違う。俺、そいつ、用事ない。あるの、サリア』
『策謀で勇者の心を壊した女神が、敗者に憐憫でも垂れようというのですか?』
「憐憫だと? 勘違いするな」
今からすることは、自分のわがままだ。
一歩間違えば、目の前の子供を完全に殺すことになるかもしれない。
それでも、押し通すと決めた。
「立て! いつまでそこで這いつくばっているつもりだ!」
『やめなさい! いくら対手の神とはいえ、これ以上は』
「貴様の祖父は! この程度の逆境で、伏して泣き崩れるような男だったのか!?」
びくりと、少年の背が揺れる。
その身の内にどんな傷を抱えているかなど、量りようが無い。それでも、蘇生を願って声を注ぎ続ける。
「貴様が何を願い、遊戯の果てに何を求めたかは知らぬ! だが、ここで全てを潰えさせていいのか!? 抱いた願いは、その程度のものか!?」
それでも、少年の首は左右に振られて拒絶を繰り返す。
やはりだめなのか、敵対する神の声など、掛けるだけ無駄なのか。
「最後の一局、あの男は棋士としての命を失った」
水面の向こうへ、黄金の竜が囁くように古を語りだす。
「だがそれは、負けた末に払った対価ではない。イカサマを問い詰められ、己の潔白を示すため、自らの意思で切り落としたのだ」
名も顔も知らない無頼の博徒、サリアの傍らで語られる昔語りが、確実に勇者の震えを止めていく。
「あの男は、用意させたたらいに雪をありったけ詰めさせ、その冷気で血を止めながら、残った左手で打ち続けた。息も凍りつく十二月の晦日、煩悩を払う鐘の鳴り響く中、失血と緊張で意識を失いかけ、それでも、勝った」
竜の顔には、ありありとした賞賛が浮かんでいた。
その時のことを懐かしむように、勇者に語りかける。
「あの男は、自ら負けを認めることはなかった。叩きのめされ、気を絶しても、喰らいついて離れなかった。"野犬の永"の名を聞けば、顔をしかめぬ真剣は無かったよ」
『じいちゃん……』
のろのろと顔を上げて、少年はまるで幼子のような顔で、問いかけた。
『じいちゃんのこと、知ってるんですか』
「あくまで見物人として、だがな。時にはその腕に乗って、大枚を稼がせてもらったこともある」
『あの……その、僕の、名前のことなんですけど……』
「稀代の名人。五つの永世名人の称号を持った男の名だが……ああ、あの"噂"か」
何か面白いものでも拾い上げたように、竜は目を細めた。
「そなたの祖父が、彼の名人と戦ったか否か。その真偽、知りたいか」
『は……は、い』
「ならば選べ」
水鏡の下、その場にある全ての存在を等しくひれ伏せさせる威容を湛え、黄金の竜神は勇者の前に道を指し示した。
「己の命と矜持を賭け、従う者どもの魂を代に、目の前のつわものと戦うか、これ以上の痛みを避け、全てから逃げ出すか。勝てば、そなたに全ての真実を教えてやろう」
『う……あ……っ』
「だが忘れるな。その道は、数多の民の命で支えられていることを。そなたが負けて消滅すれば、力を失い、死地に瀕するものがいるという事実をな」
突きつけられた選択肢に、再び少年の顔が曇る。これまで意識していなかった現実を前に、その体が震えている。
『おっさんは、いっつも誰かにそれやってんのな』
苦笑しながら、仔竜が進み出る。それから、奇妙に悲しげな顔で、少年に語りかけた。
『騙されて、餌に釣られて、ここまできたんだろうけどさ。やっちまったもんは、取り消せやしないんだ』
『でも……』
『自分がやったことが、良いことか、悪いことかなんて、後になってみないとわかんねーんだってさ。だとしたら、やることって、割と決まってんじゃないかな』
ちらりと、将軍と軍師に目をやり、フィーはそっと付け加えた。
『少なくとも、心配してくれてる仲間がいるんだから、そいつらのためにも、やるべきことはやっといたほうが良いと思うぜ』
言うだけ言ってしまうと、仔竜は駆け足でその場を立ち去り、姿まで消して居なくなってしまった。
「馬鹿め。照れくさくなって隠れるぐらいなら、かっこつけるものではないわ」
『決闘の日取りは明朝、開始は山の端より日が上りし時。場所はこの宴席を指定しよう。来るならばよし、それが為されねば、一気呵成に貴様らを討ち滅ぼす』
事の成り行きを見守っていた魔将が、淡々と宣言をする。少年は立ち上がり、いくらか気力の戻った顔で魔物を見つめた。
『貴様の事情など与り知らん。そのまま地に伏せば、痛みも知らぬまま、細首を打ち落としていたろう。だが、対手として我が前に立つなら話は別だ。敵将として遇し、全力を持って叩き潰す』
『……はい。望むところです』
すでに、先ほどまでの弱気は消え去っていた。いくばくかの逡巡を遺しながらも、勇者は自分の足で立っていた。
やがて、両軍の将兵は会談の場から去っていく。
その姿に向けて、竜神は幾度目かもわからない、呆れを含んだため息をついていた。
「バカもここまで極まれば才能だな。対手の弱点を消してどうする」
「とはいえ、彼の悔悟をえぐった後ろめたさ、これで少しは晴らせたのでは?」
「儂の面の厚さを侮るな? たかだか人間の小僧一人、ぼろきれにした所で痛痒にも感じぬわ」
だが、その厳つい口元が火酒を舐める仕草に、そこはかとない安堵が漂っているのを、サリアは見逃さなかった。
「そろそろ酒も切れるな。長き戦も、仕舞いの時だ」
水鏡の向こうの世界が白み始める。
空は漆黒から群青へ、そして薄紅へと染まっていく。
昨日と同じようで、決定的に違う未来。
やり直しの効かない、最後の戦いが、始まろうとしていた。