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かみがみ〜最も弱き反逆者〜  作者: 真上犬太
かみがみ~Warmonger編~
81/256

27、黎明

 世界がぐるぐると回っている。

 冷えているのに熱く、痛みを感じるのに何一つ、手の中に残らない。

「――っ! ――――っ」

 意味のある音が何一つ聞こえない。意識があまりに内側に向きすぎて。


『とにかく、一度休め』


 切り抜いた写真のように、スーツ姿の初老の男の姿が浮き上がる。


『棋士だって人の子だ。誰しもが、八十一枡精魂注ぎ、我、斯道を往く鬼神と成らん、って訳にはいかねぇよ』


 白い病室の冷えた空気を思い出す。

 間に合わなかった約束が、線香の煙と共に、灰になって崩れ落ちていく。


『実はな、あの人のことはちょっと話題になってたんだぜ? 若い頃は大分跳ね返ったらしくてな。協会のお偉いさんとも揉めたって聞いた』


 火葬場の分厚い扉の向こう、燃えていく音が耳を焼くようだった。

 そして、線香の灰のように、白く燃え残った個人の残滓に、康晴は見た。

 失われた右手の人差し指へ添えられる、親指と中指の形を。


『そのことは、俺も知らん。まぁ、与太の類だが……わからんからこそ、夢があるって思わねぇか?』


 永遠に求め続けた盤上の一手。

 死してなお、棋士であり続けた男の終焉。

「じいちゃん……」

 しわがれた声が、救いを求めて絞り出される。

 滲んだ視界の先に、何かが見えた。

「じ……」

 黒い巨岩のような姿が、こちらを見下ろしていた。その頭に双角を生やし、異形の牛頭を持った魔物。

「ひ……っ」

「神よ、貴様らは実に下らんな」

 その目には哀れみがあった。まるで、ふとした弾みで転げ落ちた、小鳥の雛でも見るような。

「神威を与え、権力を与え、無邪気に力を振り回させ、子供の無思慮と無分別、怖いものしらずを暴力に変える。それで戦に勝てると踏んだか?」

『聞いた風な口を! 貴様とて、結局は彼の魔物の、気まぐれな助力で勝ちを拾ったに過ぎぬ!』

「だが、俺達は自分の意思で力を揮う。そして敵を、人を殺す」

 哀れんでいた。

 目の前の魔物は、自分を哀れんでいた。

「何をやっているのだ、貴様らは。俺にこんな乳飲み子を殺せと言うのか? 殺すことの意味も、己の意思も、今だ定まらぬ、産み立ての卵のような子供を、戦に駆り出して」

 その哀れみが、静かに燃え上がっていく。

 立ち上がり、魔物は空に顔を向けた。

「一体何をやっているのだ! 答えろ! 傲岸不遜な忌々しき神々よ!」

 本当に、自分はなにをやっているんだろう。

 吼え猛る魔物の姿を見上げながら、康晴は自問していた。


『そうやって、無為に時間を過ごすのは楽しいか?』


 暗い部屋の中、モニターに写された戦場を無感動に見つめる。視線の先で傭兵達がローマを劫掠し、別働隊がアレクサンドリアの図書館を焼き討ちしていく。


『いずれは名のある棋士に、その願いは捨てたか?』


 癇に障る幻聴。空になった本棚へ、無意識に視線が走る。将棋に関するものは、全て物置の中に封じていた。


『貴様がなぐさめにしているその遊戯とて、煎じ詰めれば盤上の遊戯と変わらん。貴様は結局、思いを捨てることなどできんのだ』


 だからなんだというんだ。

 一日駒に触らなければ、取り戻すのに三日は掛かる。自分はもう、戻ることは出来ないほどに、離れてしまったんだ。


『だが、この私なら、貴様の実力を、文字通り神の領域に引き上げることが出来るぞ』


 笑うしかない。神の領域、入神の域、そんなもの、絵空事だ。


『では、少し貴様にも見せてやろう』


 唐突に、世界が白一色に染まる。

 大理石で囲われた異様な空間、その中央に座する、真紅の髪をした青年と、整えられた将棋盤。


『好きなように打ってくるがいい。そして、得るべきものを得るがいい』


 嫌がりながら、それでも盤面を見つめていた。

 最初の一局、苦もなくひねられた。

 次の一局、手も足も出ない。

 三局、計り知れない沼にはまり込むように負けた。

 四、五、六、七、負け、負けが続く。


『どうした、その顔は』


 百を越える対局の果てに、掛けられた声。

 青年の嫌味に、康晴は自分の変化に気がついていた。

 笑っていた。顔が、引きつるような、歪んだ笑みを浮かべていた。


『私に従え、康晴。そして遊戯の勝利を、私に捧げよ』


 神の傲慢な声が福音となって響く。


『さすれば貴様が望む限り、静止した時の中で、あらゆる棋士、あらゆる盤面、あらゆる定跡の悉くを、その身に注ぎ込んでやろう』


 とどめの一手が、自分の精神に振り下ろされる音を、康晴は聞いた。

 永遠に近い時の中で、望む限り、自分の棋力を上げ続けることができる。それは、棋士を目指すものが、喉から手が出るほどに欲しいものだ。

 何より、より完璧に、万夫不当の名人になることで、あの不名誉を雪ぐことができる。

 悔やんでも悔やみきれない、あの4五桂を。


 なかったことにできる。


『リセットなどしてくれるなよ』


「あ」


『待った待ったで勝ちを拾う、素人同然の縁台将棋』


「あ……ああ……」


『亡き祖父が見たら、なんと言うであろうな?』


「うぁああああああああああああああああああっ!」

 魂全てが、業火の中に再び返っていく。

 出口のない自己嫌悪の牢獄に、康晴は自らの意思で、堕ちて行くしかなかった。



「役立たずが」

 悲痛な思いで水鏡を見つめていたサリアの耳を、不快な音がやすった。

 対面の知見者は、疎ましげな顔で全てを見やっている。唾棄、という言葉がしっくり来るような、歪んだ表情で。

「内に秘めた暗き情熱を御しきれる、そう踏んでいたのだが。思い違いであったか」

「知見者殿、貴方は、何を言っている?」

「騒ぐな。私は今、己の不明を恥じているのだ」

 言葉とは裏腹に、知見者の顔は傲慢そのものを体現していた。崩れ落ち、絶叫し続ける己の勇者に冷たい一瞥を投げると、虚空に声を放つ。

「イェスタ」

「はい」

「神規の解除と払い戻しを頼む」

 無表情に知見者の側に侍った時の神は、その先を促すように杖を掲げる。

「セーブとリセットの神規を返上し、賭けられていた星を払い戻せ」

「神規の返上による下取りは、減額が行われますが、それでもよろしいので?」

「グロウサ、メーランディアの二つが取り戻せればよい。余りが出るようなら、各地に分散した"目"を解除、少しでも多く星を残せ。それと」

「一体、何をしておいでなのだ! 貴方は!」

 もちろん、行動の意味など見れば明らかだ。

 だが、言わずにはおられなかった。

「貴方の勇者は、まだあそこにいるというのに! その働きを見つめる神の貴方が!」

「庇護に値せん勇者に、意味などない。そもそも貴様は、我が神規の解除を望んでいたはず。その抗議こそ、何をしているのか、だ」

 飽いた子供のように、知見者の目の中から、全てに対する興味が失われていた。

「戦において最も重要なことは、攻め際と引き際の見極め。このまま続けようとも、奴に勝ち目などは存在しない」

「だ、だからと言って!」

「サリアーシェ・シェス・スーイーラ、貴様はなにか勘違いしているのか?」

 物分りの悪い生徒に教えるように、目の前の神は苦りきった説明を吐き出した。

「これは遊戯、賭博なのだ。投じられた玉の行方を追い、互いに握り締めた札を洞察し、あるいは数多の駿馬から、勝ちうるものに票を投じる、そういう類の代物だ。そこにじめじめした個の情感など、交える方がおこがましかろう」

「やはり……私は、間違っていなかったようだ……っ」

 拳を硬く握り締め、サリアは立ち上がり、叫んだ。

「命を掛け金に、道理もわからぬ子供を競技のためと駆り立て、必要がなくなれば塵芥と払い捨てる! こんなものに、神威も道理もあったものではない!」

「何とでも言うがいい。そんな青臭い言質を支持するものなど、一つ柱とておらぬ」

 こちらの声など全く聞く様子もなく、対面の神はぞんざいに片手を振ってみせた。

「それでは、中央大陸に飛ばした百と、モラニアの二十七を含めた目の全て、およびセーブとリセットの加護を払い戻させていただきます」

 軋むような音を立てて、時計杖の針が逆回転していく。

 やがて、がちりという音共に、何かが喪失された感覚があった。

「康晴」

 知見者の声が、ようやく体の震えを止めた勇者の上に降り注ぐ。

「先ほど、セーブとリセットの機能を解除した。喜べ、これで貴様は下手な将棋打ちと揶揄されることもなくなった」

 少年はなにも答えなかった。

 その魂は完全に焼き尽くされ、抜け殻になったように見えた。

「それ以外の機能のほとんどは残してある。後の差配は貴様の好きにせよ。恐ろしければ天幕の中に引っ込んでいればよい。ただし、棄権はさせぬ」

 そして神は、傲慢に告げた。

「戦って死ね。それ以外は許さん」

 冷え切った神の言葉に、サリアの中で紅蓮が猛り狂った。

 厚顔で身勝手な、対手にも値しない男への、怒りが湧き上がる。

「よせ。サリア」

「今度ばかりは、その言葉、聞くわけには参りません」

「よせと言っておるのだ! 儂は!」

 振り返った先にあったのは、竜の苦みばしった顔だった。

 その瞳に、心痛さえ浮かべて、死んだ少年の抜け殻を見ていた。

「確かに奴は、心底性根の腐った男だ。今すぐばらばらに引き裂き、魔界の塵埃の底に住む、糞喰らいの餌にでもしたいほどの。だが、そんなことをして、何が変わる」

 動かない勇者を眺めていたベルガンダが、ゆっくりと背を向ける。それに習ってシェートも、戦場を後にする。

「儂は彼の心が砕けるやもしれんと思っていた。それを承知で、最後の毒矢を放った」

「竜神殿っ、貴方まで!」

「こうならないよう、こうではない未来を、少しは願っていたのだぞ? 奴がもう少し、手駒というものの扱いを心得ていたのなら、こうはならなかったろう」

 空しい幕切れ、そうとしか言いようがなかった。

 すでに勇者の軍は、戦わずして機能を停止したも同然だった。

 中核を担う心臓、勇者と神という二つの心室が、竜の毒によって砕けたのだ。その巨体を動かす術は、もう無い。

 願っていたはずだ。争いの無い、静かな終焉を。

 彼は早晩負けるだろう。後は加護を失った人々をいかに逃がすか、そして、魔将を討ち果たせば、シェートと自分の勝利が決まる。

 だが。

『サリア』

 水鏡の向こうで、コボルトが振り返っていた。

『お前、バカだ』

 シェートは首を振って、それからこちらを見た。

『戦、これで終わる。勇者、これで終わり。俺達、勝つ、違うか?』

「その通りだ。その通りなのだ。だが、こんなものが、勝利などであってたまるか」

 バカバカしすぎる。こんなもの、偽善に過ぎないのだと分かっている。

 それでもなお、言わずにはいられなかった。

「お前が自らの故郷を焼いた勇者を懲らしたように、私は遊戯によって打ち据えられたものを、見過ごすわけには行かないのだ」

『俺達、敵、みんな。あの時、そういう話、したな。神、魔王、全部狩る』

「ああ。その通りだ」

『おい……シェート、どこへ行く?』

 去っていこうとするベルガンダと別れ、再び勇者のところへ歩み寄っていく。少年を支えていた二人が、油断無く身構えた。

『違う。俺、そいつ、用事ない。あるの、サリア』

『策謀で勇者の心を壊した女神が、敗者に憐憫でも垂れようというのですか?』

「憐憫だと? 勘違いするな」

 今からすることは、自分のわがままだ。

 一歩間違えば、目の前の子供を完全に殺すことになるかもしれない。

 それでも、押し通すと決めた。

「立て! いつまでそこで這いつくばっているつもりだ!」

『やめなさい! いくら対手の神とはいえ、これ以上は』

「貴様の祖父は! この程度の逆境で、伏して泣き崩れるような男だったのか!?」

 びくりと、少年の背が揺れる。

 その身の内にどんな傷を抱えているかなど、量りようが無い。それでも、蘇生を願って声を注ぎ続ける。

「貴様が何を願い、遊戯の果てに何を求めたかは知らぬ! だが、ここで全てを潰えさせていいのか!? 抱いた願いは、その程度のものか!?」 

 それでも、少年の首は左右に振られて拒絶を繰り返す。

 やはりだめなのか、敵対する神の声など、掛けるだけ無駄なのか。

「最後の一局、あの男は棋士としての命を失った」

 水面の向こうへ、黄金の竜が囁くように古を語りだす。

「だがそれは、負けた末に払った対価ではない。イカサマを問い詰められ、己の潔白を示すため、自らの意思で切り落としたのだ」

 名も顔も知らない無頼の博徒、サリアの傍らで語られる昔語りが、確実に勇者の震えを止めていく。

「あの男は、用意させたたらいに雪をありったけ詰めさせ、その冷気で血を止めながら、残った左手で打ち続けた。息も凍りつく十二月の晦日、煩悩を払う鐘の鳴り響く中、失血と緊張で意識を失いかけ、それでも、勝った」

 竜の顔には、ありありとした賞賛が浮かんでいた。

 その時のことを懐かしむように、勇者に語りかける。

「あの男は、自ら負けを認めることはなかった。叩きのめされ、気を絶しても、喰らいついて離れなかった。"野犬のえい"の名を聞けば、顔をしかめぬ真剣は無かったよ」

『じいちゃん……』

 のろのろと顔を上げて、少年はまるで幼子のような顔で、問いかけた。

『じいちゃんのこと、知ってるんですか』

「あくまで見物人として、だがな。時にはその腕に乗って、大枚を稼がせてもらったこともある」

『あの……その、僕の、名前のことなんですけど……』

「稀代の名人。五つの永世名人の称号を持った男の名だが……ああ、あの"噂"か」

 何か面白いものでも拾い上げたように、竜は目を細めた。

「そなたの祖父が、彼の名人と戦ったか否か。その真偽、知りたいか」

『は……は、い』

「ならば選べ」

 水鏡の下、その場にある全ての存在を等しくひれ伏せさせる威容を湛え、黄金の竜神は勇者の前に道を指し示した。

「己の命と矜持を賭け、従う者どもの魂を代に、目の前のつわものと戦うか、これ以上の痛みを避け、全てから逃げ出すか。勝てば、そなたに全ての真実を教えてやろう」

『う……あ……っ』

「だが忘れるな。その道は、数多の民の命で支えられていることを。そなたが負けて消滅すれば、力を失い、死地に瀕するものがいるという事実をな」

 突きつけられた選択肢に、再び少年の顔が曇る。これまで意識していなかった現実を前に、その体が震えている。

『おっさんは、いっつも誰かにそれやってんのな』

 苦笑しながら、仔竜が進み出る。それから、奇妙に悲しげな顔で、少年に語りかけた。

『騙されて、餌に釣られて、ここまできたんだろうけどさ。やっちまったもんは、取り消せやしないんだ』

『でも……』

『自分がやったことが、良いことか、悪いことかなんて、後になってみないとわかんねーんだってさ。だとしたら、やることって、割と決まってんじゃないかな』

 ちらりと、将軍と軍師に目をやり、フィーはそっと付け加えた。

『少なくとも、心配してくれてる仲間がいるんだから、そいつらのためにも、やるべきことはやっといたほうが良いと思うぜ』

 言うだけ言ってしまうと、仔竜は駆け足でその場を立ち去り、姿まで消して居なくなってしまった。

「馬鹿め。照れくさくなって隠れるぐらいなら、かっこつけるものではないわ」

『決闘の日取りは明朝、開始は山の端より日が上りし時。場所はこの宴席を指定しよう。来るならばよし、それが為されねば、一気呵成に貴様らを討ち滅ぼす』

 事の成り行きを見守っていた魔将が、淡々と宣言をする。少年は立ち上がり、いくらか気力の戻った顔で魔物を見つめた。

『貴様の事情など与り知らん。そのまま地に伏せば、痛みも知らぬまま、細首を打ち落としていたろう。だが、対手として我が前に立つなら話は別だ。敵将として遇し、全力を持って叩き潰す』

『……はい。望むところです』

 すでに、先ほどまでの弱気は消え去っていた。いくばくかの逡巡を遺しながらも、勇者は自分の足で立っていた。

 やがて、両軍の将兵は会談の場から去っていく。

 その姿に向けて、竜神は幾度目かもわからない、呆れを含んだため息をついていた。

「バカもここまで極まれば才能だな。対手の弱点を消してどうする」

「とはいえ、彼の悔悟をえぐった後ろめたさ、これで少しは晴らせたのでは?」

「儂の面の厚さを侮るな? たかだか人間の小僧一人、ぼろきれにした所で痛痒にも感じぬわ」

 だが、その厳つい口元が火酒を舐める仕草に、そこはかとない安堵が漂っているのを、サリアは見逃さなかった。

「そろそろ酒も切れるな。長き戦も、仕舞いの時だ」

 水鏡の向こうの世界が白み始める。

 空は漆黒から群青へ、そして薄紅へと染まっていく。

 昨日と同じようで、決定的に違う未来。

 やり直しの効かない、最後の戦いが、始まろうとしていた。


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