9、刻(とき)の美術館
神座とは、それぞれの神が住まう、特別な場所だ。
そこには神が持つ存在意義や、自身が好む性質が色濃く投影される。
山や森に始原を持つのであれば神座は山麗や森林となり、人との交流を取り持つ商売の神であれば、人々の行きかう市場が再現されることになる。
"知見者"のように、己の知性を示す白亜の大図書館を作り上げるものもあれば、竜神のように、竜の性質に従って洞窟を築き、汎世界のがらくた物を溜め込むものもいた。
信者にとっての聖地であり、神の根源を顕す異界。
その性質は"刻を揺蕩う者"、女神イェスタにおいてもまた、例外ではない。
彼女が己の神座に戻ってくると、入り口の前で一人の男が出迎えた。
「お帰りなさいませ、館長」
タキシードに白いワイシャツ、黒い蝶ネクタイに白手袋。白と黒でのみ色分けされた衣服を身に着けた、隙の無い紳士然とした男だ。
ただし、男には笑顔を浮かべるべき顔も、袖からのぞく手首も無かった。
透明の、実態を持たない、しかし存在する男。
彼の背後には、名も知れぬ建築家の手になる石造りの建物がある。イェスタはそこから少し下がった、石段の下から微笑み返した。
「ありがとう。館内の整理は終わっていて?」
「お言い付け通りに」
「そう」
そっけなく言い放ち、彼女は小さな碑の傍らを通り過ぎる。
磨かれた真鍮の銘板が取り付けられたモニュメントには、こう刻まれていた。
"刻の美術館"と。
「この度は、まことによろしゅうございましたな」
無貌の侍従を傍らに伴い、長い回廊をイェスタは歩く。
壁には大小様々な絵が掛けられ、天上は見事なアーチを描いていた。柱の装飾一本、壁紙一枚にも、細心の注意を払って構築された空間だ。
見るものが見れば、この建築様式の異質さに気がつくだろう。ゴシックと言うには華やか過ぎ、ロココと言うには柔らかさとは無縁の、突き放した冷たさががある。
「これほどまで、神々の遊戯が盛況になられたのは、いつ以来でしょうな」
「そうね」
女神の言葉は思いのほかそっけない。普段、神々の間を飛び回るときに見せる、愛想の良さも鳴りを潜めている。
しかし、その顔はまったき笑顔だった。
「時が流れ、命が流れ、天界にも、久しく訪れなかった騒乱の息吹がある」
そう言いながら彼女はうっとりと、絵画に目をやった。
真に迫る情景を描いた絵画、というには、あまりにそれは生々しすぎた。
長槍を構え、四方から襲い掛かる敵を必死に迎え撃とうとする人間たち。それを追い詰め、斬り付け、突き殺し、生命を踏みにじっていく敵たち。
「停滞は魂を腐らせ、倦怠は心を殺す」
その隣の絵画では、四角い鉄の箱のような巨大な戦車が、履帯で塹壕ごと人間たちを踏みにじっていく光景が描かれていた。
「力に恵まれ、信ずるものにあがめられ、無為に時を過ごした日々も、今は昔」
額縁という窓の向こうに、無数の生と死が群舞していた。
石によって打たれ、鉄によって斬られ、砲火が地を焼き、巨人を思わせる巨大な兵器が全てを蹂躙する。
匂い立つ鋼と血、漂う硝煙と末期の声。
ここにあるもの全てが、争乱の歴史を現していた。
そして、歩んで行く彼女の目の前で、戦争と死の回廊は巨大な広間へと繋がった。
ひたすらに巨大な、空にさえ届きそうな巨大なドーム。磨き上げられた床の石に、足を踏み入れた二人の姿が映りこむ。
先ほどまでの展示物の主役が絵画なら、ここでの主役は彫刻だった。
台座にすえつけられたものがある、手の届きそうな位置におかれたものがある。絵と同じく、ここに飾られた彫刻も、全てが奇妙に生々しかった。
「つい先ごろ、ようやく展示が終わったところです。何しろ、量が量ですからな」
見えない貌の男は、どこか誇らしげに言うと、恭しく一礼する。
「では、ごゆっくり」
男が虚空に消え、その場に残った主は、ゆっくりと場内を歩き始める。
入り口すぐそばに置かれた像には、こんなタイトルが付いていた。
「"最初の敗者――痴態の果てに――"……相変わらず、センスのないタイトルだこと」
恐怖と恥辱にまみれ、絶叫したまま凍りついたゼーファレスの姿を眺めやり、仔細に観察する。
「あなた様は毎度、敗退しては面白い表情をなさいますが、この度は……いつになく極上のお顔ですわね」
この迂闊者が存分に足を滑らせたことで、遊戯は俄然面白くなったのだ。
そういう意味では、感謝してもしきれないだろう。
今にも叫びだしそうな、いや、叫びを途中で凍りつかせた、無様な戦神の頬をそっと撫でると、そのまま奥へと進んでいく。
漆黒の像たちは、皆一様に驚愕し、悲嘆し、怒りを漲らせていた。青年、老人、少女、あるいは異形の神格たちは、全身で無念を表現し、理不尽を訴えている。
「ああ、ガルデキエ様。こんな惨めなお姿で……普段から、散り行くときは堂々と、威厳を以ってと仰られておりましたものを」
四つんばいになり、石化する我が身から逃れようと必死になった姿。その右手は、自分をこんな目に堕とした者へと突きつけられていいる。
「でも、ご安心ください。あなた様を貶めたものは、ほら」
黒き像が指を突きつけた先には、両の頭を抱えて、己の惨めな境涯を涙ながらに絶叫する、痩せたネズミの疫神が凍り付いていた。
イヴーカスの像は小高い場所に据えられ、背後に巨大な玉座が配されている。
周囲に置かれた百体の神像、その視線が中心のネズミに集約するよう調整されていた。
「"狂騒・簒奪の宴"……皆様も、存分に楽しまれたことでしょうね」
それぞれの神を眺めやりながら、イェスタは歩く。
いつもの遊戯なら、名誉ある敗北を演出したいとでも言いたそうな、取り澄ました顔ばかりが並んでいたはずだ。
それが今や、むき出しの感情を顕にし、生き生きとした姿を見せ付けたまま、身動き一つせず静止している。
敗北者の像が立ち並ぶ、忌まわしき展覧会。遊戯が開催されるたび、時の神の神座で、余神の知ることなく行われる特別展示。そのできばえに満足げに頷くと、イェスタは未だに何も飾られていない空間に歩み寄った。
「いずれはここに、いまだ健在な方々の像も、並ぶことになるのでしょうね」
待ち焦がれるように吐息を漏らし、瞳を潤ませて女神はつぶやく。
「少なくとも、かの二柱、いずれかが」
同時に、彼女の周囲の光景は霞のように朧になり、唐突に像を結んだ。
旧い調度品の並ぶ木造の執務室に、一人の青年が機械仕掛けの板切れと向かい合う。
『はい。問題ありません。レベルアップは着実に行われています』
「葉沼康晴、"知見者"フルカムトの勇者」
部屋の中を苦も無く歩き、彼が眺めている『タブレット』の内容を覗き見る。長い黒髪が彼の顔に触れるが、全く気づく様子は無い。
当然だ。時の神は誰にでも訪うが、それを見ることが出来る人間など、どこにもいないのだから。
『南部のリミリスはダンジョンの数も少なく、組織だった抵抗もほとんどありません。問題はカイタル北部の砦と、テメリエアの森林地帯です。完全に篭城、ゲリラ戦を行い、まともな戦果を上げにくい状況です』
『しゃにむに抵抗してくると思ったが、どうやらサリアーシェの情報が行き渡ったか。こちらのレベルアップを防ぐために、戦闘を避ける気だろう』
あまたの時に偏在する自分にとって、本来勇者のみに聞こえる言葉を聞き取ることは造作も無い。もちろん、それで何かをしようというつもりも無いが。
『今回の遠征が終了して後、お前もカイタルへ向かえ。必ず各都市に知らせ、お前がカイタルの首都、ガイ・ストラウムへ向かうと布告するのだ』
『わかりました』
青年は知見者の言葉に、淡々と応えを返す。
神の軍隊という、巨大なジャガーノートを動かすために造り上げられた、精巧極まりない歯車が回転するように。
『巨獣討伐隊の育成は?』
『現在、冒険者という形で、選抜したメンバーを、リミリスのダンジョン攻略に当てさせています。平均レベルは二十を超えました』
液晶画面には、どこか垢抜けない男女の画像が行過ぎる。特別に編成された部隊のリーダーに選ばれたという男を目に留めると、イェスタの周囲の光景が飛んだ。
今度は、湿気と石材に取り囲まれた、どこか暗がりの世界。
巨大な輝石を目の前に、男女が興奮した調子で話し合っている。
『……これで、四つ目の迷宮も撃破だな』
「ポロー。村を焼け出され、勇者の軍に身を投じた男」
身につけた鎧は軍の支給品ではなく、肉厚の鉄を組み合わせた板金鎧だ。その近くには胸当てや小手といった軽装で身を固めた女がいる。
『アンタ、レベルはどうなった?』
『さっきので二十三か。新しいスキルも取っときたいが、ポイントが足りそうも無いな』
その顔には自信が漲り、手にした剣を握る姿も堂に入っている。魔物の迷宮奥深くに入ったという事実にも、心を揺るがされた様子も無い。
『ポロー隊長、魔石の始末は終わったぜ。いつでも地上に戻れる』
『それにしても、このメンバーで戦うのも大分慣れてきたねぇ』
戦槌を手にした巨躯と魔法使いらしい中年の男が、遅れて話の輪に加わる。隊長と呼ばれた男は照れくさそうにしたが、すぐに表情を改める。
『よし、それじゃ帰るぞ。後のことは別働隊に任せる』
『いやあ、疲れた疲れたぁ、帰ったら早速一杯やりたいもんだ』
『ダメだよ。うちの隊長、レベル上げにご執心だからね。すぐ次の迷宮に向かうって言い出すよ』
『安心しろ、今日ぐらいは大目に見てやる。その代わり、明日から毎日、一つずつ迷宮を攻略していくからな!』
ポローの宣言に仲間たちが笑いながら悲鳴を上げる。自らの力を試し、それを証明することに喜びを感じる男は、仲間と共に笑顔を浮かべていた。
その目に輝くのは、未来への希望だ。妻と子を見殺しにした自責に、押しつぶされようとしていた姿は、もうどこにも無い。
「やはり、人間はすばらしい。特に、絶望を希望に変えて立ち上がるものは、極上の輝きを放つものですね」
祝福を与えるように、男にそっと口付けると、景色がまた揺らぐ。
今度は石壁に囲われた砦の中庭。
『引き手をもっとすばやくしろ! 打ち込んだ手と同時に動かせ!』
「ベルガンダ、魔王の寵愛する魔将。そして」
微動だにしない巨大な牛頭魔人に、必死に打ち込み続ける小さな犬の魔物。両手の剣を振るって立ち回る姿を、魔物たちが遠巻きに眺めている。
『おらおら! がんばれ犬っころ!』
『そこだ! あ……ったく、もっと早く回り込めよ!』
はやし立てる声は侮蔑混じりだが、どこか親しみさえ感じられた。もちろん、剣をふるって戦い続けている当人にはどうでもいいことだろうが。
「シェート、コボルトの青年」
魔物の名を口にした途端、時の女神は瞳を伏せ、興奮に身を震わせた。
その動きは、小さなつむじ風だった。ベルガンダという巨木の周囲に、埃を舞い上がらせながら動く疾風。
すり抜けざまに斬りつけ、弾かれたと同時に逆手の剣で一撃を加える。
『足を止めるな!』
『うぐぅっ!』
二連撃を打ち込んだところへ、魔将が手にした棒が小さな体を吹き飛ばす。
『連撃を使うときは手だけでやろうとするな! 受けられたらその勢いに逆らわず、すばやく引き手! 同時に体を反転させて二撃目に繋げろ!』
『そ……そんなの、ほんと、できるか?』
『最初に言ったろう、武術の基本は円だ。抜きつけた手の反対を引くと、両腕の軌道は円を描く。そして円を描いた剣は』
『振る力、強くなる……分かってる! でも、そんなすぐ、できない!』
文句を言いながら、コボルトは立ち上がる。
炎と血に穢された故郷の中、死の淵を覗きながらも、新生したあの時のように。
「ああ……」
おそらく、これまでの遊戯の中でも、最も光り輝く存在となった魔物を、時の女神は陶然とした笑みで見つめる。
「抗うものの姿は、美しい。貴方という美を見出せたことは、僥倖でした」
時の神と言っても、全てを見通せるわけではない。ただ全ての空間にあまねく偏在し、過去を今のように扱うことが出来るだけだ。
未来だけは、命あるものが紡ぎあげるほかは無い。
神々の遊戯という、最も美しい錦繍がどのように織り上がるかは、そこに差し込まれた糸の質で決まる。シェートという存在は、いまや欠かせない縦糸の一本となった。
景色が再び揺らぎ、今度は深い森の中に飛ぶ。
『悪いなグート、うらむならおっさんを恨んでくれよ?』
「フィアクゥル、その身に元勇者の魂宿せし、数奇なる仔竜」
旅立ちの準備を終えた青い仔竜は、鞍袋の中に大振りなミスリルの塊を入れつつ、忠良な道連れとなった狼の頭を撫でていた。
『ところで、どうしてミスリルなんて持ってかせるんだよ?』
『今後、何かと使うこともあるだろうからな。そもそも、これを逃せばシェートの鏃を補充するのは難しかろう?』
『そうだな。もうここには戻ってこないだろうし』
フィアクゥルの述懐に、傍らに立っていたコボルトの子供が、ぎゅっと抱きついた。
『フィー、もう会えない?』
『……ごめんな』
小さな青い手が、コボルトの体をそっと抱きとめる。
彼女の同族を殺したのと、同じ手で。
過去は永遠に消えない。ほんの半歩、イェスタが時を遡れば、そこには嬉々として魔物を蹂躙する勇者、逸見浩二の姿があるのだ。
「竜神様は、本当に面白い方ですわね。よもやこんな方法で、遊戯に介入なさるとは」
文字通り"生まれたばかりの仔竜"に、そのままでは使い物にならない道具を与え、遊戯に放り込む。だが、その身に宿る魂には遊戯を理解し、道具を使いこなす知性と判断力が備わっていた。
遊戯の規則と制限に抵触しない、反則すれすれの裏技だ。
シェートが遊戯を形作る縦糸なら、フィアクゥルは複雑な彩りを添える横糸だろう。
魔物を殺した過去と、世界の本質を知った現在、その矛盾を抱え込んだまま、彼はシェートを救うという未来へ向かおうとしている。
『それで、これからどうするんだ? シェートって、魔将のところで修行中なんだろ?』
『そうだな。おそらくほんの少しの間、"知見者"殿は魔将を攻める気は起こすまい。軍隊を増強し、モラニア大陸のインフラ整備に追われようさ』
『インフラ……って?』
『知見者の軍は、ローマ軍式に兵士を育成しているだろうからな。ならば連中が最初にすることは一つ』
慧眼の竜神は、掌を指すように知見者の動きを解説してみせた。
『道を作ることだ。奴としては水道まで作りたかったろうが、そこまでは行くまい』
『道に水道って……なんで兵士がそんなこと』
『偉大なる帝国が成立しえたのは、兵士たちに教育を施して、測量や土木などの工兵任務に耐える知識と技術を身につけさせたゆえだ。そなたも知ったろう。舗装された東京の道路と、泥と小石とわだちの跡がついた田舎道の違いをな』
一瞬、イェスタの視界が揺らぎ、遠く離れたザネジの港から伸びる、舗装された道が見えた。兵士たちは地面を均し、基礎となる木材や石を使い、着々と整地を続けていく。
『道が整えば、兵士も軍需物資も、すばやく戦地に送ることが出来る。同時に、国内の経済と情報のやり取りも活発になるだろう。遠国の新鮮な食料、山奥の上質な木材が頻繁に取引され、それを商う者たちによって、各地の情報が国中に広まるようになるのだ』
『……ホント、知見者ってすげーのな。そんなでかいことをやらせてんのかよ』
『戦争が文明を発展させる、と言われる所以だな。どうだ、勉強になったろう?』
師匠が弟子に教えるように、神なる竜と、竜ならぬ人とが語り合っていく。
『で、俺たちはどうするんだ? このままじゃ、時間が経てば経つほど、"知見者"に有利になるじゃんか』
『確かにな。だが、今は動くときではない。そのうち、あちらから動き出すから、それに応じられるようにしておくことだ』
『動くって、道の整備が終わったらか? 何年掛かるんだよ、そんなの』
『おそらく、あと一月ほどで主だった道は出来るだろう。そして必ず、"知見者"殿は盛大に、勇者自身が動くことを宣伝させる』
竜神の一言に触発されたように、イェスタの視界が遥か空の彼方、望遠の界面から下界を見下ろす。
歪んだ三角形のようなモラニア大陸に、白い網目のような道が伸び始めていた。勇者の軍が、この大陸に入ってから不断の努力によって生み出した街道が、互いに繋がりあっていく。
『そうなる前に、そなたには一つやってもらいたいことがあるのだ』
『シェートと合流するんだろ? 分かってるって』
『いや、最初に合流するのはケイタ殿だ』
『……そこでどうして、圭太の名前が出るんだよ?』
竜神の言葉に仔竜が首をかしげ、イェスタはかすかに眉根を寄せた。
『曲がりなりにも彼は神の勇者であり、今のサリアよりは遥かに自由に、加護を与えることが出来る。それに、"知見者"殿の裏を掻くには、彼らの協力が必要なのだ』
『別にいいけど、あいつの居場所とか分かってんの?』
『見当はつくが、正確な位置まではわからぬ。カニラは神座に閉じこもって出てこぬようだしな。携帯も相変わらずか?』
『絶賛着信拒否中。これ、圭太に直じゃなくカミクラ経由なんだよな? なんか友達の家電に掛けて、そいつの親に切られてる気分だよ』
仔竜の嘆息に、イェスタの顔は不機嫌な無表情へと変わった。
森の景色が自らの神座へと転じると、女神は広い空間の端に目をやる。華やかで賑々しいパンテオンの壁際に、何も乗っていない台座がぽつんと置かれていた。
近づき、そこに貼られた銘板を指でたどる。
「"引き際を誤りし道化"」
すでにその役割を終え、精彩を欠いたもつれ糸。いよいよもって、美しさを極め始めた戦いには必要の無い、しおれかけた野花だ。
「あなた様の場所は、用意出来ております。お早く、お出でくださいますよう」
呟く女神の口元には、侮蔑を含んだ笑みが浮かんでいた。