23、暁に燃ゆる星
大きな鋼の背中にゆすられ、シェートは今見たものを、反芻していた。
必死に抗い、そして炎に消えた圭太の姿を。
「ケイタ……なんで、あんな、無茶、した」
「決まっているだろう、勝つためにだ」
ベルガンダの声がやけにはっきりと聞こえる。
気が付くと、全ての敵が後方に置き去りにされていた。脇に従うのは、傷つきながらもしっかりとした足取りで随伴するウディクとオーガたち。
その後ろを、生き残ったゴブリンの兵士たちが必死に追いかけている。
「大将! どうにか抜けたのはこれだけだ。だが、一度抜けてしまえばあの数だ、俺達を追いかけるのにも一苦労というところか!」
「反転して挟撃と行きたいが、この手勢では逆に囲まれるのがオチ。一気に攻め上るぞ」
焼け落ちた陣の前に、テルシオの部隊とは比べ物にならないほどの少ない手勢が、必死に守りを固めようとしている。
その光景に、シェートは呆然と反論を漏らした。
「いや、ダメだ。このまま攻める、あいつら、またリセット、する」
「それがいいのだろうが。そうすれば、あの村の勇者も蘇るのではないか?」
「え?」
「お前が言ったのだぞ、リセットは、全てが朝の時点に戻る、とな」
一瞬、頭の中が白くなり、それから安堵がこみ上げてきた。
「そ……そうか! そう、なのか、サリア?」
『そ、そう、なのです、よね?』
間の抜けた質問に、相談役は奇妙に冷えた声で答えた。
『おそらくそうなるだろう。もし、やつがリセットをする気なら、だが』
シェートの心が緊張に蘇り、世界が急に意味を取り戻す。
全ての時間を元に戻す行動を取るのは、知見者が不利であると感じたときのみ。
「お、おい! 早く! 勇者のとこ、行け!」
「現金なやつだ。いわれずとも今もこうして……」
走っていく視界の先に、何かが現れる。
防御の陣を作り上げた敵軍の前に、青いローブ姿の男が立った。
「あれは……確かヴェングラスとか言う軍師……」
「おい大将! コイツは何か、まずいぞ!」
軍師の周囲に八人の術師が立ち、その手にした杖を天に掲げる。
『"レギス・ストーレ・ラルトゥ"』
まるで全てが全員が等しく同じ存在であるかのように、全く一切の遅滞なく、詠唱を開始する。
「"偉大なるかな大地の抱擁、蒼穹の愛と憎悪を諸共に、その身に刻みて聖痕を顕す"」
『いかん! 魔将よ、一刻も早く、全軍に撤退命令を!』
竜神の声が心からの驚愕に震える。戸惑った魔将の顔に、隣のオーガが焦りを隠さずに怒鳴った。
「攻城術法の"星降り"だ! もたもたしてると塵も残さず磨り潰されるぞ!」
「星降りの魔法は、使い勝手の悪さから廃れたのではなかったのか!?」
術式の中心に立つ軍師の周囲で、八人が真っ青に燃え上がる。集めた魔力が周囲に漏れ出して、人間とは思えない異常な姿に変わっていく。
「"闇の蔵にて秘められし、巨神の手になる炎箭よ"」
「ええいクソッタレ! "カリガネ"だ! いそげ!」
渡りを行う鳥達の声にも似た鏑が大気を引き裂き、やや遅れてあちこちから一斉に同じ音色が戦場に響き渡る。
「全軍撤退! 速やかに戦場から離脱せよ!」
それまで猛然と敵陣を目指していたベルガンダが、踵を返して走り出す。
「な、なんでだ!? あいつ、もう近い! すぐに行って、魔法やめさせる!」
『無駄なのだ! 攻城術法というのは、普通の魔法とは違う! 空を見よ!』
それまで、全く雲ひとつなかった空の一部に、黒い穴が生まれていた。
「"時を穿ちて空に分け入り、求めよ汝の愛しき者を"」
響き渡る詠唱が、世界のありようを変えていく。黒い穴と思えたものは、本来見えてはならないもの、夜の星空だった。
「うそだ……こんなのっ」
シェートの見上げる空から、燃え盛る絶望が、零れ落ちてくる。それは小さな赤い点として生まれ、やがて黒い穴を塞ぐほどの巨大さに膨れ上がっていく。
「"見えざる腕抱かれて、愛憎砕けて驟雨と注げ"」
『もう間に合わん! くるぞ!』
いつの間にか敵の軍が一斉に盾を掲げ、驚いて空を見上げた魔物たちが、我先にと逃げ散っていく。
その全てに向けて、星が輝いた。
「咲きて散り往け――"焔ノ輝星"」
空が、裂けた。
もう一つの太陽となった炎の星が、粉々になって大地に舞い落ちる。
どっ、と、重たい音がシェートの脇に降った。
「あ、え?」
傍らに立っていたゴブリンが、呆然と自分の胸を見ている。
「俺の、体、あな、開いた」
そして、僅かに遅れて傷口が丸く燃え上がり、本人が声も漏らさず絶命する。
立て続けに、重く鈍いものが大地に突き刺さる音が辺りに広がった。
「う、うわぁああ、がああっ!」
「に、にげぅっ!」
灼熱の火炎弾が無限に降り注ぐ。大地が燃え上がり、土埃を上げてすり鉢のような穴が無数に開いていく。
『何でもいい! 物陰に隠れよ! なければそのあたりの死体でも構わん!』
「無茶をいうな! 俺を隠せるものなどあるまい!」
いきなり縛り付けていた蔓をむしりとり、ベルガンダの体がシェートに覆いかぶさる。
「ば、馬鹿! そんなことしたらお前が!」
「構うものかよ! 魔王様との約定は、この俺の命に代えても!」
『シェート! ベルガンダに加護だ! 急げ!』
サリアの声に、渾身の力をこめて加護を重ね掛ける。その間も流星の欠片が辺りを打ち据え、あらゆるものを焼き払った。
『奴め、なりふり構わぬつもりか。いくら制御を重ね、テルシオに魔法兵を配置しているとはいえ……』
竜神の苦々しい声に、退避した勇者軍を横目に見る。魔法の星は敵である魔王軍だけでなく、勇者の軍にも降り注いでいた。
『本来、攻城術法は遠方から何日もの儀式を重ね、砦や敵の城にめがけて使うものだ。対陣用の魔法とはいえ、乱戦の中でクラスター爆弾を使うようなものだぞ!』
竜神の怒りが咆哮となって、大地を揺るがす。そんな異常を気に留めることも出来ず、シェートはひたすら加護を重ね掛け続ける。
いつ果てるとも知れない星の雨が、唐突に止んだ。
辺りに漂う異様な熱気。気が付けば、周囲に居た魔物たちは、その殆どが穴だらけになり、あるいは黒くこげて倒れ付していた。
「え……ええい、くそっ」
「だ、大丈夫か!」
それでも、加護の力を受けた魔将は、鼻息も荒く身を起こした。
「これで何度目だ!? 貴様に助けられるのは!」
「それ、俺も同じ! 他の奴らは!」
「クソが、ひどい目に合った……」
少し離れたところで、全身に焦げ跡をつけたウディクがうずくまっている。術を使えるオーガたちは、身体強化や防御の術を重ねががけて耐えていたが、それでも酷い火傷を負ったものが数多い。
「サリア! みんな、どうなった!?」
『……酷い有様だ。突出していたものは、お前の周囲にいるものを残して全滅。両翼の牙乗りとリザードマンにも、相当の被害が出ている』
『だが、敵の動きも一旦止まっておる。敵陣中を抜いて後退しろ!』
シェートはすばやく立ち上がり、まだ火の手の残る大地に駆け出そうとした。
「だからお前は、俺と共にいろといっただろうが!」
「うひゃあっ!? 俺、荷物違う!」
いきなりこちらを脇に抱えると、ベルガンダが再び逃走を開始する。遅れてオーガたちがその後に従い、見る見るうちに敵との距離が狭まった。
「どけぇっ! 縮こまっているやつは、ネズミのように踏み散らすぞ!」
魔法の影響で完全に萎縮していた勇者軍が、悲鳴を上げて逃げ散っていく。ほとんど抵抗もなく、ベルガンダたちは壁の対岸にたどり着いた。
「な……なんだ、これは」
その向こう側に広がっていたのは、燃えて砕けた魔物の軍。
『攻城術法"焔ノ輝星"は、他の星降りの魔法と違い、ある程度の効果範囲を設定できる。連中は、本隊の周囲に向けて、砕いた星の欠片を降らせたのだ』
あれほどの数がいた魔物たちが、半分ほどに減って見えた。無事なものも火傷を負い、体に大穴を開けてうめいている者も多かった。
「本隊を囮に、攻城術法で俺達を殲滅か。どこまでも大げさな連中だ」
『ほうけている場合か! 怒鳴り声でも角笛でも何でもよい! とっとと兵を集結させて撤退しろ!』
魔将の腕がシェートを背中に移動させ、無言で片腕を上げる。
後ろに控えていたウディクと部下たちが、良く通る咆哮を響き渡らせた。
再び鏑が渡り鳥の声で応じると、魔物たちがわき目も降らず、戦場を背に駆け出した。
「どうしてだ……」
シェートは、降り積もった胸の内を吐き出した。
「どうして、勝てないっ」
「手を尽くし、策を尽くし、意思を奮い起こし、輩を捨石にしてさえ、なおも届かぬ頂か」
ベルガンダの声にも、同じ思いが溢れていた。
そんな二人の背中に、荒々しい軍靴が追い討ちを掛けた。
『シェート! 勇者軍が、追討してくる!』
サリアの叫びは恐怖そのものと化していた。
振り返った背後、勇者軍は怒涛の勢いで襲い掛かってきた。その手に握られるのは長柄の槍ではなく、両刃の片手剣。
『槍を捨てて剣に!? それに、この速度は!』
『"イスパニア人の剣"か。さっきの箱型陣形も、マニプルスの変形というわけだ』
それまでの鈍重な動きを捨て去り、恐ろしい速度で敵が追いすがってくる。傷つき、よろめきながら逃れるこちらに、引き剥がす術はない。
『だめだ! このままでは追いつかれる!』
サリアの警告に、ベルガンダの視線が怒りを込めて背後の敵を見やる。
その足を止め、斧を構えようとした時。
「大将! 俺達はここまでだ!」
くるりと背を向け、オーガの術師がその場に腰をすえた。
それに応じるように、他の者達も次々と迎え撃つ形を取っていく。
「生きろ! そして、必ずこの敗北を雪げ!」
「応!」
立ち止まりかけた足に力を込め、再びベルガンダが走り出す。
そして、シェートの目の前で、次々と残った兵士たちが敵の波にぶつかっていった。 傷つき、体を砕かれたものさえ、必死に槍を立てて追討を塞ぎにかかる。
「あ、ああ……」
それでも勇者軍の大波は、一切を容赦なく飲み込んでいく。こちらに合流を果たそうとしたものも、敵を遮ろうとしたものも、何もかもを。
「みんな……みんな、死んでくっ」
戦場の喧騒が遠ざかっていく。おびただしい敵を抑える殿の、命の力によって。
塩辛い流れが、泥と血にまみれたシェートの頬を洗っていく。
敗北の戦場を背に、魔物たちはひたすらに逃げ続けた。
水鏡を前にした神々は、誰も声を発さなかった。
攻城術法の発動から、一気呵成の追討劇に飲まれ、見入っていた。
「康晴、被害状況の報告を」
『……本隊の損耗率、十パーセントを超えました。攻城魔法の発動時に、敵軍の一部が追撃を掛けてきたためです。また、魔法効果の一部で、三千ほどの被害が出たようです』
「魔法兵と竜騎兵は」
『竜騎兵は二騎の損耗、魔法兵は全隊の一パーセントほど、本隊再構築には影響はありません』
口元に浮かぶ笑みが心持ち苦くなってしまうが、押し隠して頷いてみせる。
依然こちらは五万の兵を擁し、魔法兵も開戦時とほぼ変わらない戦力を保っている。
『魔物軍、索敵範囲から外れました。目を随伴させます』
「高度を保ち、動きを捕捉するだけにとどめる。本隊は直ちに陣地へ帰投、休息させよ。敵の奇襲に備え、三時間ごとに半数の兵が起床しているようにローテーションを組め」
全ての差配を指示すると、フルカムトは対岸を見つめた。
沈痛な面持ちでサリアーシェは魔物たちの様子を見つめ、竜神は黙したまま、こちらに視線を合わせていた。
「いかがかな?」
飲み物で口を湿し、座席に背を預ける。本陣に帰り着いた部隊は、焼け跡を粛々と片付け、山奥に隠しておいた食料や代えの天幕を張っていく。
「見事だ」
ため息と共に、竜神は賞賛を吐き出した。
「歩兵、騎兵、魔法兵、そして竜騎兵。それらを用いて再構築した"三兵戦術"。圧倒的な防御力を誇る"テルシオ"から、機動力を重視した"ファランクス・マニプルス"への速やかな移行。そして、本隊を囮にした大魔法による殲滅戦」
竜神の金色の視線が、炭くずになった八人の遺体に投げられる。ヴェングラスの魔法を完成させるために払った"コスト"は、祈りを上げられ、英霊として祭られていた。
「我が埋伏の毒さえ、ベルガンダをおびき寄せる餌とし、適切に凌いでみせた知略。おそらく、これ以上の及第点を取ることは、誰にも出来まいよ」
「及第点とは手厳しい。だが、成果はご覧のとおりだ」
天空の"目"が送ってくる敵の陣容は、朝とは比べ物にならないほど、みすぼらしい有様に変わっていた。
"牙乗り"は完全に消滅し、リザードマンも僅か数十名の集まりでしかない。本隊も相当数を減らしており、何より殿を務めたオーガ隊が、全滅したのが大きい。
「立て直せば、数にして二万強。しかし、機動力の要である一部隊は全滅し、中央を支えるオーガ隊も今はない。トロールたちの力は強いが、呪法に対する備えは無きに等しい」
『魔獣の追討、完了しました。魔香のワームの全滅を確認。残りは山中に逃げ散ったようですが、魔獣使いたちの大半は死んだ模様です。部隊長の死体は重度の疾病が見られたので即時焼き払いました』
康晴の報告を受けて、フルカムトはあらためて戦場を見渡した。
焼け野原になった村の周囲と、おびただしい死体。
こちらの被害はごく僅か、敵の主力はその殆どが壊滅、無力化された。
何より、一番の懸念だったカニラの勇者が、盤面から消えた。
「さて、次はどうされる?」
フルカムトは竜神に向けて、容赦なく挑発を浴びせた。
「そちらの『玉』は健在、コボルトの方も今だ存命している。取れる策はいくらでもありましょう」
言いながら、胸の内であざ笑う。
魔物の手勢は少なく、こちらの勢力に抗し切れるだけの力は無い。
残る手は、宵闇にまぎれての本陣特攻か、コボルトかミノタウロス、あるいはその両者を組ませての奇襲程度。
サリアーシェ自身を捧げた神規、あるいは神器の付与もあるだろうが、それもリセットで見切ってしまえば問題ない。
黙したまま語らない竜に向けて、知見者は再度、その顔を嬲った。
「さて、次の手は、いかに?」
「無い」
あっけに取られて、サリアはその顔を見上げた。
黄金竜の顔は、いかにもつまらなそうな、不機嫌極まりない表情をしている。
「儂の打てる手は全て打った。これ以上、策などあるわけが無かろう」
「り、竜神殿……」
「それは、敗北を認めた、と考えてよろしいか?」
傍らに置いた酒器を手に取り、中の酒を一舐めすると、竜はむくれたまま顔を背けた。
「そなたは阿呆なのか? 儂は全ての手を打ち尽くした、と言ったのだ。後の事は下の連中に任せる」
「そ、そんな! それではケイタ殿の犠牲は!? 半壊した魔物軍に、貴方の知略なしでどうして勇者の軍勢に勝つ見込みがありましょうか!」
「そうは言うがサリアよ、奴の神規をどう思う?」
すねた子供のような顔が、憤懣を酒臭い鼻息と共に吐き出した。
「あそこまで完璧な軍勢を仕立て、その上間違ったらやり直しが効くのだぞ? そんなものに対抗するには、それ以上のインチキが必要となる」
「そ……それは、そうですが」
「そして、儂に出来る限りのインチキは全部使った。後は、現場の者に全てを任せるしかあるまい」
言うだけ言ってしまうと、竜はその場でとぐろを巻き、目を閉じてしまう。
再び高笑いを始めた知見者に何を言う気力も無く、サリアは足下の水鏡を見た。
敵陣から遠く離れた山中に、明かりが灯り始める。すでに日は傾き、森の中には濃い夜気が漂っている。野営を始めた魔物たちの顔は、どれも消沈していた。
『生き残りは、これだけか』
布を差し掛けただけの天幕に座り、ベルガンダは苦々しくうめいた。
朝見た部隊長の殆どが、この場から消えている。
救いがあるとすれば、何度かのリセットで死に瀕していたリザードマンの剣士が、数名の部下と共に生き残っていること、コモスと投擲部隊の隊長が無事であったことぐらいだろう。
『なんなんだよ、あれは。あんなもんに、どう勝てばいいってんだ』
ナイフ使いのホブゴブリンは、頭を抱えて苛立ちを吐き捨てる。その傍らで傷の手当てを受けながら、コモスがかぶりを振った。
『あの巨大な陣さえ、大魔法を発動するための囮に変える……これはもう、今の我々では抗することさえ不可能です。即時の撤退を』
『畜生……っ、ウディクのダンナも、ファゴウも、パロクトも、みんな死んで……このまま尻尾を巻いて逃げろってのかよ……』
『でも、てき、つよすぎ。たいしょう、まおうさま、ちから、かりられないか』
トロールの提案に、全員の視線がベルガンダに集中する。それでも、牛頭の魔人は、沈痛な面持ちで首を振った。
『我が王は中央大陸の闘魔将殿のところだ。それに、以前のような介入を為さることは、もうないだろう』
『じゃあ、シェート、お前は何かないのか? お前だって、神様が付いてんだろ』
コボルトも、ゆっくりと首を振る。
『多分、無理だ。サリアの力、今、使えない。俺、魔王軍、力貸す、その代わり、全部の力、使えなくした』
『な……なんだと!? お前、どうして今まで黙ってた!』
『よさんか。逆に言えば、それだけの代償を払って、シェートはここにいるのだ。そうでなければ俺たちが、ここまであの勇者軍と拮抗しえたはずが無い』
実のところを言えば、力を与えられないわけではない。自分の存在と引き換えに、強大な神規を、あるいは神器を作り出すことは出来る。
「止めておけ」
こちらの思いを読んだのか、竜神は冷たく言い放った。
「お前がそれを為したとて、その性質を見極められれば、奴はそれと同等の能力を生み出して、対抗馬としてぶつけて来よう。そうでなくとも、リセットを喰らって見切られでもすれば、それで終わりだ」
「では……私に出来ることは何もないと?」
「そうだ。そなたにはなにも出来ん。せいぜい己の身をすり減らすのが関の山だ」
力なく、サリアはその場に座り込んだ。
ここまで来て、もう何もないのか。
竜神の策は全て出尽くし、こちらの神威を使っても、状況を変えることは出来ない。
『リセット』
ぽつりと、シェートがこぼした。
『もう一度、リセットさせる。ケイタ、戻ってくる。魔王軍、元、戻る』
『そのためには、この場にいる全ての命を使うことになる。失敗すれば、後は無いぞ』
『でも、このまま待つ、俺達、負けるだけ』
破れかぶれのシェートの提案に、それでも全員が顔を上げる。今まで散々苦労させられた敵の能力が、今や自分達の希望となっているのだ。
『そうだな。コモス、急ぎ手勢をまとめ、敵本陣への突撃部隊を編成せよ。目的はただ一つ、勇者の首だと伝えてな』
『了解しました。しかし、甲斐のない戦ですな。たとえ勝利を収めたとて、また同じ朝の繰り返し。しかも、我らはそれを覚えていられないのですから』
『贅沢を言うな。逆に言えば、食い下がれば食い下がっただけ、勇者殿は我らと顔を付き合わせ続けるのだ。いっそこのまま、永遠に戦い続け、勝利も敗北もない泥沼にでも引き込んでやろうではないか』
笑えない冗談に、それでも魔物たちは気力を取り戻し、立ち上がる。
その空気に後押しされて、シェートもその後に続こうとした。
『残念だが、そうはいかん』
水鏡の中から聞こえた声に、サリアは思わず対手の方に振り返る。
フルカムトは薄笑いを浮かべ、"目"の向こう側へと、嬉しげに語りかけた。
『お前達の考えは読めている。確かに、そうなればまた、あの厄介な毒を抱え込み、同じ朝を繰り返す羽目になるだろう』
後方に新たに設けられた陣屋の中で、康晴は知見者の声を聞いていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、陣中にいる兵士たちは眠りについているか、見張りとして警戒に当っているかしている。
『そんなことを、おめおめと許すと思っているのか?』
タブレットには、すでにセーブ画面が開いてあった。これまでは、儀式の名の下に人の出入りを封鎖し、秘密裏に行ってきた行動。今後はその気使いもしなくていいと言われていた。
『……まったく、底意地の悪いことだな、ええ?』
画面越しにこちらを見上げるミノタウロスの顔は、憎悪と夜の闇とで黒く染まっていた。
『我らの結論が、その一点に集約するときを見計らい、全ての希望を打ち砕こうという腹か! 全く、神にしておくには惜しい奴だ! いっそのこと魔界に生まれていれば、その腐った性根も美徳の一つとなったろうにな!』
『下らぬことを言うな。これが業罰、神に逆らいし者に与える、裁きの鉄槌だ』
いつになく上機嫌な知見者の声が、妙に神経に障る。今日一日を何度も繰り返したせいで、かなり気分が悪い。
『さて、ではこの下らぬ茶番に幕引を引くとしよう。勇者よ、セーブを』
「は……」
康晴はけだるい気分を抱えながら、セーブアイコンを叩こうとした。
《セーブすると、以前のデータは失われます。よろしいですか? Y/N》
その指が、中途で止まっていた。
『どうした、何をしている。さっさとしろ』
「は、はい。すみません」
何かが引っかかっている。疲れのせいか、昼間の一件で神経が昂ぶったのか。
一度、心に湧いた疑念は大きく膨れ上がり、次第に大きな警鐘へと変わっていく。
こちらのためらいに、知見者は煩わしそうに大声を上げた。
『何をしている康晴! 私はセーブしろと命じたのだ! それとも貴様、また同じ朝を繰り返し、カニラの勇者と忌々しい小競り合いを続けたいというのか!?』
その一言に、全身の筋肉が抵抗をやめ、指がアイコンに触れた。
《セーブしています………………完了しました》
無機質な文字列が流れ、過去のデータが完全に消え去る。
これでもう、二度と同じ朝はやってこない。
「あぁ……」
座席に体を預け、ぐったりともたれる。
これで、自分のすべきことは終わった。
『さて、これで全ては封殺された。別に今から、我が本陣に特攻を掛けても構わんぞ? その時貴様らは、何度も同じ夕べを迎えることになろうがな』
勘弁してくれ、巻き戻しは当分、体験したくない。
康晴は高笑いする神との回線を切り、静かになった天幕の内側で、そう呟いた。
あらゆる戦も、どんな気難しい商人との会談も、セーブをしておけば、必ず勝つことが出来た。少なくとも、損失は最低限に抑えられ、自分達の望みを確実に通せた。
中央大陸の魔獣を苦も無く屠れたのも、ザネジの手ごわい商人連合を一瞬で黙らせたのも、たった数ヶ月で道や橋が舗装できたのも、全てはセーブとリセットの賜物だ。
それでも、利害を求めて交わされる議論や、何度も死んでいく兵士、RPGのスキップできないムービーのように、差し挟まれる町の歓待を、何度も何度も、繰り返し見なくてはならないのは、苦痛だった。
やり直しの効く冒険の中で、世界は現実感を失い、誰が死んで、誰がいなくなっても、そこに何の意味も感じなくなっていた。
全ては、ただの作業。
タブレットPC越しに見る、遠い世界の出来事に過ぎない。
ただ、自分の天幕を焼いたあの勇者だけは、違っていた。
画面を突き破ってこちら側に現れた、異世界の闖入者。
「……名前、なんだっけ」
何かが頭の隅に引っかかり、データフォルダを呼び出す。
勇者たちのデータはある程度集めてあった。すでに、モラニアに残っているのは、あのコボルトと自分だけ。後の全ては、死亡を示すグレーに染まっている。
「シェート……」
コボルトの名前が目に焼きつく。それでも、奇妙にその存在は遠い。
画面をスクロールさせ、さ行でまとめられた名簿で手が止まる。
そこに掲載された勇者の顔と詳細なデータ、だが、康晴の視線はもっと根本的なところで制止していた。
「三枝……圭太?」
その名前を口にした途端、心がざわめいた。
画面越しに、コボルトが必死に彼の名前を呼んでいた気がする。
「何を……馬鹿な」
奇妙な音の一致、それだけだ。
こんな名前、別に珍しくもなんとも無い。
それでも、手にした木の杖を掲げ、必死にこちらに抗う姿が脳裏から離れない。
「"木"の……杖?」
馬鹿な妄想だ。
木編に圭という文字を足す、その時に成立する一字。
何の確証も無い、自分の過去の記憶が符合しただけの妄想だ。
それに、これは将棋じゃない。ただのゲームだ。
一枚の駒を取り払ったからと言って、何が変わるわけでもないはずだ。
「気にするな……こんなの……ただの……」
いつのまにか、声に出していた。心の不安を打ち消そうとするように。
誰もいない天幕の中で言い知れない不安を抱えながら、康晴はじっと、座り続けた。
朝。
昨日と同じ霧が立ち込めていた。
漂う水の気配を嗅ぎながら、ポローは静かに立っていた。大気のどこかにきな臭さと、血の匂いが漂っている。
「夜襲は、無かったか」
勇者からの指示で、交代制を敷いて見張りが続けられたものの、結局夜は静かなものだった。
すでに敵の軍勢は数を減らし、半分近くに減っていると聞いた。リザードマンと猪に乗ったオークは、あの星降りの魔法で焼き払われたという。
「なんなんだ……これはよ」
空しさがこみ上げてきた。何もかもが、奇妙に空虚だった。
あの時、外敵であるケイタを、自分は排除できなかった。いや、それを見越して、知見者の勇者は、軍師と将軍を側に置き、敵の策を叩き潰して見せたのだ。
自分たちという、分かりやすいおとりを隠れ蓑にして。
「俺は、ただの道化か」
全ては知見者の筋書き通りに進む、それだけのことだ。こちらが何を考えようが、全く関係がない。全ては神様の遊戯盤に乗せられた、駒にすぎないのだ。
《全軍に通達。本陣前方に魔物軍の結集を確認。総員直ちに武装し、指示のとおりに布陣せよ》
「指示の通りに、な」
ポローのタグには『陣内待機:勇者本営の護衛』とだけ浮かんでいる。
「何落ち込んでんのさ、隊長」
透明な板切れを指で弾き、ポローは話しかけてきたメシェに、苦笑を向けた。
「なぁ、俺がこの部隊を辞めるって言ったら、どうする?」
「あっそう、それじゃ、お疲れさん。どこかで会えたら酒の一杯でもおごってよ、だね」
「……ハッ、そうだよな」
今の自分に、ここで勇者軍を続ける以外の価値はない。たとえ、道化として扱われたとしても、力の無い村人に戻るよりはましだ。
落ち込むこちらを尻目に、整然とした軍隊は昨日と同じく、列を築いていく。
その向こう側にチラッと見えた魔物の戦列は、指でつつけば崩れてしまいそうなぐらいに貧相だった。
「殲滅戦だってさ。気をつけるべきは、魔将とコボルトの本陣に対する奇襲だって」
「昨日の失態を取り返すいい機会だぜ? 隊長」
いつも通りの面子、ファルナンとレアドル、ディトレが遅れて現れる。
ディトレの言葉の後を続けて、ファルナンが軽くこちらの肩を叩く。仲間の慰めに、ポローは淡い笑みを浮かべた。
「その望みも薄そうだがな。さっき見たら、例の魔将が戦列の先頭に陣取ってた」
「それ、間違いない? 魔将自ら、前に出てたの?」
「あ……ああ。大方、自分の武力を頼みに、陣中でも突破する気なんだろ?」
なぜそんなことを気にするのか、その問いかけは、口に出来なかった。
『お、おい、ありゃ、なんだ?』
本陣の外周で、物見についていた兵が叫びをあげた。その声につられて、他の連中も次々と防壁側に集まっていく。
何か異常が起きている、ポローはすばやく、防壁の側によって、その向こうを見晴るかした。
勇者軍本隊と、本陣の間に横たわる、誰もいない平地。
まだ世も明けきらず、薄紅に染まる空の下。
一匹の星狼を伴ったコボルトが立っていた。
「奇襲……に、来たってのか?」
それにしては様子がおかしい。
姿も隠さず、真っ向からその身をさらしているなんて。
朝霧が、凪の終わりと共に流されていく。
身につけたマントを翻し、両の手足を小手と脛当で鎧ったそいつは、おもむろに左手を差し上げた。
「来い!」
獣の手に、星の如き輝きが宿った。
それは長く伸び、緩やかな弧を描いて形を成していく
コボルトの手の中に、一張りの弓が顕れていた。
「なんだ、あの武器は……」
「女神、サリアーシェのガナリ、シェート」
構えた狩人の、なにも番えていなかったはずの弓に、光の矢が宿る。
そしてコボルトは、渾身の気合を込め、力強く吼えた。
「知見者の勇者、俺、狩る!」