7、Survivor's Guilt
執務卓に腰を落ち着けると、"知見者"は黙したまま虚空を見つめた。
だが、その沈黙は刻々と熱を放ち、苛立ちを雄弁に物語り続ける。言葉も無く燃え盛る業火のように。
結果としては、望むものを手に入れたのは確かだ。サリアーシェの加護は大きくそぎ落とされ、神の力で道理を捻じ曲げる真似も難しくなった。
しかし、その過程は最悪の一言だ。
本来であればこちらの糾弾に女神が窮し、竜神に泣き付くという筋書きだった。
竜神のとりなしで女神の存続はなるものの、星の加護を毟り取り、神々の信用と女神の反抗心を叩き潰して絶対勝利に近づける、はずだった。
終わってみれば女神は自らの意思で加護を封じ、それを対価にあらゆる干渉を退けてきた。神々は女神の行動を賞賛し、疑惑は限りなく薄くなっている。あれでは遠からず盟を結んで、小さな加護を与えることも可能になるだろう。
何より許せなかったのは、女神がこちらの謀略を暴く寸前までたどり着いたことだ。
「……度し難い……廃神の分際で……」
竜神の庇護で勝ち上がってきた成り上がり者、その認識で間違いは無かったはずだ。
権謀術数を疎んじ、愚直さを美徳と勘違いする蒙昧な女。
だが、きっかけを与えられたとはいえ、曲がりなりにも女神は牙を突き立てて見せた。
「良かろう。その脆弱な力で、私と対峙するがいい」
策はすでに立ててある。強力な加護が掛けられない今、おそらくは魔物の軍をこちらにぶつけて隙を突くことに注力するだろう。
次回以降は竜神も表立って軍略を指導してくるはず、油断などできようはずも無い。
「勇者よ。状況はどうなっている」
水鏡の向こうで、勇者は淡々とタブレット端末に向かっていた。軍事や殖産、物資の管理まで、細く整った指が迷い無く差配を行っていく。
『主力の再編成は終了しました。人員を減らした重騎兵隊は一旦解体、今後は歩兵に随伴させて運用する予定です。テルシオの方も練兵を行い、連携を覚えさせています』
「こちらは犬に首輪を掛け終わった。以前指示した戦術の運用状況は」
『現在、各補給地やファームで必要な人員を育成中です。編成には時間が掛かります』
「何人死んでも構わん、一月以内に使えるレベルまでに仕上げるのだ。急がせろ」
『了解』
目の前で淡々と進んでいく作業を眺めて行くうちに、それまで波立っていた感情が静まっていく。
無駄なことは何一つ言わず、こちらの意を汲んで行動する存在。
これこそが、勇者という『道具』のあるべき姿だ。
だが、道具はただ使えばいいというものではない。整備し磨き上げてこそ、その真価を発揮する。
「康晴」
『はい』
"知見者"は、執務卓の一部を変質させた。
木肌の色も真新しい、黒い線を縦横に施した九×九桝の盤面に、二十枚の駒が整然と並んでいく。
生成された将棋盤には、対手の駒が存在しない。その代わり、勇者のタブレットに表示された盤面も、同じような状態が構成されていた。
「良く働いた褒美に、少し遊んでやろう。存分にかかって来るがいい」
石の面のような勇者の顔に、わずかな変化が生じた。
瞳の奥に、餓死寸前の人間の、飢えと欲望が燃え盛る。
『……お願いします』
居住まいを正し、手にした端末を貴重な美術品でも扱うように敷くと、勇者の指はあるはずの無い駒を人差し指と中指で摘み、ぴしり、と打った。
森の中を貫く一本道を、槍を担いだ兵士達が歩いていく。
二列縦隊で、歩調を崩さず、黙々と歩いていく。
気味が悪いぐらいに整った軍隊。その一部を構成することになったポローは、誰にも分からない様に嘆息した。
訓練が終わり、ようやく兵士としての活動を命じられるようになったは良いものの、やることと言えば槍を構えて整然と行進することだけだ。
この前の魔将追討に参加した隊の一部が、問題ありとしてリンドルに戻ってきており、軍師の解説で、連中の問題点が延々と解説されたのを思い出す。
『我が軍に必要なのは規律のみです。先ほどの映像を見ても分かるとおり、互いに補い合って槍を押し立てることで敵を圧倒し、無傷の勝利を得ることができるのです』
理屈は間違っていない。実際、重騎兵部隊がぼろぼろになって帰ってきたのと違い、歩兵や魔法兵にはほとんど被害がなかった。普段から、身分や格の違いを吹聴していた騎士連中が打ちひしがれている姿に、胸がすく思いさえした。
だが、こんなものが本当に、俺の望んだことなんだろうか。
隣を歩く女も、どこかうんざりした顔をしているように見える。この哨戒任務を与えられてから、ずっと不機嫌な顔をしていた。
『あたしはあんな風に、並んでお行儀良く槍をしごくために、ここに来たんじゃない』
胸の内を吐き出した女の顔には、怒りと苦痛が渦巻いていた。故郷の開拓村を、たった一人の身内である兄と一緒に焼き払われたというメシェは、何かというと規律を重んじる勇者の軍に閉口していた。
『アンタもそうなんじゃないのかい?』
そんなメシェの一言が、ポローの心を深くえぐる。
自分は奪われた家族の復讐のために、勇者の力を借りてここに居る。
だがそれは、徒党を組んで相手を踏みにじることじゃない。
あの日、手に斧を握り締め、コボルトを皆殺しにしたときのような、あんなやり方でなければ、決して満足することは無い。
「全隊止まれ!」
先頭に立っていた部隊長が声を上げ、ポローはその場で立ち止まる。規律正しい行進からの、規律正しい静止。胸が悪くなるような効率のよさだ。
だが、部隊長の顔は緊張でこわばっていた。小休止のための命令ではない、明らかに異常事態を感じたためのものだ。
『全員、《ドッグタグ》による会話に切り替えろ。声を上げるな、"ツーマンセル"での行動を厳守するんだ』
二人一組で一つの塊を作り、お互いをかばいながら行動する。勇者の軍は一度組み込まれれば一人で動くことさえ許されない。
『おい……なんだかきな臭くないか?』
『私語は慎め! 全員隊列を乱さずに』
「うわあああああっ!」
道の脇、右手方向から絶叫が響く。一斉に兵士たちの視線がそちらに向き、茂みを抜けて血まみれの男がよろけ出た。
「おいっ! お前、どうした!」
『待てポロー! 勝手に隊以外の人間と接触は』
「うるせぇっ! 黙ってろ!」
槍を投げ捨て血まみれの男を抱きとめると、肩や背中から大量の血が流れているのに気づく。刀傷と矢傷、泥汚れにまみれたまま、彼は視線を上げた。
「た、たすけて、くれ」
「どうした! 何があった!?」
「村に……魔物が……」
その言葉を裏付けるように、茂みを荒々しく掻き分けて躍り出る影。
「ひっ!? にんげん! ぐんたいっ、なんでこんなとこに!」
「に……にげろ!」
手に手に血塗れた得物を携え、現れたゴブリン。抱きしとめた村人の体が、力なく崩れ落ちていく。
その全てが、ポローの世界を奇妙に白くかすませた。血の流れる音が耳の奥で響き始めて、筋肉が怒張していく。
「お前ら……」
左手が刀の鞘を掴み、親指がぐっと刀身を押し出す。
『何をしている!? 許可なき抜刀は懲罰対象だぞ』
ゆっくりと鞘走らせ、怯えすくんだ目でこちらを見つめるゴブリンに、切っ先を突きつけた。
「お前らぁああああああああああああっ!」
《スキル:【武器習熟】レベル3発動》
下げた《ドッグタグ》に銀色の文字が浮かび、体に力が漲っていく。
一歩は、まるで羽のように軽く踏み出せた。
「ガ……アッ」
斜めに断ち割られたゴブリンが地面に倒れ伏し、無造作に振るわれた一閃でもう一匹の下あごが粉々に砕け散る。
「ひぎいっ!? や、やめろ、ぐぶっ」
豚を屠る程度の容易さで、突き出した切っ先が腹に吸い込まれ、引き抜いた拍子に臓物が吹き出してくる。こぼれた臓物を必死にかき集める魔物の後頭部に、鈍色の鋼を振り下ろす。
あっけなく、三匹のゴブリンは汚い肉袋に変わった。
『何をやっているポロー! さっきの戦いは何だ! 突然の襲撃を受けた場合の対応は』
『あんた、全部知ってやがったな! この近くの村が襲われていることを!』
こちらの指摘に隊長は言葉に詰まり、必死に威厳を揮って押さえつけに掛かる。
『ご、ご命令だ! 我々の任務はあくまで哨戒! 敵は少数とはいえ、兵士の損耗を抑えることが最大の』
『知ったことか! 俺は、俺の村を焼いた魔物を殺せればそれでいいんだ! こんなこと付きあってられるか!』
落ちた槍を拾い上げ、ポローは村人が来た方向をにらみつけた。
『俺は襲われている村を助けに行く! 一人でもな! せいぜいお前らはお行儀よくして勇者様の覚えめでたい、蟻の軍隊にでもなればいいさ!』
《スキル:【行軍歩法】発動。全速移動の疲労を軽減します》
走り出した自分に胸の板切れが忠実に答える。命令違反したから即座に力が剥奪されるわけではないらしい。問題は、勇者が俺をただの農民に戻す前に、村を助けられるかだ。
「一人でいい格好する気かい?」
驚いたことに、同じく槍を担いだメシェが傍らを走っている。それどころか、命令に違反した兵士たちが、自分に続いて駆けつけてくる。
『お前ら、生きて帰っても懲罰もんだぞ?』
『知るかよ! お行儀のいい軍隊なんざうんざりだ!』
『それに、助けられる人間を見捨てて生き延びるなんて、何のために勇者の軍に入ったか分からないもんね』
見知った顔、見知らぬ顔たちが口々に賛同の声を上げる。
「先頭切ったのはアンタだ。途中で尻尾を巻かないでおくれよ?」
「そっちこそ、魔物の前で腰抜かすな?」
軽口を飛ばしあった途端、それまで感じていたわだかまりが、跡形もなく消え去っていく。仕組みで押し付けられた時よりも、強い連帯感を覚えた。
『行くぞ、お前ら!』
号令と共に森を飛び出す。目の前には、どこにでもありそうな、鄙びた村が黒煙を上げて燃え落ちつつあった。
『全員突撃! 村を救え!』
雄叫びを上げて、魔物の群れへ突き進んでいく仲間たち。
その中で、ポローの視界にくっきりと映った光景。
「誰かぁっ! 助けてぇえっ!」
魔物に囲まれ、逃げ場を失った親子が身を竦ませている。身を挺して、抱きかかえた子供をかばう母親と、腕にしがみつく娘。
その絶叫が殺戮の意識と、《ドッグタグ》に刻まれたスキルを、共に解き放った。
朽ちかけた木の葉を、狼の足が踏む音以外、ほとんど何も聞こえない森の中。
手綱をゆるく握ったまま、フィーは周囲を見回した。
青葉が茂り、涼しい木陰を作り出している。背の高い広葉樹によって日の光は弱められているが、竜の瞳はそんな中でも全てをはっきりと見通した。
「フィー、お山、もうすぐ?」
自分の前にちょこんと座り、ものめずらしそうに景色を眺めるユネリの頭を、軽くかき混ぜてやる。
「この辺りは見たことがあるよ。そろそろ俺たちがいた場所に……お!」
森が切れ、いくらか視界の開けた場所が現れる。針葉樹がまばらに生えた緩やかな山腹と、巨大な岩がそそり立った光景だ。
「ねぇ! あれなに!? おっきい岩!」
「あれは岩じゃねーよ。ゴーレムの残骸だ」
時間にすれば二月ぐらいしかいなかったはずの場所だが、こうして戻ってくると、不思議に懐かしさがこみ上げてくる。
釜場にしていたあたりに近づくと、すでにまばらな雑草が生え始めていた。生ごみを始末した穴は動物たちに掘り返され、その痕跡さえただの窪みに変わりつつあった。
「フィー! おっきいの! ゴーレム! 見てきていい!?」
「いいけどあんまり近づくなよ? 崩れかけてっからな」
グートから飛び降りた子コボルトが大喜びで駆け出し、フィーも地面に降りて体のコリをほぐすように伸びをした。
「ようやく、ここまで来たか」
鞍袋や鐙を取り外してやると、星狼は大きく胴ぶるいを一つして、森へ去っていく。
荷物を整理し、とりあえず昼飯の準備のために、その辺りの石を拾い上げて焚き火をするための炉を組み始めた。
「これから……どうするかなぁ」
一応、ユネリをこの山に送り届けるという仕事は済んだ。だが、それで小さな子供を放り出していくというわけにも行かない。
持っていた保存食はほとんど食べきってしまった。子供に狩ができるわけもないから、川魚獲りや木の実集めでもやって、しばらく生きていられる準備をしてやる必要があるだろう。
それに、この山を群れとの合流地点にはしているが、あの混乱でどれほどのコボルトが生き延びれたかも分からない。
ここに来るまで何度も思い描いていた、最悪の結末。そうなった時、自分はどうすればいいのか。
「……」
フィーはそれ以上、想像をするのを止めた。
これ以上、一人で考えるのも限界だ。後は竜神に相談するくらいしか思いつかない。
まずは目先のことの心配をしよう。水袋を取り出すと、フィーはミスリルの残骸の方に目をやった。
「……ユネリ?」
さっきまでゴーレムの足元で動き回っていた姿が見えない。軽く角に神経を集中させてみるが、コボルトの息遣いも足音も聞こえてこない。
「あのバカ、また勝手にっ!」
元気をもてあまし気味にしていた子供のことだ。落ち着つくべき場所に来たせいで、その辺りを見に行ってしまったのだろうか。
「ユネリどこだ!? 返事しろ!」
声が森の中に響き渡る。かすかなざわめきを残して、驚いた鳥が逃げ散る。
「ユーネーリーッ! 聞こえたら返事しろーっ!」
ただ自分の声ばかりがむなしく返るばかりで、コボルトの声は全く無い。
「……冗談じゃないぞ」
スマホを取り出して周囲の地図を確認する。ユネリを示す光点は範囲の外にあるせいか一切映らない。こういう時にいて欲しいグートのマーカーすら、見えるところに存在しなかった。
「あんまり遠くに行ってないといいけど……」
この辺りは比較的になだらかな斜面が続いているが、川に近づくほど岩場が増えていくし、毒蛇や山の動物などもうろついている。
それに、自分たちがいなくなってから、人間たちが入り込んでいる可能性もある。
「ユネリーッ! いたら返事しろっ!」
水場に使っていた川岸に降り、周囲を見回す。それでもユネリの姿は見えない。
「……頼むよ……いきなりいなくなるなよ……」
子供のすることだから、何かの思いつきでうろついたのだと信じたい。喉が渇いたから水を飲みに来たとか、お腹が空いたから魚でも獲りに来たとか。
「って……まさか」
目の前を流れる川の流れはそれほど速くない。それでも中心に行くほどに水の色は青緑に染まって、とても子コボルトの背が立つような深さでもない。
「ユネリーッ! 返事しろったらしろおおおっ!」
目を見開き、河原を食い入るように見つめる。せめて毛の一本、身につけていた服の切れ端でもあれば、ここに来たことが分かるのに。
「あ! ……そ、そっか!」
その場に腹ばいになると、目を閉じて、鼻面を近づけて深く息を吸う。普段は頭が痛くなるので使わずにいた、ドラゴンの嗅覚を開放する。
「っく……やっぱくせぇな……」
それでも、以前使ったときよりは遥かに負担は少ない気がした。意識が次第に体に合って来ているのかもしれない。
そして流れ込む、匂いと言う情報。
日にさらされた石の、無機物的な異臭。
土ぼこりの、鼻にむずむずする感じ。
川の水に含まれた、藻類や水草の青臭い感じと、川魚の生臭さ。
その中に点々と、密生した毛皮に揮発した皮脂がまつわりつくことで出来る、獣臭さが感じられた。
「我ながら……すげぇな、これ」
まるで立体視でもしたかのように、距離と方向を伴って脳裏に浮かぶ匂いの痕跡。
「これは……嗅いだことある。確か、狐だよな。あと……これは雉? いや、なんかの山鳥だな……あ……グートの奴、ここでションベンしてきやがった」
シェートに授けられた狩人の知識と、日々使いこなしていくドラゴンの肉体。
その二つによって、これまで考えもしなかった力が、自分の中に生まれていく。
覚えのある匂い。そうでもない匂い。いくつもの匂いが、動物や植物、川や大地の移り変わりを教えてくる。
その中に、フィーはとうとう嗅ぎなれた匂いを見出した。
「こっちか!」
目を開くと一目散にその場にたどり着く。さっきまでいた場所から少し離れた場所、深くえぐれた淵のところに、ユネリの匂いの痕跡が残っていた。
「腹ばいになって……水を飲んで……それから」
飲み終わったコボルトは、野営地と反対の方へ歩いていく。すでに日にさらされて乾いた水滴の跡さえ、匂いが教えてくれる。
口元から水滴を垂らしながら歩く姿さえ目に見えるほどで、仔竜はその幻影を追いながら川岸を歩く。
「……足跡が、飛び飛びになってる?」
急激に残渣が薄くなり、飛び跳ねるように間隔が広くなる。いや、実際に何かの理由で走ったために、こんな軌跡を描いているのだ。
不安に駆られ、薄れかけたユネリの手がかりを追っていく。川岸の斜面を登り、森の中に入ったところで、急に情報量が倍加した。
木の葉や潅木が放つ香りや腐葉土のかび臭さ、大小さまざまな動物たちの体臭、空気の対流が少ないせいで、それらがごちゃごちゃと混じりあっていた。
「っく……くそ、頭いてぇ……」
頭がつぶれそうなほどに、強烈な痛みが襲い掛かる。あの山で、魔王の城を見たときに起こった体の異常。その本当の理由を思い出す。
人間としての魂――本来の感覚や判断能力――が、ドラゴンの肉体の流し込む情報量に対応しきれずに起こる拒絶反応だと、竜神は言っていた。
『言うなれば、今のそなたの状態は、素人がほとんど訓練も受けずにジェット戦闘機に乗っているようなものなのだ』
『それ……かなりやばいんじゃね?』
『うむ。魂が安定するまでは、自分の感覚を全力で開放しないようにな』
軽くマズルを叩き、それから鼻の穴を手で押さえる。意識さえしなければ鋭敏感覚は消えるが、それでも頭痛は鈍い疼きになって残っている。
『それ、今すぐ何とかならないのか?』
『魂の形はパソコンのOSのように違う。それに無理矢理パッチを当てて、その肉体に対応させているのだ。そのスマホはな、そなた自身の魂を補修する役目も負っているのだ』
多分、本当にドラゴンそのものに変えてしまっては、自分を人間に戻すことも出来なくなるからだろう。体はドラゴン、魂は人間、そんな歪な存在が今の自分なのだ。
「くそ……んなこと、今はどうでもいいんだよ」
痛む頭から意識をそらすと、もう一度口を開け、腹の底から叫ぶ。
「ユネリーッ! どこだぁあああっ!」
「……フィー!」
耳慣れた声に、一気に緊張がほぐれる。同時に、強めていた感覚の力が、ユネリ以外の声も聞きつける。
「フィーッ! おまえ、生きてたかか!」
驚いてそちらを見ると、ユネリを伴って沢山のコボルトたちが、森の中を走ってくるのが見えた。
「あ……」
数はだいぶ減ってはいたが、それでも二十名はいるだろうか。皆、弓や狩の道具を手にしてこちらに走り寄ってくる。
「よかった! お前! 生きてて!」
「ウラク……無事だったんだな……」
コボルトの少年はたいした怪我もなく、心からの安堵と喜びを浮かべていた。
「ああ。お前、警告した、あれ、みんなすばやく動けた。あと人間、たくさんお前追っかけた……だから……」
おそらく、自分の持っている経験点に目がくらんだ連中だろう。仔竜とはいえドラゴン一匹とコボルトでは相当違いがある。
「フィー、無事でよかった」
そう言って進み出た長役のアダラは、片目が完全につぶれていた。それでも立ち居には問題ないらしく、以前と変わらずに群れのまとめ役を勤めている。
「お前、人間一杯追いかけた。一番大変。でも、ユネリ、ちゃんと守った。感謝する」
「た、たまたまだよ。グートがいたから逃げられたわけだし……それに、みんながここにたどり着けなかったら……どうしようかって思ってた」
「それで……シェート、どうなった?」
予想していた問いかけに、フィーは軽く空を仰ぐ。
「あいつは……魔王軍につかまった。今は……勇者の軍から逃げているらしい」
「そうか……」
予想以上の答えにアダラが絶句する。自分もメールで『魔将の軍がほぼ全滅し、シェートは魔将と逃避行中』と知ったときは、開いた口がふさがらなかった。
「それで……合流したばっかで悪いんだけどさ」
「分かってる。フィー、シェート、助け行く。そうだな?」
それが当然の行動だといわんばかりのアダラに、今度はこちらが絶句する番だった。
「それは……そうなんだけど、さすがに距離があるから、しばらく食料集めでも」
「心配ない。俺たち、フィーより先、ここ来てた。食い物、飲み物、持たせてやる。疲れ取れるまで休め。その後、俺たち、ここ出る」
コボルトたちの顔には、まったく迷いが無かった。状況を理解していないユネリだけが母親に抱かれて呆然としていたが。
「あ……ありがとう……」
結局、フィーが返せたのは、その一言だけだった。
ポローが入れられた独房は、高い天窓が一つあるだけの、狭い石壁の部屋だった。
床は土がむき出して、山奥の気候のせいで氷のように冷たく感じる。差し入れられた寝具は、薄い軍用毛布一枚。食事も水とパンが一塊だけだ。
目の前に嵌った鉄格子を凝視したまま、ポローは黙考していた。
『貴様のしたことは、明らかな軍務規定違反だ! 後に将軍と軍師立会いの下、軍法会議に掛けられる! 覚悟しておけ!』
自分の責任問題になったこの事件で、己の立場がどうなるのかを怯えながら、小隊長は怒鳴りちらしていた。
こちらが全く意にも介さないでいると、結局隊長は何も言わずに姿を消した。
『つまり……あなたは自らのしたことを間違っていないと、そう釈明するのですね』
さすがに、軍師は小隊長よりも冷静だった。その整った顔立ちに苦悩の色を浮かべてこちらを見たときには、さすがにポローも罪悪感を覚えた。
自分を勇者の軍に入れてくれた彼には、それなりの恩義も感じている。何より、威張り散らすだけしか能の無い人間とは違い、軍師はこちらの顔も立ててくれるからだ。
『分かりました。これ以上の判断は、私たちでは無理でしょう。ポロー一等兵は今日より営倉入りを命じます。期間は勇者殿の沙汰があるまでとします』
本来なら、自分の意思で処断することも許されているはずの軍師は、営倉入りという猶予を与えてくれた。とはいえ、今後は自分の行動は制限されるだろうし、一層監視の目は厳しくなるだろう。
「俺は……間違ってなんていない」
それでも、後悔なんてしていなかった。
あの村を襲ったのは、リンドルを壊滅させた魔物の残党だという。前線の本隊が戦を行った魔王の軍から逃げ出したものらしい。
もし、あそこで俺が血まみれの男を抱き止めなかったら。
逃げた男を追跡したゴブリンを殺していなかったら。
なにより、命令に違反する危険を冒して村に駆けつけなかったら。
『ありがとう、兵隊のおじちゃん』
助けた子とその親は、俺に感謝していた。村の被害も大したことがなくて済んだ。
俺は村を救った。
あの親子を救ったんだ。
一緒に軍法を破った仲間たちも、みんな笑っていた。
何も間違っていない。間違ってなどいないんだ。
「くそ……」
ポローは握りしめた両手にぐっと額を擦りつけた。
それからゆっくりと、だが力を込めて、己を殴りつける。
「くそ……くそっ……くそっ……くそっ……くそっ、くそっ、くそっ、くそおっ!」
鈍い音が脳天に突き刺さる。わずかな痛みが、じりじりした痺れになって、熱と共に広がっていく。
それでも、消えない記憶がある。
『行かないであなた! もどってきてぇっ!』
『おとうさん! おとうさぁんっ!』
暴走した馬が置き去りにしていく二人の姿。
必死に手綱を引き、馬を方向転換させようとする自分。
馬小屋は火に撒かれつつあった。あの状況で馬車に繋げたのだって奇跡に近かった。
『行かないで! お願いだからたすけてぇっ!』
『こわいよぉっ! おとうさんっ、おとうさぁあんっ!』
叫ぶ家族を覆い隠すように、無数のゴブリンが自分の後を追い、必死に迂回路を探しながら逃げ惑った。
だが、村は燃え、瓦礫で道がふさがれ引き返すことは出来なかった。
「戻るつもりだったんだ! 俺は、必ず戻るつもりでっ」
嘘だ。
そんなことは嘘だ。
あの時、俺は飛び降りる事だって出来たはずだ。
馬の寝藁に刺さっていたフォークを、お前だって見ただろう。あれを槍代わりに振るえば、妻と子を逃がしてやれたかもしれない。
「う……」
そもそも、俺は本当に馬を反転させる気があったのか?
あんな恐ろしいバケモノがいる、死に掛けた村に。
「お……俺は、俺はっ、助けに、戻ろうとしたんだっ」
だが、お前は戻れなかった。
お前の妻と子供は、一体どうなっていた。
「やめろ」
子は木に吊るされ、皮をむかれ、妻は杭で股間から脳天までを刺し貫かれ。
「やめろっ」
あの顔を思い出せ。涙と恐怖と、お前に対する恨みで濁った目を。
「やめてくれえええええぇっ!」
気がつくと、衛兵が恐ろしい形相で鉄格子の前に立っていた。こちらの状況を無言で確かめ、それからカップに水を入れて差し出した。
「いい……のか」
「黙ってりゃ、ばれやしない」
ぬるい水が喉を滑り落ち、ポローはぐったりと首を倒した。
「ひどい顔してるぞ。悪い夢でも見たのか」
「……いや、見たのは、ただの現実だよ」
皮肉交じりの答えと空のカップを受け取って、衛兵は立ち去った。
「畜生……」
さっきの『声』に力なく悪態をつく。
まるで、自分の中にもう一人の自分がいるような、そんな錯覚だった。いや、あれは錯覚じゃない、俺自身の言葉だ。
今まで、こんな気分になったことは無かった。いや、本当は気づかないふりをしていただけなんだろう。
村の親子を助けたとき、俺は思っていた。
これで赦されると。
俺の今の行為は、あの時俺が犯した罪を、必死に無かったことにしようとしているだけなんだ。
「おい!」
「ヒッ!?」
呼びつけられ、顔を上げると、鉄格子の向こうにはさっきの衛兵と、ローブ姿の軍師がたたずんでいた。
「軍師様がお話をなさりたいそうだ」
朴訥な男はそのまま席を外し、軍師は用意された椅子に腰掛けて、こちらを見た。
「大分、心が辛くなっているようですね」
「アンタに、俺の何が分かるってんだ」
「助けられなかった、あなたのご家族のことぐらいは」
喉の奥で、締め付けられるような痛みと、軍師に対しての悪態が駆け巡り、結局ポローは、顔を覆ってうめいた。
「俺は……臆病者だ。妻も、息子も、俺に助けてくれと言ってた! なのに俺は……戻れなかった……いや、戻らなかったんだ!」
自分の全てを剥ぎ取りでもするように、爪を立てて髪の毛をかきむしる。
怒りの衝動が自分という人間に収束していく。
「こんなクズが、勇者の軍に入って何をしたと思う!? 俺は、自分が救えなかった妻と子の代わりに! 誰かを救って、俺の最低な行動を帳消しにしようとしたんだ!」
レベルアップという目先の喜びと、勇者の軍で人を救うという大義名分。
その陰に隠れて見えなかった、本当の気持ち。
「俺は……俺は、最低の、世界で一番、最低のクズだ!」
「いいえ。私はそうは思いません」
呆然と、ポローは顔を上げた。その先にある軍師の顔には、普段の笑みは無い。
「安っぽい慰めはごめんだ、俺は」
「あなたの行いは尊かったと、私は思います」
「やめてくれ! 俺はそんなつもりで」
「では、あの親子を見殺しにしてもよかったと、そう言うのですか?」
ポローは息を詰めて、軍師の言葉に聞き入る。
「あなたの思いがどうあれ、あの親子は救われ、明日も生きていくことが出来る。これまでと変わらない明日を」
明日。
その一言が、傷口に塗られた薬草のようにポローの魂に染み込でいく。魔術師はその様子を認めて、癒しの手をあてがうように囁いた。
「自らを最低と侮蔑するあなた自身が、二つの命を救ったのです」
「あ……ああ……」
それ以上はもう、耐えられなかった。顔を覆い、格子に頭を押し付けて、ポローは静かに涙をこぼしていく。
「ご自身の罪は、自らの行為で拭えばいいのです。何より、あなたに一切の罪は無い」
「で……でも……俺は……」
「全ての罪は、全ての悪は、魔王と魔物たちが原因です。それさえなければ、あなたも、あなたの家族も、これほど苦しむことは無かったはずだ」
ヴェングラスは檻の間から手を伸ばし、こちらの頭をそっと触れた。
「あなたは何も悪くない。あなたの罪は、我らが神、"知見者"フルカムトの名において赦しましょう」
「お、おお……おおおおおおおおおおぉお……っ」
焼け跡で流した涙より、麦畑で漏らした嗚咽より、温かく胸のつかえが取れるような慟哭が吐き出されていく。
どれほどの時間が経ったのか分からなかったが、再び顔を上げたポローは、自分の中の何かが、洗い清められたように感じていた。
その姿を見つめ、軍師は笑みを向けている。
「ポローさん。あなたに提案があります」
「提案?」
「近々、勇者殿の肝いりで、ある特別部隊が編成されることになっています。そこにあなたを編入したいのです」
こちらの戸惑いを察して、軍師は噛んで含めるように説明を続けた。
「先の戦で、魔将は強大な存在だと分かりました。一般の兵士たちが束になっても叶わない強敵だと。そこで、創設されるのが『巨獣討伐隊』です」
「『巨獣討伐隊』……」
「高いレベルを持つ少数精鋭で構成される部隊。勇者様直属の部下であり、我が軍の最強存在となるでしょう」
目もくらむような話だ。そんな部隊に自分が参加するだって?
「どうして……俺なんだ……もっと貴族とか、歴戦の戦士とか……」
「それは、あなたが魔王を殺すと、固く誓ったからです。実力など加護を使えばいくらでも身につけられます。ですが……志だけはどうしようもない」
魔王を殺す。
そうだ、俺は誓ったはずだ。
俺の妻と子を殺し、これほどの苦しみを与えるバケモノの王を殺すと。
「どうかその志で、我らの勇者に力をお与えください」
答えはもう決まっている。
星の光さえ差さない、暗い檻の中で、ポローはただ黙って、頷いた。
朝霧の煙る中、フィーは荷造りをしていた。
鞍袋の中に干し肉や干し魚を詰め、水袋を確かめる。乾かして撚り合わせた草の蔓は、掛け小屋を作ったり、火口の種火を移すのにも重宝するから、余分に入れておこう。
「これでよし、と」
袋の口を閉じると、仔竜は声を張り上げた。
「おーい、グート! そろそろ行くぞー! 戻ってこーい!」
真っ白な空間に声が響くが、狼の足音は聞こえない。まだ寝ぼけているのか、それとも朝飯でも獲りに行っているんだろうか。
「ったく、しょーがねぇなぁ。グートー、さっさと来いよー」
声はただ周囲に広がり、誰も答えるものは無い。そういえば、近くで寝ていたユネリの姿も見えない。
「……そっか。もう母ちゃんところに帰ったんだっけ」
旅の間中ずっと感じていたぬくもりが無くなるのは寂しいが、無事に母親と再開を果たせたことは素直に嬉しい。かすかな切なさを振り払うように、フィーはもう一度声を張り上げようとした。
「そこ、誰かいるか?」
さくさくと落ち葉を踏んで近づく足音。ミルクのように濃い白の向こうから、黒い影が現れる。
「……シェート!?」
「フィー、久しぶりだ」
コボルトの狩人は、屈託の無い笑顔を浮かべてこちらにやってきた。粗末な草木染めの上着と片手に短弓を手に、ちょうど狩から戻ってきた風情で。
「いつの間にここに!? ってか、竜神のおっさんの話じゃ、あの牛の魔将と一緒に逃げ回ってるって」
「ああ。うまく逃げ出せた。もう大丈夫だ」
いつも通りの、優しく安心させるような口調で、そっと肩を叩いてくる。
ただそれだけで、心から重石が取り除けられるような気持ちがした。
「ったく、心配させやがって! それでも、無事でよかったよ」
「ああ、すまん。それよりフィー、お前、すごく大変だった、違うか?」
「俺は……うん。俺も、大変だったよ」
勇者の軍に先導された村人に襲われ、群れが壊滅しかけたこと。ユネリと一緒にここまで必死に逃げてきた日々を、思いつくままに口にする。
「正直、本当にダメかと思ったことも一杯あった。でも、グートもいたしな。それに、シェートに教わったこと、全部役に立ったよ。ありがとな」
「そうか。お前、俺の言うこと、ちゃんと守ったか」
「ああ。ユネリも無事に群れに送り届けられた、死んだ奴もいるけど……それでも群れは助かったんだぜ!」
「そうか。群れ。助かったか」
コボルトは嬉しそうに笑い、フィアクゥルの両肩に手を置いた。
「でもお前、ルー、殺したな」
笑顔を浮かべかけた仔竜の顔が、こわばった。
「村長、俺の友達、弟たち、母っちゃ、みんな殺したな」
「あ……」
シェートの顔は、屈託なく笑っていた。
「お前、ユネリ助けた。群れ、助けた。どうして、ルー、殺した」
「ちが……」
ごぼり、と口から血が漏れた。
ざっくりと三日月に裂かれた喉の傷から、血があふれ出していく。気道が詰まって血泡が吹き上がる。
「あ……あ……っ」
あふれ出た赤が地面を染め、地面をぬかるませていく。広がった鮮血の領域に押し出されて、霧のヴェールに隠されていた光景があらわになった。
そこは森の中ではなかった。
燃え上がる粗末な小屋と、砕かれ、臓物を撒き散らして死んだコボルトのかばねが、累々と打ち捨てられている。
「あ……ぐ……っ」
何かを言いたかった。目の前で微笑み続けるシェートに。
だが、溢れた血は止め処なく、一切の言葉を封じ続ける。
「お前、優しい。でも、お前、ルー、母っちゃ、弟、仲間、みんな殺した」
焼き鏝を押し付けるように、シェートはフィーの罪業を焼き付ける。
その身の内に宿る、逸見浩二の魂に。
「どうして、殺した?」
「シェート……俺……は……っ」
風切り音がフィーの頭上を掠める。
見上げた先で、象嵌が施された勇者の剣がコボルトの胸を深々と刺し貫いた。
羽のような軽さで引き抜かれていく刃。
一切の活力を失ってシェートの体が仰向けに倒れ、ぴくりとも動かなくなった。
「まだこんなところに一匹残ってたか」
振り返った先に、青い鎧をまとった自分がいた。
笑みを浮かべて、血の一滴さえついていない穢れのない姿で、血まみれの自分を見下ろしている。
「ドラゴンパピーねぇ。ま、コボルトよりはましかなぁ」
その目にあるのは無邪気な喜び。店に並んだ好みの商品を手に取って、選ぶ程度の興味関心だけがあった。
「や……め……」
あっけなく脳天に白銀が振り下ろされ――
――フィーの意識は夜闇の中に放り出された。
「……っ! ……ふっ、はぁ……っ、はぁっ……はぁ……っ」
喉に鈍い痛みを感じる。夢の中で溢れた血が残っていそうな気がして辺りを見回すが、土の地面は柔らかく湿ったままで、何の異常もない。
「フィー?」
「え……」
気がつくと、自分の寝ていた根方に、ユネリの茶色い毛皮が小さく丸まっていた。眠そうに目を擦って、コボルトは顔を上げる。
「フィー、どうした?」
「……お前」
そうだ、明日の出発を告げたとき、別れを嫌がったユネリは、自分と一緒に寝ると言って聞かなかったんだ。
「フィー……泣いてる」
「え? う……」
気がつけば、顔の半分を濡らすほどに涙痕がいくつも筋を作っている。まだ乾いていない一筋を擦り取ると、何とか表情を和らげて見せた。
「なんでもないよ。もう寝ろ」
「フィー、何か悪いこと、した?」
起き上がって傍にやってくると、子コボルトは手を伸ばし、フィーの髪を撫でた。
「お、お前、なにやって……」
「フィー、ずっと、ごめんなさい、言ってた」
精一杯、表情をまじめなものに整えて、まるで年下の子供に言い聞かせるように、ユネリは語りかける。
「悪いことした、ごめんなさいする、いい子。だから、フィー、いい子」
「バ……バカ……俺のは、そんなんじゃ……っ」
「いい子、フィー、いい子」
小さな手が、必死に自分の頭を撫でるたびに、心に焼きついた罪業が磨きぬかれていく気がする。
同時に、ユネリの愚かしい勘違いが、さっきまでの痛みを拭い去ってもいた。
「ありがとな……ユネリ」
お返しにくしゃりと髪をかき混ぜてやると、その背中をそっと叩いた。
「起こして悪かったな。もう寝ろよ」
「……うん」
すでにうとうとしていたユネリは、ふらふらと寝床に戻り、小さく丸まって眠りについてしまう。
足音を忍ばせると、フィーは誰もいない林の中に入り、電話を掛けた。
『おう、どうした。何かあったか? 今、仲間とチャット中だから手短に』
「なぁ……俺のやってることって、何なんだろうな」
『……ちょっと待て。今向こうが上がるから』
騒々しいタイプ音が途切れ、向こう側で座りなおした気配がする。そんな短い時間で気持ちの整理がつくわけもなく、取りとめもない言葉がこぼれだした。
「俺、間違いなく、シェートの家族を、恋人を、群れを殺したんだ。カミサマに言われたからだけど、でも……俺も、経験値のために、何も考えずに」
『やれやれ。またその話か。少なくとも、そのことは神の権能で赦されておると、再三言って聞かせたはずだがな』
「分かってる。でも、俺は納得してない。さっきも……シェートに問い詰められたし」
『……夢の話か? 全く、今時ベタな夢を見おって』
茶化すような物言いだったが、声はどこか真剣だった。
『従軍牧師、というのを知っておるか?』
「知らないけど……軍隊に牧師さんがいるってこと?」
『その通りだ。その歴史は古く、そなたの世界では、必ず朝晩のミサや臨終の秘蹟を与えるために、神の言葉の代弁者が軍隊に付き従っていたのだ』
宗教と縁遠い生活を送っていたフィーにしてみれば、ピンとこない代物だ。人を殺すのが仕事の軍隊に、赦しと癒しを与える牧師が付き従う。
「そうか。プリーストって職業があるのって、なんでだろう思ってたけど、元ネタはその従軍牧師なのか」
『当たらじとも遠からじ、と言ったところだな。実際、彼らは従軍記を記したり、原始的な医療行為などもしていた。役回りとしてはそんなところだろう。だが、彼らの本当の仕事は、精神の癒しにある』
「精神の、癒し?」
『えげつない言い方をすれば、殺人の正当化だ』
その指摘に、ぞくりと背筋が凍りついた。
『領土や財貨を得るためとはいえ、人を殺すという行為には抵抗が生まれるもの。それを神の名において全て赦すのだ。同族殺しという禁忌を犯した心を守るために』
「カミサマに赦されたから、自分は人殺しじゃない、ってことか」
『神と勇者のシステムは、目に見える形で、それを行ったものだ。そなたは幸運にも、魔物以外との戦闘を行わなかったようだがな』
考えてみれば、シェートはサリアに選ばれた勇者だった。あの後も戦い続けていたら、いずれは自分も人殺をしてしていただろう。
『だが、それも人間たちが営々と繰り返してきた歴史の一端に過ぎん。"神がそれを望み給うなら"の一言で人は徒党を組んで海を渡り、他人の信教の聖地を"奪還"できるのさ。そして、その全てが正当化される』
「それでも」
竜神の示した理屈を、フィーは己の感情で押しのけた。
「それでも、自分が赦されないって、そう思うときは?」
『そなたは……本当にバカだな』
「分かってるよ、言われなくたって」
『結論を言えば、この世界に"赦し"などは存在しない』
竜神の声は、スマートフォン越しでも重々しく、霊威を湛えていた。そして、逃れられない事実を、連ね始める。
『所詮、赦しとは生者のためのものだ。死者には加害者を赦すことも、糾弾することもできない。贖罪とは自己の罪悪感を消すための解毒剤に過ぎん。そなたが赦されないと思うなら、それが答えだ』
「俺は、このままずっと……その罪を背負っていけってことか」
『それも違う』
ほんの少し、沈黙が漂った。何を言うべきかを、どうすればこちらに伝わるのかを吟味するように。
『そなたはフィアクゥルとしてこの世界に関わり、ここに生きるものと同じ命の時間を過ごしてきた。その経験がそなたの視界を、世界のありようを変えた。だとすれば、過去の行動の意味が変わってくるのは、当然ではないか?』
確かに、ファンタジーRPGに出てきそうな世界で、勇者になって冒険するという、お客様気分にはもう戻れないだろう。
そこに生きる人間や魔物たちにさえ、自分の生活が、大切なものがあると知ったから。
『"普通の高校生"であった逸見浩二の愚かさに、石を投げることは誰にも出来ぬ。そなたと全く同じ立場に立った時、同じことをしないと言える者だけが、その権利を持つのだ』
「何も知らなかったからって、何でも許されるってわけじゃないだろ?」
『ならば、全ての者に完璧で完成された人格を求めるか? それこそ傲慢だろう。そんな教条主義は、狂ったコンピュータに管理されたディストピアにでも押し付けておけ』
そこで初めて、フィーは竜神の言葉を理解した、気がした。
東京の街角であったときからずっと、この気さくなドラゴンは言い続けてきたのだ。
知らないままやってしまったことを、罪には問えないと。
「……ありがとな。それと、こんな愚痴に付き合ってもらって、ごめん」
『ようやくそれを愚痴と言えたか。それでよい』
「なんで、愚痴がいいことなんだよ?」
『世の中には、どうにもならぬことがある。それをこねくり回すことを愚痴と言うのだ。自らの行為を愚痴と理解したなら、そなたも少しは進歩したということだろう』
どうにもならないことをこねくり回す、仔竜は口の中でその意味を反芻し、未だに残る胸の疼きを口にする。
「この世界に赦しも罪滅ぼしもないなら、俺がユネリたちを助けたことは、後ろめたさを消すための自己満足、ただの偽善ってことか」
『この世の中に偽善などはない。全ては他者に対して成した利己的な行動に過ぎん。悪意があっても善行になることもあれば、善意からした行為が悪行になることもある』
「あんたの言うことって、ものすごくひねくれてるよな」
ため息交じりで揶揄すると、竜神は受話器の向こうでおかしそうに笑った。
『これでもそなたの万倍は歳を食っているのでな。ひねくれるどころか、ねじくれているのさ』
「はいはい。そーですか」
『だが、こんな儂でも、素直に言えることがある。そなたの成した行為でシェートは勇者との戦いに勝ち、コボルトたちが命を拾ったということだ』
角の奥に染み入ってくる言葉に、フィーはため息をついた。
自分は勇者として、たくさんの魔物を殺した。
自分は仔竜として、ほんの少しだけ、仲間を救った。
その全てが自己満足でしかなく、誰に赦されることも、自分を赦すこともできない。
そんな思いを抱えた自分が、数十、数百、それらを遥かに超えて存在する者たちと、ぶつかり合い、響きあいながら生きていく。そんなことが、思い浮かんだ。
くらりと、足元がよろけた。
あまりにも複雑で巨大な仕組みの中に自分がいる、その夢想がフィアクゥルという存在を、逸見浩二という魂を揺さぶった。
「なぁ、おっさん。この世界って、何なんだ?」
『知らぬ』
そっけなく、それでも嬉しそうに竜は喉を鳴らした。
まるで、心地よい部分をくすぐられた猫のように。
『それを知るために儂は、永き時を生きる現し身を捨て、神座へと昇ったのだ。あらゆるものを見尽くすべく、あらゆる場所に立つために』
仔竜はその場に座り込み、呆然と空を見上げる。
木々の間から覗く星々が、色とりどりに輝いていた。
『ゆえに、神々は儂をこう呼ぶのさ。"斯界の彷徨者"にして"万涯の瞥見者"とな』
「そんだけ永く生きてて、まだわかんないのかよ」
『ああ……世界とは、そういうものだ。ゆえに儂は常に彷徨い、見続け、考えることを止めぬのだ』
全てのものへの憧れと親愛をにじませて、竜が語る。
その言葉を聞いていると、自分を取り巻いていた全てが、優しく包み込んでくるような気がした。
「おっさんみたいに世界が見れたら、俺もバカやらずにすんだのかな」
『そなたはそなただ、儂ではない。無邪気に世界を信じられる逸見浩二と、自分の愚かさに苦しめられるフィアクゥル。どちらを選ぶかは、そなた次第だ』
「俺は、どうしたらいいと思う?」
『そなたは、どうしたい?』
いつかのように、質問を質問で返される。だが、それが質問の形を取った回答だと、もう分かっていた。
行動の是非は主観に過ぎず、善行も悪行もその時の結果でしかないなら、良い道を教えてくれと頼むことに意味は無い。
数万年を生きる存在にさえ、この世界のことが分からないなら、尚更だ。
だからこそ、竜神は繰り返し問いかけるのだろう。
自分が何をしたいのかを。
「まだ、分からない。でも……今やりたことはある」
『それは?』
ほのかな決心を胸に灯して、フィアクゥルは言った。
「シェートを、助けたいんだ」
脳裏に夢の光景が浮かぶ。
多分、シェートは"自分"に救われるなんて嫌だろう。
それでも、自分はそうしたいと思っている、それが全てだ。
「これが今、俺のしたいこと、だと思う」
『よかろう』
竜神は満足そうに頷いている、なぜかそう思えた。
『明日から忙しくなるぞ。シェートは今、限りなく死に近いところにいる。それを助けるとなれば、寝る間も惜しいほどだ』
「……マジで?」
『とにかく、今日はもう休め。起きたら儂らの仕事を始めよう。ではな』
それきり通話が切れる。
通話時間は一時間以上が過ぎていた。
「儂らの、か」
星の瞬く空を見上げ、フィーはそっと笑った。
部下の小竜たちに長電話を責められているであろう、竜神のことを思いながら。