11、恩讐の果てに
尋常ではない振動が、神座を震わせる。その源は、肉厚な何かが、扉に向けて叩きつけられたものだ。
「で、でも、ここは私の世界で、そんなことっ」
合議の間にある東西南北の扉は、あくまで便宜上の目印に過ぎない。扉そのものを叩いたところで、門衛のドライアドが迷惑する程度でしかないはずなのに。
「おーい、カニラよー、いつまで締め出しを食わせる気だー、開けろというのにー」
無遠慮に叩きつけられているのは、間違いなくあの巨体に備わった尻尾だろう。余りある竜神の強大な神威で時空を捻じ曲げ、扉に干渉しているのだ。おまけに、本来断絶した空間にあるはずのこの場所に、直接声まで飛ばしている。
「や、止めてください! こんな無体な真似、どういうつもりで!」
「そなたがいつまでも、しょうも無いニート生活を続けとるからだろうが。せっかく出て気安いように、童心に返って呼びかけてやったというのに。おかげで周囲の視線が痛くてかなわんわ」
どう考えても大喜びでやっていただろう、そう言いたいのをぐっと堪え、必死に扉の封じを強める。
「お、お願いですから、お引取りを! 私はもう、誰に会うつもりもありません!」
「そっちの都合など知るか。あんまり抵抗すると押し通ってしまうぞ?」
「なんと言われても、絶対にダメです!」
「フィーは良くて、儂はいかんのか?」
「お願いですから、もう私を、そっとしておいてください!」
扉の向こうで、つくづくとため息が吐き出される。どうやら諦めてくれたのか、そんなこちらの思いを、竜神はいともたやすく裏切った。
『r――――――――z――――――――m――――――s――r――w――――』
世界そのものを磨き上げるような音律が、神座の中に満ち渡る。その音に触れた途端、扉に掛けた神威の一切が、抵抗をやめて追い散らされてしまう。
「し、"神竜鳴唱"っ!? そんな、神威で他者の神座に押し入るなど、神々の約定に抵触する行為ですよ!」
『そんなもの、後でどうとでも言い訳が立つ。余った星でも、何らかの盟でも結べば済むことよ』
生木が裂けるような音を立てて結界が破られ、竜の巨躯が神座に押し入ってきた。
「一体、どういうつもりなのですか! こんなところまで来て!」
鳴唱を止めると、竜神は厳つい顔を不機嫌に歪めていた。
「それはこちらの台詞だ。うちの若いのやフィーからの着信を拒否しまくっておいて、どういうつもりだ。おまけにこっちが出向いてきてみれば、理由もいわずに門前払いか?」
「わ、私にも事情や都合というものがあります!」
「何度も言わせるな」
鼻から硫黄臭い蒸気を漏らすと、竜はその顔を意地悪く歪め、吐き捨てた。
「そなたのような小神の、下らん都合など、知ったことか」
「あ……あなたたちは……っ」
我慢の限界。
カニラは、湧き上がる白熱の怒りを爆発させた。
「あなたたちはいつだってそう! 力があるから! その力を嵩に着て、なんでも好き勝手に自分の都合を押し付ける! そうやって力ないものを踏みにじって、さぞ気持ちがいいことでしょうね!」
「な……なんだと?」
「そうやって、何でも好きにすればいい! 私の心も、私の思いも、塵芥のようにはき捨てればいいんだわ! さあ、次はなに!? 何でも好きなように、私から毟り取っていきなさい!」
まるで、指先に小さな虫でも噛み付いたかのような顔をして、竜神の顔がのけぞる。
彼らにしてみれば、自分なんて虫だ。それでも、これ以上良いようにされてたまるか。
「湿りとカビと硫黄臭い、老いぼれの下膨れた古長虫! 永久に呪われろ!」
「……なんか千年ぶりに聞いた気がするぞ、その手の罵倒。古長虫とか、今時ないわー、超ウケるんですけどー」
長い口吻を両手で押さえ、小ばかにしたようにぷすーっと息を漏らす。怒りが先に立ち、何を言ったらいいのか分からない。
そんなこちらを眺めていた竜は、満足したように頷いた。
「そのぐらいでよかろう。どうだ、溜まった物を吐き出して、少しは気が晴れたか?」
「え……?」
「"知見者"から言われたのであろう? シェートと合流すればケイタを殺す、とな」
そこでようやく、全てに気がついた。
こちらが鬱屈したままではまともな会話にならない。だからこそ、無礼な態度でこちらに怒りを吐き出させて、発奮させた。
「あ……そ、その……お、お心の内も量りかね、ご無礼を」
「そこで恐縮するな、めんどくさい。せっかく一芝居打ったのが台無しであろうが……さてと、フィーよ、さっきの会話は聞いておったな?」
『ああ。カニラちゃーんのところから、ばっちりな!』
「そこは忘れとけ。ま、こちらの予想通りではあったが、聞かせてもらおうか。儂らと別れてから、何があったのかをな」
問われるままに、カニラは全てを語った。圭太も自分の体験したことを、少しずつ言葉にしていく。村を奪われてから、誰に打ち明けることも出来なかった事実を。
『なんだよそれ! っざけんな! それがカミサマのやることか! ただの詐欺師じゃねーか!』
いとも簡単に、仔竜は一部始終を端的に罵倒してみせた。頷き、竜神も皮肉な形に長いマズルの端を歪める。
「あやつめ、サリアだけでなく、そなたらも引っ掛けておったか。今度から詐欺師の神でもやるように薦めておこう」
「サリアも……とは?」
「ああ、シェートが魔物であることを言い募って、あろうことか魔王や魔界と通じているのだと嫌疑を掛けたのよ」
冷えかけた怒りが、どっと胸の内から湧き上がる。拳を握り固め、声を押し殺して問いかけた。
「それで、サリアは?」
「きっぱり否定しておったよ。さすがに同じ容疑を二度も掛けられれば、追求を避けるのも上手くなると言ったところか」
「やめてください! あれは……あの一件は、全てゼーファレス様たちの企てです!」
瞠目する竜神や、水鏡の向こうで驚いた顔をする子供たちにも構わず、カニラは意を決して語り始めた。
「ゼーファレス様は、いいえ、彼の背後にいらっしゃった方々は、神々の遊戯を提唱し、その有用性を示すために、サリアの世界を、そこに住む魔族の存在を利用して、泥沼の戦場に変えたのです」
「そう抗弁したのはサリアだけであったな。何者かが星の結界に入り込み、"世界喰い"の一族を殺したと。魔族は神の仕業といい、神々は魔の者がサリアの星を穢したと言い合ったが、ついに首謀者が誰かは分からなかった」
「その手引きをしたのは、私です」
『カニラ……?』
言ってしまってから、自然と胸のつかえが取れていくような気がした。飲み込んだまま消えずに残っていた、悔悟が解けていく。
「サリアの星の守りは、そなたと共に作り上げたもの。ならば、それを崩す方法も知りうるということか」
『何で……そんなことしたんだよ』
呆然としたフィーの問いかけに、自嘲にまみれた答えを返す。
「魔族が狙う"世界喰い"を排除して、神と魔の争いを未然に防ぎ、サリアの世界を守るため。笑ってしまうぐらい、美しい御旗でしょう? それにまんまと騙されたの」
「儂らと顔を突き合わせるのを嫌がった理由は、知見者からの脅迫だけではなかったということか」
苦い笑みがこぼれるまま、頭を下げる。その場で話を聞いている全てのものに。
「圭太さん、本当にごめんなさい。私が全て悪いのよ。"知見者"に対して強く出られなかったのも、フィーさんや竜神様に協力を申し出なかったのも、私が自分の罪を認められなかったせい」
『カニラ……』
「そもそも、私があんなことをしなければ、サリアも傷つかなくてすんだのよ。悪いのは……全て私なの」
『あの……ちょっと、いいかな』
青い仔竜は、不思議なほどに落ち着いた瞳で、こちらを見上げた。
『あんたの騙されたのって、サリアを苦しめようとか、カミサマの陰謀に加わりたくてやったわけじゃないんだよな』
「少し考えれば分かりそうなものなのにね。盗人の甘い言葉を信じて、大切な人を助けるどころか、傷つける企みに力を貸してしまったの」
『えっと、それって……その、あんたが悪いって訳じゃないっていうか、その……善悪とかって、簡単に決められるもんじゃないわけで……えーっと、その……』
「ありがとう、そう言ってくれるだけで十分よ」
精一杯の同情を示してくれるフィーを、優しく制する。その気持ちは嬉しいが、自分に赦しは必要ない。
「本当は、このことを漏らせば命は無い、と言われていたんです。ですが、今は竜神様も同じ秘密を分かち合われましたね?」
「開き直った途端に儂を脅迫か? そういうところはサリアに良く似ておるわ。類は友を呼ぶ……というよりは、女のしたかさ、というやつか」
「いえ、同じ討たれるなら、討たれるべきものに、そう思っただけです」
こちらの告白を受けて重々しく頷くと、竜神は虚空に呼ばわった。
「おい、サリアよ。ちょっとカニラの神座まで来い。話があるそうだ」
首を垂れたまま、訥々(とつとつ)と語るカニラを、奇妙に冷えた心で見つめていた。
竜神は黙して語らず、水鏡の向こうでは緊張した面持ちの仔竜と少年が、ただ事態の成り行きを待っている。
それにしても、なんと頼りない神座だろうか。サリアはそんなことを感じていた。
小神の神威で作られたから、というわけではない。おそらく、自らの星に掛ける熱情を失いつつあるのだ。
己が友に成した所業を思うにつけ、自らの星を健やかにしようという心に歯止めが掛かり、その歯止めが星を荒れさせる。神の威光が薄れれば、信心は途絶え、一層神威は弱まっていく。
緩やかな自殺。口では遊戯の活躍で信仰を伸ばすとうそぶきながら、その全てが自らの絶望に気づかないふりをするための欺瞞なのだ。
「私の話は、これで終わりよ」
顔を上げると、カニラはさっぱりというには程遠い、悲しげな顔で笑った。
「こんな簡単なことを成すために、一体どれだけの時を費やしたのかしら。結局私は、我が身がかわいかっただけなんだわ」
告白を沈黙で受け止めると、カニラの笑顔は諦めの混じった物になった。
「あなたのためにと理由をつけ、ゼーファレス様と交誼を結ぶ、よすがが欲しかった。私は小さな神だからと、己の存在を失わないように縮こまった。その挙句、大神となったあなたにすがり付いて慈悲を請うた」
罪業の列挙。己の矮小化。自虐の大鉈を揮いながら、カニラは絶望の行き着く先を、こちらに求めていた。
「あなたの探していた、あなたの世界を穢した敵は、目の前にいるわ」
こみ上げる、思いの形を表す言葉を、サリアは探した。
「カニラ」
ああ、なんて。
「なんてお前は、卑怯なんだ」
その顔が絶望を含んだ笑いに落ちる前に、言葉を突きつける。
「今、この時になって、お前は出てきた。私の前に。もし己の罪業を償うというなら、なぜ私が怒りに震えるとき、悲嘆に暮れた時に来なかった」
「それは……」
「私を助けたいと言うなら、狡猾な神の教えを受ける前、まだ世界の無邪気さを信じられる時に、真意を隠して共に歩もうとしてくれなかった」
温い自虐を許さず、容赦なく言葉を叩きつける。
許すわけには行かなかった、彼女の心に残る甘えた心を。
「そして今、少しでも味方が欲しいとき、実利を求める卑しい気持ちが沸き起こっているこの時に、なぜ罪を名乗り出た!」
「あ……」
「お前は、最低の卑怯者だ! 自ら病み衰えた病葉、カニラ・ファラーダ!」
カニラは震えていた。
怯え、すくんでいた。
自虐の底にあった本当の気持ち、あるいは、本人さえ意識できなかった感情に。
「その上、私の手に掛かって消滅を望むのか? どこまでお前は、卑怯なんだ」
本当は、気がついていた。
あの結界が破られた理由など、知るまでも無かった。二人で丹精したあれを自分に気づかせずに抜けるには、カニラの助力をもってするしかない。
それを探るのが、怖くて仕方が無かった。
もし、カニラが裏切っていたとしたら、今度こそ世界から消えてしまう、そう思った。
「私は、お前を罰さない。手にも掛けない。お前の罪を、決して裁かない」
荒れ狂う感情が命ずるままに、言葉が放たれる。
「消えたいと願うなら、勝手にするがいい。だが忘れるな」
カニラと自分の過去の全て、恩讐の一切を、混濁させながら。
「自裁し、勝手にこの世界から消えたとき、お前の罪業は、時の流れの果てまでも、永久に刻み付けられるのだ! 裏切りの罪から逃れ去った、最低の卑怯者としてな!」
言葉が、完全に目の前の女神を打ち据えていた。弁解の一言もなく、青ざめ、凍りついていく。
そして、うなだれたカニラの向こう、水鏡に浮かんだ景色にサリアは喉を詰まらせた。
少年に支えられながら、仔竜が涙を流していた。
「すまない。身内の不始末を見せて、嫌な気持ちにさせた」
「なあ……ほんとに、悪いことしたら、ゆるされないんかなぁ」
「フィー?」
「わるいことしたら、ずっと、わるい、ままなのかなぁ……」
そこでようやく、サリアは自分のしたことの意味に気がついた。
常命なら死んで終わるが、神には自裁以外の終わりが無い。死ぬことも許さず、臓腑をえぐる後悔の果てに、終わりを見つけることも出来ない。
償いも、赦しも、罰さえ無い。
それこそが、真に償いたいと願うものへの、最大の業罰。
吐き出した言葉はもう戻せない。カニラはその場に縛り付けられ、仔竜と少年は、沈黙の重さに耐えるように立ちすくんでいた。
「そうだな」
黙って成り行きを見守っていた竜神が、おもむろに口を開いた。
「確かに、赦される事は無いさ。この世界は無情だ」
重々しく、その場にいる全ての者に事実を突きつけた彼は、その声音を柔らかいものに改める。
「とはいえ、赦される事は無くとも、赦す事だけは、誰にでもできる」
『赦す?』
「死んだものには無理ではあるがな。少なくとも、生きて、存続したものは、誰かの過ちを赦すことができる」
居住まいを正し、目を閉じて、静かに物語る竜。寂れかけた神域の、石畳に座るその姿は、神の竜の銘を得るにふさわしい、荘厳を放っていた。
「間違いやすく、過ちを犯してしまう身であるからこそ、他者の罪を責めず、赦そうとする。それこそが、我々に与えられた救いの形、なのだろうな」
「誰かの罪を赦す……」
「赦しは与えられるものであり、与えるものだ。望んで願っても得られず、与えたからと言って、見返りにされるものでもないがな」
きっと、本当の意味で、赦し赦されることはないのだろう。感情は売り物のようにやり取りは出来ない。口で赦すと言ったところで、心で納得しなければ、赦しは成立しない。
それでも。
「カニラ」
おかしな話だが、サリアは祈りたくなった。
「私はお前に、消えてほしくなかった」
何にではなく、何かに、祈りたかった。
「怒りも憎しみも、私の心にある。それでも、過ごした時間を、思い出を、葬り去るのは嫌だった。自裁を許さないと言ったのは、そんな自分勝手な思いからだ」
「サリア……」
そして、思い出す。
信義を取り交わすときは、至誠を持ってせよと教えられたことを。
「本当は、お前のことを疑っていた。あの結界を破りうるお前を。でも、真実を聞くことが、恐ろしかった。そして、罪を裁かないといって、お前を断じてしまった」
誰も誰かを責めることは出来ない。過ちは誰でも犯しうることだからだ。
そして、この世には卑劣な悪がある。過ちを知りながら利己に走り、己の身を安んじることだけを考える者が。
そんな世界で赦しなど、結局はまやかしごとなのかも知れない。
それでも、なお。
「私は、お前を赦したいと思う」
祈りを込めて、口にする。
「そして、私のしたことを、赦してほしい。もしお前が、認めてくれるなら」
強制も、哀願も、譲歩も無い。
かくのごとくあれかしと、願うほかない思い。
「本当に……あなたは勝手だわ」
カニラは、泣きながら笑っていた。
「そうだ。だから、受け取っても、受け取らなくてもいいんだ」
「ええ。分かっているわ。だから、私のお願いも聞いて」
立ち上がり、真正面からこちらを見つめると、カニラは晴れやかに笑った。
「私を、決して赦さないで。そして、あなたを赦させて」
「なんて、自分勝手な奴なんだ、お前は」
「お互い様よ」
サリアは、そっとカニラを抱きとめた。
友人を傷つけ、自らの意思を踏みにじられて、ただ耐えるばかりで過ごした年月。
その痛みの全てを、腕の中で震える魂から感じながら。