8、忘れざるもの
全く、カミサマってのは勝手なもんだ。
暗く静まり返った砦の前に立ちながら、浩二は苦笑いをした。
村を襲った魔物を取り逃がした時は、バカだ無様だと罵り、夜通し歩かせて魔物の掃討に当たらせたというのに、今度は唐突にこんなことを言ったのだ。
『貴様は十分な働きをした、褒めて遣わすぞ』
「一体何のことか、さっぱりわかんねーんだけど」
『なに、貴様の失態が、すばらしい余興を産んだのだ。これを褒めずにいられようか』
言っていることはさっぱり分からなかったが、一つだけ確かなことがある。
目の前の砦には百近い魔物がいて、全て狩れば念願の魔法無効化能力が手に入るということ。
「本当にお一人で行かれるのですか?」
「ああ。みんなは砦から出てくる残党の処理だけ頼むわ」
「こいつなら大丈夫さ。無敵の鎧に最強の剣、おまけに魔法の腕輪だろ」
「それに神のご加護もあります。問題など起ころうはずがありません!」
仲間達の顔には不安は無い。アクスルの心配性は職業病のようなもので、すでに見慣れた光景の一部だ。
「まぁ、俺も引き際ぐらいはわかってるよ。疲れたら戻ってリィルの魔法で回復してもらうからさ」
「……くれぐれも油断なさらないように」
「ああ! それじゃ、そろそろ行くぜ」
剣を鞘から引き抜き、左腕を掲げる。
これから始まるのは乱戦、誰に気兼ねすることもなく、無双の力を揮うことができる。
自分の剣が舞い、魔法がはじけ飛び、敵を殲滅する。その光景を思うだけで背筋がぞくぞくして、悦びがこみ上げてきた。
『準備は良いか?』
「いつでも!」
『さぁ! やるがいい我が勇者よ!』
解き放たれた魔力が自分の頭上で輝く。その波動に酔いしれながら、浩二は爛と瞳を輝かせた。
『砦に巣食う邪悪な魔物を皆殺しにせよ!』
「砕け『ゼーファント』!」
炎の輝きに、堅牢な門扉が粉々に吹き飛ぶ。
そして、勇者は燃え上がる業火の中へと突っ込んだ。
腹の中から吹き飛ばすような振動と爆音が大気を震わせる。次いで、シェートの首をへし折る勢いで首輪が引かれた。
「げぶうっ!!」
無理矢理体がくぼ地から引きずれ出される。いつのまにか、辺りに強い熱気が溢れていた。
「ご……ごほっ……」
今まで自分を戒めていた木の杭がへし折れている。そして、その原因を作った巨大な木の門扉が、煙を上げながら燃え上がりつつあった。
「な……んだ、これ」
そう言いながら、コボルトの顔に恐怖が浮かぶ。辺りに立ちこめるきな臭い煙、砦のあちこちから吹き上げる火。
門の前で燃え上がる火に魔物たちが半狂乱になって走り回り、怒号が鼓膜を貫く。明かりに弱いオークたちが悲鳴を上げ、火元を確認しようとするゴブリンの群れと押し合い、もみ合いになる。
「うろたえるな! お前ら、すぐに火を消せ! 敵を確認しろ!」
リーダー格のオーガが絶叫するが、全く統制の取れていない一団は、自分勝手に叫びまわる。そても団結して事に当るなど、考えられない事態だった。
「う……あ……」
狂乱した世界の中で、シェートの耳にか細いうめきが届く。自分の背後、杭のあった辺りのくぼ地に、仲間が倒れている。
「大丈夫か!?」
「い、いたい……いたい、よぉ」
吹き飛ばされる前の寝方が悪かったのか、自分の鎖に片腕を引きちぎられたコボルトが、涙を流して訴える。見る見る血が流れ出し、抱き起こした腕の中で、力を失っていく。
「しっかりしろ! 死ぬな!」
「とうちゃぁ……かあちゃ……」
かすかに震えていた犬のような体が、永遠に動きを止める。そっと亡骸を横たえると、シェートは眠っていたはずの仲間達がいた場所を見回した。
「あ……ああ……」
皆、一様に物言わぬ骸になっていた。鎖に体を半分にされたもの、扉の木材に刺し貫かれたもの。あるいは、杭の勢いに引きずられ、首をへし折られたもの。
首元に感じる首輪の痛みと、杭から抜けたものの、未だに自分を戒める鎖。
どうして自分だけが助かったのか、呆然としていた頭が勢い良く殴り飛ばされた。
「ぎゃうっ!」
「おまえ、なにしてる! てきだ、はやくたたかえ!」
槍でこちらを打ちすえたゴブリンの顔は、驚きと恐怖で歪んでいた。
「おまえさきいけ! おれあとからいく!」
そう言いつつ、ぼろぼろにさびた小刀を投げてよこす。
「で……でも……」
「くちごたえするな! はやくいかないとおまえころ」
「貫け『ゼーファント』!」
若い男の声を合図に、鏑矢の鳴るような甲高い音が響き渡る。とっさに振り向いた先に居たのは、銀色の尾を引く魔法の輝きを解き放つ人影。
「ぎゃぶっ!」
柔らかい果物のようにゴブリンの顔がはじけ飛び、わずかに遅れて自分へ飛来する光が殺到する。
『よけろシェートぉっ!』
間に合わない。
混乱した思考が溢れ、思わず顔の前に腕をかざす。
激烈な衝撃が腕の肉をむしり、小さな体を強かに打ち据えて吹き飛ばした。
「がああああああっ!」
『シェートっ!』
両腕が炎でも押し付けられたように熱く痛む。ピクリとも動かない手、かろうじて顔は守ったものの、痛みが激しすぎて息を吸うことすら出来ない。
「あ……あがっ……あっ……あ、ああ……あっ」
『イェスタ! シェートの治癒力を上げてくれ! 早く!』
サリアの絶叫に導かれるように、痛みがわずかに引いていく。腕の火が少し落ち着き、痛みが痺れに変わる。
『シェート! そこから逃げよ!』
「サ……サ、リア……?」
何とかよろめきながら身を起こす。さっきの魔法で、騒いでいた魔物たちの多くが単なる肉塊と化していた。
「これ……お前、やったのか?」
『違う! それは……』
それ以上の答えは必要なかった。
魔法を放った暴威の源が、剣を構えてこちらに歩んでくる。
「へへへ、まだまだ一杯いるみたいだな」
薄笑いを浮かべる蒼い鎧の勇者は、五十匹近い魔物に取り囲まれてもなお、余裕の顔を崩していなかった。
「お前が魔王さまが言ってた勇者か!」
巨大な戦斧を構えたオーガが言い放つと、青年は手にした剣を突きつけて頷いた。
「異世界から召喚された勇者、逸見浩二だ。冥土の土産に覚えておくんだな」
言いながら軽く顔を逸らし、戦いの構えを取る。その時、熱気に煽られた顔に、煙が吹き付けた。
「ぶはっ! な、なんだこれ、げふっ! げほっ!」
「ぐははは、何が勇者だこの間抜けめ! お前ら全員でかかれ!」
派手に咳き込み、隙だらけの勇者。その情けない姿に魔物たちが、得物を片手に襲い掛かる。勝利を確信した連中の姿に、シェートの喉から警告がほとばしった。
「だめだ! そいつ、武器効かない!」
シェートの声など届くはずも無く、煙の向こうに武器が殺到し、
「おおっと!」
甲高い反響音に数匹の魔物が吹き飛ばされ、同時に煙が晴れた。
「おおー、魔物君たち、間合い詰めてくれてありがとう!」
強く輝く障壁で数十本の武器を完璧にさえぎり、余裕の姿で勇者が軽口を叩いた。
「でも……ちょっとかっこ悪いところ見せちゃった、なっと!」
シェートの身長ほどもある剣が軽々と振り回され、一息で二匹のゴブリンが体を上下に寸断されて転がる。
「な、なんだ、こいつ!」
「ふふん。最近の勇者は課金、チート、何でもありなんだよ。今の俺はインチキなぐらい強いぜ?」
血を振るい落とし、喜びに上気した顔で、勇者は剣を天に掲げた。
「踊れ『ゼーファレス』!」
独楽のように体が回転、振られた切っ先が周囲の魔物を吹き飛ばす。
勢いを殺さないまま、勇者は逃げようとするオークの群れに突進、立て続けに三匹を背開きにしてみせた。
「な……なんだ……あれ」
『あれが勇者だ! お前も一度見ただろう!?』
「あ……」
まるで水鳥の羽でも振り回して遊ぶように、勇者の剣が魔物をなで斬りにする。
必死に槍を構えたゴブリンの首が穂先と一緒に吹き飛び、一拍遅れて血飛沫を吹き上げる。その脇で、斬られたことにも気づいていないオークの胴体が、よたよたと歩き続けていた。
「か、囲め! とにかく囲め!」
必死に絶叫するオーガの周囲を廻って、刃の竜巻になった勇者が全てを斬り飛ばす。
無駄と知りつつ切りかかったゴブリンの攻撃が障壁で弾かれ、隙を突くように剣が振るわれる。遠距離から降る弓も全く功を奏さず、かすり傷すら与えることが出来ない。
「た、たすけぇ、ぎゃああああああっ!」
「しにたくながああああっ!」
自分たちを打ち据えていたゴブリンの『飼育係』達が、涙と悲鳴を漏らして屑肉になっていく。それでも、シェートの心は何も感じなかった。
息をするのも忘れて、その全てに見入っていた。
神に祝福されし者の力。
魔物を殺す暴力装置、聖なる化物の姿に惹き付けられて。
「さて、後はアンタだけだな」
「あ、あひっ、あっ、あああっ!」
自分達を越える圧倒的な暴力を前に、オーガの将はおびえていた。必死に戦斧を構えるが、その足はまるで、コボルトのように震えていた。
「かっこ悪いとこ見せちゃったんで、こいつはカミサマのリクエストに合うやり方で倒すよ。どんなのがいい?」
凄惨な殺戮をやったにもかかわらず、その青い姿は一滴の血にも汚されていない。白刃は曇り一つ無く、一度も生き物を害したことが無い様な無垢を宿していた。
「……OK。んじゃ派手にぶちかますか!」
震えるオーガの前で、勇者は両腕を天に突き上げた。
「降れよ雷! 宿れよ聖剣!」
腕輪が輝き、雷が迸る。その光は剣に宿って、長大な光の刃に変わる。
「絶滅剣っ、ライトニング・インパクトぉっ!」
叫び、轟音、閃光、全てが勇者と一体となり、落雷と化した剣がオーガの体に叩きつけられた。
「うああああああっ!」
シェートの叫びを爆発がかき消し、万物の陰影を消去する。
開放された威力に突風が荒れ狂い、世界を削りつくす。
そして、全てが納まった時、辺りにはきつい毒のような臭いが立ちこめ、巨大なすり鉢状の焦げた穴だけが残されていた。
「う、ああ……」
『逃げるのだ……早く!』
巨大なクレーターを前に、息を整える勇者の背中。サリアの声にもかかわらず、シェートは動けなかった。
逃げるしかない、そんなことは分っている。
刃に傷つかず、巨大な魔物を跡形も無く消し去る存在。
自分の加護など比べ物にならない、圧倒的な能力。
あんなものに敵うわけが無い、分っているはずなのに。
「あ……ああ……うあ……」
足が竦んで動けない。
はじめて会った時に覚えた感情、あれはまだ正体不明の敵に対する恐れだった。
しかし今、自分をその場に縫いとめるのは、圧倒的な全能者への畏怖。
首輪から下がった鎖が、自らの立場を示すように、ざらりと鳴る。
「え? ああ、ホントだ。一匹残ってら」
勇者がこちらを向いた。片手の剣の具合を確かめながら、こちらに歩いてくる。
『早く逃げてくれ! シェートっ!』
それでもなお、シェートは動けなかった。
「良かったなぁ、サリアよ。お前の配下は虜囚の身を脱したようだぞ?」
水鏡の向こうの景色を見つめ、拳を握り締める。
「逃げるのだ! 聞こえないのか!?」
「無駄だ。あれはもう死ぬ。見ろ、あの情けない体たらくを」
兄の指差す先、シェートの腰に下がっていた尾は、すっかり尻の間に縮こまっていた。
体を震わせ、目の前の絶対的な力におびえる小さな魔物。
「全く、お前も残酷なことをするな、妹よ」
立ち尽くすしかない自分を笑いながら見やると、兄は適当な石に腰を下ろす。
「どこから探し出したのかは知らんが、あんな脆弱な魔物一匹で、事態がどうかできると考えていたのか?」
ゼーファレスの言葉に失笑が沸き立つ。それに気を良くしたのか、彼は水鏡の勇者に声をかけた。
「おい勇者よ。お前の後ろにまだいるぞ」
『え? ああ、ホントだ。一匹残ってら』
「や……やめろ!」
「やめろだと? いずれは、あの魔物を他の勇者に当てるつもりだったのであろう? それが今になったというだけではないか」
「だ、だめだ! 逃げろシェート!」
画像の向こうの魔物は動かない。勇者が歩み寄りながら不思議そうに首をかしげる。
『あれ? このコボルト、前も見たことある気がするんだけど?』
「それは我が妹の配下よ。まぁ、殺せばいくらか多めの経験値が入る。ちょっとしたボーナスとでも思えばよい」
『へぇ。でもいいのか? あんたの妹なんだろ?』
「そうよな……少し待て」
思わず振り返ったサリアは、ゼーファレスの笑みを見た。嬲ることへの悦びを顔一杯に満たした、忌まわしい顔。
「さて、妹よ。ここで提案だ。ここで私と神々に謝罪し、二度と遊戯に加わることも、抗議を申し立てることもせぬと誓うなら、あのものの命、考えてやらぬことも無い」
「あ……兄上……っ」
「先ほど言っていたではないか、己の命を差し出し、彼の者を救いたいとな? どうだ、お前の望みどおりにしてやると言っているのだぞ?」
「そ、そんなもの! ただの脅迫ではありませぬか!」
サリアの絶叫に、兄は顔を仰け反らせて大笑いを浴びせた。
「それがどうした。そもそも力なき魔物を選び、神々の遊戯に参加させたがゆえの醜態。本来なら対手となった勇者など、有無を言わせず殺しているところだ。これでも十分、慈悲を掛けてやっているつもりだぞ?」
「……シェートッ!」
水鏡の向こう、立ち尽くす小さな背中に叫ぶ。
「逃げろ、逃げてくれっ!」
それでもコボルトは動かない。震え、怯えて、目の前の脅威に硬直していた。
「この期に及んで、まだ負けを認めぬか。このままでは、あの魔物の苦しみが無駄に増すだけだぞ」
「う……」
「さあ、しかと見よ。我が勇者と、貴様の惨めな魔物の違いを」
兄が指差した先、水鏡に映る二つの姿。
炎を照り返し、蒼き鎧を畏怖の輝きで満たしながら進む、神に祝福された勇者。
相対するは首輪に繋がれ、鎖を打たれ、ボロ布を纏って立ちすくむ小さな魔物。
「実に分かりやすい対比であろうが。勇者とはすなわち勝者、全てにおいて立ち勝る。そして、貴様のコボルトは敗者、武勲の礎となるべく定められた路傍の石ころよ」
反発したいと言う気持ちが、喉まで出かかる。
それでも、目の前の光景に全ての反論が奪われてしまう。
『なぁ? なんかあったのか? やっぱりやめる?』
何も知らない勇者の暢気な声が、地上から届く。
その声にため息をつき、兄神は頷いた。
「よかろう……やれ」
「兄上!」
「そなたの愚かな行為はもう見飽きた。ここで幕を下ろす」
こちらのやり取りが聞こえたのか、勇者は問いかけた。
『なんかリクエストは?』
「真っ二つに断ち斬ってやれ。未練も何もかも、きれいさっぱりなくなるように」
『了解』
死刑執行の手続きが、淡々と申し送りされていく。葛藤が、引き潮のように勢いを失った。
負けを認めてしまえばいい。
そうすれば、少なくともシェートは助けてやれる。
所詮、遊戯への参加など、炎の中から彼を救うための口実だったのだ。これ以上、恐怖と絶望を味合わせて、なんになる。
サリアは目を閉じ、決定的な一言を搾り出そうとした。
「わ、私は――」
「そういえばサリアよ、そなたに聞きたいことがあったのだ」
兄の言葉が、全てを押し留めた。
「なぜ、あんな魔物を使おうと思った?」
怯えるコボルトと、歩み寄る勇者を眺めつつ、楽しげに全てを嘲る顔。
「如何にそなたが廃れ果てたとはいえ、ゴブリンでもオークでも、もう少しましなものが選べたであろうに。よりにもよって、臆病者で最弱の魔物を選ぶとは。愚かな選択にもほどがある」
なんだ、それは。
女神の拳が、きりと握り固められた。
「大方、神の力で強くしてやるとか、甘言を弄して釣ったのだろうが……おつむの弱いコボルト風情では、お前の見え透いた嘘も見抜けなかったか」
兄の嘲弄に、神々が笑う。
引いていたはずの潮が、怒りのうねりとなって戻ってきていた。
シェートを救い上げたのは、自分の意思だ。炎の中から立ち上がり、復讐を叫んだ姿に心を惹かれたからだ。
彼は甘言などに騙されるような者ではなかった。己の考えを口にし、自らの意地を通して、神にさえ逆らう心を持っていた。
その全てを知らず、兄は蒙昧にシェートを蔑した。
「コボルトはコボルトらしく、山奥にでも引っ込んでいればよかったものを。そうすれば、こんな恐ろしい目に合わずとも済んだというのにな」
それで十分だった。
兄も、勇者も、想像すらしていないのだ。
目の前のコボルトが、何のために自分と盟を結んだのかを。
その原因を誰が作ったのかさえ、知らないままに嘲ったのだ。
「それも、これで終わりだ。やれ、我が勇者よ」
コボルトの前に勇者が立ちふさがり、剣が構えられる。
その全てを目にしながら、サリアは水鏡の前に立ち、口を開いた。
「運が無いな、お前」
シェートは、醒めた眼差しこちらを見る勇者を見上げた。
「そっちも事情があるみたいだけど、俺も仕事だからさ」
いつか聞いたような言葉だ。こちらの命に価値どころか、同じ存在とすら見ていないのがありありと分かる。申し訳程度の哀れみと、どこか言い訳じみた一言。
「カミサマ同士の話だし、恨みっこなしだぜ!」
勇者が剣を振りかざす。
あの白刃が降って来た時、全てが、終わる。
シェートは、そっと目を閉じようとした。
『何をやっているのだ! シェート!』
怒号が、天から降り注いだ。
体中の神経が痺れ、炎の揺らぎさえ、怯えて身を竦ませたように見えた。
『お前は誓ったはずだ! 燃える村の中で! 皆を殺したものに復讐すると!』
過去の記憶が蘇る。
燃えていく世界と、屍となった大切な者達。笑いながら、シェートの全てを奪い去った者の顔。
それが目の前にいる、というのに。
「そんなの、無理……」
喉から、諦めが零れ落ちた。
こんな圧倒的な存在を前にして、自分の決意など無価値に過ぎない。敵を知らなかったから言えた無謀だ。
「勇者、強い。俺、弱い。こんなの、勝てない」
『そんなことは、最初から分かっていたことだろう! この馬鹿者!』
振り絞った声が降ってくる
向こうで、サリアが泣いている、そんな想像が湧いた。
『何度同じ相手に殺されれば気が済むのだ! 奪われて、踏みにじられることを受け入れるために、お前は帰ってきたのか!?』
「あ……」
女神の声が体中に響いた。
恐怖にくすんでいた世界が消え去り、死に縛られた意識が動きを取り戻す。
『思い出せ! なぜお前は立ち上がった! あの時、お前を立たせたものはなんだ! その思いを、こんなところで潰えさせていいのか!』
燃える世界の向こうに、確かにあった安らぎの世界。幻の幸せに魅せられながら、どうして自分は帰ってきた?
「じゃあな」
勇者の切っ先が、あの日と同じように振り上げられる。
背後に転がった仲間の死体が視界一杯に広がり、
『お前にとって、ルーはその程度の存在だったのか、シェートぉっ!』
過去の光景が、一瞬のうちに目の前で咲き弾けた。
母親の顔、弟達の顔、仲間達と過ごした日々。
燃え行く村、打ち捨てられた屍。
その中に倒れ伏す、大好きだった人。
ルー。
俺の大好きな、大切な、和毛。
「う……あああああああああああああああああああっ!」
両手が鎖を掴む。降ってくる切っ先が恐ろしく緩やかに見え、体ごとぶつかるように、縛めの鎖を叩きつける。
ぎぃぅんっ!
「うおおおっ!?」
耳障りな異音がはじけ、勇者が仰け反る。展開した見えない壁が、叩きつけた鎖と勇者の剣を諸共に弾き飛ばした。
「な!? なんだよ、これっ!」
『は……走れぇっ、シェートぉっ!』
サリアの絶叫に、わき目も降らずシェートは駆けた。
「くそ、逃がすかぁっ!」
驚くほどの速さで突進する青い影。その姿を後ろに見ながら、シェートの手が半ば反射的に石を拾い上げる。
「奔れ『ゼーファレ……』」
「うわあっ!」
振り上げた切っ先が振るわれる瞬間、勇者の顔に投げつけられる石。途端に障壁が展開し、切っ先がまた弾かれる。
「くそっ! なんだよこれっ!?」
『わ、分ったぞ! その鎧の弱点! 石を持って門へ走れ!』
立て続けに石を手に入れ、そのまま燃え盛る門へと走る。
「なんだって!? それ、欠陥商品じゃ……くそ、逃げるな!」
自分の神を罵りながら追いすがる勇者に、追い討ちの石を投げる。切りかかろうとした刃は、再び自らの壁によって弾かれた。
『あの鎧の壁は、全てを弾いてしまうのだ! 一瞬の隙だが、それさえ見切れば自身の壁によって攻撃が封殺される!』
興奮したサリアの声を聞き流し、目の前で燃え盛る炎の壁に勢い良く飛び込む。
「畜生っ! 逃げんなこのぉっ!」
あっという間に毛皮が燃え、肉がこげる音が耳に染み入る。それでも、シェートは必死に走る。燃え盛る道は一瞬で終わり、砦の向こうに広がる闇の世界に飛び出した。
『そのまま行っては勇者の仲間に鉢合わせする! 私の命じるままに走れ!』
「わかった!」
燃えかけ、焦げ付いた体に鞭打ち、シェートはひたすらに闇夜を駆け抜けた。