21、圭太(上)
薄暗い小屋の中、マントで作った覆いの下で、フィーはスマホの画面を見つめていた。
元々納屋に使われていたらしい建物は、戦争が始まってから誰もやってこなかった。
それこそ、何度リセットされてもだ。
「……ほんっとに、クソインチキな神規だよな、これ」
漏らした言葉の苦さに、圭太が黙って頷く。竜神から送られてきた映像には、一方的に蹂躙される魔物たちが映され続けた。
「ていうか、セーブとリセットって、もう無敵じゃねーか。こんな能力と世界全体を見られる目に、簡単に勇者を作れる力……差がありすぎだろ」
『それが、今の天界なのよ。力のあるものが遊戯で勝ち上がり、弱いものはその恩恵にもあずかれない。それでも、遊戯を止めようとは言えないのは……自分もその、勝利の甘い蜜を味わってみたいと思うからでしょうね』
カニラの声も、悲痛と苦い呆れが滴るようだった。
幾度と無く行われてきた、神々の遊戯。その中でも、こんな能力を用いたのは知見者が始めてらしい。
「本気で遊戯を独占するつもりなんだね、知見者は」
『相当の対価を支払ってね。もし、次の遊戯があったとしても、二度とこんな神規は承認されないでしょうし』
一度見られてしまえば確実に、参加した神の非難を浴びるであろう反則技。
それを承知で、フルカムトは『遊戯の独占』を宣言したのだ。
「いい気になりやがって……見てろよ? リセットされる前にぶったおしちまえば、こっちの勝ちだ」
歯を剥き出しにして獰猛に笑うと、圭太の手が軽く肩に触れてきた。
「あんまり興奮しないで。そうでなくても、僕らは見つかっちゃいけないんだから」
「圭太……お前、怖い、のか?」
触れてくる指が、かすかに震えていた。
暗がりの中、こっちを見る目がかすかに怯えと、緊張を湛えて潤んでいる。
『圭太さん』
そして女神の声が、深く優しく、響いてきた。
『ここまで一緒に旅してきて、本当に楽しかったわ。そして、こんなダメな女神に力を貸してくれて、ありがとう』
「本当だよ。僕らの仕事はここからなのに、そんなこと言っちゃってさ」
口元に笑みを浮かべると、少年が地面に置いてあった杖を拾い、立ち上がる。その動きよりもわずかに早く、グートが扉の外に無言で睨み、角の先端が強烈な魔法の気配を察知した。
「……クソッ、圭太っ!」
『圭太さん! フィーさん!』
勢いよく圭太の胸に飛び込み、全力で破術を発動させる。
遅れて小屋の全てが、強烈な爆発で粉々に吹き飛んだ。
炎が破術の層を避けて通り、倒壊した小屋の周囲から黒煙が逃れていく。
晴れた視界の向こうに、勇者直属の特殊部隊が待ち構えていた。「臆病風に吹かれてどこに逃げたのかと思えば、こんなとこにいらっしゃったんですか。元村の勇者殿」
リーダー格のポローが、嫌味たっぷりに剣と嫌味を抜き放つ。その傍らには小太りの魔法使いが杖を掲げ、距離を置いて三人の戦士がこちらを取り囲んでいた。
「姿を消して身を隠し、こちらの勇者を闇討ちか。とことん、堕ちるところまで堕ちたって感じだな、ええ?」
「うるせぇっ! そっちこそ、リセット技なんて使いやがって! インチキ神規も大概にしろってんだ!」
胸に抱いた仔竜が溜まっていた鬱憤を吐き出すが、相手は当惑した顔で肩をすくめるばかりだ。
「言っても無駄だよ。竜神様が教えてくれたでしょ。勇者以外、末端の兵士はなにも知らされないまま、ゲームの駒として使われているって」
チャンスがあるなら言っておけ、竜神から託されていた悪意の言霊が、ポローの顔にかすかな歪みを浮き上がらせた。
「……聞いた風な口を利くんじゃねぇよ。利用されてるのは、てめえだって同じだろ」
「な、なんだよ。いい大人が図星突かれてキレてんじゃねーっての! バーカバーカ!」
「ちょ、ちょっとフィー」
仔竜の挑発に、ポローが面白いぐらい反応する。どっとあふれ出す殺気に、圭太の五感が悲鳴を上げた。
「降参して棄権するなら許してやれと言われていたが、気が変わった。お前は、殺す」
突然、目の前にポローが現れた。
宣言から振りかぶり、間合いを詰めるのが一挙動。反応することさえ出来ない、必殺の刃が降り注ぐ。
「あ――」
体が動かない。
何も出来ない。
意識と感情が、はるか背中の方に置き去りにされ、恐怖も、襲い来る運命への抵抗も、死の際に見るという走馬灯さえ浮かばない。
ただ一つ、驚くほどに魂が理解した。
「こんなに簡単に、死んじゃうのか」
怯えでも、諦観でも、絶望でもない。
事実として、圭太の心が死を知った瞬間。
「ゴアアアアアアアアアアアアアアッ」
「うがああああああっ!」
死をもたらすはずの剣士の体勢が、めちゃくちゃに乱れた。
片足に食い下がった狼が、渾身の力を込めてその体を振り回し、大地に叩きつける。
『に、逃げて! 圭太さん!』
体の主導権を取り戻し、圭太は敵に背を向けて走り出した。
「あ……あ、あ……あう……」
腕の中でフィーが震えている。その恐怖を感じた圭太の心が、急速に覚めていった。
周囲の光景がクリアになり、混乱が拭われていく。
「大丈夫? フィー」
「ご……ごめん、俺……その」
「気にしないで」
小屋のがれきを飛び越え、数百もの天幕が群れ生えるエリアに駆け込んでいく。
一足ごとに踏みしめる大地の感触、周囲で飛び交う伝令の声、追いすがるポローたちの怒声が、磨き上げられた鋼の鋭さで意識を刺し貫く。
だが、圭太の心は不思議と落ち着いていた。
内臓の重さを僅かに感じる。走っているのにも関わらず、息はそれほど切れていない。
どっしりと、自分の体が大地に根ざしているのを感じた。
「フィー、透明化をお願い」
「え? あ、と、"透解"っ!」
神器が発動し、こちらの姿が掻き消える。同時に、こちらを追いかけていたグートが、わき道にそれた。
透明化したこちらを追いかけていては敵に覚られる。星狼の知力は人間と遜色ないというのは本当のようだ。
こちらの姿を見失った敵が叫びだし、待機させていた魔法兵たちが呼び集められる。
歩調を緩め、誰も使っていない天幕に入り込むと、圭太は抱いていたフィーを地面に下ろした。
「ま、まさか、あんなに簡単にキレるなんて……調子に乗って、ごめん」
「いいんだよ。逆にあれで、連中に隙が出来た」
自分でも驚くぐらい、声が落ち着いている。
だが、フィーはうろたえたまま、不安そうな顔でこちらを見上げていた。
「や、やっぱり怒ってる、よな?」
「別に? そんなことないよ」
そこでようやく、表情筋が全く働いていないことに気がついた。何とか口元だけ緩めると、落ち着いた声音で語りかける。
「僕がこれから騒ぎを起こすから、君はグート君と合流して逃げて」
「な……なんだよ! 逃げるなら一緒に」
「ダメだよ。そんなことしたら、リセットを喰らって引き戻されるだけだ。それに、作戦が、もう一つ残ってるんだよ」
固まったまま動かないフィーから視線を外すと、背負い袋を下ろし、ミスリルの板切れをいくつか取り出す。
「うまくいけば、僕が知見者の勇者を倒して、みんなのところに帰ってこれる。でも、そのためには、フィーは……邪魔なんだ」
「な、なんでだよ!」
「君の破術と僕の魔法は相性が悪い。敵の魔法を封じる代わりに、こっちの魔法も消えるからね」
ミスリル片に刻まれた紋様を確認し、ポケットにたくし込む。
天幕の周囲に人の気配が集まって来た。見つかるのも時間の問題だろう。
「言い合いをしている場合じゃない。早く脱出して、シェート君のところに行くんだ」
「……圭太」
「そんな顔しないでよ。もしかしたら、もう一度リセットを喰らって、小屋の中からやり直し、何てこともあるんだし」
口調を和らげ、たしなめるように声を掛ける。
それでも、もじもじとしている仔竜に、圭太はダメ押しの一言を告げた。
「シェート君を助けるって決めたんでしょ? なら、ここで死んだりしちゃダメだ」
「なんで……それを?」
「全部聞いたんだ、竜神様から。君の、本当の名前も」
フィーは一瞬泣きそうな顔になり、それからぎゅっと、自分のスマホを握り締めた。
『あなたの選んだ道に敬意を。そして、あなたの魂に祝福を。私のような、罪穢れたものの祝福なんて、嫌かもしれないけどね』
「ち、違うんだ! お、俺は……っ」
『いたぞ! その天幕だ!』
軍靴の音が、大きく響いてくる。布越しに見える兵士達に向かい、圭太は杖を掲げた。
「君達と会えてよかった。シェート君に、よろしくね」
こんな場面なのに、驚くほどに意識がはっきりしていた。
逃げたいとも、怖いとも思っていない。
やるべきことが明確に意識でき、そのための手段が想像できる。
「"地に脈々と、赤く燃えるは蜥蜴の息吹"」
朗々と力ある言葉を祷じながら、圭太は悟っていた。
これが、肝が据わるという感覚なのだと。
「"礫塊の基を砕き、沸き出で、烽火を上げよ"」
「と……"透解"っ!」
叫ぶように神器を発動させた仔竜が、天幕を抜けて走り去っていく。その撤退を支援するために、沸きあがった魔力を四方に横溢させる。
「"星を鍛えし山麗の焼炉よ、今こそ鉄扉を開け放て――天昇炎陣"っ!」
渾身の力を込めて、圭太は杖を地面に叩きつけた。
水鏡の向こうの世界で、再び爆炎が上がる。その真紅に顔を照らされながら、フルカムトは頬杖を付き、成り行きを見守った。
「カニラ・ファラーダの勇者を抱きこみ、透明化の魔法で勇者の陣中に潜伏。そして、我らの軍が魔物との闘争に掛かりきりになったところで、暗殺に掛かる」
口にしながら、竜神をちらと見やる。
厳つい顔には苦渋が浮かび、足下で行われている戦いに、心を奪われているのは明らかだった。
「中々良き策、でしたな。魔物たちは思いのほか精強であり、サリアーシェのコボルトが魔物の中で発言力を持った結果、あなたの献策、差配が通った。それを踏まえ、奇策を行う……考えうる最良手、ですな」
実際、この策をここまで成立させるためには、何一つ欠けてはならなかったのは明らかだ。魔将の有能さ、コボルトの浸透具合、カニラの勇者という『捨て駒』の起用。
この絵図を完成させるために、深謀遠慮を積み重ねてきたのは間違いない。一歩間違えば、こちらが倒されていただろう。
「まだ勝負は付いておらぬというのに、もう勝ち戦の気分か?」
「確かに、これは失態。では、助言に従って、更に勝負をつめることにしましょう。勇者よ、全軍に進撃命令を」
康晴が無言で指示を放ち、軍が動き始めた。
先ほどまでとほぼ変わらない情勢だが、魔物たちは突然見せられた陣中の様子に、少なからずうろたえている。
「構い立てするな、魔将よ。授けた策どおりに、全軍を動かすのだ」
竜神は食い入るように盤面に見入り、傍らの女神も緊張の面持ちで勇者の陣中を見やっている。
『お、おい! サリア! あれ、どうなってる!? なんでケイタ、あんなとこに!』
「儂が命じたのだ。埋伏の毒として敵陣深く潜り、そなたらの動きに合わせ、奇襲にて勇者を討て、とな」
すでに隠し立てする意味をなくした策を、竜神が苦々しく述べる。ミノタウロスの背に負われたコボルトが、悲鳴に近い叫びを上げた。
『そんなの! あいつ、死ね言うの同じ! どうして、そんなことさせた!』
『それが必勝の策だからだ。よもやとは思ったが、やはり村の勇者を抱きこんでいたか。なかなか、えげつない』
牛頭の魔人は陣を進めながら冷徹に言い放つ。知力も武力も申し分ない男、駒の一つとして使えれば、面白いことになったろう。
『敵の神規は幾度もやり直しが効く。だが、意識の外、慮外の一撃にて葬り去れば、敗北を取り消す暇もなく、敵は滅びる……か』
「その通りだ。どうせ、あのインチキ詐欺神のことだ、こういうこすっからい手を使ってくるとは予想していたのでな」
「そして、私とて、そのような手を常に警戒し続けてきたのだ。自分の神規の弱点ぐらい把握するのは、当然だろう?」
竜は怒りに目を細め、鼻息に火花を散らせる。それでも、それ以上の言葉は重ねず、ただ盤面を見やった。
爆炎を背にしたカニラの勇者は、再び姿を消して囲みを抜けようとしていた。だが、魔法兵が放つ魔法の目に見抜かれ、巨獣討伐隊の面々が逃げ道を塞いでいく。
『くそっ! 逃げろ、ケイタ! 無理するな!』
『気を散らすなシェート! 俺達の敵は目の前だ! あやつを助けたければ、俺たちは進まねばならん!』
激励を飛ばし、ミノタウロスは油断なく兵を操っていく。いくら小虫一匹とはいえ、本陣は少なからず混乱している。その隙を見逃さず、一気に攻め上るつもりだ。
「……本当に、魔物にしておくには惜しい男だな」
本心からの呟きが零れる。
中央で名を知られた魔獣の軍団は、力押し一辺倒で対手としては物足らなすぎた。
キマイラやワイバーン、ヒドラなどの強大な魔物たちも、所詮は知性の低い獣。率いていた百手巨人も武辺のみの存在で、心惹かれるものはなかった。
だが、あの魔将が率いる軍は、曲がりなりにも軍事というものを理解していた。
竜神の助言が入る以前から、レベルアップの厄介さを悟り、与しやすい敵のみに当り、こちらと拮抗する戦いを続けた才覚。
「魔将……ベルガンダ、と言ったか」
こちらの呼びかけに、牛の歯がぐっと剥き出しにされる。
『呼んだか、知見者よ。この魔将ベルガンダ、引き抜きの誘いは数多あるが、神の手下になる気は毛頭ない!』
「取り付く島もなし、か。愚かな選択だぞ? 貴様のような底辺を這いずる虫に、我が声が降るなどという酔狂は、この一期のみと心得よ」
『ご芳情痛み入る! だが生憎、真の将に仕えるならまだしも、イカサマな詐欺師に振り立てる尾は、一本たりとも持ち合わせておらんのでな!』
フルカムトは鼻白み、座席に身を預けた。
「では、貴様のそっ首を取り、魔王に見せ付けることとするか。手塩に掛けた部下が無残な屍をさらすのを見れば、天の玉座で歯軋りしつつ悔しがるであろう」
『そう何もかもうまく行くと思うな!? 進め! 陣中を抜いて、一気に攻め上れ!』
ベルガンダの声が戦場に響き、魔物たちがオーガの部隊を突端に寄せ集まり始める。
「制動しなくてよろしいのか? 竜神殿」
「悪手でなければ助言などせんよ。ケイタ殿の働きを無駄にするわけにはいかんしな」
まるで竜神の思考を読んだように、魔将が戦力を集中させていく。
奇襲を足がかりにした一点突破。たとえリセットを掛けたとしても、陣中に埋められたカニラの勇者という毒までは消すことが出来ない。
敵は天幕の間に身を逃げ回り、勇者を倒す隙をうかがっている。兵士達の囲みは狭まっているが油断は禁物だ。
だが、この攻撃をしのぎさえすれば、竜神の策は全て潰えることになる。
「康晴」
逸る心を鎮め、フルカムトは冷徹に命じた。
「一刻も早く、害虫を駆除しろ」
立ち並ぶ天幕の間を、圭太は走っていた。
同じような造りのテントは整然と立ち並び、時々自分を探している魔法兵の姿が横目に映った。
そのまま足を止めず、ポケットの中からミスリル片をつかみ出す。
「"レギス"っ!」
刻印された呪紋に魔力が通い、圭太の周囲で光を放った。
「"朧月身"っ」
自分とそっくりの姿を映した分身が、我先にと広場へ飛び出した。その動きと反対の方向へ、再び走り出す。
「幻影の魔法に気をつけろ! 魔法の目で確認し、実体の行った方角を報告するんだ!」
こちらを追いかけている魔法兵たちが、口々に叫び交わすのが聞こえる。透明化と幻影で何とか逃げ回ってはいるが、追い詰められるのは時間の問題だ。
『圭太さん! その先に魔法兵が二人! 左右から挟み撃ちよ!』
カニラのナビゲート通りに、杖を突き出した魔法兵がこちらを認める。
「"レギス"――"萎肢綴脚"っ!」
投げつけた銀片が魔法兵に当り、一瞬のうちに全身を麻痺させてその場に横たわる。
『使いすぎよ! さっきので麻痺の呪文は終わりでしょう!? 透明化も、幻影もほとんど残ってないじゃない!』
「文句はいいから! 敵の配置は!?」
詠唱を省略し、魔力の供与だけで魔法を発動する"待機呪文"。
本来は虚空に光韻のエネルギーで呪紋を描くことで発動させるが、フィーから貰ったミスリルの欠片に、魔術刻印を施すことで瞬間的な発動が可能になっていた。
それでも、短い時間で作れたのは、ほんの十数個。ここまでの立ち回りで大部分を使い果たしてしまっている。
『どうやら、兵士達もこっちがまともに戦う気が無いのを悟ったみたい。天幕を踏み壊して視界を確保し始めたわ』
「そっか……うん、分かった」
数万の兵士を収容する天幕の群れは、美味い隠れ蓑になってくれた。だが、知見者の勇者がいる中央部へ行くには、兵士の群れを突破するしかない。
「こうなったら、無茶をするしかないね。カニラ、多分、まともに方向も分からなくなると思うから、誘導をお願い」
『……分かったわ。でも、もし、もうダメだと思ったら』
「それは言いっこなしだよ。それじゃ、お願い」
兵士の足音が再び近くにやってくる。
さっきの"天昇炎陣"はあくまで威嚇、人に怪我をさせないために、効果を絞っていた。
でも、今から使うのは手加減なしの力だ。
その恐ろしさを思い浮かべながら、圭太は別に用意したミスリル片に力を込めて、命じた。
「"レギス・ストーレ"」
待機呪文は、魔法の発動を一時停止させておく技法だ。言い換えれば、開放されるエネルギーを『取っておく』ということでもある。
「"万物に宿りし諸法諸元の源。光芒にて刻まれたる、祖たる韻に我は命ず"」
掌の上に赤い光が灯る。銀片が燃え上がり、エネルギーが集まってくるのが分かる。
これまで唱えたどんな魔法より、強い光韻の高まりを感じる。
「"汝れは猛火、集い来たりて鉄血の拳、天に突き上げん同胞なり"」
唱える詠唱は"烈火繚乱"とどこか似ている。
だが、その言葉に秘められた威力はまったく桁が違った。
「いたぞ! あそこだ!」
「"我が声は戦呼ぶ角笛、呵責無き、その威を以って我が招請に応じよ"」
圭太の周囲で燐火が舞い始める。その輝きを目指してやってきた魔法兵たちが、周囲の天幕を燃やすほど熱くなったこちらを前に立ちすくむ。
「え、詠唱をやめさせろ! 早く撃ち殺せ!」
銀色の呪紋が浮かび上がり、一斉に魔法弾が解き放たれる。
だが、その全てが反れてはじけ飛び、あるいは砕け散った。
「"哭くが如く、嗤うが如く、共に謳えよ、鏖殺の凱歌"」
集積した光韻の量と、発動しかけた魔法の熱が、全てを遮り、弾き飛ばしていく。
取り囲んだものたちが悲鳴をあげ、じりじりと後ずさる。
『皆さん! 死にたくなかったら逃げて!』
カニラの叫びに、兵士たちが事態を悟り全力で逃げ散っていく。
そして、圭太は結した。
「"焼夷竜炎尽"」
世界が、一瞬で白熱する。
まぶたを閉じていていてさえ、炎が目を焼く。呪文の威力を外部に指向させているのに肌が炙られた。
周囲の天幕は中身ごと灰と化し、猛火の威力を避け損ねた人間が、かそぼい悲鳴を上げて大地に横たわる。
『い、今よ! そのまままっすぐに走って!』
圭太は両腕で顔を覆い、一気に駆け出した。
本来の力量では、到底使えないはずの最上級魔法。その威力が圭太の障害を全て吹き飛ばしていた。
『理論的に、あらゆる魔法は、魔法使いなら誰でも発動が可能だ。だが、必要な魔力を集め、維持する力を持たないがために、個人の使える魔法は自然と制限される』
その問題を解決するための方法が、ミスリルに待機呪文を刻印するやり方だった。
本来なら、その場でかき集めなければならない魔力を封じ込めておき、必要なときに使い捨てる。
『もちろん、こんな方法でミスリルを消費する魔法使いはいない。貴重な鉱物であり、きちんと呪鍛すれば、半永久的に魔法を封じ込めておけるのだからな』
だが、自分達にそんな長い時間は必要ない。
たった一瞬、敵を怯ませるだけでいい。
『圭太さん! 炎が切れるわ! 勇者の陣屋は目の前よ!』
カニラの叫びと共に、圭太は目を見開いた。
まるでそこだけ切り取られたように、火の手が防がれている。
勇者がいる巨大な天幕の前、こちらに向けて腕を突き出し、片膝を付いて苦痛の表情を浮かべるのは、小太りの魔法使いと精霊を扱う女剣士の二人。
「くっそっ、たれ……こんなに、堪えるもんだとは、ね」
「こんな大魔法、あの短時間に……よく……」
『……あの二人が、魔法の威力を抑えていたみたい。でも、好機だわ』
二人をかばうように大男と優男が魔法使いたちを支え、悪鬼の形相で、ポローが立ちふさがった。
「やってくれたな。このクソ勇者が!」
剣を抜き放ち、怒りに顔を高潮させた男。周囲では兵士達の悲鳴が上がり、消火作業に追われる声が聞こえてくる。
敵はこの場にいる五人だけ。そのうち二人は疲労で動けず、彼らをかばう仲間も、こちらの魔法を警戒して、思うように動けない様子だった。
「一体どういうつもりだ、ああ!? お前、自分が何やってるのか、わかってんのか!」
「もちろんです。僕は、知見者の勇者を倒し、勇者軍を、この地上から、消します」
ポローの顔は怒りを通り越し、ひどく冷え切った表情になった。
「要するに、自分の村が奪われた腹いせか。そのためなら魔物と手を組むのも厭わない、ってな。そして、またお前は、気まぐれでこの世界の人間を振り回そうってんだな」
「そんなんじゃ……僕は、ただ」
口を開いた圭太は、先を続けることが出来なかった。
知見者に対する恨みは、確かにまだある。
ポローの言うとおり、このまま勇者を倒してしまえば、世界に混乱が起きることも理解している。
「まただんまりか……まぁ、いいさ。どう言いつくろったところで、今やアンタはただの悪党。正義の勇者軍に楯突く魔物の手先、ってな」
魔物の手先。
弁解も言い逃れもできないその言葉が、胸の奥に降ってくる。
「ようやく自分のバカさ加減を理解したか? だったらおとなしく、俺に斬られろ」
ポローの切っ先が、ぴたりとこちらの喉に向けられる。
ただ一度の突き。反応不能な速度でこちらを一刺しにする気だ。
どうする?
その問いが、火花のように胸の奥で咲いて散った。
自分の行動とその意味を、圭太は思い出した。
「――借りを」
「ああ?」
「まだ、借りを、返してないんです」
まるで相手の剣士に合わせるように、圭太は杖を構えた。
「そりゃ俺達に、いや、知見者にってことか?」
こちらの謎めいた一言に、僅かながら殺気が引く。圭太は、言葉を連ねた。
「あの時、シェート君は、村を救いに来てくれました。何の見返りもなく、自分の気持ちに従って」
「おい、お前……何を、言ってやがる」
「あの後、リンドルを立て直したのは、確かにあなた達かもしれない。でも、村を救ってはくれたのは、彼です」
こじつけに近い物言いであるとは分かっている。
それでも、打算に打算を重ね、虚飾で救い主を演出した勇者の軍よりも、謗られ、嘲られてなお、あの場で戦ってくれたシェートの方が、尊いと思った。
「もし、この世の中に、本当に勇者がいるとしても、それはきっと、あなた達のことじゃない」
「あの犬っころに、俺たちが劣るってのか!」
「僕は、シェート君に受けた借りを、今ここで返す!」
杖を持つ右手、その親指の下に挟み込んだ小さな銀片に、圭太はありったけの力を込めて叫んだ。
「"レギス"――"月銀の灯火"!」
閃光が杖を中心に破裂した。光量を限界まで上げた明かりの魔法が、世界の陰影を完璧に消去する。
「うがああっ、く、くそおっ!」
『圭太さん右に走って!』
カニラの声に、目を閉じたまま走り出す。
勇者の陣屋とその周囲は、魔法の目と姿消しを使って把握してある。閃光で再び焼けた目が少しずつ視力を取り戻しつつ、その場所へ走りこむ。
訓示に使うために空けられた広場、そのど真ん中に。
『そこよ圭太さん! あなたの足の下!』
「分かった!」
杖を両手で掴み、高く突き上げる。込めた魔力が木肌にしみて、中に埋め込まれた無数の呪紋が輝きと共に浮かんだ。
「"レギス・ストーレ"! 我が法杖に宿りし神秘よ! その破却を以って敵を砕け!」
圭太の魔力に呼応して、地面に埋もれたミスリル片が輝き、光の道を創り出す。そのラインが、勇者の陣屋へと到達した瞬間、
「いっけぇえええええっ!」
叩きつけた杖が粉々に砕け、手の中で爆発するはずの魔力が、大地の上を突き進んだ。
「く、くそおおっ!」
ポローが光の前に飛び出すが、魔力の奔流は妨害をすり抜けて疾駆する。
本来は魔法の道具に込められた力を暴走させ、周囲の敵をなぎ払う自爆技。地面深くに埋設しておいた"誘導"の命令式によって、破裂寸前の力が襲い掛かる。
「申し訳ありません」
その威力の前に、青いローブのの姿が割り込み、杖を掲げた。
「"レギス・ストーレ"砕けよ神秘、その破却にて、猛威を断て!」
ヴェングラスの杖が振り下ろされ、崩壊と共にほとばしった力が、地面の魔力を完璧に相殺した。
「そ……そんな……」
愕然とした圭太に向けて、勇者軍の軍師は、沈痛な面持ちで首を振った。
「通すわけには行きませんよ、その攻撃は」
膝から力が抜け、その場にへたり込む。
軍師の行動は的確だった。まるで、こちらの動きを完全に読んでいたかのように。
「どうして……分かったんですか」
「理由を、お聞きになりたいですか?」
顔を怒りに歪めたポローが、こちらに近づいてくる。その視線を避けながら、圭太は無言で頷いた。
「全ては想定されていたのです。あなたが、勇者の暗殺を企てることも、その攻撃の方法もね」
「全て……ですか」
「もし、我が陣中にあなたがいなかった場合、待機呪文によって魔力を高めた、超超遠距離からの狙撃が行われると見ていました。これは、あらかじめ"目"を配置、同時に狙撃可能なポイントをわざと設けておき、見つけ次第倒させていただく予定でした」
そのやり方は、竜神からも解説されていた。ただ、狙撃は失敗の確率も高く、事前に察知されやすいために、採択されなかったのだ。
「十数回にわたる"リセット"は、あなたがどこにいるかを探す意味もあったのです。結果として狙撃の可能性はないと分かり、特攻急襲策が取られるものと判断しました」
「その様子じゃ、僕の仕掛けた"道"も気付いたんですね」
「さすがに、起動前の式文を察知するのは無理ですよ。ですが、この陣屋は常に人間の目があり、姿消しを使ったところで、仕掛けを埋設できる時間、場所は限られる。後は、あなたの策がどこで発動するかを、見ていればよかったのです」
待機呪文によって詠唱と魔力の収束を短縮化し、一撃で勇者を殺す最大の方法。
その全てが潰えた今、圭太の手には、何も残されていなかった。
「観念してください。あなたは、ここで終わりです」
軍師ヴェングラスの宣言は、知見者のそれのように、陰々と響き渡った。