8、魔王の軍
玉座が持つ冷厳というものは、座ってみないと分からないものだ。
切り立つような背もたれは、座るものの背筋を無理に引き伸ばし、豪奢な威容は座するものの格を拡大してみせる。
その結果、そこにあるものは王としての振る舞いを要求され、臣下は座する自らの王に対して礼を強要される。
機能美と権力の見事な融合。実に嫌ったらしい限りだ。
「いっそ、玉座を揺り椅子にでもしてしまうか」
目の前にしつらえられた会議用の机に向けて、魔王は吐き出した。
配下の魔将は誰一人座っていない。天井に吊り下げられたシャンデリアにも、一切の灯りは点っていなかった。
限りなく闇に近い空間で、彼は頬杖を突いた。
「どう思う"参謀"」
「"魔王様"のお望みであれば」
褪めた竜眼のそっけなさに、苦い笑いが漏れる。美貌の参謀は、玉座の影に隠れるようにして、ただ侍り続けていた。
「そういえば、ここは暗いな。天上のシャンデリアも邪魔だ。全てぶち壊して、吹き抜けにするのはどうだろうな?」
「"不死魔将"様のお顔が、更に不機嫌になられるでしょうね」
「それはいい。改築計画を推し進めよ」
わずかに口元をほころばせ、肘掛に置かれた杯から一口、飲み物をすする。
現在、戦況報告や作戦会議は必ず、日中に行うようにしていた。
夜間は魔物の活動時間。ゆえに日中に作戦会議を行い、夜間に行動を起こさせるのが一番である、それが表向きの理由だ。
「そろそろ、お戯れは控えくださいますよう。気位の高いお方です。"魔王様"に対する忠誠で縛り付けるのも限界でしょう」
「安心しろ。所詮"貴族"は慣例の生き物。魔界の実力者殿は、魔界一の保守派であらせられるがゆえに」
吸血鬼の一族が自らを貴族と宣するのは、多大な自尊心もさることながら、既得権益にしがみ付きたいという妄執の表れでもある。
強力な力をバックに逃れられない慣例を敷き、長い間魔界を席巻してきた彼らは、ほとんどの種族から疎まれ、嫌われていた。
不死魔将コクトゥスへの嫌がらせ、それが天空に居城を浮かべた理由の一つだ。
「大体、俺を殺して"下克上"をしたいと言ってくるモノに、なぜ気を使わねばならん。どうせなら派手に暴発して、楽しませて欲しいものだ」
「ゲコクジョウ、ですか?」
耳慣れない言葉に眉をひそめた参謀に、魔王はあえて何も答えなかった。
その代わり、その困惑を面白がるように、異国の詩歌を吟じる。
「"人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか"」
「……それは?」
「遥かな時、遥かな地、ここではない何処かで、魔王たらんとした男。その人間が好んだという戯れ詩よ」
男が称した号が、自分の言う"魔王"と違うということは理解している。
だが、こうして高みに立った今、覇道の余技にと学んだ生涯と軌跡が、不思議と思い出されるようになっていた。
「【悪魔の一族】【邪神の一族】【吸血貴族】魔界の三巨頭……その身に宿る力を権勢に変え、無限に近い永きを生きるもの。その彼らに比べれば、俺もお前も夢幻に過ぎん」
「その点では人間と変わらないと?」
「さて……どうだろうな」
魔界のヒエラルキーは絶対に近い。
単なる腕力から魔力、特殊な力に至るまで、その全てに優劣がつけられる。その強固な上下関係を打ち壊すのは不可能も同然だ。
人間は体制に依存する生き物であり、力関係は案外あっさりと逆転する。その代わり、力は弱く、何を変えるにしても多大な労力と失敗のリスクを伴う。
諦めがつくほどの絶望的な階層と、崩せそうで崩せないもどかしさ、どちらがましか。
『魔王様、魔将殿から連絡が入っております』
物憂い思考の迷路に、明かりが差す。
頬杖を解くと、魔王は会議の席を消し、巨大な鏡を呼び出した。
その面に、牛の顔をした魔将が片膝を突いて礼を取る姿が映し出される。
『定時の連絡が遅れましたことを、お詫び申し上げます、我が主よ』
「かまわん。そちらはどうだ? 例のコボルトは?」
『はい。首尾よくこちらの手の内に引き入れました……ただ、いささか厄介な奴ではありますが』
ベルガンダは恐縮し、困ったように頷いてみせる。
「厄介か。この前、お前の姿を借りて見た時も、大分気骨のある顔をしていたようだが」
『ええ。恐ろしいことに、俺も、魔王様も、討ち果たすと息巻いておりまして。その姿勢はあいも変わらずです』
「そうか……俺をな」
自分を殺すと言うコボルト。
本来絶対に超えられない境界を、自らの意志で踏み越えようとする存在。
下克上。
遥かな高みにあるものを、組み伏せられたものが打ち倒し、天下を取る行為。
「早く、そやつと話をしてみたいものだ。名は……確かシェートだったか」
『ここへ連れて参りましょうか?』
「鏡越しの対話などつまらぬ。その息遣いを、俺に対する匂い立つような殺気を、肌身で感じてこそだ」
口にした途端、己の体に高揚感が漲っていた。
めまいの様な快感が、首筋を伝い走る。
「そうとも……そやつがどんな顔で俺と相対し、何を語り、いかに俺を殺そうとするのか……ああ……思うだけでも……身が焼き焦がれそうだ……」
口元が引き歪む。
その存在を知ったときから、この思いは日毎に募っていた。
「シェート……早くまみえたい……俺の、最愛の魔物よ……」
『……モラニアへはいつお出でに?』
弱りきった顔で問いかける魔将に、魔王は口元を緩めた。
「なんだ、己への寵愛がコボルトに移ったのが、それほど口惜しいか? それならば、閨でたっぷりと、睦言を聞かせてやろう」
『お戯れを』
ますます渋い顔で唸る牛に、容赦なく哄笑を浴びせてやる。こいつももう少し、冗談が分かるようになれば面白いだろうに。
『"知見者"の軍、思う以上に精強のゆえ、いつまでもシェートを保護し続けられぬかと』
「エファレアへの魔獣投下は始まったばかりだ。そう簡単にそちらへは戻れぬ、戦って生き残れ、そして無傷でシェートを俺に献上しろ」
『……お戯れを』
牛頭に笑みが戻っていた。その表情の中にある色を見て、魔王は軽く眉根を上げた。
「負け戦の果てに、何か掴んだようだな」
『申し訳ございませんが、こんな牛頭では、魔王様の深謀遠慮など、とても推し量りがたく。何か、などという不確かな言葉ではなく、掌を示すようにお教えいただかなくては』
「言うようになったな」
以前のベルガンダには見られない余裕。その源がなんであれ、目の前の配下は着実に、学び続けているのだと感じた。
「大敗を喫し、命を拾う。そして、己を偽ることなく事実を飲み干し、立ち上がれるものこそ、真の将と呼ぶ。お前の中に、その証を見た」
『もったいなきお言葉。ですが、まだまだ。それを勝利に繋げてこそでございますれば』
へりくだってはいるが、声に畏れはない。腕を頼みに不慣れな軍を率いた魔人も、自分の在るべき姿を理解したということだろう。
「良かろう。こちらの雑事は早々に切り上げよう。シェートの面倒を見ながら戦場を見晴るかすのも楽ではあるまい。ゾノから己の椅子を尻で磨く仕事を召し上げる、いい折でもあるしな」
『恐れながら、それはしばしお待ちいただけないでしょうか』
顔を上げたミノタウロスの視線には、不思議な熱があった。
何かを期待するような、あるいは、こちらを試すような。
『シェートの件、今しばらく、俺に預けていただけないかと』
「なぜだ?」
『奴に、仕事を任せようかと思っているのです』
「神の勇者となったコボルトに、魔将のお前がか?」
『はい。うまく行けば、面白いことになるでしょう』
魔王の口元に、今日一番の笑みが刻まれる。
感情の波はやがて顔全体に広がり、そして大きく背をのけぞらせさせた。
「ふは、ふははははははははははははははははははは! そうか! お前はそんなことを考えていたのか! これは、これは面白い!」
『無論、魔王様が今すぐにと仰られるなら』
「構わん! 好きなように使え! 生かして献上するのは命令だが、俺がそこにたどり着くまでの間、思うがままにするがいい!」
哄笑は、後から溢れて止まらなくなった。
こちらの様子に恐縮したベルガンダを下がらせ、鏡が取り除けられた後も、海嘯のように笑いがこみ上げ続ける。
「なぁ、我が参謀よ」
ようやく息を整え、玉座から立ち上がった魔王は、石の面のような女に囁いた。
「これはすばらしいことだ、そうは思わないか?」
「なにがでしょうか」
「決まっているだろう。出来すぎた、この配役がだ!」
胸の空くような、そういう気持ちを生まれて始めて味わったように、青年は暗い広間を興奮した足取りで歩き回る。
「最弱の魔物に無銘の魔将、そして、魔界の最下層民より選ばれた、魔王たるこの俺!」
たった一人の観客を相手に即興劇を見せ付けるように、両手を広げ、魔王は声を張り上げた。
「その俺たちが、いまやこの遊戯の全てを握っている! その事実と愉悦!」
魔王の快哉を合図に、天上がシャンデリアもろとも、微塵に砕け散った。
中天に掛かった太陽が、その細い体に輝きを投げかける。
闇の中に生きる魔の王は、蒼穹より降るそれを、栄光のように身に纏った。
「勝つぞ、この戦い」
「御意」
参謀はただ、短くいらえを返す。
青年の顔に浮かぶ笑みは、日の光によって一層の陰影を与えられ、狂気を横溢させていた。
分厚い木製の扉がノックされたとき、シェートは石の床に座り込んで、弓の具合を確かめていたところだった。
円筒形に四方を囲った石壁と、鉄格子の嵌った天窓。室内装飾と呼べるものは、頑丈だが飾り気のない寝台に、燭台を置くための小さなテーブルだけ。後は、自分の装備や持ち物がぽつぽつと置かれている。
「誰だ」
「コモスだ。入っても良かろうか」
「好きにしろ」
数名の供回りを部屋の外に待たせると、ローブ姿のホブゴブリンは、部屋の中を見回した。
「待たせてすまなかったな。我が主の方もようやく庶務が一段落ついた」
「檻の次、牢屋。いい加減、閉じ込められる、飽きた」
「無礼は承知だが、こちらにも都合というものがあるのだ。早速だが、一緒に来てもらおうか」
勇者の軍による追討から逃れ、シェートは再び囚われていた。
一応、武器や装備の類はそのまま残されたが、見張りつきの牢獄に押し込められ、この数日外の景色を見ていない。
元々は人間たちが建築した砦を改装したもので、自分がいる場所は本来、貴族や身分の高い騎士を収容するための場所だったらしい。
「俺、どこ行く?」
「執務室だ。そこで我が主がお待ちになっておられる。すまんが、その山刀以外はこの部屋に置いていってもらうぞ」
それだけ言うと、こちらが一緒に来ることを疑いもせず、副官は部屋を出て行く。
皮鎧と小剣を身につけたゴブリンたちが、こちらを脅すような視線で睨み、仕方なくシェートも腰に山刀を差して部屋を出た。
ドアの向こうには、壁の曲線に従うように階段が螺旋を描きながら降っていき、こちらの前と後ろを挟むように、ゴブリンの兵士が付き従う。
「食事の方はどうだった?」
「まあまあ。一応食えた」
「さすがに王侯貴族の料理などは期待されても困るが、お前は客分だからな。それを聞いて安心した」
お世辞にも愛想がいいとは言えないが、落ち着いた声音で話すコモスの振る舞いは、他の魔物と雰囲気を異にしていた。
ホブゴブリンは総じて知性が高く、人魔の統括役をすることが多い。特に、あの乱戦の中を潜り抜け、生きて帰ってきたということから見ても、ベルガンダの知恵袋というだけではなさそうだった。
「外に出る前に一つ言っておくが、お前はこの砦の中でも異質な存在だ」
塔の出口の前に立つと、コモスは厳しい視線をシェートに向けた。
「我が主を生きて連れ帰った功績は知れ渡っているが、リンドルでの敵対行動を見知っているものも多い」
「俺、殺したい思ってる奴、いるか」
「そうでなくとも、コボルトを見くびり、見下すものも少なくない」
コモスの指摘に、知らずのうちに腰の山刀に手が伸びる。前後をふさいでいたゴブリンの緊張が、匂い立つほどに高まった。
「枷をつけず、寸鉄を帯びることを許したのは、お前を客分と示すためだ。とはいえ、それを誤解し、いらぬ手出しをしようとするものもあるだろう」
「死ぬの嫌だ。俺、お前ら、仲間思ってない」
「……だろうな」
こちらの敵意に、重く苦々しい息を吐くと、コモスは扉を開けた。
「私からの命令はこうだ。今後、私か我が主の御召がなければ、決して塔の部屋から出るな。そうでなければお前を守りきれんからな」
「嫌だ、言ったら?」
「全力を以ってお前を殺す」
背中越しに語るホブゴブリンの声は、淡々としていた。
「魔王様も、我が主も、お前を珍奇な逸品として考えている。だが、私にしてみれば、お前は主を殺さんとする猛毒だ。少しでも叛意を見せたり、面倒を起こすなら、それを口実につぶさせてもらう」
「魔将、魔王、俺殺すな、言ってる。それ、逆らうか?」
「主の不明を諌めるのも供の役目だ。そのためなら、この命を賭しても惜しくはない」
唐突に向けられた異質な殺意に、シェートは戸惑った。
主の命に逆らっても、主のためにこちらを殺すという矛盾した意志に。
「……あくまで、こちらの意志に従わないならということだ。そう固くなる必要はない」
そっけなく否定が吐き出されると、嘘のように重圧感は消えた。
コモスは振り返りもせずに外へと歩き出す。
「おら、とっとと進め」
小突かれたことすら遠いものに感じながら、シェートはようやく、日の光のあたる場所へと歩き出した。
自分が捕らえられていた塔は城砦の南側にあり、真正面に石造りの居館が建てられていた。四方にそそり立つ胸壁も案外しっかりしていて、いくつかの弩や投石器の類が設置されている。
そんな軍事施設の中に、緑で切り取られた空間があった。
「……畑?」
シェートの口から零れ出た疑問に、副官は歩調を緩めてこちらに顔を向けた。
「本来、城と言うものは長期の篭城に備え、田畑の類を整えておくものだ。この砦は前線基地のひとつに過ぎんが、別段驚くに当たらんだろう」
「いや、その……」
南東の壁近くに広く作られた畑には、葉野菜や稗などが植えられている。その間で数名のコボルトが、ちまちまと草取りをしているのが見えた。
「ああ……お前ら、コボルト働かすか」
「そうだ。だが、無駄な虐待はしてはいない。お前たちは大切な労働力だからな」
首輪を掛けられ、足かせで自由を奪われてはいたが、監督のゴブリンが数匹いるだけで鞭が振るわれている様子はない。
『あの魔将め……』
それまで黙していたサリアが、苦々しげに感想を漏らす。
『自分たちは畑を耕さない、などとよくもほざいたものだ。全ての生産をコボルトに任せていれば、自分たちがやったことにならないとでも言うつもりか』
『これでは略奪を禁じる命令も、それほど効果は見込めそうもないな。武断派かと思えば中々どうして、やりおるわ』
女神とは裏腹に、竜神は上機嫌な様子で言葉を続けた。
『シェートよ、よく見ておけよ? その城址の中にある設備や倉庫の大きさが、収容できる兵力を決めるのだ。この砦ならおそらく五百名程度、と言ったところだろう』
魔物たちに覚られないよう、人差し指で軽く耳を掻いて"聞いている"の合図を送る。居館を回り込みながら進むシェートに、解説が注がれた。
『この砦には、そなたの入っていた他に三つの塔がある。物見と、食料をや武器を貯蔵するためのものだ。居館は三階建てで、山の中腹に建てられているところから見て、地下にも若干の収納部があるはず。おそらくワインが貯蔵されているだろう』
「どうして、そんなことわかる?」
『城とはそういうものだからさ。若いころ、いくつもの砦を割って、中身をおいしくいただいた経験者の言葉だ。信じてよいぞ』
まるで胡桃の食べ方でも教えるような口ぶりに、サリアが失笑を漏らす。
やがて、シェートを護送する一行が居館の入り口に立つと、周囲に魔物たちが群がり始めた。
「副長! そいつが例の奴ですかい?」
「そうだが、お前たちには関係のないことだ。お前たちの隊は武具の整備を言いつけてあったはずだが?」
こちらの道をふさぐように立ちはだかったゴブリンの一団は、シェートを舐めるように見回した。
「こんな犬畜生が、魔王様の客分か、こりゃいいや」
「いい加減下がれ。今からこいつを我が主に引き合わせねばならん」
「聞きやしたぜ。こいつ、女神とつるんで勇者をやってるそうじゃないですか」
剣呑な口ぶりの魔物に、付き従っていた連中が手にした武器を、がちゃがちゃと鳴らし始める。
「女神といや、俺たちとは敵同士。その上こいつ、魔王様もうちの親分も殺すと、いきがってるらしいじゃねぇか」
「だからどうした。そんなもの、我が主と魔王様は歯牙にもかけていない」
「分かってねぇなぁ、アンタ。俺たちが言いてぇのは、そういうことじゃねぇんだよ」
いつの間にか、ギラギラとした視線が、自分たちを取り囲んでいた。
すでに剣は鞘を払われ、鞭やどす黒いしみのこびりついた棍棒を手にした者達が、シェートを威圧する。
「こういう、舐めた態度を取ってるのを、野放しにはできねぇってことだ」
「私闘と虐待は禁止しているはずだ」
「……おう、テメェ、いい加減にしろよ?」
ゴブリンの怒りが、すっとずれた。
「前から気に食わなかったんだが、一体テメェ、どういうつもりだよ。いちいちうるさく俺たちのやり方に口出ししてきやがって」
「お前らはベルガンダ様を魔将と認めて、その配下についたはずだ。命令に従うのは」
「俺が従ったのは大将で、テメェじゃねえっってんだよ!」
派閥争い、という言葉が脳裏によぎった。
コモスの存在を気に食わないと思う集団が、同じぐらい気に食わないコボルトに因縁をつけることで、悶着を起こそうとしている。
『シェート、ここは隙を見て、逃げるほかあるまい』
「分かった。敵、少ないとこ見つけて――」
「全く。私も舐められたものだ」
ホブゴブリンにしては、少々小柄な体躯のコモスは、そっと肩をすくめると、いきり立っていたゴブリンの胸に、軽く手を当てた。
「智謀を用いるものを、小ざかしく非力なものと侮るのは勝手だが」
「な、なにしやが」
めぎり。
そうとしか形容できない音が、響き渡った。
「お……お、おごおおおおおおおおっ!」
「そんな視点しか持てないようでは、いつまでもお前たちは"愚かで野蛮な魔物"でしかないぞ」
コモスの指が、柔らかい果物でも握りつぶすようにゴブリンの右胸を圧搾していく。
「おっ、おっ、おご、ぼええええええっ!」
「お前たちもよく見て、よく理解しろ。我が魔将麾下に」
大した力を込めた風でもないにもかかわらず、ゴブリンの胸は肋骨ごとへし折られた。
「知勇を備えないものは必要ない」
「ひ、ひいいいいいいいいっ!」
あっという間に魔物たちが散り散りに逃げ去り、コモスは絶息したゴブリンのマントで手を拭いながら、不快をあらわにした。
「こんな下らん示威行為を、新人が入るたびにやらねばならんとは。気が重い限りだ」
「だが、たまにはそうした魔物らしい蛮勇を、揮ってみるのも悪くはあるまい」
いつの間にか、ベルガンダが背後に立って、にやにやと笑顔浮かべていた。
「悪ふざけも大概にしてください。見ておられたのなら仲裁をしていただかないと」
「だが、あそこでお前が力を見せなければ、後々大きな禍根になったろう。我が腹心の腕っ節の強さを見せることに意義があったわけだ」
軽口を叩く魔物の主従に、シェートは背筋の寒気を感じずにはいられなかった。
騎士鎧を素手で砕くベルガンダもそうだが、てっきり魔法使いか何かと思っていたコモスの武力は、全く想定外だ。
「どうだ、驚いただろう?」
そんなこちらを見透かすように、ミノタウロスは子供のような笑顔で、こちらを揶揄してきた。
「その様子では、いざとなればこのコモスを人質に、砦の外へ出よう、などと考えていたようだな」
「できれば、もう少し油断しておいて欲しかったのですがね。おかげで、シェートに対する私の利点が消えてしまいましたよ」
「お、お前ら……みんな、みんな嘘つき!」
畑のコボルトのこと、コモスの隠された実力のこと、立て続けに起こった予想外に、思わず声を荒げてしまう。それでも、ミノタウロスは上機嫌で、とりなすようにこちらの肩をそっと叩いた。
「嘘つきか、確かにな。だが、これは駆け引きと言うんだ。己の実力を隠して油断させ、相手の実力を見極めて弱点を突く。お前もそうやってきたのではないか?」
「それは……」
「シェートの場合は、それを意識せずにできたということでしょう。コボルトという存在自体が、敵対するものにとっての欺きになるわけですから」
そんなことを話しながら、二人は和やかに居館に入っていく。
完全に毒気を抜かれた形で、シェートもその後について行くしかない。
『シェートよ。どうやらそなたも、考えを改める時期に来ているようだな?』
「……なにが」
『魔物は蛮夷である思い込みをだ』
耳に痛い一言。そのまま黙殺しようとしたが、話好きの竜はちくちくとこちらを刺すのを止めようとはしなかった。
『そなたも一方ならぬ恨みはあろう。だが、目の前の二人を見てどう思う? 策を弄し、深慮を巡らせるものが、魔物の中にもあるということだ』
「でも、さっき、コモス逆らわれてた。結局、魔物、力ある奴、強い、変わらない」
『あれはあえてそうさせたのだ。口では暴力を嫌がっていたが、単に最もいいタイミングを狙っていたに過ぎん。自分の実力を不満を持つモノに見せ付けるために』
自分に不満を持つもの、という言葉に、コボルトはピクリと耳を動かした。
「それ、俺入るか?」
『あやつがなぜ、塔を出るときにあんな剣呑な話をしてみせたと思う。そなたの行動を縛り付ける、ちょうど良い折だったからだ』
確かに自分はコモスの命令に不満を覚えていた。
そして、全力を以って殺すと言われた時、自然とこう考えていた。コモスの力は自分には及ばないのだと。
『命を賭して主を諌めるとは言ったが、そなたを殺すのに苦労するとは、一言もなかったであろうが。つまり』
「俺殺す、むつかしくない。その後、自分殺される、覚悟する、そういう意味か」
「難しくないとは思ってはおらんよ」
気がつくと、シェートは飾り気のない木の扉の前に立っていた。主のために扉を開きながら、コモスは薄い笑みで言葉を継ぐ。
「あの言葉にそれ以上の含意はない。敵を殺すというのは、そういうことだ」
「お前、神の言葉、聞こえるか?」
「そちらの独り言を聞いただけだ。だが、前後の流れを考えれば、何を言ってるのかは想像がつく」
「コモスに隠し事は無駄だぞ? シェートよ」
身をかがめて戸口を通り抜けるミノタウロスは、衣服の上からでも分かる背筋の盛り上がり越しに笑った。
「鷹の目、狐の奸智、ネズミの小心、犬の忠誠、そして熊の手を持つ、俺の智謀の源だ」
通された部屋は、思いのほか広かった。おそらく食堂か何かに使っているのだろう、壁に備え付けられた暖炉や、繕いの当たったタピスリから、以前の持ち主のものをそのまま使っているのがうかがえた。
「よし、全員集まっているな」
ローブを着けた術士風のゴブリンに、皮鎧を身につけたホブゴブリンが数名、奥の壁際には、巨体を無理矢理折り曲げて座るオーガが一名いる。
「それが、例のチビか。ガイデを殺したっていう」
むっつりと、オーガが吐き出す。赤褐色の肌は筋肉によって張り詰め、熊か何かの毛皮を腰につけた姿は、いかにも野卑といった感じだ。
だが、胸元に何かの獣の頭骨を連ねた飾りをつけ、腕や顔の周りに、複雑な紋様の刺青を施している。
「コボルトのシェートだ。知っての通り、女神の加護を受けて、勇者をやっている」
その場にいる全ての魔物たちが、こちらをじろじろと眺めてくる。外の連中とは違い、即座に侮蔑をしてくるようなことはなかったが、それでも懐疑的なのには変わりない。
「未だに信じられねえな。そもそも、なんでコボルトなんぞを使う気になったんだ?」
席に座っていたホブゴブリンの一匹が、手元でナイフを玩ぶ。シェートは自然と腰を落とし、射線を避けるための障害物を、視界の端で探した。
「なるほど。ただの臆病者じゃねぇってわけかい」
相手の黄色い瞳が、面白い獲物を見つけたとばかりに輝く。
「よせよせ。下手に刺激して逃げ出されたりしたら、俺が魔王様に殺されてしまう」
それ以上の異議を封じるようにベルガンダが間に割ってはいると、魔物たちはさりげなくシェートから意識を外した。
「では、軍議を始めましょう。今は早急に周知するべき問題があります」
コモスの声に、全員の意識が長机に広げた地図へと視線が集まる。
「報告があったとおり、勇者の軍はリンドルでの再編を終え、行動を開始した模様です」
木の皮を使った布の上に、この付近の詳細な地形が描かれ、コモスの指がいくつかの駒をその上においていく。
「勇者は部隊を三つに分け、リミリス、テメリエア、カイタルにそれぞれ派兵を行っているようです」
「ほとんどは歩兵で、騎兵は合わせて千人前後だそうだぜ。大将の大暴れが効いたみてえだな」
魔物たちが口笛を吹き、テーブルを叩いて誉めそやす中、牛頭の魔将は荒い鼻息を吐き出した。
「浮かれるな、馬鹿野郎ども。あの時シェートの助けがなければ、俺はこんがり丸焼きになって、勇者の宴会に饗されていたところだ」
「そいつぁいけねえ! 親分の丸焼きじゃ筋っぽくて、とても食えそうもねえや!」
「出来れば、鍋一杯の豚の脂肪と一緒に煮て欲しいところだぜ」
「しかし、未だに信じられんな。どうやったら人間どもは、そんなにたくさんの魔法使いを集められるんだ?」
ナイフを玩んでいた魔物の言葉に、場の空気がにわかに緊張を帯びる。実際、目の前で見たシェート自身も、とても現実のものとは思えなかったくらいだ。
「それはな……おいシェート、解説を頼む」
「へ!? お、俺!?」
ベルガンダの大きな手が、シェートをテーブルの近くに押しやる。自然と、魔物たちの目がこちらに集中した。
「そういや、そいつも勇者だったな」
「おい、きちんと間違えないで説明できるか? ワンちゃんよ」
「さっきから尻尾が股の間に入ってるぜ?」
あからさまに馬鹿にした視線。それを浴びた途端、それまで縮こまり気味だった背が、すっと伸びた。
胸に沸き起こる静かな怒りと共に、垂らしていた尻尾を軽く振りたてる。
「俺、話す構わない。でも、こいつら、聞く気ない。そんな奴、話すだけ無駄」
「なんだと?」
「おいお前、魔王様のお気に入りだかなんだかしらねぇが」
「やめろ。今は黙って、話を聞いてやれ」
あらかじめ、魔物たちに漏らす内容に関しては、サリアと竜神とで相談してあった。
自分たちの情報は極力伏せ、"知見者"の軍に関する正確な情報を伝える。
そういえば、これもベルガンダが言っていた駆け引きの一つだろう。わずかに口元を緩めると、シェートは情報を開示し始めた。
「勇者の軍、やってること、普通の勇者同じ。魔物殺す、経験値貯まる、それ使って加護買う。お前たち、それ知ってるか?」
「馬鹿にすんな。こちとら親分について、雑魚勇者どもを追い散らしてたんだぞ?」
「そうか。じゃあ話、簡単。勇者の軍、みんな勇者と同じ力。ただの人間、加護貰って、勇者なる」
「ちょっと待てよ。その加護ってのは誰でも授けられるのか?」
フィーと群れが遭遇した惨状で、それは立証済みだ。さらに、ベルガンダの軍を叩き潰した勇者の陣容を見て、竜神は更に恐ろしい結論を導き出していた。
「昨日、村人だった男、次の日勇者なる。そういう加護だ。しかも、何でもなれる。剣使う奴、魔法使う奴、傷治す奴、なんでも」
「な……なんだそりゃ!? どういうインチキだ!」
「俺も正直驚いたぞ。魔法使いが百人以上並んで魔法を繰り出す様など、見るとは思わなかったからな」
ベルガンダが説明を締めくくると、室内は沈黙に包まれた。その目にふざけた調子はない。それぞれがもたらされた情報を吟味し、何かを導き出そうとしていた。
「おいコモス。確か勇者の軍は三つに分かれたって言ってたな」
ナイフを玩ぶのをやめたホブゴブリンが、最初に口を開いた。
「はい。兵力を均等に分けたと伝えられています」
「犬ころ、連中の"れべるあっぷ"ってのは、どこまで強くなるもんなんだ」
「……限界ある、らしい。でも、軍隊、人多い。そいつらみんな強くする、たくさん……経験値、いる」
たくさんの経験値、という言葉に魔物たちが瞠目し、唸りを上げる。
「レベルアップという仕組みの面倒なところは、育成期間というものをほとんど必要とせず、精強な兵士を生み出せる点にあります。おそらく、勇者の軍は各地の迷宮や、我々の集落を攻略するのと同時に、兵員を増強、補充する気でしょう」
「加えてあの戦法だ。これまでの人間たちのものとはまるで違う。強固な生きた砦が、弩と一緒に迫ってくるようなものだからな」
「うかつに手を出しゃこっちに被害が出て、連中を強くするだけってか、畜生っ」
自分たちの置かれている状況が浸透したのを見て、ベルガンダは頷いた。
「お前たちは引き続き、配下に自重するよう命令をしてくれ。こちらの兵力の低下が、そのまま連中を強化することに繋がる。戦わないことが、現状において最良なんだ」
「クソッタレ。いい加減、うちの連中も限界だ。食料もそうだが、血の気の多いのをいつまで抑えておけるか」
「その憂さは教練で晴らしてやれ。なんなら俺が直々に出向いて、鍛え直してやってもいいぞ?」
ベルガンダの提案に、魔物たちは苦笑と揶揄で返す。抗戦ではなく厭戦を選択したというにもかかわらず、それぞれの表情に不満の匂いはない。
侍従のコボルトたちに酒を持ってこさせると、めいめいが一杯やりながら、雑談に興じ始める。犬顔の魔物はこちらに驚きの眼差しを向けたが、すぐに頭と尻尾を垂れ、酒樽を置き、酒肴を整えて逃げるように出て行ってしまった。
『どうやら、当てが外れたようだな』
『……そうですね』
シェートの耳に降って来る神々の声は、いくらか苦味を伴っていた。
『そなたの提案した一月の軍事行動の停止、連中にとっては旨みしかなかったようだな。これでベルガンダは、シェートとそなたの協力を取り付けられることとなる』
『血気に逸るものの一人でもいるかと考えたのですが、思う以上に指示と教育が行き届いているようです……失策でした』
「俺、これからどうする?」
『しばらくは行動を共にするほかないだろう。隙を見て距離をおくなりするほか無いか』
そんなことを話し合っている間に、部屋の中の雰囲気は変わっていた。
辺りにきつい酒の匂いが漂い、酔いの回った魔物の声が大きくなっている。
こちらを伺う視線が、次第に強くなる。自分という異物に、連中がいつ、何を言い出すか分からない不安に、胃の痛みが強まっていく気がした。
『いかんな。シェートよ、コモスに言ってこの座を』
「おい犬ころ!」
再びナイフを手にしたホブゴブリンが、鋭く声を発した。
ふつ、という音共に頬の毛がわずかに切り飛ばされた。やや遅れて、自分の首が急激な回避行動に鈍い痛みを訴え、背後の壁に重い塊が突き立つ音が響く。
「おお、良くよけたじゃねえか」
「お、お前! 俺、殺す気か!?」
「一声掛けてやったろ? 殺る気なら抜く手すら見せずにやってたさ」
「ゼビネ」
わずかに怒気をはらんだ声が魔将の喉から漏れる。だが、ゼビネと呼ばれたホブゴブリンは、皮肉げに口元を歪めただけだった。
「知勇を備えないものは、うちの軍にはいらない、だろ? 魔王様の客だか、女神の勇者だか知らんが、ここにいる以上は、そいつの力も見てやらにゃならん」
「そうですね。その意見は妥当かと思います」
コモスの言葉に、その場にいた全ての魔物、主であるベルガンダさえも驚きの声を上げる。その全てを涼やかに無視して、副官はシェートを見た。
「コモス、分かっているだろうが、そやつは……」
「清濁併せ呑むのは将器の資質ですが、その一滴を、身になる薬か内腑を荒らす毒かを見極めるのが王佐を成す者の勤めですので」
副官の迫力に打たれたように、牛頭の巨体がわずかに硬直する。その威圧がそのまま、シェートへと怒涛のように放射された。
「つまりは、そういうことだ。少々我らの試しに付き合ってもらうぞ、シェートよ」
「な、なんでだ!? なんでそうなる! お前、言うことむつかしい! 分からない!」
「では、簡単に言おう。お前の態度が気に食わず、実力も良く分からない。ゆえに、この場でお前の立場を明らかにし、その実力を見極めさせろというのだ」
『単刀直入、か。文字通りのな』
竜神の言葉は、茶化しているようであり、事態を正確に言い表してもいた。
魔王軍に参画するか否か、いずれは突きつけられるであろう選択。
それが今、目の前にある。
「嫌だ、言ったら?」
「殺す」
思わずベルガンダに視線が流れる。
だが、牛頭は驚きどころか同情の顔さえせず、黙って成り行きを見守っている。
「サ……」
一瞬、女神の名前を口にしようとして、それを飲み込んだ。
この場で決断を任されているのは自分だ。相談などすれば侮られることになる。
何より、こんな事態になったとき、全ての決断はシェートの意志を優先すると言われていたはずだ。
どうする?
わずかな逡巡の後。
「――分かった」
決意を振り絞り、コボルトは顔を上げた。
「俺、お前ら協力する」
「それは我が軍の傘下に入り、その命令を受けるということか」
「違う。協力するだけ。納得行かないこと、絶対やらない」
「そんな口約束では納得できんな。そもそもお前は女神の勇者だ。我らの敵だぞ」
まるで熊にでものしかかられた様な重圧が、コモスからあふれ出す。
肉体ではなく精神の力を使う戦い、弱気になれば言いなりにされるだけだ。
その思いが声に力を込めさせた。
「なら、俺殺せ、今すぐ」
「……なんだと?」
「俺殺す、敵勇者の力、分からなくなる。魔王の命令、逆らう。お前殺される。丸損だ」
こちらの指摘にコモスは眉根を寄せ、それから頷いた。
「仕方あるまい……。抵抗された上での誅殺ならいざ知らず、譲歩を退けての殺しでは申し開きも出来ん。協力、という形でよかろう」
「俺を差し置いて勝手に決めおって……まあ、協力の細目については、お前に任せよう。その代わり」
それまで彫像のようだったベルガンダの体が、急に活力を持って動き始める。その目は獰猛に輝き、握り締められた拳が、ぐっとシェートの鼻面に近づけられた。
「こいつの実力を試すのは俺だ。どいつもこいつも、異存はなかろうな?」
太陽が中天に掛かり、中庭に設けられた練兵場の乾いた地面を白く輝かせる。腰布に長大な棒を手にしたベルガンダは、悠々とその中央にたたずんでいた。
「これは殺し合いではなく、手合わせだ。加減はしてやるから存分に打ちかかって来い」
上機嫌、といった感じの魔将の声を背に受けて、シェートは絶望的な気分で、壁際の棚に並んだ武器を眺めていた。
槍に長剣、棍棒、小剣などの武器に、盾や兜、鎧などが転がっているが、そのどれもが自分にしっくり来ない。
「……どうする、サリア?」
『こんなとき、兄上か"闘神"どのであれば、適切な助言が出来るのであろうが、戦略は学んでも武芸までは……』
久しぶりの弱気な発言に、苦笑いが浮かんだ。考えてみれば、今日までずっと接近戦を避け続けてきた。この旅の始め、錆び喰いを相手にして以来だろう。
『仕方ない。シェート、そこの槍を取れ。少しでも魔将から距離を取って』
『小剣を選ぶのだ。出来れば二本』
それまで黙っていた竜神の声に、槍を選びかけていた手が止まる。
「どうしてだ?」
『儂に考えがある。細かい説明は後でしてやるから、言うことを聞け』
「でも剣、短い。当てる前、俺殴られる」
『当たらなければどうということはない。むしろ、奴にとって、その武器を使われるほうが厄介だろうよ』
木で出来た小剣はどれも重い。おそらく実際の剣と同じ重さにするために、心材を金属にしてあるのだろう。
『片手で持ち上げたとき、軽く力が要る程度の重さの物を選ぶのだ。重すぎれば扱いにくく、軽すぎては打撃力が生まれんからな』
「お前、剣、使い方、知ってるか?」
『かじる程度さ。趣味レベルで調べたに過ぎんが、無いよりましだろう』
どうにか指示に合った剣を二本選び出すと、そのままベルガンダの前に歩き出す。
「なんだありゃ、二刀だと?」
「両手に持ってでたらめに振り回せば、当たるとでも思ってのかよ」
「おいおいワンころよ! 手からすっぽ抜けないように気をつけな!」
周囲で人垣を作った魔物たちが口々にはやし立てる中、目の前の魔将は厳しい目でシェートを見下ろした。
「速さでかき回すのはいい。だが二刀など、そう簡単に使いこなせるものではないぞ」
「お前、俺試す役。心配、必要ない」
「生意気なことを」
ミノタウロスは左膝を前に右足を下げ、腰を軽く落として棒の先をこちらの眉間に合わせてきた。
『シェート、ここからしばらく儂の言う通りに動け。良いな?』
「ああ」
『では距離を三歩半外せ。そこではなにもせずに必殺の一撃を喰らうぞ』
軽く後ろに下がると、ベルガンダの笑みが一層深くなる。おそらく、こちらが敵に値する行動を取ったためだろう。
「なんか、あいつ、余計怖くなったぞ」
『気にするな。さて、これからすることだが、重さに任せて両腕を脇に垂らせ。切っ先が地面を向くようにしてな』
言われたとおりにすると、牛はあからさまな笑顔で歯を剥き出しにする。いつの間にか周囲の罵声が止んでいた。
「お、おい、ほんと、これ、いいのか!?」
『うろたえるな。ここからは目の勝負、一瞬たりとも奴の動きから気をそらすなよ』
棒の先が、持ち手の微細な手の動きに、ぴくりとうごめく。
じりじりと全身を焼く感覚に、喉が乾いていく。
「では、小手調べといこうか」
楽しそうな牛の声が、喉から漏れた。
途端に、棒の先が視界一杯に広がり、世界が激しく揺れた。
「ぐぅっ!?」
痛みと痺れで視界が歪む。
じくっと、額から熱いものがこぼれだし、眉間を伝い落ちていく。
「う……あ……っ」
「どうした。棒立ちのままで、打ちのめされるのを待つつもりか?」
棒の先が再び巨大に広がり、今度は必死に首を振ってそれを避ける。焼け火箸をあてられたような感覚。右頬の毛と皮が焦げた異臭を放った。
『恐ろしく早いな。二度目は多少加減されたようだが』
「な、なんだ、あれっ……あんなの、どうやって」
『うろたえるなと言ったろう。まずは相手の右手、そなたから見れば左手方向へ動け』
固まっていた両足をなんとか動かし、そろりと一歩盗む。
一歩、また一歩と足を動かそうとした瞬間。
「うわあっ!」
鼻面を掠めた棒に進路がふさがれた。いつの間にかベルガンダの姿勢はさっきまでと同じ、自分を真正面から捕らえる形になっている。
『竜神殿! このままでは』
『しばらく黙っておれ。シェート、硬くなりすぎるな。動きが鈍っておるぞ』
「だ……だって、あいつ……」
『後ろへ飛べ』
竜神の言葉は容赦が無い。棒の先が、その先端にこびりついた血を見せびらかすようにひくひくと動く。
「で、でも」
『軽くでよい、合図するから後ろへ飛べ』
目を細め、牛頭が息を詰めてこちらを睨んだ。
その手の得物が、幻のように消え、
『飛べ!』
牛の両腕が棒を突き出し、先端がまっしぐらに襲い掛かってくる。その光景が下がるシェートの視界の中でひどくゆっくり動くように見えた。
着地の衝撃を後ろ足が感じ、限界まで伸びた棒が、獲物を喰らいそこなって引き戻されていく。
『左前方に走れ!』
言葉の弓弦に弾かれ、シェートの体が矢のように疾駆する。右の視界に映ったベルガンダが、棒の真正面に自分を捕らえようと体を旋回させていく。
『的を絞らせるな! 左回りで引き手を遅らせろ!』
背筋、首筋、耳の先を棒が掠める。その追いすがる一撃から逃げ走り、シェートの体が歪んだ円を描いて魔将の懐に入り込む。
「させるかぁっ!」
棒が横なぎに振るわれ、身を沈めてかわしたシェートの両耳を掠めて過ぎる。鍛えられた魔人の腹筋が、くっきりと見えるほどの位置に体が近づいた。
『右腕を叩きつけろっ!』
考えるよりも体が動いた。
手槍を投げるように腕が振るわれ、剣が唸りを上げて魔将の体を切り裂く。
「甘いっ!」
はずの軌道で、垂直に突き立った棒が、その勢いを押しとどめた。
みしりと剣が軋み、肩に激痛が走る。
「うぐうっ!」
『まだだ! 右に体を振って、左腕をわき腹へ掬い上げろ!』
振りかぶった腕に信じられないぐらいの強い力が宿り、木剣がミノタウロスのわき腹へ襲い掛かる。
鈍い音と共に、その一撃はたくましい右腕の筋肉にぶち当たって防がれていた。
「なるほど……少しは、やるようだな」
木剣を払い落とし、ベルガンダは落ち着いた調子で語りだした。急に肩の痛みが心をかき乱し、恐怖に身が竦んでいく。
「動きはぎこちなく、どう見ても付け焼刃。だが、この場で助言を受けて、即応できるだけの柔軟性は持ち合わせているか」
「う……あ……」
「いいだろう。合格だ!」
ベルガンダが叫び、左腕が振り上げられる。
シェートが覚えていられたのは、そこまでだった。
気がつくと、そこは狭い部屋の中だった。
鈍い痛みはあるものの、体の調子は悪くない。ベッドから身を起こすと、サリアの声が気遣いを含んで降って来る。
『気分はどうだ?』
「悪いところ、ない。でも……さっきのあれ、なんだ?」
竜神の指示通りに動いたはいいが、魔将には傷一つつけられなかった。むしろ、だらしなくやられてしまったことで、今後の待遇がどうなるかも分からない。
「俺、言うとおりした、あいつ勝てる、違うか?」
『馬鹿者、そんなわけがあるか。そもそも、儂は言うとおりに動けとは言ったが、そのようにすれば勝てるとは一言も言っておらん』
「じゃあ、なんで!?」
『そなたが、この遊戯に勝ち抜くために必要だからだ』
きっぱりと言い切る竜神に対して、サリアは黙ったまま何も言わない。おそらく自分が伸びている間に説明を聞いたのだろう。
『そなた自身も分かっていると思うが、これまでの戦いは常に智謀と罠で勝ちを拾ってきた。自分の有利になるよう事を運び、実力差を外的な要因で埋めてな。だが、いつでもそんな戦いが出来るわけではない』
「俺……剣、槍、使って戦う、苦手。でも、そうしなきゃいけない時、くるか」
『無論、そうならないに越したことは無い。だが、接近戦が出来ないのと、接近戦をしないのとでは話が違ってくる。そのためにも、今回のような戦いに慣れる必要があるのだ』
シェートは両手を見つめた。
昼間の戦いでは、無我夢中で言われたとおりに動いただけだった。とはいえ、竜神の助言がなければ、何も出来ないまま打ち据えられていただろう。
「教えてくれ。どうして、俺、剣持たせた?」
『そなたは体が小さく、どんな長柄の武器を持っても、ほとんどの敵に対して距離の有利を作ることが出来ん。それならば、相手の間合い深くに飛び込み、かく乱する方がよいというわけだ』
「二つ、持つ意味は?」
『手数の確保と、遠心力による打撃力増加が大きな狙いだ。両手に武器を持てば、単純に攻撃出来る回数が増える。遠心力については……さっき、ベルガンダに打ち込んだときの手ごたえを覚えているか?』
剣を振ったときの手ごたえを、もう一度思い返してみた。地面すれすれに切っ先を落としたまま走りこみ、叩きつけるようにして打ち込んだ一撃。
「力、強く入った……あれ、その"えんしん"とかって奴か?」
『蔓や布を使って石を飛ばしたことはないか? あれと同じことだ』
「石打と同じ、振り回す、か」
軽く手を振って、さっきの動きを再現する。イメージしていた剣の動きとはまるで違う使い方だ。
『そなたは足を止めて戦うタイプではない。垂らした剣をすれ違い様、叩きつけるように斬り付けつつ、相手の脇をすばやく駆け抜ける。両腕に剣を持つようにすれば、左右のどちらを抜けるときでも攻撃ができるわけだ』
「口で言う、簡単。実際やる、むつかしい」
『分かっている。だからこそ、この状況に意味があるのだ。魔将の庇護下にあり、格闘の腕前を磨くための相手がいる現状がな』
竜神の解説を聞きながら、シェートはベルガンダの顔を思い出していた。
こちらに拳を振り下ろしながら、それでも嬉しそうな笑みを浮かべた牛頭を。
「これで、ほんと、あいつ勝てるか?」
『そなた次第だが……十中八九無理であろうよ。ベルガンダの動きは、何年にも渡って練り上げてきた武術家のものだ』
「そうか……」
『だが、あやつの動きや癖を盗んでおけば、倒す時に有利になる。無駄になることは決してないだろう』
ベルガンダを倒す、こうしてみるとひどく無謀な目標のように思えた。
正面から戦いを挑んでも歯が立たず、計略を仕掛けようにもコモスの目があるうちは、それもままならない。
『そう気を落とすな。今日のこの一手が明日の勝利に繋がるのだ』
「うん……」
とはいえ、どれほど重ねれば、勝利に手が届くのか。うんざりするような先を思うシェートに、とりなすようなサリアの報告が届いた。
『そうだ。先ほどフィーから、無事に群れの仲間と合流できたと連絡があったぞ』
「ほんとか!?」
久しぶりに聞いた明るい話題に、ほっと息をつく。エレファス山に落ち着いたコボルトたちは、そのまま南部の山奥に移動するらしい。
『勇者軍の動きも伝え、人里の少ない土地も教えておいた。おそらく、無事に逃げ延びるだろう』
『フィーの方も、遠からず合流する手はずだ。そういうわけだから、そなたは自分のやれることをしっかりやるがいい』
「分かった」
ベッドから立ち上がると、軽く肩を回して調子を確かめる。治癒の力のおかげで、疲れも傷の痛みもすっかり引いていた。
「俺、動き方、覚える。もっと慣れる」
『無理せず今日は休め。根をつめても覚えられるものではない』
「でも……」
「なるほど、神の力というのは侮れんものだな」
太い男の声が会話に割り込んだ。
戸口を潜り抜けて、ミノタウロスの巨体が部屋に入ってくる。その背には小さい空間のためか、窮屈そうに身をかがめて、手にした籠を差し出した。
「強めに殴ったはずなのだが、もうまともに動き回れるとは」
「お前……力入れすぎ、手加減する、嘘か?」
「すまんすまん! 何しろコボルトとの手合わせなど初めてだからな。次からはもう少し優しくやることにしよう」
顔からはすっかり険が取れ、瞳には穏やかさと気遣いだけが浮かんでいる。
受け取った籠の中には、中から鳥の腿を焼いたものやパン、果物などが詰まっていた。
その一つ一つに、どこか懐かしいものを感じながら、シェートは黙々と食い物を詰め込み始めた。
「昼間の動き、中々良かったぞ。あれも女神の加護の一つか」
「違う。口うるさい奴、戦い方、教える言った。その通りしただけ」
『口うるさいって……なんか儂の扱い、どんどんひどくなってない?』
「神の知恵を背にして戦う魔物か……いよいよもって面白い」
腰に下げた皮袋から酒をあおり、にっと牛頭が笑う。明け透けで、馴れ馴れしくて、それでも不思議と嫌味を感じない顔だ。
「まあ、よく食って力をつけておけ。明日から、俺が直々に面倒を見てやるからな」
「……なに?」
「お前のあの動き、実戦で使うにはまだまだだろう。だが、俺が稽古をつけてやれば、少しは見れるようになるはずだ」
「お前……何考えてる?」
食事の手を止めて、シェートはベルガンダをまっすぐに見つめる。
穏やかに凪いだ、透明ともいえる瞳が、こちらを真正面から見つめ返していた。
「俺に動き、教える。お前、不利なる、違うか?」
「多少はな。とはいえ、そんなことはどうでもいいのだ」
「なんでだ? お前、俺、魔王会わせる。だから、色々親切する、油断させるか?」
「うーん……まぁ、コモス辺りはそんなことを考えているだろうが、実のところ、俺はそういう謀が苦手でな」
飲め、というように皮袋が突き出される。なんとなく断りきれず、中身の酒をわずかに舌先に乗せた。
「う……っ、なんだ、これ、ビリビリするっ」
「ぶどう酒を蒸留したものだそうだ。中央大陸から"知見者"の軍が持ち込んだものだが、これがことのほか美味くてな、酒樽だけは傷つけないよう命じてあるのさ」
まるで火がそのまま液体になったような、熱く焼けるそれを、ベルガンダは喉を鳴らしてあおった。
「まぁ、なんだ。お前の存在も、この火酒のようなものよ。敵対するものが造ったが、その美味さは敬服に値する」
「飲みすぎて死ぬ、そういうこと、考えないか?」
「かもしれん。だが、美味いものを目の前にして、それが敵の作ったものだからと、味わわないのもまた愚かではないか?」
いつの間にか胡坐をかいて座っていた魔将は、もう一度酒を口にし、それから皮袋を差し出してきた。
「お前も気にせず飲めばいいのだ。俺はお前を干し、お前は俺を干す。その先に、どちらかが酔いつぶれたら、その時はその時だ」
「狩人、深酒しない。山入る時、飲みすぎた奴、置いてかれる」
「お堅い奴め。それでも祝いの席くらい、羽目は外すだろう?」
酔っているのか、ベルガンダの顔は緩んでいた。皮袋は、こちらを試すように、目の前でじっと待っている。
両手で受け取ると、シェートは中身をぐっと喉に流し込んだ。
「んぐっ! ぐっ、げほっ、げへっ!」
「あわてるな。急に飲むと喉を焼くぞ?」
「やっ、やっぱり俺っ、これ嫌いだっ! ヒリヒリするっ!」
「ふはは、そうか、口に合わなかったか、すまんな」
全くすまなさそうに見えない笑いで、ベルガンダは再び酒をあおる。
その姿を眺めているうちに、体に重い眠気がまとわりついていた。
慣れない環境に疲れたか、火酒の匂いで軽く酔ったのか。
あるいは、あまりに気安いこの魔物を、それほど危険と感じなくなってしまったのか。
眠り込んでしまったシェートには、結局分からずじまいだった。