5、魔のいざない
水鏡の向こうに映る景色を、青い瞳が見つめていた。累々たる人馬の屍に、フルカムトの眉がわずかにひそめられる。
「厄介なことだな」
戦場の跡地ともう一つ、暗い執務室が投影された水面を眺めやる。軍の指揮を取っていた少年の顔には、後悔や苦痛の色は無い。ただ、ひたすらに、さっきの戦況を手元のタブレットで巻戻しては確認していく。
「次回以降、魔将への対応を重視せよ。戦術についての草案はあるか?」
『テルシオを使った包囲殲滅。敵戦力を一定水準以下にしないようにしつつ、遠距離からの魔法攻撃を重視。最優先前提条件にコボルトの排除』
「次善の策として頭に入れておけ。盤外戦術を考えなければ、それで四割の正解だ」
『盤外戦術?』
当人にとっては耳慣れた言葉に、勇者が興味を惹かれて手を止める。敏感な反応に"知見者"は心持ち笑みを大きくした。
「対手の差し手を鈍らせる手だ。そうすれば次善の策が六割には達する」
『……加護の制限』
「その通りだ。こまごまとした逃げ道はこちらで封じておく」
言葉少なに返される解答は、おおむねこちらが期待したものだ。モニター越しの惨状、と言うこともあるだろうが、勇者は淡々と戦後処理を続けている。
冷徹であり冷静、こちらの意図をある程度解し、いちいち指示せずとも煩わしい地上の事柄に的確な対応を見せた。
実に理想的な手駒だ。
「その上でもう一枚、別の戦術を噛ませよう。今送った戦術案に従って、新規に部隊を編成しろ」
『了解』
タブレットに浮かんだ戦術書を読みふける姿に満足すると、フルカムトは水鏡を世界地図へと改めて瞑目を始めた。
現状、全ては計画通りに進んでいる。あのコボルトが魔将もろとも圧殺されかねない場面もあったが、結果を見れば満足の行くものになった。
魔将の性能はあれで推し量れたし、縮小したかった騎馬隊が、労せずその数を減らしてくれたからだ。
重騎兵の打撃力は確かに有効だが、乗り手である騎士たちは名誉や体面にこだわり、なにかとこちらの指示に異議を唱えてくる。最終的には傭兵を中心にした軽騎兵に側面を任せ、連中を軍から追い出したいところだ。
"竜騎兵"を増員させ打撃力を増加させれば、騎士など無用の長物となるだろう。
あとの問題は、歩兵を中心とした軍の進行速度だけだ。
「魔将討伐の後、輸送手段の改革を推し進めるか」
幸いなことに、この世界には比較的浅い地層に石炭の鉱脈が数多くある。エファレア大陸の神殿を通じ、採掘技術を通達するのもありだろう。出来れば年内に蒸気機関の開発、二年以内に鉄道網の敷設を開始したいところだ。
「イェスタ」
「ここに」
「『目』の追加を頼む。支払いは今回の戦闘の分で足りるな?」
「はい。それでは、そのように」
「ああ、少し待て」
去りかけた漆黒の女神に声を掛けると、フルカムトは上機嫌で席から立った。
「広間に小神たちを集めよ、今から私が面白い見世物を見せてやるとな」
静まり返った森の中を、シェートを乗せた魔将が駆けて行く。すでに戦の物音は遠く、周囲に付き従っていた魔物もいなくなっていた。
「っ……はあっ、ぐっ、ふう……っ、はあっ、はっ、ぜぇっ」
それまで全く疲れなど知らないように走っていたベルガンダの息が乱れ始める。
「お、おい……?」
足取りが急速に萎え衰え、動きがぴたりと止まった。
「ぐはぁ……っ」
ゆっくりと膝から崩れ落ち、巨体がどうと地面に倒れ付す。
同時に、固い鎧の背にあごが打ち付けられ、シェートの体が勢い良く宙に舞った。
「うわぐううっ!」
自分の体を縛めていた綱は、きれいに切断されている。背負いっていた魔将は、地面に昏倒したまま荒い息をついていた。
どうやら、自分の転倒に巻き込まれないよう、意識を失う前に綱を切ったらしい。
「サ、サリア……うぷっ、近く、何かいるか」
背負われ、めちゃくちゃに揺すられたことからくる吐き気ををこらえながら、シェートは辺りを見回す。
『大丈夫のようだ。相当の数の騎士が殺されたあの状況だ。部隊を立て直すのを優先したといったところだろう』
「そうか」
さっきの戦闘を思い出し、改めて魔将を見下ろす。
無数の騎士と馬を投げ飛ばし、巨大な斧と共に蛮勇を奮った姿は見る影も無い。空気を求めて必死に喘ぎ、自らの鎧に押しつぶされそうなほどに疲れ果ててしまっている。
改めて見れば、防具のない二の腕や首筋、太ももの裏などに無数の傷があり、少なくない量の血が流れ出している。
だが、自分の背負われていた周囲にはほとんど怪我は無い。相手の攻撃を避けつつ、決してシェートを傷つけないように動いたという証拠だ。
『恐るべき魔物だな、こやつは』
サリアの言葉には、恐れと賞賛が入り混じっていた。間近でその全てを感じていたシェートも、黙って頷く。
『お前を守りながら、その上であれだけの軍勢を相手にし、残された者たちを逃がしきった……いや、あれほどの絶望的な囲みから、全く動揺も見せずに指揮を行える胆力。根っからの武辺者とは、このような者を言うのだろうな』
そんな感慨も知らぬままに、魔将はひたすら昏倒し続ける。さっきの働きで失った体力と流れ出す血による消耗を、必死に抑えるように。
『だが、今ならこやつを殺せよう。この状態であれば、起きて反撃をされたとても、全力を以ってすれば打ち倒せる、かもしれん』
「また魔王、くるか?」
『地上への干渉は、魔王側にも相当の制約を設けてあると聞いた。おそらく、今回はそれも無いだろう』
つまり、今の機会を逃せば、この魔将を打ち倒すことは出来ないかもしれない。サリアはそう言っているのだ。
腰から山刀を引き抜き、ゆっくりと近づく。じわりと汗をにじませ、荒い呼吸を繰り替えず牛頭は、こちらのことにも気づか無いままだ。
たった一振り、首筋を裂いてやれば、ベルガンダは死に至るだろう。
『どうだ、少しはましになったか』
獲物をさらう鷹のように、戦場で見せた魔将の一面が、シェートの胸中を行き過ぎた。
そして、自分はこの魔物の助けで、こうして生きている。
これは倒すべき敵だ。そう思いながらも、手に力がこもらない。
「サリア」
『……どうした』
「こいつ……助ける。いいか」
ためらいが漂い、女神は苦笑交じりの吐息を漏らした。
『好きにせよ』
シェートは頷き、鎧を止めていた皮ひもを断つと、脱がせて重荷を取り除いてやる。
「俺……馬鹿だ」
小物入れから薬草を取り出すと、コボルトは苦笑交じりに手当てを始めた。
気が付くと、ベルガンダは大地に寝そべっていた。青臭い匂いが鼻を突き、それから頭の近くに座り込んだコボルトが見える。
「飲め」
皮袋が差し出され、それを口にあてがう。舌を刺すほどに冷たい水の味に、勢い良く喉が動いていく。
「ん……っ、ぐ、むはああああっ、ふぅっ、なんと、美味い水だ」
すっかり空になったそれを見て、シェートは無言でもう一つの袋を差し出してくる。そこでようやく、自分の手足に草と蔓で治療が施されていたのに気が付いた。
「お前がやったのか」
「血、たくさん出てた。お前、あと少しで死んだ」
「そうか。少しばかり無茶をやったな」
薬草を包帯代わりの葉であてがい、蔓で縛っている。あまり見ないやり方だが、これもコボルト流なのだろう。
「見捨てて逃げるという手もあったろう。正体を失った俺の寝首を掻くことさえ容易かったはず……なぜだ?」
「お前殺す、意味ない。お前、生かす、利用するから」
コボルトは煙が出ないように焚き火に覆いをかけ、火をおこし始める。一切こちらを見ようともせずに、作業の片手間に答えを返していた。
「勇者の軍、すごく強い。お前たち、まだたくさん。お互い、潰し合う。残った奴、俺狩る」
「……なるほど。恐ろしい奴だな、お前は」
自らのために他者を利用する。コボルトとは思えない胆力と先見性、今までに見たことが無い存在だ。
「"奇貨居くべし"か」
「……なに?」
「我が主が、俺に言ったのだ。珍奇な物、稀なる物は手に入れておき、その価値が上がるのを待つものだ、とな」
最初は、命令に従ったに過ぎなかった。だが、こうしてこいつを知れば知るほど、その存在の妙に惹かれていく自分がいる。
「俺はな、お前を傍に置きたい考えている」
「な、何言ってる!? 俺、サリアの勇者! できるわけ無い!」
「そうよな。そこが問題だ。だが、お前は面白い、おそらく我が主も、お前を是が非でも欲しいと仰るだろう」
コボルトは焦り、こちらを睨む。その視線にあるのは嫌悪ではなく、不安だった。
「貴様は勇者を倒したい。そして我らもその願いは同じだ。共闘できるとは思わんか」
「違う! 俺、前も言った! 勇者だけ、違う。魔王も狩る!」
不遜な物言いに一瞬気持ちが逆立つが、ベルガンダはシェートへの賞賛と興味を軸に、その感情を受け流した。
「我が主を狩る、その願いを果たすのは、魔王軍の中でも出来ようぞ?」
「え……?」
「我らとて一枚岩ではない。見栄坊の血吸いコウモリ殿などは、いつでも我が主の寝首を掻いてくれると鼻息を荒くしている始末でな。貴様のようなものが一匹増えたところで、かの魔王は喜びこそすれ、うろたえもせぬだろうよ」
コボルトは怯えたようにこちらを凝視した。何かを見定めるべく、小動物の慎重さで。
「安心しろ。これは俺の意思だ。こんな牛頭に張り付いているほど、魔王は暇ではない」
「で、でも、俺、お前たち、仲間、ならない。絶対に」
「決心は変わらぬか……やれやれ」
魔物としての自分を否定すると言うよりは、最下層民として位置づけられた、コボルトという存在からくる不信なのだろう。
弱く、虐げられたものが、その行為者へ向ける憎悪と嫌悪を拭い去るなど、不器用な自分にはできるはずも無い。
「ならば、俺を利用してみせろ」
「い、言われなくても!」
「そうではない。もっと積極的に、お互いの利益を交換しようと言っているのだ」
こいつの目的は勇者として魔王を倒すことだ。同時に、それを達成するための力が、圧倒的に不足しているのも分かる。
「俺の軍に参画しろ、シェート」
「そんなの、出来ない」
「ならば、貴様一人が動いて事態が変わるのか? 寄る辺無い一匹のコボルトに、あれだけの軍勢を覆す力が出せるのか?」
案の定、コボルトは言葉を詰まらせて押し黙る。神の力を背景にしているとはいえ、全てを奇跡のように解決できるわけが無いのだ。
「俺の軍に来て、俺に力を貸せ。さっきの破術一つとっても、俺にとっては得がたい才、勇者の軍を打ち破る力となるだろう」
「俺……お前も殺す、良いのか」
「構わん。我が主とて、裏切り者を抱えつつ覇道を唱えているのだ。部下の俺がそれに習えぬ道理は無い」
「お、俺、戦う、勇者の軍だけ。略奪、関係ない奴殺す、絶対しない!」
「元よりそんな瑣末な仕事に使う気は無い。無論、お前の与り知らぬところで、俺たちは勤めを果たすがな」
こちらの出した条件に戸惑いながら、シェートは眉間にしわを寄せ、必死に考え込む。
「ちょっと待て。相談する」
「良いだろう」
距離を取り、女神と話し始める姿を眺めながら、ベルガンダは空を見上げた。
魔王の城は中央大陸のほうへ向かい、勇者の軍に傾けられた戦況を盛り返すための魔獣を投下していることだろう。
こちらに魔王がシェートを受け取りに来るのは、もうしばらく後になる。
「それまで、手元においておかねばならんのだが……どうなるかな」
後は女神がどのような判断を下すかによる。頑ななものなら魔物との共闘などは考えないだろうが、何らかの妥協に達する可能性は十分考えられた。
何しろ、コボルトを勇者にしようという酔狂な女神なのだから。
『こんなことは前代未聞だが、私から話をさせてもらおうか』
戻ってきたシェートの代わりに、天から声が降り注ぐ。乱戦から抜ける際に聞こえてきた女の声、おそらくこれが女神なのだろう。
「これはありがたい。で、そちらの名は?」
『サリアーシェ・シュス・スーイーラ、シェートと命を共にするものだ』
「今代魔王の麾下、魔将ベルガンダだ」
『一つ言っておくが、これから私が言うのは提案ではない。命令だ』
厳しく言い刺す女神の声は、文字通り上からの物言いだ。それ以外の意向を一切受け入れないという態度。
『シェートに参画させると言うのなら、一切の略奪や拷問を禁じてもらう』
「拷問はともかく、略奪を禁じるのは不可能だぞ? 俺たちは基本的に畑は耕さん。殺し奪って生き続けるものだ。その申し出は受けられん」
『ならば、この話は無しだ』
「それでも俺は構わん。だが、本当に困るのはどちらかな」
見えざる神に向かって、ベルガンダは口の端をゆがめて挑発した。
「女神よ、貴様も見ただろう。勇者の軍の精強さを。そして俺たちが、それに対抗し得ないことも」
『そんなことは……私には知る由もないがな。何かの秘策を持っていて、そのように言っているとも限らぬ』
「そんなものがあったとして、あの軍に通じると思うか? 俺は目端の利かぬ方だが、あれがどれだけ革新的な戦術かぐらい分かるつもりだ。そして女神よ、貴様にあれを打ち破る方法があるか?」
こちらの指摘に、主従はそろって黙り込んでしまう。その逡巡に畳み掛けるように、言葉を重ねた。
「確かに、シェートはコボルトにしては胆力もあり、それなりに力も備わっていよう。しかし、それだけで切り抜けられるほど、甘い相手ではあるまい。その力を弱らせ、対等に立つ存在が必要のはずだ」
『だが、私は地上の民を安らげ、世界に平和をもたらさんとするものでもある。貴様らの暴虐を助長することに力は貸せん。リンドルでの所業、忘れたとは言わせぬぞ』
「ならば尚のこと、俺のそばにシェートを置くことは重要ではないか? 俺が暴虐を行ったと思えば、その力で以って、この素っ首を叩き落せばよかろう」
今度はかなり長い沈黙が、辺りを支配した。だが、女神の沈黙が長引くほどに、その背後にある葛藤を強く感じる。
『まず、向こう一月、一切の侵略、略奪を停止させよ。それが実行されたなら、交渉の余地ありとして、また話をさせてもらう』
懊悩の果てに出したであろう女神の結論に、ベルガンダは満足して頷いた。
「良いだろう。せいぜい買い叩くがいい。だが、俺たちを有効に利用したければ、甘い考えは捨てるべきだぞ、女神よ」
言うべきことは言い終わった。後は、シェートをいかに自分に引き付け、安全に主の下へと送り届けるかだ。
シェートが珍しい存在だからといって、精強な勇者軍から勝利を勝ち取るほどの力があるとは思えない。だが、有効に利用すれば戦況を明るくすることぐらいはできるだろう。
「すまんがシェートよ、少し見張りを頼むぞ」
「え? な、何言って……」
「まだ力が戻りきっていないのだ。何かあったら起こしてくれ」
後はなるようになるだろう、ならなければそれまでだ。
その場にゆったりと横たわると、ベルガンダは暗い眠りの中に自らを落としこんだ。
水鏡から顔を上げると、サリアは髪をかき上げて、それから深く嘆息した。
ベルガンダの対応は首尾一貫している。シェートを魔王に献上し、あわよくば自分の軍の力にしようというつもりだ。もちろん、そんな思惑に乗る気は無いが、知見者に対抗する道が見えないまま、シェートを一人にするわけにはいかなかった。
急場の提案ではあったが、もしこちらの要求が受け入れられれば、人間たちへの被害も少しは減らすことが出来るかもしれない。
「だが……魔王軍に与するということは、人々を害することにも繋がる……」
今回の条件が履行されたなら、ベルガンダはそれを盾に、より深い同盟関係を要求してくるだろう。突き放せば協力者を失い、受け入れれば魔王に利することになる。
眉間にしわを寄せると、女神は苦笑と共に水際から立ち上がった。
「仕方ない、竜神殿にお知恵を借りるか……」
シェートの方はしばらく問題ないだろう。魔将は前後不覚のまま眠りについているし、勇者の軍が来たところで、街道からは大分遠い森の中、逃げるのに不自由は無い。
扉を抜け、広場へと出る。
その途端に、強烈な違和を感じた。普段なら、それぞれが思い思いの場に座っている神々が、四阿の周辺に集まっている。
そして、こちらの存在に気づいた途端、怪訝そうな顔を向けて来ていた。
「どうやら、悪だくみは済んだようだな? "平和の女神"よ」
神々の集いの中心に立った"知見者"は、虚空に浮かばせた巨大な水鏡に何かの映像を投影した。
『こんなことは前代未聞だが、私から話をさせてもらおうか』
森の中でシェートとベルガンダが向かい合い、話し合う姿。
そして、鏡越しに聞こえる自分の発言が、静まり返った広間に響いていく。
「さて、説明してもらおうか、サリアーシェよ」
決して余人が知るはずの無かった森の中の会話を背景に、知恵の神は蒼き双眸を愉悦に細めた。
「これは一体、いかなる仕儀なのかをな」