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かみがみ〜最も弱き反逆者〜  作者: 真上犬太
かみがみ~Warmonger編~
70/256

16、戦端

 4五桂、持ち時間ぎりぎりを使って打ったその手に、康晴は失笑した。

 もちろん声は上げない。相手の手を笑うのはマナー違反だし、あと一勝で勝ち抜けという時に、気を抜くつもりも無かった。

 ちらりと相手の顔をうかがうが、自分の一手を微塵も疑っていない様子だった。

 盤面の読み間違えか、余計なことを考えたのか、ひとしきり頭の中をさらってみたが、該当するような棋譜は思い出せない。

 あからさまな悪手。

 何のかかりにもなっていない手を、こんな場面で打ってくるなんて。

 残り時間に目をやり、こちらの差し手を再確認する。後十数手で積みが見えている、無視しても問題ない手だ。

 本当にそうか?

 ふと、指が止まった。 

 その一枚を、熟慮して打ったであろう一手を、苦も無く払いのけてやれば、相手は一層動揺するのではないのか。

 歩の一枚を突く、いや同角と打てば、攻め手を緩めずに駒得が出来るはずだ。

 桂という飛び駒の一枚で、詰みへの道も早くなるだろう。

 早く勝負がつけば、じいちゃんに連絡するのも早くなる。

 もう一度、盤面を見直す。

 そして、康晴は角へと手を伸ばした。



「やめろ!」

 自分の手が、何もない空間を掴んでいた。ごとごとと床下から響く車輪の音が、防音を施された車内に、くぐもった感じで響く。

 おぞましい夢だった。 

 後悔してもしきれない、最悪の一手。

 確かにあの後、対戦相手は驚き、自分の失態を覚った。そして、ギリギリまで持ち時間を使い、こちらが上げた角道を、歩で断った。

 その瞬間、ぞっとしたのを覚えている。

 たった一手の遅れで、もう玉を詰む手が消えていた。

 その失態で対局は伸び、昇段の掛かった大事な試合を、取りこぼした。

 なんど後悔しても、後悔しきれないその一手。

 自分が読み間違えた末の手なら諦めもつく。だが、悪手に引きずられる形で悪手を引き寄せてしまったことは、どうやっても挽回することは出来ない。

 やる必要が無い手を打った、それ以外の答えが無いから。

『起きたか』

 短い問いかけに、康晴の意識は現実に引き戻された。

 いや、これも夢幻のひとかけら、終わらない悪夢の続きなのかもしれない。

『慣れない長期の行軍で疲労がたまっているようだな。侍医を呼んで体調を戻すがいい』

「いえ……大丈夫です」

 タブレットを手にすると、自分がうたた寝していた間の様子を確かめる。

 自分を中心とした本隊の列は、数日前よりも更に伸びていた。馬車の前後を埋める歩兵隊も、後方と前方を守る騎馬隊も、倍近い数になっている。

 その両脇には深い森があり、その全てを、上空の"目"が逐一確認を続けていた。

 敵影無し、地形の異常無し、隊伍に不調を訴えるもの、無し。

 強いて問題を上げるなら、ルハナンでの一件以来、完全にこちらに対して敵意と不満しか示さなくなった特別部隊の面々だが、それでも忠実に馬車の側で随行を続けている。

 古王国カイタルの領土は、ほとんどが山と盆地、そして森だ。

 モラニア大陸は、いびつに膨れた三角形の形をしている。それぞれの頂点から三つの山脈が伸び、古王国カイタル、テメリエア公国、リミリス王国を分かつ国境の役割を果たしている。

 ルハナンからカイタルの首都、ガイ・ストラウムまでの山中行軍。魔王軍が仕掛けてくるとすれば、この行程のどこかでだろう。

『今日で三日目、投宿地のペルレイまではあと三時間と言ったところか』

 まるで、こちらに確認するように知見者が言葉を降らす。

『仕掛けてくるとすれば、まずここだな』

 マップ画面を縮小し、広域に変換する。省略された地形図が表示されるが、自分達の周囲以外は確認不可の暗い画面になっていた。

『案ずるな。連中の小ざかしい策は見切ってある。各都市に目を散らしたとしても、我が知恵の目からは逃れられんのだ』

 そこはかとない自慢を聞き流し、目の索敵範囲をわずかに拡大する。その端に、魔物たちのユニットが確認された。

『連中の本隊はまだ後方、我らの部隊を追いかけている状態だ。この辺りで足止めをする必要がある。だが、少ない手勢で本隊へ奇襲しても無意味だろう。そこで』

 知見者の意識にしたがって、前方の村が光り輝く。村の規模、住民の数、そして、こちらが駐留させている兵士の数が表示された。

『ペルレイの村を焼き討ちし、我が軍の駐留地を破壊、その対応に手間取っているところで、少しでも距離を縮めようという腹だろう』

 住民は二百人程度、すでにいくらかの物資が、遠征に先立って運び込まれている。駐留している兵士は五十名程度で、魔法科の兵士が半数だ。

『前方の騎馬隊五百を先行させ、守備隊と合流、村の物資を守らせろ』

「分かりました」

 再び隊列の画面に戻し、前方の騎馬隊をタップする。

「ラザブ団長。騎兵五百を率いてペルレイの守備隊と合流してください。魔物による焼き討ちが来ます」

『了解です。緑の光がともったもの、全員私に続け!』

 あっという間に、兵士達が前方に向かって駆け出す。点呼から隊列編成までが、ほぼノータイムで行える軍隊は、本当にゲームの駒のように見える。

 現実感の無いその動きを、ぼんやりと目で追う。現実の戦いも、防音の壁に囲まれた室内にいる限りは遠い世界に思えた。

『ガイ・ストラウムに入ってしまえば、我らの勝ちだ。カイタルを我が領袖りょうしゅうに引き入れ、国軍が配下となった暁には、国内に抵抗できる勢力は無かろう』

 現在、各地で行われている魔物のゲリラ戦法で、思ったよりも兵力が集まっていない。

 モラニア全土に交通網を広げた結果、軍税による収益は格段と上がったが、守るべき都市の数も増えた。

 総数十三万の兵士のうち、都市防衛に五万の兵士が割かれてしまった。

 予備兵力を一万残し、最終的には七万の兵でガイ・ストラウムまでしのぐ必要がある。

『タガニイ方面よりの増援一万は、現在どの辺りだ』

「今確認します」

 画面を切り替え、別働隊の動きを表示する。険しい山中を警戒しながらの進軍のため、その動きは通常よりもゆっくりしたものになっていた。

『前方にあるタガ渓谷の橋に気をつけろ。確実に破壊してくるはずだ。先遣隊を出し、厳重に安全を確認させろ。橋の仕掛けも忘れるな』

 目の視点を移動させると、確かに橋の向こう岸に魔物たちの存在が確認できた。

 何匹かは上空を気にしているが、こちらは高度一千メートルの地点で、太陽を背にして移動させている。たとえ見抜かれたとしても、敵に気づけさえすればいいのだ。

『ウィル隊、前方のタガ橋で魔物の待ち伏せあり。目の映像を送りますので、それを利用して対応してください』

「ありがたい。分かってさえ居れば、魔物に遅れなど取るはずも無し」

 隊長は後列の人間に命令を飛ばし、歩兵と輜重部隊をその場で待機させた。騎馬で一気に橋を駆け抜け、ひとまずの安全を確保するつもりだろう。

 橋自体も自軍で掛けなおしたものだから、構造には問題ない。軽く周囲をチェックし、待ち伏せした先に落石の罠が仕掛けられているのが分かった。

「前方に落石の罠があります。深追いは避けてください」

『お手間を取らせるな。それでは』

 指示はこのぐらいでいいだろう。後は目の前の敵がどの程度の抵抗を示すかだ。

 馬車に揺られながら、康晴はじっとモニターに目を凝らした。



『シェート、騎馬隊が出た、五百ほどだ』

 サリアの声を聞き、背後で待つ連中に振り返る。武装し、準備を整えたゴブリンの群れが、腰を浮かせる。

「動きやがったか」

「ああ、騎士、五百来る、言ってる」

「やっぱり気づかれたか。まぁ、大将にも言われてたし、こんなもんか」

 隊長格のホブゴブリンがそういうと、部下たちも不敵な笑いを漏らした。

「やっぱり、行くか?」

「当たり前だろ。大将の命令、命を掛けて、いや、死んだって果たしてみせらぁ」

 隊長はふっと笑い、こちらの胸を拳で小突いた。

「まったく、てめえらコボルトってのは、しけた面が良く似合いやがる。これから死にに行こうってのに、そんな顔見せるんじゃねぇよ」

「そんなこと言って隊長、そいつに一度も勝ってないじゃねーですか」

「半泣きでもんどりうってた隊長の方が、よっぽどしけた面だったぜ」

「う、うるせぇ! こんなときにくだらないこと言ってんな!」

 誰も彼もがおかしそうに笑い、すぐさま真剣な顔に戻る。かすかに、馬のいななきが、ここまで届いていた。

「いいか! 足が砕けようが、肺が破れようが、必ず村にたどり着け! やるべきことやってから死ね! 分かったな!」

『おおおおっ!』

「行くぞ、野郎共!」

 号令に、群れが一斉に動き出す。

 あるものは松明の束を、またあるものは厳重に封をした山海栗入りの箱を背負い、村へ向けて駆け出していく。

「お前はここまででいい! 俺達の成果を見届けたら、大将の所へ戻って伝令を頼む!」

「……分かった」

 ホブゴブリンが言い残し、辺りが急に静かになる。

 決死の焼き討ち部隊は二百名ほど、村に駐留する部隊には何とか対応できても、後詰の騎馬隊には苦も無くひねられるだろう。

 だが、ベルガンダがかき集めた本隊は、勇者軍の遥か後方にある。ここで宿営地に打撃を与え、少しでも足止めしなければ、まともに戦うことも出来ずにガイ・ストラウムに入られてしまう。


『お前らの命を、俺にくれ』


 決死隊を募ったとき、ほとんどの魔物たちが、我先に名乗り出たのを思い出す。

 誰一人、自分が捨て駒になるのを厭わない、確実に死ぬと分かりながら。その結束の固さに、寒気を覚えたほどだ。

「戦争、怖いな」

 軍隊と狩りの群れが、根本的に違うことを、肌身に感じる。

 同じ目的を持って寄り合うという点は同じでも、軍隊は命が軽い。死を礎にして勝利を呼び込むことを要求し、それに応えられる者たちがいる。

『だが、あんなことを言われて、平然と命を捨てられる者が現れるのは、魔将の持つ器ゆえだろうな』

 切なさと憤りを香りに変えて、サリアが苦言を漏らす。

「……俺、ちょっとだけ、わかる」

 元々戦争も、魔王軍も興味がなかった。だが、あの魔将の側に居ると、心地よかった。

 共に歩もうと言われたとき、少なからず心がざわめいていた。

 自分の力を存分に使って、勝利を掴みたいと思わせる何かがあった。

「俺、あいつ、怖い」

『それは、武力という意味ではなく?』

「ああ……俺が、俺でなくなる、そんな感じ」

 初めて砦に入った夜、口にした火酒のことを思い出した。

「俺、きっと、あいつ、酔った。すごい強い酒。飲みすぎる、俺、おかしくなる」

『人々を戦に駆り立て、その勝利を夢見させる力があるのだ。まさしく武将、なのだな。ベルガンダは』

 女神の嘆息を知ることもなく、魔物たちが駆け抜けていくのが見える。作戦の顛末を見届けるため、シェートも間隔を開けてその姿を追った。

『シェート、早すぎるぞ! そのままでは連中に追いつく!』

「わ、分かってる!」

 反論しながらも、足が自然と早足になってしまう。

 去っていく連中の顔が頭から離れない。関係ない、自分には関係ない、連中が死んでも関係が無いはずなのに。

「……なんだ、これ」

 たった二ヶ月程度、利用するためだけに付き合っていたはずの魔族たちに、気持ちが引き込まれている。

 そんなシェートの心を、サリアの叫びが更にかき乱した。

『まずいな。騎馬隊が森を抜けるほうが早い。これは……奇襲隊は全滅か』

 荒々しい馬蹄の響きが木立を貫き、ちょうど森を抜けかけるゴブリンたちの脇に、旗を掲げた騎士の影が見えた。

「くそっ!」

『バ、バカ! お前一人行ったところでどうなるというのだ! 引き返せ!』

 分かっている、分かっているはずなのに足が止まらない。

 視線の先で、騎士が剣を抜き、その切っ先をホブゴブリンに振り下ろした。

 その瞬間――



 ――火の手が、村から上がった。

 壁の内側から猛然と、灼熱の赤が天高く吹き上がる。

「馬鹿な!?」

 騎士団長ラザブの意識が、一瞬そちらにそれた。

 その逡巡に剣が鈍り、ホブゴブリンがたやすく一撃を避けて駆け抜けた。

「団長! 魔物が火を!」

 随伴していた副長が絶叫する。その自分達の脇を、次々と魔物がすり抜けていく。迷っている暇は無い。

「隊を二つに分ける! お前は半分を率いて村の守備隊と合流! 残りは私に続け!」

 どういうことだ、馬に拍車を掛け、魔物の群れを分断するように疾駆しながら、ラザブは自問した。

 勇者の"目"によって、間違いなく奇襲は読んでいた。森から出るところを一気に攻め、そのまま追い散らしてしまえば終わる、そのはずだった。

「だ、団長! さ、錆喰いがっ!」

 こちらの動きを予想していた魔物たちが、背負っていた箱から錆喰いを解き放つ。触手がうねり、あっという間に鎧に絡みついて侵食が始まった。

「うろたえるな! 木槍を使って殺せ!」

 錆喰いによるこちらの弱体化も予想済みだ。そのために、鎧には錆喰い避けの薬を塗って、木槍を持たせていたのだ。

 だが、更なる爆炎が、村の門前で炸裂する。村に駆けつけようとした騎士も、攻め入ろうとした魔物も、行く手を遮られてうろたえた。

「なんだこれは!? 一体何が起こっているのですか! 勇者殿!?」

 必死に剣を振るいながら、彼は天に向かって絶叫する。

 だが、答えは返らない。魔物たちが次々と村へ取りすがろうとする中、炎は再度荒れ狂って、敵と味方を遮ってしまう。

「全員、村へ向かえ! なんとしても魔物を中へ入れるな!」

 長年の経験から、とっさに指示が出る。どんなに将軍が有能であっても、現場の判断はその場の士官が行うのが鉄則だ。

 しかも、現状は異常な事態。人知を超えた何か、神意を越えた何かが起こっている。

 不安を必死に抑えながら、彼は燃え盛る村へと馬を走らせた。



 先遣隊の行った方角を気に留めながら、隊長のウィルは目の前の橋を見ていた。

 切り出された石材で作られたそれは、支えの部分が弧を描いた構造をしている。アーチ橋、というものだそうだが、どうしてこんな形で巨大な橋を支えられるのか、未だに分からなかった。

「まさしく神の奇跡、ってやつですね」

 随伴の副官も、ものめずらしそうに眺めやる。その向こうで、今も仲間達が戦っているのを思い出し、顔をしかめた。

「緊張を解くな。負傷者や増援が出たら、即座に駆けつけなければならぬ」

「分かってますって……っと、先遣隊から通信ですよ」

 胸のタグが輝き、声が届く。

『隊長、魔物たちは全滅しました。ただ、かなりの数の岩が転がってるんで、取り除くのに人手がいりますが』

「ご苦労。その場で警戒に当たってくれ。我々もこれから移動を開始する」

 とりあえず、敵の排除は済んだらしい。胸元の板を指先でいじり、その便利さに感謝するように軽く撫でる。

 遠方の味方と会話し、重要な命令を色や音に変えて伝達できる《ドッグタグ》の威力はすさまじいものだ。レベルアップの機能など、これに比べればおまけ程度のものだろう。

「よし、そろそろ行くか。移動準備!」

 タグに怒鳴りつけ、ウィルは背後の部隊を確認するために振り返る。

 その視線の先で、森が崩れ去ろうとしていた。 

 山頂に近い大木が大げさな動きで傾き、他の木々をなぎ倒しながら転がり始める。

 奇妙にゆっくりとした動きが、次第に大きく、無慈悲な速度で斜面を下り始めたとき、ウィルは絶叫した。

「全員っ、その場から離れろおおおっ!」

 落木によってなぎ倒された木も、なんの抵抗もないまま折れ、雪崩を打って輜重部隊に襲い掛かっていく。

 それまで何の異常も無かった森が、あっという間に後方部隊を飲み込んでしまった。

「な……なんだ、これは?」

 道すがら、偵察は何度も行っていた。この辺りは上空の目と部隊の索敵の、二重の確認を行っていたはずだ。

「誰が、こんな真似を!」

「ほうけてる場合じゃないですよ! 下敷きになった奴を助けないと!」

 副官が走り出し、あわててウィルも後を追う。その目に飛び込んできたのは、完全に砕けてしまった荷馬車と、食料や飲料、補給物資の数々。

「なんてことだ……」

 無意識に、胸元のタグを操作し、被害を確認する。どうやら、死者はいないようだが、負傷を示す印が、かなりの数の兵士達に付いていた。

「見てください、これ!」

 現場指揮に立っていた副官が叫び声を上げる。

 気色ばんだ彼の手には、木の蔓を編んだ綱が握られていた。

「それと、折れた木の何本かに、深い切込みが入ってました。罠ですよ。俺達を分断するためじゃなく、目の前におとりを置いて、最初からこっちをつぶす気だったんだ!」 

 切り込みは見上げても分からないように、背後に付けてあったらしい。この仕掛けを起動させた者はもう逃げているはずだ。

 鈍い怒りが、じわりとこみ上げてきた。

 考えてみれば、こんなもの戦の常道ではないか。目の前の部隊に気を引き付け、別働隊がもう一つの策を実行する。

「勇者殿、ご報告申し上げる」

 だが、それを諫言する気は無かった。現場指揮を預かったものとして、このぐらいの奇策は見抜いてしかるべきだったはず。

「魔王軍の奇襲により、輜重部隊に打撃を受けました。負傷多数ですが、死者は無し。ただし、補給物資はほぼ壊滅です」

 少し、便利なものに浮かされすぎたのかもしれん。

 苦い失態を噛み締めて、ウィルは報告を終えた。



「なるほど」

 白亜の大図書館に、主の呟きがこぼれた。

 眉間に不快を刻んで、フルカムトは水鏡を睨みつける。

 その向こうでは、燃え盛る村を背景に騎士たちが魔物たちを追い返し、村人と守備隊の働きで火は消し止められつつある。

 しかし、軍の備蓄庫は焼かれ、見るも無残な状態になっていた。

 山道の補給部隊も壊滅し、魔物の落石と山崩れのおかげで、一日二日程度では復旧出来ないほどの状態だ

 魔物たちには、こんな策を織り込んだ動きは無かった。いずれも玉砕覚悟、命と部隊を削ってこちらを足止めする程度の考えだったろう。

 考えられることは、ただ一つ。

「古蜥蜴め……本腰を入れてきたな」

 おそらく、コボルトから魔物たちの動静を聞き及び、それに呼応する形で自分の策を重ねたのだ。

 もちろん、竜神が何らかの手出しをするとは考えていた。

 カニラの勇者を魔王軍に合流させる。あるいはこちらの動きを流すために、姿消しなどを使って偵察任務をする、そうした消極的な行動が中心になるだろうとも。

「こうもあからさまに、叛意を示したか、小神風情が」

 だが、これで竜神の思考は理解できた。

 敵陣深く踏み込み、村に火を放たせているのだ。竜神はカニラの勇者を、使い潰すことさえ厭っていない。

「勇者よ。各員に伝達。ウィル隊はそのまま道を修繕後、ペルレイで駐屯。比較的無事な物資を村に運び込め。本隊は守備隊二千を残して行軍を続行。敵は時間だ、急がせろ」

 これで本隊から一万二千が脱落、残りは六万強となった。

 この後合流する部隊はない、隊伍をまとめつつ、一気にガイ・ストラウムに入るのが上策だろう。

「偵察部隊に魔法の目を持つ魔術師を必ず随行させ、一定区域の走査を行うよう義務付けろ。また、カニラ・ファラーダの勇者、サエグサケイタを、見つけ次第殺すように命令を下せ」

『魔王軍と通じている、という名目でよろしいですか』

「それでいい。ついでに村が燃えた映像も回しておけ」

 連中がこちらの進攻に介入し、両軍の動きを操ろうという意図は明確になった。

 そして、あわよくば相打ち、さもなければこちらを滅ぼした後、魔将を闇討ちにする腹積もりだろう。

「せいぜい好きなように動くがいい。それでも、勝つのは私だ」

 知見者は挑むように、水鏡の向こうを見晴るかした。

 どこかで現状を見ているであろう、竜神の姿を幻視しながら。

 


 暗い森の中、圭太はその場に座り込んだ。

 鼻の穴に炎と煙のきな臭さがまだ残っている。燃える村のことを思い出し、胸が少し痛んだ。

「カニラ、村の方は無事かな?」

 今いる場所は木々が密生しているために見えないが、ペルレイは歩いても二キロぐらいの場所にある。程なくして、カニラの答えが返って来る。

『……ええ、問題ないわ。もう火は消えている。それに、知見者の軍事物資は綺麗に焼けたようよ』

『ミッション終了、だな。ご苦労だった』

「はい……」

 姿を消しながら決死隊の襲撃にあわせ、勇者軍の倉庫にのみ火をかける。一歩間違えば勇者軍の騎士か、魔物に見つかって殺されるかの瀬戸際だった。

「そういえば、フィーの方は大丈夫ですか?」

『先ほど連絡があった。向こうも無事、物資だけを壊滅させて脱出できたそうだ』

 友人の無事を聞き、ほっと息をつく。

「でも、本当にあんなことして、大丈夫なんですか? これでもし、勇者軍があっさり負けちゃったら……」

『心配せずとも、魔王軍は基本的にギリギリの状態、これでいくらかまともに戦えるレベルになった程度だろう』

 現在、戦力と戦術の両方で、ベルガンダ率いる魔王軍は劣勢に立っている。

 その戦力バランスを取り、同時に勇者軍にも死人を出さずに戦力を殺ぐ。そうやって、両軍の実力を拮抗させようというのが、竜神の作戦だった。

『そして、これでペルレイの村は真の意味で救われたな。ちょうど今、儂らの視界から後続の魔物たちが引いていったぞ』

「ホントですか? 良かった……」

 今回の策を行ったのには、もう一つ理由がある。

 魔将自身も、今回の作戦が成功するとは考えていなかった。シェートを連絡係に使ったのも、作戦失敗を確実に知るためだ。

 決死隊はあくまでおとりに使い、別に用意した四千の襲撃部隊が、深夜にペルレイを襲撃する予定だったのだ。

 勇者軍に、村人という足かせをつけさせた状態で。

 結果として、より大きな惨劇を防ぐことはできた。しかし、それでも拭い去れないものもある。

「本当にこんなことで、僕らが勝てるんですか?」

『もちろんだ。とはいえ、これは前段階にすぎんがな』

「じゃあ、この後はどうするんですか?」

『知見者の勇者を倒し、その死に酔いしれた魔王軍の隙を突いて、ベルガンダを討つ』

 ごくりと、喉が鳴った。

 知見者の勇者を倒す、それはつまり、彼らの軍に掛かった全ての奇跡が消えることを意味する。

「そんなことしたら、ベルガンダと魔王軍が!」

『だが、勇者軍と当たって、決して無傷ではいられまい。狙うのは両軍がぶつかり合う、決戦の最中だ』

 竜神の指摘に、圭太は押し黙る。

 魔王軍は常にジリ貧だ。決死隊を募り、自分の部下を磨り潰す覚悟で策を投じ続けない限り、勝ち目が無いほどに。

『魔王軍には、勇者軍と戦って損耗してもらわねばならん。勇者軍には、その優勢を以って野戦で連中を押しつぶしてもらわねばならん。その瞬間こそが儂らの勝機だ』 

 そして、シェートもまた、全く勝ち目が無い状態から、勝利を掴まなければならない。

 勇者軍の勇者を戦場に引きずり出し、ベルガンダ率いる魔王軍を疲弊させて。

『そしてケイタ殿。そなたの存在は、今や二つの陣営に対する必殺の一矢となった』

「……え?」

『分からぬか? シェートはベルガンダに、そなたのことを一言も漏らしておらん。そしてフルカムトは、厄介と思いながらも、そなたを狩り殺すのに力を割けぬ状態だ。誰にも見咎められられず、ひそかに敵将を倒せる存在。それがそなたなのだ』

 状況に任せて取ってしまった透明化の魔法と、請われるままに立った立場が、急に意味を持って立ち上がってくる。

 そのことを意識した途端、体が震えてきた。

「な……なんで、僕なんですか!? だって、シェート君が勇者を、ベルガンダを倒すんじゃあ……!」

『この戦で最も被害を出さぬ方法は、両陣営の将の死だ。それも、ほぼ同時に起こさねばならん。この戦いでそれを可能にするために、そなたの力が必要なのだ』

「あ……あ……」

 がくがくと膝が鳴り出した。竜神の発想はむちゃくちゃだ。戦争が始まり、互いのトップが油断した隙に、その両方を討ち果たすなんて。

 しかも、その片方を、自分に任せるという。

『魔王軍はベルガンダの将器で支えられておる。だが、ひとたびそれが壊れれば、これまでのような結束は生まれぬだろう。勇者軍は、言うに及ばずだ』

「そ、そんなの出来ないよ! いくらなんでも、僕には無理だよ!」

『では、ここで下がるか』

 また選択だ。

 今まではまだ耐えられた。ほんの少しの手助け、ほんの少しの勇気で済んだから。

 でも、こんな重い責任には、とてもじゃないが耐えられない。

「僕は……」

 恐怖に目がくらみ、圭太は悲鳴をしぼり出そうとした。

「僕が、なんだって?」

「うわぁあっ!?」

 茂みの中からひょっこりと顔を出した仔竜と星狼に、思わず叫んでしまう。うるさそうに顔をしかめたフィーは、こちらの顔を見て何かを察したように空を見上げた。

「またおっさんが無茶振りしてんのかよ。今回の作戦だって、圭太の気持ちとか、ぜんぜん考えてねーだろ。俺の方も、馬車の連中が怪我しないかって、冷や冷やだったぞ」

『仕方あるまい。軍師というのは無茶振りをするのが仕事なのだ。文句を言って気が済むなら、存分に言うと良いわ』

 竜神のぼやきを鼻で笑うと、フィーはこちらの背中をぽんっと叩いた。

「嫌だったら嫌だって言っていいんだぜ? そうしたら、おっさんが頭をひねっていい作戦考えてくれるからさ」

『儂を百円入れたら作戦が出てくる、便利なマシーンか何かと勘違いしておらんか?』

「仕事サボってゲームに夢中になってんだから、こういう時ぐらい頭使えよ」

 二人のやり取りに、口元が緩む。

 気がつくと、体のこわばりが取れていた。

 フィーと竜神の軽いおしゃべりが、いくらか気持ちをほぐしてくれたらしい。

「で? おっさんになんて言われたんだ?」

「……知見者の勇者かベルガンダ、どっちかを僕に暗殺してほしいんだって」

「は……はああああっ!? な、なんだそれ!?」

 全ての説明を聞いた仔竜は、両手に顔をうずめてうめいた。

「バカか」

『いや、そんな端的に言われてもな』

「だって、これしか言いようがねーじゃん。むちゃくちゃだろ」

『では、頭のよいフィアクゥル殿に考えてもらおうか。シェートの力のみで、魔将も知見者の勇者も討ち果たして勝つ方法を』

 竜神に挑まれ、フィーは腕組みしつつ、首を傾げた。

 尻尾を叩き、唸りながら、何事かぶつぶつといい始めた。それに歯軋りが加わり、顔がこわばっていく。

「……ダメだ! 無理! なんもおもいつかん!」

『ほれ見たことか。どアホウめが』

「うっせえな! でも、文句言うぐらいはいいだろ! ちくしょー!」

「ごめん、フィー。もう大丈夫だよ」

 仔竜の頭に手を置き、くしゃくしゃと髪をかき混ぜる。

 心配そうにこちらを見上げるフィーに、圭太は笑って頷いた。

「すみません。ちょっと、びっくりしちゃいました。まさか、僕がそんなことを期待されてるとは思ってなくて」

『そうね。一度は棄権するつもりだったのが、いきなり切り札扱いですものね』

『とはいえ、これが今の儂に出せる最良の策だ。シェートを勝たせ、そなたらも生き残るためのな』

「……え?」

 圭太は、空を見上げた。

 こずえから覗く星空、その遥か向こうに居るはずの、まだ見たことの無い竜の姿を見出そうとするように。

「あ、あれ、本気だったんですか? だって、この前は」

『だから言ったろう。最悪の事態に備えつつ、そなたらが生きる道を模索すると。お勧めは知見者の勇者を倒すことだ。そうなれば、カニラも一気に大神の仲間入りだぞ?』

「は……ははっ……そんな……あはっ、あははははは」

 本当に敵わない。何から何まで、要求された以上のことを竜神は考えてのけていた。

 シェートを勝たせ、魔王軍を滅ぼし、おまけにいつリタイアしてもおかしくない、自分達の面倒まで見るなんて。

「なんか、悩んでた自分がバカみたいですね。そうやって、どうすればいいかまで考えてくれてたのに、気づかないんだから」

『その代わり、要求するものも高くなるわけだがな。理想に見合う対価はきっちり払ってもらうぞ』

 竜神の言葉に、圭太は感心していた。今までに出会ったどんな人間も、こんな風にはっきり方策と、必要とされる物を提示してこなかった。

「……そうか、最初に知見者の勇者を倒せって言ったのは、僕とカニラの加護が増えるからだ。そうですよね?」

『大神クラスの手付かずの加護と、格上相手の勝利によるレベルアップ。そなたの魔法使いの能力も、十分に底上げできよう。魔王軍をなぎ倒す大魔法さえ操れるほどにな』

 勝つ目の無い状態からの逆転の一手。博打にもほどがある。

 ここまで、この作戦を話さなかったのは、竜神も理想的な展開に持っていくのが難しいと分かっていたからだ。

 それを明かしたのは、勝利の可能性が見えたということ。

「竜神様はこの作戦、どのくらいの確率で成功すると思いますか?」

『確率計算などゴミ箱に捨ててしまえ。伸るか反るか、それだけを考えよ』

「……はいっ」

 体が震えてくる。今度のそれは、恐怖ではない。

 今までに感じたことのない高揚感、何かを勝ち取ろうとするときに感じる意志の熱に、体が応えていた。

『今後はシェートの伝える魔王軍の動きに合わせて介入を行う。それまでは十分に体を休めておくのだ』

「分かりました」

「んじゃ、飯にしようぜ。俺もう腹へって死にそう」

 ささやかな焚き火が闇の中に灯り、夕食の煙が流れていく。

 仔竜と共に食事を囲みながら、圭太は胸の奥に灯った希望を、ひそかに味わっていた。


 

 獣の皮で出来た巨大な幕屋の中、ベルガンダは瞑目していた。

 獣脂ランタンのかすかな明かりで、その顔に濃い陰影を作りながら。

「ベルガンダ様、全部隊、合流いたしました」

 音も無く天幕に入ってきたコモスは、準備が整ったことを告げた。

「勇者軍はすでに北を目指したようです。もはや一刻の猶予もありません」

「そうか……ところでシェートはどうしている?」

 コボルトの名を出した途端、天幕の空気が重くなる。

 目を開き、副官に視線を流すと、その顔は強い憤りに満ち溢れていた。

「これ以上、奴を使うのはお止めください」

「使わぬ理由が無い」

「女神の勇者であるというだけで十分です」

 息を吐き出し、この口が上手い部下をどう言いくるめようかと考え、結局諦めた。

「クナキの部隊はほぼ無傷で戻ってきたな。おかげで四千の部下を無駄にせずに済んだ」

「その理由が、我らも知らぬ、奴の協力者によるものだとしても、ですか」

 コモスの舌鋒は、話題を変えようとすることさえ許さず、コボルトを槍玉に上げた。

「あの一件、シェートも全く知らんと言っていたが?」

 不思議な炎で村の一部が焼け、その後、こちらを進攻させないよう、何度も妨害があったらしい。それについて聞かれたコボルトは、困惑した顔で首を振っていた。

「私が神なら、策の全容をシェートに漏らすなど、絶対にしないでしょうね」

「まぁ、隠し事などできん奴だ、そのようにしたくなる気持ちも分かるが」

「先ほど、タガ橋に向かった決死隊の一人が戻りました。妨害に成功したとのこと」

 喜ばしいはずの作戦の成功。それを口にしながらも、コモスの顔は苦りきったままだ。

「そのものはこう言っていました。後方に待機していた輜重部隊に向かって、森の木々がなだれ落ちていったと」

「その策は、手勢が足らぬために取りやめにしたはずだが」

 本来、タガ橋の妨害は、決死隊が相手の目をひきつけている間に、輜重隊をつぶす予定だった。しかし、ペルレイ攻略に手勢を使ってしまったため、渡った後の道の封鎖だけを命じていたのだ。

「何者かが、それを行ったのです。我らの知らぬ、何者かが」

「ペルレイ村とタガ橋、二つの場所でほぼ同時に、我らの策を助けた者がいるか」

「助けたのではありません。勇者軍と力を拮抗させ、我らをつぶし合わせるためにです」

 ああ、牛頭魔人は嘆息した。

 言われる前から、そんなことは分かっていた。あまりに出来すぎた介入は、こちらの策が謎の存在に漏らされていることに他ならない。

「シェート、いや、奴に張り付いている女神の跳梁か」

「重ねてお願い申し上げます。奴を、これ以上策の中核にすえるのをお止めください。せめて、軍議に出すのだけでも」

「ではどうする? 知見者の"目"を欺き、予想の遥か上を行く神規に対抗できる手段を、みすみす捨てろというのか?」

 コモスの顔は、今や苦汁まみれだった。思えば、シェートが今回の策を出して以来、その顔に笑みが上ったことがない。

 罠であることを知りながら、勇者軍に対抗するすべを、神の勇者であるコボルトに求めなければならないことに、苛立ち、悩んでいた。

「案ずるな、俺は死なん」

「ですが……」

「コモスよ、それではどう見る? シェートの、いやさ女神の智謀は、どのようにして俺達を破ると見る?」

「……会戦の混沌に乗じ、勇者と、あなたを暗殺する腹積もりです」

 これもある程度予想していたことだ。シェートは魔物の存在を快く思っていない。どちらかを勝たせる気が無いとすれば、どちらも滅ぼす策を選ぶだろう。

「となれば、我らはまず勇者どもに勝ち、しかる後シェートにも勝たねばならん」

「シェートだけではありません。例の協力者に、あなたを討たせる可能性もあります」

「なるほど、こいつは難儀だな。ええ?」

 口元を引き上げ、コモスの不安を笑い飛ばしてやる。

「勇者軍を破るだけでなく、神々の策をも退けるか。その上、俺はシェートは無傷で魔王様に献上するとお約束している。これは、お前にもっと働いてもらわんとな!」

「ベルガンダ様!」

 悲鳴が幕屋に響き渡った。その顔には、普段決して見せることの無い、激情があった。

「そのご意志に、沿うことはできません! 奴は猛毒です。これ以上お側に近づければ、必ずやあなたを害し、そして滅ぼしましょう! どうかお聞き届けを!」

「では、献策せよ。シェートを抜きで、知見者の勇者を討ち、我らに勝利をもたらす手管をな」

 まるで、自分の言葉が巨大な破城槌にでもなったかのようだった。弁の立つコモスが完璧に反論を打ち砕かれ、一言も漏らすことなく、その場に立ち尽くす。

 舌戦で一度も勝ったことのない副官を、たった一言で打ち負かしてしまった。

「すまん」

 その小さな肩を、そっと叩く。

「いえ、これは我が非才ゆえの不覚です。お気遣いは無用」

「ならば、改めて命じよう。コモスよ、女神の策を読みきり、その上で我らに勝利をもたらすのだ」

「……御意」

 副官は頭を垂れた。いつも通りの静かな、それでいて強い感情を秘めた声と共に。

「では行こう」

 立ち上がり、幕屋を抜ける。

 その目の前に、無数のかがり火に照らされた、大軍があった。

 地平をはるか彼方まで埋め尽くすごとき軍勢。生まれを異にし、種族を異にし、その力を異にした、種々雑多な連中が群れ集まり、ただ一人の主を見上げていた。

『我が魔将よ! 御下命を!』

 オークが叫び、ゴブリンが唸り、オーガが吼え、リザードマンたちの鍔鳴りが響く。

 奥に控えた魔獣たちがそれに続き、世闇の中で鳥獣の類が一斉に逃げ散っていく。

『下命を! 下命を! 我らに号を!』

 鼓膜が痺れるほどの絶叫が、夜を裂く。解き放たれることを待ちわびた軍勢に向けて、おもむろに口を開いた。

「我が軍旗に集いし者どもよ!」

 ぴたりと、声が止んだ。

 人魔の類は言うに及ばず、知性のないに等しい魔獣でさえ、しわぶき一つ漏らさずに口をつぐむ。

「良くぞ今日まで戦い、生き残ってきた。地に潜み、敵を避け、己の牙を隠す、魔物の性に合わぬ、辛い戦を」

 いつどこで終わるとも知れなかった。どこかの一群れが堪えきれずに暴走し、離反が相次ぐことも覚悟していた。

 それでも徹底的に待たせ、策を巡らせ、地道に教練を続けた。

 その果てに、こいつらはここにいる。俺の目の前に。

「だが、もう待つ必要は無い! 見よ、彼方にそびえるあの孤峰を!」

 戦斧を取り、魔物たちの背後を指し示す。

 夜の闇の中、月の明かりに照らされ、天を突くほどの威容を誇る銀の山麗。

「あれこそが古王国カイタルの象徴、霊峰ストラだ。あのふもとに、勇者軍が目指す白麗の都、ガイ・ストラウムがある!」

 それぞれの視線が、熱を帯びて目的地を見つめる。

 その内に秘められたものを見取って、魔将は吼えた。

「そして、敵はもう目の前だ。この道の果て、我らが往く先に、屠るべき肥えた羊のように、勇者の奴腹は我らを待ち受けているのだ!」

 無論、敵軍は羊などという生易しいものではない。

 それでも、自分達は十分に耐えがたきを耐えたのだ。連中の血肉をこの身に浴びるその時のために。

「我らは十分に待った! 我慢も、辛抱も、今日を限りにかなぐり捨てよ!」

 大気が炙られていく。

 魔物たちの熱情が、松明よりも熱く、燃え盛っていく。

「往け! 猛き醜男しこお共! 我らが前に立ちふさがる者を、ことごとく喰らい尽くすのだ!」

 そして怒号が、夜を砕いた。

 長きに渡っていましめられた巨獣が、くびきを解いて地に這い出るように。 

 ベルガンダ率いる魔王軍は、進発を開始した。


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