4、勇者の軍
木々もまばらな雑木林の間から立ち上る煮炊きの煙。それらに群がるゴブリンたちを、牛頭の魔将ベルガンダは眺めていた。
リンドルを攻めて後、近隣の迷宮から呼び寄せた新たな兵士を加えた自軍は、かなりの規模に膨れ上がっている。その間に、いくつかの小隊に命じて、めぼしい村落で補給を行っていたため、物資には余裕がある。
「コモス、現在の部隊の状況は」
「はい。昨晩合流したアマレクの迷宮の者も加えれば、七千と言ったところでしょうか。とはいえ、内訳はオーク二千五百にゴブリンが三千二百、後はオーガとトロールを加えて六千強……残りは雑多な魔獣と言ったところで」
報告を受けて、ベルガンダはひとしきり今までの行軍のことを頭の中でさらった。こうした長期の移動では、体力不足による脱落や、単調さを嫌って逃亡する者も出てくる。
しかし、リンドルでの戦闘の後、兵士の増減はわずかな目減りで済んでいた。
「どうにか、訓練の成果も上がってきているようだな」
「はい。それに……リンドルでの一件が、どうやら兵士達の士気を高めたようで」
「それは……素直には喜べんな」
副官の一言に、牛の口元が苦笑いの形になる。魔王をその身に降ろしたということで、部下達の間では自分が最も魔王に寵愛されている、という誤解が広まったらしい。
実のところは、捕獲対象を前に頭に血が上った自分を、魔王が直々にたしなめに来ただけなのだが。
「それで、シェートはどうしている?」
「あいも変わらず、ですな。こちらの言葉に反応しない、という反抗的な点も含めて」
「たいした奴だ。コボルトにしておくのはもったいない」
腰を上げ、軽く体を反らせてこりをほぐすと、ベルガンダは群れの外れを目指して歩き出す。
「ああ、大将! メシはどうするんで!?」
「すまんが、こっちへ持ってきてくれ。捕虜に尋問しながら食うことにする」
大鍋を担いだ給仕係のゴブリンたちを引き連れ、見張りのついた荷車の前で腰を落ち着ける。檻の中に寝転がった灰色の犬頭が、こちらに気付いて起き上がった。
「起きていたか、調子はどうだ」
「別に、普通」
シェートと名乗るコボルトの青年は、落ち着いた顔で見つめ返す。虜囚になってから日は経っているが、衣服の汚れ以外は消耗の様子すら見られない。
「では、朝飯にするか。お前も一緒に食え」
椀に煮込みをよそわせ、軽く汁をすすると、そのまま檻の中に入れてやる。多少不安そうな顔をしたものの、コボルトは臭いをかぎ、軽く舌をつけ、何事か納得して、ようやく中身を食べ始める。
「そこまで気にする必要もあるまい。人の肉も、牛や猪とそれほど変わらんぞ?」
「人肉、食うな言われた。魔物の性、コボルトに毒」
不思議なことに、コボルトたちには『人の肉を喰らわない』という掟がある。一度人の肉を喰らえば、自身の持つ魔物の本性に引きずられ、無駄に血を流すのを好むようになるというのだ。
馬鹿馬鹿しい、と思うのと同時に、面白い風習だ、とも感じていた。
人間の肉を食ったからといって、魔物が交戦的になるということは無い。ゴブリンやオークは元々嗜虐的だし、オーガたちにとっては、同族以外の肉なら何でも狂乱の材料だ。
おそらく『自分達の弱さを理解しろ』という意味だろう。魔物としては最弱のコボルトが、人間をエサと見なせば、却って命を縮めることになりかねない。
「惜しいな。全くもって」
「別に。肉、色々ある。ウサギ、鹿、人間より面倒少ない」
「いや……惜しいといったのはお前と、コボルトのことだ」
臆病者で、最弱の存在。確かに魔物としてはこれほど使えないものも無いだろう。
だが、連中の小さな犬頭の中には、群れを作り上げて規律を守り、大きな目標を達成しようとする知性が詰まっている。
そして、目の前に居るシェートには、どのコボルトにも見られないはずの、勇猛さが備わっていた。
「シェート、一つ聞くが、貴様はなぜ戦えた。勇者と戦い、生き残れたのはなぜだ」
「お前、頭おかしい。俺、何度も言った。全部、サリアのおかげ」
「ああ。もちろんそうだろう。お前が使う"力"は、確かに神のものだ。だが、そんな上っ面のことを聞きたいのではない。お前を戦いに駆り立てた、もう一つの力のことだ」
眦に力を込め、コボルトを睨む。椀を床に置くと、シェートはあえて視線を外してみせた。
「俺、ただのコボルト。お前言うこと、むつかしい。良く分からない」
「やれやれ……困ったものだ。これでは魔王様に叱られてしまうな」
「知るか。困るお前。俺、関係ない」
シェートの暴言に、鍋を受け持っていたゴブリンの数名が牙を剥く。言った本人の方は気にも留めず、椀の中身をきれいに食べてしまった。
「もう少しどうだ?」
「いい。体動かさないとき、あまり食わない」
「それも狩人の心構えか」
「……おかしいか?」
こちらがほころばせた口元を嘲りと勘違いしたのか、小さな狩人は不機嫌に問いかけてくる。その態度に一層笑みを深くすると、ベルガンダは立ち上がった。
「メシの時間は終わりだ! 全員行軍準備! もたもたしている奴は、じきじきに蹴り殺してやるからそう思え!」
荒っぽい号令に、群れがあわただしく動き始める。魔獣使いたちが牽引用の大トカゲを引き出し、くびきでもって駄獣を荷車と繋いだ。
「ずいぶん、あのコボルトにご執心ですな」
「そうか? 我が主の関心が、こちらにも移ったかも知れん」
「本当にそれだけですか?」
食い下がるホブゴブリンの言葉を聞き流し、魔将は自分の天幕へと歩き出す。
「いいか! これから俺が鎧を付けるまでの間に荷造りを終えろ! まだもたもたしている奴があったら、俺の斧で二枚に下ろして蟲の餌にしてやるからな!」
再度の叱責に、未練がましく鍋の周りに集まっていたオークが身支度を始める。小隊を任されたホブゴブリンやゴブリンの術師たちが、教えられたとおりに点呼を取っていた。
知性も協調性もないと称された魔物たち。それに規律を与えることで、ただの群れが軍団として機能していく。
始めは面倒ばかりだったが、こうしてこちらの意図した通りに動いているのを見ると、喜びもひとしおだった。
「コモスよ。軍事というのは、存外面白いな」
「然様で」
「掌中に駒を玩び、先の展望を慮る……こうして自ら軍を指揮する段になって、ようやく身に沁みてきたわ」
魔王が自分に教えたかったのはこの感覚なのだろう。単に力が強いだけの魔物では、決して見ることの出来ない世界。それはおそらく、魔王自身が世界を見る時の視界そのものだ。
そこまで考えて、牛頭の魔人は苦笑した。
あまりに不遜すぎる、自分ごときが主と同じ視点に立ったなどとは。
その時だった。群れの端の方から、一匹のゴブリンが大慌てで駆け寄ってきた。
「大将! 見張りの術師から連絡が! 人間どもの軍が、こっちに向かって進んでくるようですぜ!」
「距離は?」
「山二つ向こうの街道に、騎馬が見えたと報告がありやした。斥候だろうってことで、詳しい状況を今探らせてます」
勇者の軍をそのままにした以上、追撃は確実にあると考えて、索敵をさせていたのが功を奏した。問題はこの先の動きをどれだけ読みきれるかだ。
端的な報告に頷くと、斥候の頻度と範囲を思い返しつつ質問を投げかける。
「見かけた時刻と、何騎だったか分かるか?」
「うちらがメシを食い始める直前だったんで、夜明けぐらいかと。二騎で来ていたとか言ってやした。装備は弓と皮鎧、馬具は着けてましたが、馬鎧も鞍袋も無かったようで」
索敵はインプや飛行魔を使った広範囲のものと、足の速い連中を使った部隊周囲の警戒をそれぞれ一日に三度出している。
「おそらく、人間たちは夜明けと共に行軍を開始したのでしょう。糧食も持たずに来ているということは、本隊は我々と半日ほどの距離があると見ればよろしいかと」
「歩兵が中心なのであればな。しかし、騎馬を中心にした機動力のある部隊なら、もう少し早いかもしれん」
そう口にしながらも、ベルガンダ自身は騎兵の突出はほぼ無いと考えていた。
過去に起こった数度の戦闘おいても、勇者の軍は歩兵を中心に運用していた。錬度の高い兵士を大量投入して、戦況を優位に進める堅実な戦略だ。
「斥候に伝えろ。勇者軍の本隊がいる場所をすぐに割り出し、絶対に目を離すな。コモスは全部隊に伝令、昼休憩を抜いて命令あるまで行軍とな」
「相手が歩兵であると踏んで、一気に引き離すおつもりですか」
「それもあるが、大切な荷物を輸送している最中だ。出来れば戦は避けたい」
鎧を身に着け斧を担ぐと、大きく息を吸い、そして号を放つ。
「時を無駄にするな! 行軍開始!」
シェートの見ている前で、周囲の環境はあわただしく変化していた。くびきにつながれた大トカゲが荷車を引き出すと、手槍を担いだゴブリンたちが周囲を固めて追随する。
ここまでは今までの行軍と変わらないが、兵士たちの表情にこれまでにない緊張が感じられた。
「サリア、こいつら、何かおかしい」
『こちらでも確認している。昨日は割りと緩んだ隊列だったが、今日に限ってはかなり整然と進んでいるようだな。それに、インプと、召喚された魔獣の斥候がまた飛んだ』
「……そこから勇者の軍、見えるか?」
しばらく何かを確かめるような沈黙があり、サリアは当惑したように言葉をもらした。
『それが、私の視界の範囲にはいないのだ。お前を中心にするため、見られる箇所は狭まってしまうのだが、少なくとも歩兵が徒党を組んで詰められる距離には確認できぬ』
「でも、敵来てる、違うか?」
『おそらくは。偵察の騎兵が哨戒に引っかかったのだとは思うが……それにしても、何かがおかしい』
女神の言葉にコボルトは改めて周囲を見回した。荷車を守るゴブリンの槍の数は普段の倍以上に増えている。トカゲの手綱を握った魔獣使いの表情も、何かに急き立てられるような雰囲気がある。
「多分、敵近い。引き離して逃げる。だから急ぐ」
『それもあるだろうが、おそらくシェート、お前の輸送を最優先にしているのだ。大量の兵を集めたのも、何らかの形で襲撃を受けると踏んでいたからに違いない』
ただのコボルトを引き連れるなら首輪に鎖を掛け、手かせでもつければ問題なかったろうが、自分の能力を恐れたのか、あるいは魔王に献上する手前か、こんな大げさな輸送を行っている。
自然と移動は街道を中心とするほか無く、魔物独特の悪路を踏破する機動性が殺されていた。
『おそらく戦闘になるだろう。その時がチャンスだろうな』
「分かってる。荷物、牛のところか」
シェートは軽く両手を挙げ、"力"を手枷に加える。直接手で触れなくとも、攻撃の加護は木の板で作られた枷の全てを覆った。
『戦渦が広がれば、おそらくお前は荷車から引き出されるだろう。それと同時に枷を壊すか……あるいは開放されたところで抵抗するほか無いな』
「足の鎖、壊す。手枷、武器代わり、する」
手の自由は完全に奪われていたが、両足を鎖で繋ぐ程度にとどめられていた。やる気になれば手枷を強化して鎖を断つことも可能だろう。
木枠にはめられた手首は少し痛むが、体の調子も十分な食事と休息で問題は無くなっている。
「休む、飽きた。体動かしたい」
『そうだな。休息はそろそろ終わりに……?』
サリアの声が訝しげになり、急に緊張が高まっていく。
『なんだ、これは!?』
「どうした?」
『魔王軍の行く手に、騎馬が待ち構えている! ……数は、おそらく千は越えるだろう、全て鎧を着けた騎士だ!』
サリアの視界で確認できるということは、馬の機動力ですぐに接近できる距離にあるということを意味する。見えない神座で、女神はあせりに声を上ずらせた。
『数が、どんどん増えていく……おそらく二千騎はいるぞ!』
「待ち伏せ……勇者、別の軍、こっち呼んだか!」
この挟み撃ちのために、わざと偵察部隊を発見させたのだろう。騎馬を寄せることも、あらかじめ計画していたに違いない。
『まずいぞ……これでは乱戦どころか、不意を打たれて全滅もありうる。いや、あの方のことだ、この事態を読みきった上で、魔将もろとも我々を倒す算段だろうな』
「どうする……今逃げる?」
『いや、少し待て……考えてみる』
鋭い制止を放ち、女神の声が再び沈黙した。その間も隊列はじりじりと進み続け、周囲の景色は雑木林から、大きな岩や背の低い木々が目立つ物に変わっていく。
『シェート、誰かを使いにやらせて、魔将を呼べ』
「待ち伏せ、教えるか?」
『魔物たちに五分の戦いをしてもらわねば、我らも共倒れだ。状況を拮抗させて脱出の機会を増やす!』
「分かった」
シェートはすばやく群れを見回し、手近にいたゴブリンに声をかけた。
「おいお前! あの牛呼んで来い!」
「ああ? なにいってんだおまえ。コボルトがおれにめいれい」
「早くしろ! この先待ち伏せいる! お前、死ぬ嫌なら、あいつ言え!」
顔を怒りに染め、それでもゴブリンは隊列を離れて、列の後ろへと魔将を探しに走っていく。残された連中が驚きと不信をない交ぜにした様子でシェートにがなりたてた。
「おい、まちぶせってなんだ!? なんでそんなことわかる!」
『言ってやれ。その方が意見が通りやすかろう。騎士たちはこの先の小高い丘の上で隊列を整えているとな』
「女神、上から俺たち見れる。この先、丘の上、鎧騎士、馬乗って待ってる」
「どうした!? 待ち伏せとは一体どういうことだ!」
守衛のゴブリンたちが半信半疑で騒ぎ交わすところへ、牛男が緊張した顔で駆け寄ってくる。
「この先、騎士たくさんいる。お前たち、待ち伏せてる。挟み撃ち」
「なるほど。朝のあれはそういうことか。コモス! 全軍停止! 急がせろ!」
驚くほどあっけなくミノタウロスが命令を飛ばし、荷車も魔物の軍もその場で止まる。
思う以上に訓練された動き。リンドルに向かう途中で遭った魔物の群れも、それなりに組織されていたことを思い出した。
「装備はどの程度か分かるか? 鞍袋か輜重隊は?」
「重い鎧、皆つけてる。大きい槍、馬、帷子ある。……うん……鞍袋、みんな持ってる、言ってるぞ」
「なるほど。近くの町から、本隊の進軍を受けて、夜通し駆けてきたと言ったところだろうな……昨日は付近で野宿して、俺たちが近くに来たので姿を現したか」
魔将は地面に付近の地形を書き付け、待ち伏せのあるところに騎士の絵図を加えた。
「お前、信じるか?」
「何がだ?」
「俺言ったこと、信じるか?」
「無論だ」
シェートの問いかけに、ベルガンダはこともなげに答えを返す。こちらの視線に気が付いたのか、牛頭はその顔に笑みの表情を作り上げた。
「この場面で貴様が俺を騙すことなどありえんからだ。むしろ、ここで俺たちに勇者の軍と五分の戦いをさせようという魂胆だろう?」
「……お前、頭いいな」
「よせよせ。こんなもの子供でも分かる計算だ。貴様は神の勇者として戦ってはいるが、元は魔物だ。しかも、勇者どもはお互い遭い争う関係、俺たちを殺すついでに、貴様もつぶすつもりだろう」
そう言いながら、ベルガンダは腰に下げた鍵を使い、檻の鍵を開け放つ。
「出ろ」
「いいのか?」
「それが貴様の望みだろう? 乱戦になったところで下手な動きをされるよりは、俺の手元に置いたほうがいい」
引き出され、手足のいましめを解かれると、代わりに荷車に数人のゴブリンが乗り込んでいく。その意味を問いかけるまもなく、魔将は全ての魔物に向けて、耳を壊さんばかりの声を張り上げた。
「部隊長を集めろ! これから作戦を伝える!」
魔将の一言で、群れ集まっていた連中の中から、きちんと装備を整えた者が進み出る。大抵はホブゴブリンだが、呪法をたしなむゴブリンや、オーガの姿もあった。
「斥候の報告で、この先の丘に騎士の待ち伏せがあることが分かった。南からこちらに来る本隊と合わせて挟み撃ちにする気だろう」
ベルガンダと、コモスと言う側近に挟まれる形でシェートは居並ぶ魔物たちの姿を初めて見ることができた。
皆、皮鎧に手槍で武装し、腰には小刀をぶら下げている。中には弓や投石器を下げているものもあり、今までに無いぐらい装備が整っている。
『今までの魔軍は単なる烏合の衆と言った感じだったが、この魔将が率いている連中は、かなり質が違うようだな』
「そこでだ、こちらからも連中に罠を仕掛けてやろう……ドラセル!」
「おう! なんだ大将!」
声を上げた一人のオーガを差し招くと、数名のホブゴブリンの隊長も集めて、荷車の方を指差した。
「お前たちの隊は、あの荷車を護衛しつつ、丘の騎士の集団に突撃だ」
「中身が外に飛び出ちまってますが、いいんですかい?」
「あの連中の目的の一つが、このコボルトなのは分かっている。待ち伏せに気が付いた俺たちは、こいつを逃がすために囲みを突破しようとする、と言うのが表向きだ」
荷車の中の連中も武器を構え、その中にいるシェートに似せたものを見えないように覆い隠していた。
「見え見えのおとり、ですが、効くでしょうか?」
「だからこそ、オーガの突進力だ。騎馬に対抗できるのはこいつらしかいない。ドラセルたちが抑えてくれている間に、俺たちも陣を展開して後詰の本隊を迎え撃つ」
「共に前進、とはいかんのでしょうなぁ」
「騎士たちは全力で俺たちを止めるだろう。しかも、この先の丘ではどうしても隊列を狭めざるを得ない。背後を突かれるよりは迎え撃つのが良かろう」
シェートの見ている前で、作戦会議は着々と進んでいく。これまで自分たちで作戦を立てる場面は何度もあったが、他人の、しかも軍隊の作戦立案を見るのは初めてのことだ。
「これまでの戦いによれば、敵は歩兵に槍を使わせ、箱型に陣を組んで押し進む形を取ってきている。本来ならオーガたちに中央を支えてもらいたいが、今回は無理だ。同じく槍を正面に押したてて進攻を防ぎつつ、左翼右翼に展開、投石部隊で削りにかかるぞ」
『なるほど。この男、かなり軍事を学んでいるらしいな。そして、知見者殿の軍はこちらでも"ファランクス"を中心に使っているのだな』
「なんだ、それ?」
烏合の衆、という思い込みを完全に払拭するような見事な動きで、魔物たちがそれぞれの場所に散っていく。その姿を眺めつつ、シェートは何気なく問いかけた。
『ファランクスというのは、陣形の一種だ。前後左右に、隙間無く槍と盾を持った兵士を集め、四角い陣形を取って前進する』
「……よく分からない。それ、強いか?」
『少なくとも、人間同士の戦いにおいてはな。それに、特殊な相手で無い限り、魔物相手にも有効ではある』
いまいちピンと来ない解説を聞き流している間に、魔物たちも割ときれいな隊列を組み上げている。同時に、二百人ほどのオーガの群れが、自分の乗っていた荷車を取り囲み、肉の壁とも言うべき光景を生み出していた。
「……進軍、開始!」
手にした斧を天にかざし、ベルガンダの号令が響き渡る。
魔物たちは一斉に鬨を上げ、地鳴りを立てて行軍を開始した。
輝く液晶モニターの向こう側で、無数の魔物たちがうごめき始める。多少輪郭にばらつきはあるものの、多種多様な魔物たちは、それでも槍の密林を作り上げながら、丘の方を目指して進んでいく。
先頭には大きな丸太を削りだした物を抱えたオーガの部隊が、その後をゴブリンとオークの混成部隊が追随していた。
『どう見る、康晴』
知見者の問いかけに、葉沼康晴は静まり返った執務室の中で、ほんの少し思考の糸を手繰った。
「オーガの隊を全面に押し立てて一気に突破、と見せかけて、丘の手前の盆地で本隊を迎え撃つ、そういう作戦だと」
『良かろう。そこまで見切っているなら好きにしろ。損耗率は三パーセントまでに抑えろ』
「了解」
画面の縮尺を変化させ、遠くに見える本隊の様子を確認する。魔物の本隊がいるところまで距離は五キロ程度。進軍速度から考えれば、騎兵とオーガの本隊が交戦に入った段階で雑木林を抜けるだろう。
幸い、雑木林は木々もまばらで、陣形を崩される恐れは無い。問題があるとすれば、視界不良の木々の間から外に出たとき、一気に弓や投石器で狙われた場合だ。
「エクバートさん。後一キロほどで森が切れます。魔物たちは槍兵を中心にした布陣で迎撃行動に入るようです。全員に盾の装備を、森が切れるまで槍は構えないように」
『了解。その他の連中は?』
「完全に森を抜けるまでは、方陣を保ってください。全部隊が展開したら、後は手はずどおりに」
画面には、小さな点のような魔物たちの動きと、森の中を進む人間たちが、ゲームのユニットのようにちまちまと進んでいく。
そんな整然とした動きの中、味方の一部隊の妙な動きに気が付き、康晴の指がその一群をタップする。
「隊に遅れが出ています。足並みをそろえて盾を準備させてください。何か問題が?」
『い、いえ。ここ一ヶ月に徴募した連中が、未だにこの動きに慣れないらしく……』
「今後、スキルの取得は個人用ではなく、【行軍歩法】などの集団用から取るように厳しく指導を。あなたの隊は森の中で一時待機。こちらの指示があるまで動かないように」
軽く舌打ちしすると、ステータスを表示して全体の能力を確かめる。この大陸に来てから徴募した兵士はレベルも低く、スキルも適当に取っている感じが見て取れた。
経験値を貯めさせる必要があるとは思っていたが、場合によっては訓練で底上げをする必要があるかもしれない。
『勇者殿。前方にオーガの群れ! どうやら荷車のようなものを守っているようですが』
「十分に引き付けてから攻撃を開始してください。ただし、打ち倒すのではなく、被害を最小限に食い止め、オーガ隊を足止めするだけで問題ありません。荷車から奇襲が予想されるので注意してください」
騎馬隊への指示が終わると同時に、オーガたちが一斉に丸太の槍を抱えて突進していくのが見える。その動きに一瞬馬たちがひるんだが、それでも乗り手は巧みに手綱をさばき、一気に駆け下りていく。
それを確認して後、指をスライドさせて画面を盆地中心に切り替える。予想通り、ゴブリンをはじめとする部隊は反転し、こちらを迎え撃つ形で槍を構えていた。
「エクバートさん。前方に敵の布陣。投石に注意して歩兵前進。一から四までの部隊を横一列等速で、第五部隊は森の中で待機させます」
『分かった。全体、等速で前進!』
雑木林を抜けて、盾を構えた歩兵がじりじりと進み始める。途端に、ゴブリンたちの槍の間から、数ドットほどの点が無数に盾に降り注いでいく。それが当たった部隊が細かにちらついて【MISS】という文字がいくつも踊った。
「盾を掲げて前進を優先、全体が森を抜けたら"この位置で"停止して、陣を組みなおしてください」
康晴の指が部隊の前方にある空間をなぞり、赤い線が描かれていく。森を抜けた兵士たちは、画面上の印が見えているように、指示している場所に集まって一塊になっていく。
まるで組体操かマスゲームのように、兵士たちは巨大な方陣をくみ上げていった。魔物たちは必死に投石や投げ槍でそれを阻止しようとしているが、オーガほどの突進力が無ければそう簡単に突き破られるものではない。
「……"竜騎兵"、そちらの準備はどうですか?」
『準備完了です。ですが、よろしいのですか? ここで我々を使ってしまって』
「あくまで待機状態を維持してください。状況の変化が起こった場合は、こちらから指示を出しますので」
『分かりました』
連絡をつないだ部隊は、雑木林の中に小さな光点で表示されている。部隊の編成が終了した段階で移動をさせればいいだろう。
そして、画面の中では、人間を建材にした巨大な『砦』が完成しようとしていた。
それまで、辺りに響いていた遠雷のような地鳴りが、尻すぼみに絶える。
シェートの目の前で石や槍を投げ続けていた連中も動くのをやめていた。
「なるほど……ああして時間を稼ぎ、戦場で陣を敷くか」
指示を怒鳴り続けていたベルガンダは、今は驚くほど落ち着いた声で、目の前の異様な事態を語ってみせた。
勇者の軍は、盾を持った兵士が石や槍を防ぎ距離を保ちながら、自らを隙間無く並べるという作業をひたすらに繰り返していた。想像していたのと違う、奇妙な戦争の一幕。
『分かるか。ああして隙間無くお互いをかばい合い、盾で投げつけられるものを防ぎ、そして長槍でこちらを突き通すのだ。一人二人ではない、何千、何万という人間が、一斉にそれを行うのだ』
「で、でもそれ、端っこ行けばいい、違うか?」
『良く見ろ、両翼に陣取った騎馬を』
目の前に陣取るゴブリンたちのせいで、視界は全く通らない。それでも何とか見晴るかそうとするシェートの後ろから、
「どうした、前を見たいのか?」
突然、肉厚な手が脇に差し込まれた。
「うぁっ!? な、なにする、やめろっ!」
「こら、暴れるな。お前にも全てを見せてやろうと言うのだ」
抗議する暇も無く牛頭がシェートを肩車の形ですえつける。一気に視界が開けた途端、勇者の軍の威容が、圧力を伴って目に飛び込んできた。
それは、巨大な壁だった。
視界の端まで続く大盾と、その間から伸ばされた長い槍。一本一本が持つ人間の三倍はありそうなそれが、林のように並んでいる。
ほとんど身じろぎせず、人間たちは何かを待つようにこちらを見つめていた。その両端には、鎧兜に身を包んだ騎士たちが待ち構え、こちらを伺っていた。
自然と目が人数を数え始める。十人が五十人に、百人を超え、それでもなお列が途切れない事実を知り、コボルトの意識がそれを理解するのを拒んだ。
「なんだ……あれ」
漏らした声が掠れている。緊張と恐怖が、胃に不快な感覚を呼び起こす。
生まれてからこれまで、シェートは軍など見たことは無かった。自分を捕まえた魔物たちは烏合の衆だったし、百人の勇者も、結局は利害を異にする人の群れに過ぎなかった。
だが、本当の軍隊、本当の戦場は、想像していたよりも、ずっと恐ろしい。
「か、勝てる、のか」
「勝たねばならんのだ。奴らは俺たちを皆殺しにする気だ。つまるところ、それが戦争というものよ」
『そして、我らはあれを相手にせねばならん。あの強大な軍を持つ"知見者"殿の勇者と、その神規をな』
ふざけるな。こみ上げた言葉を、あわてて飲み込む。ベルガンダにせよサリアにせよ、まるで森の木の実でも取ってくるように、勝つなどと口にしている。
正気じゃない、あんなもの、どうやって。
「震えているのか? 豪胆に見えて臆病か……本当に、お前は分からんな」
こちらの動揺を感じて、自分のまたぐらの下にある牛顔が面白そうに口の端を歪めた。
「お、俺、ただのコボルト。軍、戦う、知らない」
「だろうな。だが、貴様はそれでも戦ってこられた。それはなぜだ?」
「俺、戦わない、狩しただけ! こんなの……俺……っ」
「……狩をしただけ、か」
こちらの情けない弱音に、なぜか魔将は納得したように頷いた。
そして、大きく息を吸い、
「ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
まるで、大気そのものが爆発したような、咆哮。
鼓膜が激痛で麻痺するほどの叫喚に、目の前が暗くなる。同時に、それまで不動だった盾の壁が、ほんのわずかだが揺らめいた。
「良く見ろ! あの盾の壁とて、所詮は人の作ったもの! 揺らぎもすれば叩いて砕くこともできる! 見た目に惑わされるな!」
「あ……」
どやしつけるベルガンダの言葉に、それまで威容に呑まれていた連中が息を吹き返す。シェートの中からも、嘘のように恐れがぬぐわれていた。
「どうだ、少しはましになったか」
「え?」
「大きなものに恐れを抱けば、それが死につながる。お前とて、大物狩りをするときには腹を決めるだろう? 要は猪や熊を狩るのと同じだ」
その厳つい顔からは想像も付かないほど、魔将の声は優しかった。
こちらを励ますように、いや、間違いなく励ましていた。
「コモス! お前はマグデナ隊から左翼の全部隊を率いて左方面へ! 俺は残りを率いて右翼へ出る! オーク兵を全面に投擲部隊で援護、分かったな!」
『おおおおっ!』
「全軍、突撃ぃっ!」
魔将の激励に魔物たちが生気を取り戻し、一気に走り出す。
そして、シェートを乗せたまま、ベルガンダ自身もその波に乗ってすさまじい勢いで前進を開始した。
「うわあああああああっ! まてっ! 俺上乗ってる! おろせっ!」
「ふはははは! なら俺の背にしっかりつかまっていろ!」
ベルガンダの大きな手がシェートの首をつかみ、あっという間に背中にしがみつかされてしまう。
「サ、サリアッ! どうする! 俺逃げられないっ!」
『とにかくそのまましがみついていろ! 乱戦の中で地面に落ちたらたちまち踏み潰されるぞ!』
まるで親に背負われる子供のように、固い板金鎧の背中に全身で張り付き、首だけ出して前方を見つめる。その先には、盾をびっしりと構えた人間の群れを横目に見ながら、側面を回りこんでいく魔物の群れが我先にと走り出した。
地鳴りのような音が辺りに立ち込め、荒れた大地に土ぼこりを巻き上がらせる。空には今しも太陽が昇り、明け方の白い輝きが、褪めた青へと変貌しつつあった。
石ころや潅木を蹴散らして、皮鎧を着けたゴブリンの背中が、オークの肥えた姿が、一塊になって突進していく。シェートとベルガンダはその少し後ろ、魔物の群れの中間部分で、進撃の波の一部になっていた。
「右側面! 騎馬来るぞ!」
進攻する方向にいた百を超える騎馬が間近まで迫っていた。その馬蹄の響きさえ、すさまじい騒音の中では聞き取ることさえ難しい。
「ネンジェ、ガリマー、槍を立てて道をふさげ! オルド、マーゲン、踏みとどまって援護してやれ!」
数百を超える群れに向かって飛ばした指示が、あっという間に数十体のゴブリンたちに槍を構えさせる。石突を地面につけ、斜め前方に槍を突き出すようにして防御の姿勢を取り、その背後に弓やスリングを構えたものが迎撃の態勢を作り上げる。
「お、お前っ、全員の名前、覚えてっ!?」
「末端はさすがに忘れているのもいるが、部隊長の名前ぐらいはな!」
ずんっ、と、腹に堪える低音が戦場に響き渡り、数名の騎士が地面に転がり落ちた。それでも突進をふさぎきれなかったところから、人馬がこちらへ突進してくる。
「大将っ! あぶねぇっ!」
驚くほどの速さで肉の壁が作られ、魔物の群れが体を張って騎馬を押さえにかかる。馬がいななき、騎馬がその場に釘付けになる。
「ぬううううっ!」
巨大な斧が片手で振るわれ、瞬く間に騎士の首が数人分吹き飛ぶ。牛頭魔人の一撃に敵が怯んだ隙に、他の魔物が騎馬隊を槍で追い散らした。
つかの間、攻撃が止み、敵の槍列に向かって道が開ける。
「今だ! 騎士どもは抑えた! 突きくず……」
ベルガンダの鬨の声が、その途中で喉に押し込まれる。
あれほど堅牢だったはずの盾の壁が、きれいさっぱり消え去っていた。
代わりに現れたのは、お仕着せの制服と長い杖を手にした、無数の人間たち。
そして彼らは、異なった口で一つの呪を結した。
『打ち払え、凍月箭』
液晶画面に、誇張された魔法のエフェクトが咲いて散る。窓を閉め切った薄暗い部屋に電子の輝きが幾度と無く瞬き、康晴の顔に濃い影を作った。
『どうやら、勝敗は決したな』
知恵の神の言うとおり、タブレットに映し出される景色の中では、魔法の銀光に打ち抜かれて、ゴブリンの頭が砕け、オークの腕が叩き落されていく。その対岸に当たる自軍の陣地では、詠唱を終えた魔法使いの後ろから別の魔法使いが現れ、淡々と凍月箭を敵に解き放っていた。
「騎士の皆さん、ご苦労様でした。即時撤退をお願いします。負傷された方もいると思いますが、魔物たちが逃亡を開始するまでは安全圏に避難して待機を維持してください」
方陣を崩すことなく、魔法使いたちは入れ替わり立ち代り、魔法を唱えては同僚に場所を空けることを繰り返していく。
俯瞰図で見ると、左翼よりも右翼の騎士に損害が大きいようだった。魔将の指揮能力の高さによるものだろう。表示されたステータスには『死亡』も数多く『重症:出血多量』『重症:頸部骨折』などの文字が躍っている。
ため息をつき、テーブルに置かれたカップから水を飲む。
予定では一騎も無駄にする気は無かったのだが、思いのほか魔物のステータスが高かったらしい。戦闘に入る前の咆哮で、低下していた士気が回復されてしまったのも厄介だ。
『だが、これなら損耗率も低く抑えられるだろう。"テルシオ"のほうも、十分機能しているようだ』
「今後はファランクスから、テルシオを中心に運用します」
『無論だ。魔法科を兵科として成立させる人員がそろった以上、旧い戦術は必要ない』
瞬きするごとに、魔物の軍勢が"溶けて"いく。魔法の一撃で、数千いたはずの魔物が、刻々と数を減らしていく。本来なら半人前として、どの王宮でも仕えることすらままならない者たちの一撃によってだ。
その大半が、神規の力によって術師としての才能を賦与したものたち。術師のスキルを取得するだけで、神秘とは無縁の農民さえ自由に魔法を使いこなすようになる。
とはいえ、レベルが低いうちは、たった一発の凍月箭を数回撃つのが関の山だ。本来なら戦力にも数えられない、未熟な術師に過ぎない。
だが、それを十人、百人、千人と集めたら?
その数が増えるほどに、小さな力は巨大な暴力として顕現することになる。
この世界では誰も思いつきもしなかった、むしろ思いついたところで、必要な『未熟な術師』を調達する方法が無ければ成立しない部隊。
それを組み込んで完成したのが、この"テルシオ"という陣形だ。
長大な槍と盾を持つ兵士が方陣を組むのは、ファランクスに似ている。しかし、その中には多くの術師が配置され、盾を持つ兵士たちに守られながら、魔法の射撃を繰り返す。
地球の歴史では十六世紀のスペインで考案され、形を変えながら運用された堅守の野戦陣形であり、本来は魔術師ではなく、マスケット兵を運用する。
『そろそろ潮時だな。パイクを押したて、一気に殲滅せよ』
知見者の指摘に目をやると、あれほど数多くいた魔物の三分の一が消え去っていた。進軍するのに厄介だった投石部隊も残らず全滅したらしい。
「"竜騎兵"はどうしますか」
『これならば使わなくても問題はあるまい。丘の上のオーガどもも駆逐できたようだし、重騎兵を敵本隊に寄せて、残りの魔物を始末しろ』
二千騎の騎士に損耗はほとんど無く、大半が軽症か馬を失って戦線を離脱したものだ。百体ほどのオーガの死体が丘の上にいくつもの起伏を作っているが、その全てはぴくりとも動かない。
「隊長、直ちに無事な人たちを率いて、魔物本隊の掃討に加わってください」
『了解しました。五百騎でよろしいですか? 残りは後詰の輜重隊を守らせたいので』
「それで十分です」
康晴は画面の向こうで数を減らしていく魔物を一瞥すると、画面を小さくたたんで、リンドル村の様子を表示させる。
「ヴェングラスさん、そちらの様子はどうですか」
『今朝方、村の勇者殿が旅立ちました。後のことはそちらにお任せしても良いということですが』
「ええ」
新たに呼び出したウィンドウに映る、悄然と森の中を歩く姿。進行方向にあるものを確かめると、そのまま表示を消し去った。
「あとはそちらを要塞化しつつ、兵士の育成を中心に進めてください。次の指示は追って連絡します」
『……申し訳ありませんが、一つ質問が』
「なんでしょうか」
『今後、彼をどうされるおつもりですか?』
「知りません」
それが答えだ。戦略的な指示や現地でのこまごました折衝は自分の役目だが、"知見者"が重要であると感じたことは、こちらにも知らせずにすべきことだけを伝えてくる。
だが、軍師の方は、こちらの答えに息を詰まらせていた。
『曲がりなりにも、彼はこの地で民のためを思って尽くした勇者です。これ以上粗略な扱いをなさるのは、どうか』
「僕は何も聞かされていない、それだけです。意見があるなら、"知見者"に直接伝えられるようにしますが」
『……いえ。神の慮りを疑うような真似でした。どうかご寛恕いただきたく』
「はい。では、そちらはよろしくお願いします」
画面の向こうに見えるヴェングラスの顔は、苦悩に満ちていた。その姿の上に、村のステータス画面を重ね、施設の開発状況や兵士の錬度をチェックしていく。
《敵戦力、初期値より四十%ダウンしました》
メッセージがポップしたのを受けて、戦場を拡大する。すでに魔物たちは壊走状態になっているが、それでも秩序立った抵抗が続いている。おそらく魔将を倒さない限り、敵の士気は落ちないだろう。
「"竜騎士"を出します。これ以上時間を掛ければ無駄な消費が増えます」
『良かろう。思う以上に向こうも粘るようだしな』
康晴の指が、仮想の戦場を縦横に駆け巡る。液晶画面の表示が刻々と変化し、魔物の死体が積み上げられていく。
そして、森の中からそれは姿を現した。
戦の終末を告げる騎士が。
生臭い獣脂を練り固めたような、むせ返る血臭が辺りに充満しいていた。
進む先にも背後にも、無数に折り重なった魔物の死体が、じゅうたんのように敷き詰められている。
必死にしがみつくシェートの腕はすでに痺れが強く、どうしてこんなところにいるのかさえ忘れそうになるほど、疲労が体にしみ込んでいる。
「怯むな! 休まずに駆け続けろ!」
あれほど強烈に感じていたベルガンダの激励の声さえ、劣勢に塗りこめられて威力が弱まっていた。
その周囲を共に駆けているのは手槍を担いだゴブリンたちで、その大半が決して浅くない傷を負っている。速力の劣るオークたちは殿に回され、大半が"喰われて"しまっていた。
逃げるに任せて伸びた戦列は厚みを失い、防御も攻撃もままならなくなっている。
『シェート! 右側面、騎馬隊が来る!』
「右! 騎士来るぞ!」
「右手に騎士だ! 槍を立てて備えろ!」
尽きることなく突進してくる騎士の軍団は、魔物たちの数を確実に減らし続けている。
その手にしたのは槍ではなく、反身の入った肉厚の曲刀だ。貫くのではなく、すれ違いざまに切り裂いては離脱していくため、反撃すらままならない。
何とか騎馬の一撃を押し返し、再び走り出す群れ。その中の一匹が血まみれの顔を涙で洗いながら悲鳴を上げた。
「大将っ! このままじゃ俺たち、皆殺しにされちまう!」
「ムダ口叩いている暇で駆けろ! 歩兵では俺たちには追いつけん!」
人間の砦とも言える陣の内側から現れた魔法使いの部隊に、魔物の軍は壊滅的な打撃を受けた。その上、こちらが逃げ出すのと同時に盾を構えた歩兵がじりじりと進み始め、脇に控えた騎馬隊が、代わる代わる突進を繰り返す。
それでも何とか生き残ってこれたのは、事態の異常さに気が付き、即撤退を指示したベルガンダと、上空から出してくれるサリアの警告のおかげだ。
「おいシェート! 丘の上の騎士どもはどうだ!?」
「……まだいる、言ってる。道ふさぐ、守り固めてる!」
「そうか! しかしだ、よもや女神に助けられることになるとは、まことに奇しき縁よ!」
こんな状態に陥っても、魔将はまだ軽口を叩いている。豪胆というよりは、頭の中身が根本から違うとしか思えなかった。
だが、サリアの指摘によって、自分の置かれている状況を嫌というほど理解できた。自分たちのいる盆地は広くは無いが、一番近い山への道は前方の丘陵しかない。
そこを塞いだ騎士たちはほとんど無傷、全く逃げ道はなくなっていた。
「とはいえ、退路なしか……それなら、覚悟を決めねばならんな」
周囲を見回すと、ベルガンダは土煙を上げながらその場で急停止した。
「全員円陣を組め! 俺の準備が出来るまでうるさいハエどもを近づけるな!」
ようやく絶え間ない振動から開放され、シェートは大きな背中から滑り落ちるようにして地面に降り立った。
「何する気だ?」
「決まっているだろう。お前を守ってこの窮地から脱する」
そう言い切ると、魔将は手近にいた魔物に一本の綱を持ってこさせた。
「シェートよ。今からこれで、お前の体を俺にしっかり結びつける」
「ちょ……な、何言ってる!? またお前と一緒!?」
「仕方あるまい。これだけの大群が包囲する中、お前一人の足で切り抜けられると思っているのか?」
そうしている間にも、円陣の周囲で馬蹄の響きが高まっていく。必死に外側に槍を向けているゴブリンたちが、今にもシェートを食い殺しそうな目で睨みつける。
「わかったっ! でも、俺、武器欲しい! もしお前死んだとき、丸腰、死ぬだけだ!」
「言うと思ったのでな、用意させてある。コモス!」
身に着けていた服もぼろぼろになりながら、何とか生きていた副官のホブゴブリンが、荷物の入った袋を差し出してくる。無言でそれを受け取ると、シェートは中身を確認しつつ、手早く身に着けた。
『無くなったものは無いようだな』
「ああ」
「準備が済んだら俺の背に来い。弓と矢は落とさぬよう、しっかりくくりつけておけよ」
まるでそうするのが当然と言わんばかりの態度。だが、迷っている時間は無かった。
「頼む」
「任せろ。お前はなんとしても、我が主の下に届けてみせる」
無言でその背に取り付き、しっかりとしがみつく。同時に、ベルガンダは念入りにシェートを綱でくくりつけ、きっちりと結び上げた。
「お前たち! そのままでいいから聞け!」
数百名からなる魔物たちの円陣、その周囲を飢えた狼のように鎧騎士が駆け回り、その命を果物の皮でもむくように剥ぎ取っていく。
それでも、牛頭の魔将は恐れも悔悟も捨て去った声で、高らかに宣言した。
「これより、俺たちはあの丘目掛け特攻を仕掛ける。逃れられる道があるとすれば、あそこだけだ!」
そう言いつつ、足元の石を拾い上げ、無造作に投げ放つ。虚空を翔けた石つぶてが先頭の重騎士を馬から叩き落し、後続の部隊がたたらを踏んで動きを止める。
「いいか! お前ら、全員俺について来い! 遅れずに来たものは、必ずここから生きて出してやる! その代わり、背中のこいつに指一本触れさせるな!」
『おおっ!』
全員に活を入れると斧を担ぎ、ぐっと身を縮める。
「ご武運を」
「お前もうまく逃げ延びろ」
傍らの従者を一瞥し、ミノタウロスは、吼えた。
「行けええええええええええっ!」
次の瞬間、意識が後方に取り残されるほどの強烈な加速が、シェートの全身を引きつらせた。それまでの走りとは明らかに違う、まるでイノシシのような突進。
「どけええええええええええええええええええいいっ!」
鼓膜がむしりとられそうな轟音がはじけ、馬と人の悲鳴がそれに続く。きりもみしながら騎士たちが吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
「我らが将の後に続けぇっ!」
副官の声に、魔物たちが一斉に逃走を開始する。
それまで縦横無尽に陣を食い破っていた騎士が、猛牛の突進から身を翻して逃げる。その後ろにつき従う者たちを追う事もできず、騎馬の列が遠く離れだした。
「進め進め! 足を鈍らせるな!」
体そのものが命令と激励を生み出す角笛になったように、戦場をベルガンダの声が貫いていく。その威力が、魔法に打ちのめされ、騎士の剣に引き裂かれてなお、周囲のゴブリンたちに闘志を宿させているのだ。
そんな物思いを、天上の警告が打ち破る。
『シェート! 後方の陣から騎馬だ! だが……何だ、これは!?』
「どうした、早く言え!」
『そ、それが、騎馬はたった五騎だ! 一塊になって、お前たちの右から……いや、もう一部隊左から追いすがってくる!』
うろたえたサリアの言葉に、動きにくい姿勢で視線をやれば、五騎で十字編成を組んだ部隊が、自分たちを追い抜くように走っていく。
「おいシェート! あれは何だ!? 女神は何と言っている!」
「わ、分からない! 伝令か何か!? 良く分からない!」
うろたえたこちらの姿をあざ笑うように、十騎の人馬は自分たちのはるか先で反転、停止する。
「まさかっ、あんな連中で足止めをする気か!?」
「……あ……っ!」
唐突に、シェートの背筋を悪寒が駆け抜けた。すれ違いざま、騎馬の中心にいた者が、手綱を放してまで組み上げていた掌相に、過去の記憶が鮮やかに蘇る。
馬に乗りながら魔法を唱えられる魔法使い。そして、この状態で解き放たれる術は。
「みんな散れぇっ! 魔法が――」
シェートの警告を引き裂いて、爆炎の双華が魔物の戦列を苗床に咲き狂った。
「シェートぉっ!」
サリアの目の前で水鏡が真紅に染まり、ついで黒煙と土ぼこりが逆巻く。二発同時に発動した"烈火繚乱"の威力が、魔物の群れをずたずたに引き裂いた。
「こ……こんなものまで……扱うというのか」
"知見者"の用いてきた戦術、方形陣形を使った"テルシオ"については、概略だけは理解していた。竜神の指導の下、勇者の軍を倒すべく仕入れた知識にもあった。
その知識によって、目の前ので起こった事態に遅ればせながら気が付いてしまう。
「"竜騎兵"」
マスケットなどの銃器を携帯し、騎馬でもって最前線へと移動、敵の部隊を奇襲する遊撃部隊の総称。先ほどの"テルシオ"と並んで、銃を持つ兵士を有効利用する用兵術だ。
『火を吐く武器を携行する』姿から名づけられたとも言われる竜騎兵は、銃を魔法に置き換えることにより、真の意味で竜の如き力を得たのだ。
「もっと、早くに気が付いていれば……」
そう言いつつも、サリア自身それを有効に利用できたかは疑問だった。戦争に全く縁が無く、座学で身に着けた知識で戦局を変えるなど、神の身を以ってしても容易ではない。
「くそっ、シェート! 生きているのだろう! 返事をしろ!」
それでも我が身が石化する兆候は無い。まだ生きている、この程度で死ぬはずが無い、祈りながら煙と土の遮蔽に必死に目を凝らす。
『だ……大丈夫、だ』
爆心地のほぼ中心、無数に焼け焦げた魔物たちの只中に、仁王立ちする巨大な影。
全身を真紅の輝きに包まれたベルガンダは、周囲の惨劇と、我が身の無事を確認し、改めて斧を構えなおした。
『まさか、お前に助けられるとは思っていなかったぞ』
『俺、そんなつもり、ない! お前死ぬ、俺も死ぬ。だからだ!』
「シェート……」
いつも通りのシェートの姿に安堵するが、それでも苦境への絶望感はぬぐえない。魔物の軍も、ベルガンダも、勇者の軍に劣るものではないと目算していたのだ。士気の高さ、兵の錬度、魔物とは思えないその軍勢であれば、勝てないまでも壊走はありえないと。
だが、現実は予想をはるかに超えていた。
盆地の中心には黒く焦げた大地と、その中心にコボルトを背負った魔将が立ち尽くす。
周囲には意気をくじかれ、うろたえ、すがるように魔将を見つめる魔物。
反対に、後方から押し寄せる盾の波も前方の騎馬隊も、完全に勝利を確信し、力強く前進を続けていく。その前面を門番のように受け持つ竜騎兵は、油断無く次の術を用意する構えだ。
「このまま……では」
勝つ目は無い、その言葉を飲み込んで、必死に戦場を見回す。逃げ道や相手の隙は無いのか、あるいは何か利用できるものは。
太陽は、すでに天に昇っていた。
夜の闇は払われ、影たちは木陰や岩の下に追いやられていく。天候の変化に期待することは出来ない。神の奇跡を利用して逃れる術を与えたところで、どこまで逃げ切れるか。
『おい、シェート。一つ聞くぞ』
深く、落ち着いた声で、魔将が問いかける。その周囲には、もう軍団と呼べないほどに数を減らした兵が集まっていた。
『なんだ』
『俺に掛けた守り、この場にいる全員にくれてやることは出来るか?』
『無理。サリアの加護、俺触った奴だけかかる。お前ら仲間違う、サリア、新しく加護掛けるの、出来ない思う』
『よかろう。では、すべきことは変わらんな』
丘の上の騎士たちに向けて、ベルガンダの斧が突きつけられる。
『最後の難関だ。お前ら……全員俺に続けぇえええっ!』
止めるまもなく、牛頭魔人が土煙を上げて突進していく。
「ダメだ! そのままでは"竜騎兵"が」
『サリア! 相手の魔法、お前聞け! 唱える寸前止めさせる! あの時と同じ!』
はじかれたように指が動き、竜騎兵たちのそばに視界を寄せる。魔術師の唇が詠唱を紡ぎ、掌相が織られていく。
『み、右前方、竜騎兵に投石!』
突然聞こえたであろうこちらの声に、それでもベルガンダは手にした石を正確に投げつけた。四方を囲んだ盾持ちを巻き込んで、ドラグーンの一隊が崩壊する。
『ミーチェ! お前ら左のをやれ! 追い散らしてやるだけでいい!』
『合点だ大将っ!』
体中に傷を負いながら血まみれのゴブリンの一隊が竜騎兵に襲い掛かる。轡を巡らせて逃げ出す騎馬と入れ替わりに、重武装の騎馬隊が魔将目掛けて殺到する。
『あれを抜いて森の中に逃げ込め! 全員、必ず生きて会おうぞ!』
走る勢いを殺さず、巨体が大きく腕を振りかぶり、双頭の斧を騎士に投げつける。その一撃で十数名の騎士と馬が吹き飛び、
『うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!』
斧の後を追うように、ミノタウロスの巨体が宙を舞った。
鎧を纏った二メートルを越す肉の塊が、まだ無事な隊列に踊りこみ、人間たちを馬ごと踏みつぶす。
『ぬぅうううあああああああああああああああっ!』
自由になった両腕で二頭の馬の足を引っつかみ、大きく振りかぶって投げつける。逃れられたもの、不運にも下敷きになったもの、それらの悲鳴と絶叫が戦場に響き渡った。
それでも騎士たちは突撃用の槍を携え、拍車を掛けて突進を開始した。
仲間の死体を踏みしだき、鉄と肉の塊が、列を成して魔将を押しつぶそうと殺到する。
その切っ先が巨体と交錯した瞬間、人馬が天高く打ち上げられた。
『温い! これが勇者の軍の、騎馬の当たりかぁっ!?』
振り上げた拳のみで、鎧を付けた人間と馬が諸共に砕けて散った。その事実にいくつかの槍列が怯えて身をそらす。
『どうした小童ども! この俺を討ちたいなら、もっと強く当たってこい!』
恐怖に勢いが鈍った槍の一撃を、板金鎧の胸でへし折り、振りかぶった拳で兜ごと頭蓋を粉々に叩き割る。恐怖にいなないた馬の腹に蹴りを入れ、無事な集団へと吹き飛ばす。
一歩ごとに、右へ左へ騎士が払い飛ばされ、悲鳴を上げて逃げ惑う。
埃か枯れ枝でも払い散らすように、兵士たちの命がむしりとられていく。
「な……なんと、でたらめな……」
武器である大斧を失ってなお、ベルガンダの武威は敵を圧倒していた。
猛り狂う牛のように全身を屈曲させて、密集した騎馬の群れへと突進し、なぎ倒す。
騎士を鎧ごと叩き潰し、馬を軽々と投げつける膂力。単純かつ無慈悲に、死を撒き散らし続ける暴力装置。その姿は、まさに魔将の名にふさわしかった。
その威力に包囲がひるみ、隙を突いて魔物たちが森へと逃げ散った。
『よくも俺の部下を殺しつくしてくれたな!』
投げつけた斧を取り戻し、ベルガンダは怒りとも悦びとも付かない大声を叩きつけた。
『今回は俺たちの負けだ! だが、次は必ず貴様らを打ち破り、血潮の一滴、肉叢の一片余すところ無く、魔王様に献上してくれるからそう思え!』
そして、斧を担いで疾駆すると、大きく跳躍して残った騎馬の囲みを軽々と飛び越え、森の中へと走り去っていく。
後に残されたのは、叩き潰され、踏み荒らされた人馬の躯と、目の前の暴虐に怯えて立ち尽くした騎士たちのみ。
シェートの移動と共に遠ざかる景色を、サリアは呆然と見つめるしかなかった。