7、この世の理
うつろな視線で、シェートは目の前で揺れるそれを見つめていた。
自分の首下から垂れ下がり、地面を摺るもの。
「おい!」
「ぎゃふっ!」
猛烈な勢いで首が引っ張られ、激しく地面に転倒する。あごが打ち付けられ、首がぎゅっと締まる。
「もたもたするな。はやくあるけ!」
のろのろと立ち上がり、歩こうと一歩踏み出した。
じゃっ!
「ぎゃううっ!」
勢い良く振るわれた鎖がしなり、強かに顔を打つ。肉が裂け、鉄さび臭い鎖に新たな赤い染みをつける。
「おれ、もたもたするないった! はやくしろ!」
「は……はい……」
なんとか歩き出すと、自分の手綱を引くゴブリンは満足そうに笑い、グイグイと手にした鎖を引いた。よろけそうになった体が背筋を伸ばし、周囲の光景が目に入る。
山林を貫く街道を、だらしの無い列を作って歩く魔物たち。みな手に武器を持ち、錆の浮いた鉄の防具やぼろぼろの皮鎧を身につけている。
その群れの中に、わずかに見える小さく弱りきった姿。首輪を掛けられ、鎖につながれたコボルトたち。シェートもまたその群れを構成する存在となっていた。
すでに、捕まってから三日目、その間に心も体も、痛めつけられていた。
「う、が……」
傍らを歩いていた同族の一匹が、膝から崩れ落ちた。途端に鎖が鞭に変わり、ピクリとも動かない背中を、何度も、何度も、何度も打ち据える。
はげてぼろぼろになった毛皮が毟られ、皮が破れて血がどろりとこぼれ、むき出しになった肉が崩れて飛び散り、黄色み掛かった骨がむき出しになった。
「あー、しんだしんだー」
「ちぇー、こいつよわっちい。このまえのやつよりはやくしんだ」
そんな仲間の惨状に、誰一人として反応しない。そんなそぶりを見せれば、自分を縛る戒めが理不尽な嗜虐の一撃に変わるだろう。
急速に光を失っていく目の光、みすぼらしい肉塊になったそれが、傍らの斜面に無造作に投げ捨てられる。
「いぇー!」
「やふー!」
「いっひいー!」
無様に転げていく死体に投げつけられる石。命中させたゴブリンの何匹が、即席の賭けでもやったのか、金貨らしいものをやり取りしている。
弱い魔物が死んだことなど気にも留めず、列は進む。視界の端に消えていく死体を目で追っていたシェートは、見なければ良かったと後悔した。
貪婪に目を光らせたオークたちが、先を争うように列から離れていった。
隊伍は粗野な連中なりに列を守って進み、昼前に石造りの砦らしい場所についた。
どうやら駐屯地的なものなのだろう。それぞれは自分達の居場所に引っ込み、あるいは中庭でだらだらと座り込んでいる。
「ひまだぁ」
「ああ、ひまだぁ」
無造作につきたてられた一本の杭に鎖を掛けられ、シェートたちは捨て置かれた。
それほど日の光が得意ではないものたちは、胸壁にもたれかかりながら、自分達の雑な装備を整える真似事をしていた。めいめいが酒を飲み、奪ってきた干し肉や、得体の知れない腐りかけの食事をむさぼる。
だが、自分達には何も無い。
「……み、みず、ください!」
顔の半分崩れかけたコボルトが、悲鳴を上げる。その顔を嬉しそうに眺めるもの、まったく知らん振りを決め込むもの、誰一人何かをするつもりは無いようだった。
「み、みんな、もう、なにも、のんでない、たべてない」
「あひゃっひゃっひゃっひゃ、おもしろい! こいつ、おもしろいこえでなく!」
「み、み、みんな、なにもたべてない! けひゃひゃ、おもしろい!」
ゴブリンたちの目つきは完全に濁りきっている。鼻腔に感じる強い火酒の臭い、奪ってきた上物で酔いしれ、ためらいも無く心の欲望に従う準備を完成させていた。
「よーし。おれさまやさしい! おまえにのみものやる!」
「あ、ああ……」
「そのかわり、そいつなぐれ」
傲慢な指先が、シェートの眉間に合わされる。隣のコボルトは、こちらを見た。
ためらいは、たった一瞬。
「う、うああああああっ!」
握りこぶしが振り下ろされる。それほど強くない一撃、だが相手はためらわず、頭を何度も殴りつける。
「おいおまえ! ていこうしないのか!」
「そいつなぐったら、おまえにものむものやるぞ!」
野卑な一言に、殴っていたコボルトの手が止まる。シェートは一瞬彼を見上げ、黙ってうなだれた。
「ひゃははは、よわむしよわむし!」
「ほら、そいつなぐられたいっていってる! はやくやれ!」
「うう……ああああ!」
まるで自分が殴られているような悲鳴をあげ、彼が幾度も自分を殴る。それでも、シェートは耐えた。
『ここ、ぜったい、さからったら、だめ』
つながれたその日、彼はそう言って、小さな木の実をくれた。
一緒にいた誰よりも目端が利いて、道端に倒れるふりをして、食べられる草や実を、みんなにこっそり分けてくれていた。
少しでも生き残るために、この気まぐれな支配者を満足させ、自分達から興味を失わせるために、自ら進んで注目を引く真似もしていた。
「はぁっ、はあっ、あ……ああっ」
「あー、おもしろかったぁ。それじゃ、おまえらにめしやる」
そう言うと、おもむろにゴブリンは手にした短剣を、投げた。
「が……っ!」
シェートの頭の上で、湿った音がした。
狙い過たず、脳天を短剣が貫き、気のいい男が肉塊に変わる。
「あ……ああ……あああ……」
「ぎゃははははははは」
「おら! しめたてだ! はやくくえ!」
つながれたコボルトの、誰一人として動かなかった。血を噴出し、崩れた顔を痙攣させてひざまづく仲間を、這いつくばりながら見上げるしかなかった。
騒動が、夜の帳と酒の力によって収められるころ、コボルトたちはようやくつかの間の自由な時を手にしていた。
とはいえ、鎖につながれ、まともに動くことも出来ない身分では、すきっ腹を満たすために手の届く範囲にある野草や、ゴブリンたちが捨てていった残飯をかき集めるくらいが関の山だった。
誰も言葉を交わさない、うかつに声を立てれば目を覚ました何者かにいたぶられる。昼に死んだ仲間の死体は、数人の仲間が捨てに行かされていて、その死を悼む顔はあったものの、誰もそのことを口にしなかった。
やがて、その惨めな食事も終わり、それそれが思い思いに寝床を作る。固まって寝た方が暖かいが、そうすることで誰かの被害を皆で受けることにもなりかねない。
身が納まる穴を掘りあげると、シェートも底に沈み込んだ。
冷えた地面の感触に、少しだけ心を落ち着かせる。だが、そうして冷静になってしまえば、思い知るのは自分の力のなさだった。女神の加護があるとはいえ、それで無敵になるわけではない。
ほんの少しだけ他の者よりも死ににくく、長生きできるだけ。
一体、これから自分はどうなるのか、そんなことを考えながら空を見上げる。
『……聞こえておるか』
耳元に、囁きが訪れた。
「聞こえてる」
『どうやら、まだ無事なようだな』
案じてくる声、だがその言葉もどこか疎ましい。
「無事、違う。また、仲間、死んだ」
『そう……か……』
「俺、いつまで、このまま?」
『すまん。今、何とか策を練っておる……もう少し、待ってくれ』
「もう少しって、どのくらい」
力なくなじった言葉に、返ってきたのは沈黙。
「俺たち、もうすぐみんな死ぬ」
自分が来たときには、同族は十を超えていた。三日経った今、自分を含めて四人しかいない。連中にとっては自分達は消耗品で、死んだら調達すればいい存在だ。
そして、明日には二匹になり、最後には自分が残って責め殺されるだろう。
「お前……神様。だったら……」
そこまで口にして、言葉が詰まった。続けようとした言葉が、むなしく胸の奥で砕け散っていく。
神なのだから、自分達を救ってくれ。
どれほどむなしい言葉か、シェートは身に染みてわかっていた。彼女は神であり、自分は魔であり、こうして彼女と言葉を交わせるのは、自分が契約を交わした存在であるからに過ぎず、その他の魔物を救う義理などない。
そもそも、たった一匹の配下すら、この危難から救い出す力を持たない女神に、何を言っても無駄だった。
『シェート……』
「もういい。話しかけるな」
『……すまぬ……』
気配が離れていくのを感じ、シェートは身震いをした。
本当は、話しかけて欲しかった。この悪夢のような状況に、何かが奇跡が生み出せるなら、それは彼女の力以外には無い。
そんなことが出来なくても、敵とよそよそしい仲間しかいない世界に、自分を案じてくれるものがいる事実を、抱きしめていたかった。
だが、この状況を作り出したのも、間違いなくサリアなのだ。
「う……く……う……うう」
地面に体を押し付け、コボルトはすすり泣くしかなかった。
金髪をかきむしり、サリアはきつく唇をかみ締めた。実際、シェートがここまで生きられたのは自分の能力強化のためだ。
しかし、そんなものがあったところで、少々死が先送りになっただけに過ぎない。武器も無く、首輪も鎖もコボルトの非力な手で壊せる代物ではない。せめて武器があれば強化を掛けて断ち切ることも出来たろうが、看視者達はそんな隙を見せなかった。
一体自分に何が出来る。彼を救うのは、益体も無い励ましではない。
「……行くか」
荒々しく扉を抜けると、サリアは神々の集う広間に入った。
こちらを見る視線はどれも冷たい。
コボルトを配下として使うという、愚かなことをした女神。今度はどんな面白い物を見せてくれるのか、それぞれの視線がそう言っている。
おそらく、この場にいるほとんどの神は、自分の言葉に耳など貸さない。
だが、自分の力ではもう、どうすることも出来ない。命を張って助けられるものなら、いくらでもそうしただろう。とはいえ、その賭けるべき物はすでに抵当に入れていた。
では、自分にはもう売れるものは無いのか?
「"斯界の彷徨者""万涯の瞥見者"エルム・オゥドよ」
ほぼ唯一、と言っていい、好奇と蔑視を向けない竜神の前に、サリアは跪く。
残っている神の立場を、売りつけられるものに売り払う。そのくらいしか出すものは残っていない。
「お願いが御座います」
「……聞けぬ」
小さな肩が震え、それでも跪いた姿勢をゆっくりと額づく形に変えていく。その姿を見て、周囲の神々から隠しようも無い失笑が漏れた。
「なんと……無様な」
「あのような大言を吐いておきながら、窮すれば竜神のお心にすがろうとは」
「廃神とは、かくも浅ましきものか……」
そんな神々の中、竜だけは悲しげに瞳を伏せるばかりだった。
「止めよ。そのような真似をしても、儂はなにもせぬ。いや、してやれぬのだ」
「……兄上、でしょうか」
「その通りだ。サリアーシェには一切、力を用立てることままかりならん、とな」
唇をかみ締め、それでもサリアは言葉を継いだ。
「此度のお願いは、私のためではありません。我配下の、コボルトのことでございます」
「コボルト、だと?」
「私の力及ばず、彼は今魔軍の虜囚となっております」
サリアの告白に、神々は隠しもしない爆笑をもらした。それでも、告白は止めない。
「彼の者の命を救い出すべく、お力を、ご助力をお願いしたく」
「それは結局、そなたの命を救うということではないか?」
「いいえ。この願い聞き届け下されば私の命など……いえ、わが存在を隷下にでもお組み入れくださいませ」
「何を言っておるのだ!? そなたにとって彼の者は単なる手ごま、それをわざわざ自分の存在を抵当に入れてまで救おうというのか!?」
さすがの竜神も、訳が分からないという顔のようだった。もちろん、自分のやっていることがどれほど支離滅裂なものかは、わかっているつもりだ。
しかし、事の発端が自分の愚かさであり、破れかぶれ同然の賭けでしかない以上、彼には何の咎も責も無い。
「どうか、お願いいたします」
「……まったく、貴様はどこまで愚かなのだ、我が妹よ」
神々の群れを割って現れた兄神は、耐えられないといった顔で、竜神との間に割って入った。
「愚かな選択の上に、更なる醜態を重ねるというのか」
「そのように言われても、何の申し開きも出来ませぬ。ですが、これは私の為した行いの、いわば後始末」
「そのような始末、するに及ばぬ。即刻遊戯を辞退し、場を乱した愚かさを謝罪せよ。さすれば、お前の命は助けてやろう」
高圧的に言い放った兄に、サリアの眦がきつくなる。
「そのような謝罪、する気はありません!」
「する気が無いだと!? 兄の顔に泥を塗り、今また竜神の慈悲にすがって、何をするのかと思えば塵芥の命をのばせという! そのようなあつかましい願いを、礼を失した行為を謝罪せぬというか! 神としての矜持はどこにやった!」
「神の、矜持?」
兄の言葉が、心の深奥に隠されたものを呼び覚ます。
真っ赤にさびた星の、荒涼とした光景。その向こう側に確かにあった、自らの楽園。
「そのようなもの! 我が世界の命が滅び去ったあの時、共に散じ果てました!」
「サ……サリア……っ」
その時、初めて兄の顔に快不快以外の感情が、わずかに通り過ぎた。
だが、そんなことはどうでもいい。女神は、溜まっていた言葉を、思いをぶちまける。
「自らの世界を守れず、廃神よ、神族の面汚しよと蔑まれたこの私だ! 今更己の命を、体裁を捨てることに、何のためらいがあろうや!? 神々よ! いと尊き世界の、責務無き傍観者たちよ! その目でしっかと見るがいい! 愚かに狂い、あなた方が塵芥と蔑む小さき命を拾おうとする、汚れた私の手と振る舞いを!」
荒々しい侮蔑に、神々の瞳が獰猛な輝きを宿す。それでもサリアは、今度こそ両手を突いて額を擦り付けた。
「なれど、我が無様なる狂い舞いを哀れと感じられますならば、この廃神に憐憫を垂れられんことを、伏して願い奉る。見苦しいというならこの命、直ちに取り給え。しかる後、我が存在の消失を以って、彼の者の命を、どうか」
場は静まり返っていた。
サリアの言葉に打たれたのではなく、完全にあきれ果てて。痛々しい者を見る視線が周囲から突き刺さる。
「全く、なんと見苦しいことか」
その言葉がこぼれたのは、兄の唇から。驚き顔を上げた先にあったのは、うかつな者を見て笑う、あからさまな侮蔑。
「大方、最も弱い存在でも、力を溜めれば何とかなると、愚かなことを考えたのだろう。そなたのみの考えではあるまい。誰に入れ知恵をされたのだ?」
「……それは」
「ああ、言わずとも良い。遊戯を司る女神は、全ての神に等しく訪うのだからな」
皮肉げな言葉に、それでも呼ばわれたイェスタは笑う。
あの時、自分の耳に闇を囁いた時と同じ笑顔で。
吹きすさぶ風の中、一人歩む。
心の中に一滴零れ落ちた慈悲の心をかみ締めつつ。竜神の言葉は利己的ではあるが、今の自分には破格だ。
すがってしまえばよい、そう囁く心がある。
だが、目の前の荒廃から、目を逸らすことは出来なかった。
「こちらにおられましたか」
その逍遥に、唐突に道連れは現れた。異形の杖を携えた女神。
「……審判の女神殿か。このような荒蕪地によくもおいでくださった。そなたらの差配により、見事な死の土地となった我が世界を、篤とご覧じ候えよ」
「ああ。そのような慰撫など、わが身はもとより望みはしておりませぬ故。此度は御身にも遊戯の先触れを言上仕るべく参上した次第」
「遊戯に参加せよ、と?」
「はい。神々の庭は、あらゆる方に門戸を開いております故」
胃の腑の空になった酩酊者のように、サリアは枯れた毒を吐いた。
「そして残ったわが身さえも引き毟っていかれるか。生憎と、そのような物狂いじみた博打を打つつもりは無い」
「しかし、死に絶えた地を流離うより、まだ何事かを為し得る術ではありましょう哉」
「そして、哀れな廃神を晒し者にし、決まり切った遊戯の結末に一花添えようという趣向であろう? そのような繰言、耳に入れる気も無いわ」
「繰言」
笑う女神。虚ろで、いかにも楽しそうな、楽しくてたまらないといった笑顔。
「彷徨せし方より、芳情を頂戴したのでありましょう哉?」
「在りて無く、無くして在りたる者。その力、下世話な詮索に奮うか」
「我が司りし"時"の業、故に御座いますれば。それより……宜しいので?」
囁く声。染み入ってくる、魂にまで。
「此度の遊戯、サリアーシェ様にも、縁無き地では御座りませぬが」
「……だから、どうしたというのだ」
「また、世界が一つ、消えましょう」
「そうと決まったわけではない」
言いながら、サリアは視線を逸らす。
あの世界には、それほどの価値は無い。霊的資源にしても格下の神々なら少しでも欲しい地ではあろうが、上位の存在であれば省みる必要はない程度にすぎない。
遊戯の盤面として割り切り、勇者達に強大な力を持たせ、他の神から世界を奪い取る場として使われることになる。
「それに、私が加わったところで、どうということも起こらぬであろう。凍った湖面に砂粒を投げ入れるようなものだ」
「漣すら立たぬ、と。ふふふ……そう思われるなら、そうでありましょう哉」
そうだ、何の意味も無いことだ。波紋すら立たずに、笑われるだけ。
「ただ、握り締めた砂は、未だ御身の魂に抱かれたまま、そう見えました由」
「何のことか、私には全く」
「復讐」
刺すような冷たさが、胸の内に染み入る。秘められた思いが、イェスタの言葉によって開かれた傷口からあふれ出す。
「この地を荒れ果てさせた者を、弑することを願っておられたのでは?」
「……何が言いたい」
その言葉には答えず、彼女はさらに言い募る。
「遊戯は、公平で御座います。どれほど弱く、もろいものでも加護を与え、力を蓄えさせさえすれば、高みにも届きうると」
「そんなものは建前であろう! 神器を与え、さまざまな加護を与え、始まりし時すでに優位が作られた遊戯に公平など無い!」
そこで初めて、審判の女神は笑顔を崩し、落胆したような風情になった。
「勝つべき者のみが勝つ、実につまらない座興。ご指摘の通りで御座いますれば」
「そして、そなたはその座を盛り上げるべく、この枯れた廃神を焚きつけようとする幇間というわけだ!」
「ですが、御身の中に宿りし瑕は、新たな地を得たとて、癒える事は在りますまい」
忘れていた、忘れようとした思い。
「こうして幾度も滅びた地に赴くは、怨を忘れぬためでは?」
「違う」
「例え情けに縋り、再び栄華を取り戻せたとて、御心に吹くのは疑念と怨嗟では?」
「違う!」
掻き毟られたかさぶたから、思いがあふれ出す。吹きすさぶ風が、死に絶えていったものたちの泣く声のように響く。
だが、それでもサリアはかぶりを振る。
「そうだとしても! そんなことで己を滅ぼすことなどできはしない! でなければ生きながらえてなどおらぬ! 私は、私は生きねばならないのだ!」
「世界の遺言」
言い当てられた願いに戦くサリアに、驚くほど厳しい言葉で、審判の女神は続けた。
「それに縛られ生きることも死ぬこともならぬ廃神よ。貴方はそこで見ているがいい」
不思議な色合いに染まった瞳、誰も永きに渡って見つめ続けることの出来ないと言われた神の瞳が、向けられた。
「ただ座して、また滅んでいく世界を」
あの時と同じ目が、こちらを射抜く。
しかし、その表情はほんの瞬きの間。誰にも悟られぬほどの素早さで消え去った。
「まぁ、それも所詮は遊戯の幕間に過ぎぬ。面白い見世物であったぞ、褒めて遣わす」
「在り難き幸せに御座います」
全く興味を感じさせない、醒めた顔で労をねぎらうと、兄神は打って変わったような、この上ない喜びを顔に浮かべた。
「……サリアよ、わが愛しの愚妹よ。そなたは何も知らぬようだな」
「なにが、でございますか?」
「そなたの配下がとらわれておるのは、百名足らずの魔物が徒党を組んだ砦、それに間違いなかろうな?」
目の前の獲物を嬲る光が、兄の目にはあった。その輝きの底にあるどろりとした、嗜虐の感情にはゴブリンの醜さがあった。
「…………まさか!」
「そのまさかよ!」
いかにも楽しげな哄笑を上げると、ゼーファレスは大きく両腕を振るった。
途端に、広場の上空が、巨大な水鏡に変わる。
そこに映し出されたのは、蒼い勇者の左腕が高々と差し上げられる場面だった。
「兄上っ!」
「さぁ! やるがいい我が勇者よ!」
腕輪に秘められた魔力が、真夜中の闇を焼き尽くす太陽の輝きを現出させる。
「砦に巣食う邪悪な魔物を皆殺しにせよ!」
神の布告が、劫火と共に降された。