3、放逐
まだ夜も明けきらず、濃い霞が漂う村の中を、圭太は歩き出した。
もう少しすれば床に入っていた人たちも目覚めて、朝の仕事を始めるだろう。
そんな夢想さえ、今の自分には辛かった。
まぶたの裏に小石が入ったような異物感を、手のひらで擦って追い出そうとするが、それでも鈍い痛みと圧力は消えそうもない。
村の門まで来ると、そこに立っていた衛兵が、槍を掲げてこちらに向き直った。
「おはようございます、勇者殿。ご出立のことは聞いております」
「ありがとう、ございます」
その盾に描かれた"知見者"の紋章から目をそらすように、開け放たれていく門の向こうへと顔を向ける。
通いなれた村の前の道には、誰もいない。当然だ、見送りには誰も来ないように、あらかじめ言っておいたのだから。
「それでは、行ってらっしゃいませ。良い旅を」
良く躾けられた兵士たちは、奥ゆかしい笑顔で軽く頭を下げる。そんな彼らに圭太ができたのは、歪みそうになる顔を必死に引き締め、門を通り抜けることだけだった。
背後でゆっくりと、門が閉じていく。
「まっ……」
振り返った先にあったのは、鋲と鉄板で補強された扉。その向こうにあるはずの村の景色は、完全に見えなくなっていた。
踵を返し、歩き出す。
群青に染まりつつある空の下、足取りは重く、まるで枷でもつけているかのようだ。
歩いて、歩いて、分かれ道にたどり着く。
二手に分かれているその道は、左手に行けばリミリス王国へ向かい、右手に行けば山道を通り抜け、やがては古王国カイタルへと至る。
その分岐の前で、圭太は呆然と立ちすくんでしまった。
「どこへ行けば、いいんだろう」
静かな空気の中に、声はただ流れ、消えていく。
あるはずのカニラの答えは、全く届かなかった。
女神は、すでに自分のそばから去っているように思えた。もちろん、この世界にまだ存続している以上、加護は失っていないのだろう。
だが、もう以前のような繋がりを、彼女から感じることはなかった。
そして、圭太は思い出す。
"知見者"との会見のことを。
ヴェングラスの告白を聞いて以来、圭太の心は、日増しにその重さに耐えられなくなっていた。
村人たちは、魔王との直接対決による体調不良だと思ってくれたようで、そっとしておいてくれた。ヴェングラスもほとんど顔を見せず、世話をしてくれる尼僧たちも、余計なことを一切聞かなかった。
ほっとしたような気持ちもあったが、やりきれない感情は日に日に募り続けた。
「やっぱり、こんなのおかしいよ」
声に出して、自分の気持ちを宣言する。それでも、そばにいるはずの女神の答えは、沈黙ばかりだった。
「いくら、相手が強い神様だからって、何でも好き勝手にしていいわけじゃないでしょ? もう少し、早く来てくれたら、死ぬ人だって減ったかもしれないのに」
返事はあまり期待はしていなかった。最初のころはなだめすかすような言葉が何度かあったが、言葉は途切れがちになり、今はもう、独り言同然だった。
「カニラがどう思ってようと、僕はこんなの認めたくない。だって、これってどう考えても、村が襲われるのを利用して、前線基地を作りたかったことじゃないか! そんなことしなくたって、こんな風になる前に……奪い取ることだって、出来たのに……」
考える時間だけはたっぷりあったせいで、圭太にもおぼろげに事情は理解できていた。
リンドル村を軍事拠点にする口実のために、村に侵攻する魔物をあえて見逃したこと。
カニラに、シェートとサリアのことを吹き込んだのも、今回の一件に利用するための布石だったこと。
どこからどこまでが"知見者"の演出だったかは分からないが、こんなことのために、村が焼かれて人が死ぬなんて。
「何とか、抗議とかできないのかな……カニラが言いたくないなら、僕が代わりに……」
『"知見者"の神座は……閉じられたわ。遊戯が終わるまで、下級の神を入れないようにという制約を付けたそうよ』
「分かってたならすぐに言ってよ! そんな大事なこと!」
『……ごめんなさい』
苛立ちが、眉間の間で火花のように散る。女神の苦い一言を、圭太は鼻息で吹き飛ばした。
「それだけのことを言うのに、どれだけ待たせるんだよ! 僕がどんな気持ちで……」
「失礼します」
ノックと同時に、ドアの向こうから声が掛かる。勇者の軍の軍師は、涼やかな声で挨拶を述べた。
「お取り込み中のようですが、入ってもよろしいでしょうか」
「……どうぞ」
ためらいがちに了承すると、ヴェングラスは口元を引き締めたまま、入ってきた。
彼以外には随伴するものもない、扉の向こうにも誰の影も見えなかった。
「お加減はいかがですか?」
「もう大丈夫です……体の方は」
このところのフラストレーションのせいか、口調が荒くなってしまう。かすかに済まなさを感じたが、軍師は気にする様子もなく頷いた。
「なにか……あったんですか?」
そう問いかけてしまったのは、彼の表情が普段よりも固くなっていたからだ。
笑顔どころか、視線すら鋭くしてこちらを見つめると、彼は厳かに用件を述べた。
「我らが神、"知見者"フルカムトが、御身と会見をなさりたいそうです」
圭太はしばらく、何も考えられなかった。
やがて言葉の意味が脳にじわじわと浸透していくにつれて、疑問があふれ出す。
「ど、どうして!? なんでいきなりそんな……っ」
「神はただ一言、そのようにせよと」
『い、意味が分かりません! そもそもかの神は、下級の神格との対話を』
「ですから」
その場にいるはずもない女神に向けて、ヴェングラスは冷ややかに否定する。
「"病葉を摘む指"カニラ・ファラーダよ。あなたは会見に呼ばれておりません」
『なっ……そ、そのような勝手な真似が!』
「かの神のお言葉です。『我と渡り合う覇気もなく、自らの過ちに打ち萎れるばかりの野花など、摘むに値せず』と。言い添えますが、私どもはあなたに何を含むところもございませぬので、ご無礼お許しください」
やり込められ、燃え残った炭のようなカニラの怒りが空気に漂う。その一切を無視してヴェングラスは圭太を見た。
「もちろん。断っていただいてかまいません。我らが神は、今回の会見を行うか否か、勇者殿にお任せすると」
「そ……そんな」
どうしよう。
心の中に真っ先に浮かんだのはその言葉だけだった。
確かに、さっきまで自分は、"知見者"の暴虐に対して怒っていた。それに何か文句を言いたいとも思っていた。
でも、突然相手から、こんな風に機会を与えられるなんて。
『だ……だめよ! そんなこと!』
今まで聴いたことがないほどの大声で、カニラが耳元で絶叫する。
『これ以上、関わってはだめ! これも絶対、"知見者"の策略で間違いないわ!』
「そうお考えでしたらかまいません。ですが、よろしいのですか?」
そこで初めて、ヴェングラスは顔を緩めた。笑いではなく、苦しみを吐露する顔で。
「我々とて、神の御言葉の苛烈さに、袖を濡らしたこともございます。ですが、その道を正しいと信ずればこそ、我が勇者と共に使命を果たしてきたのです」
「そう……なんですか?」
「ですが、もし、ケイタ殿の言葉に一理あり、と我が神が感じ入られるのであれば……あるいは、何かが変わるやも知れません」
軍師の言葉を受け取りながら、圭太は考えていた。
なぜ"知見者"が、わざわざ自分と話したいと言ってきたのか。
カニラの持っている領土を奪うためなら、適当な理由をつけて村からおびき出し、魔物の仕業に見せかけて殺せばいい。
もしかすると、自分に利用価値があると考えているのかもしれない。だから、カニラと引き離して、会話をしようと言っているのかも。
その時だった。
疑心に固まりかけた心に、別の感情を注ぎ込む声が降ったのは。
『考えるまでもないわ! そんな甘いことを言って、知を司る神に、ただの子供に過ぎない彼が、何を奏上できるというの!?』
ただの子供。
女神の何気ないその言葉が、心の流れを変えた。
「これは異なことを。ケイタ殿は、あなたがお選びになった勇者なのでは? それを、ご本人の前でそんな悪し様に」
『違う! 私はそんな』
「分かりました。お願いします」
腰掛けていたベッドから立ち上がると、圭太はヴェングラスを真正面から見据えた。
「"知見者"との会見を、やらせてください」
『だめよ! これ以上はもう』
「カニラは黙ってて」
思う以上に、自分の言葉は冷えていた。重い怒りとどす黒い侮蔑が、言葉に乗る。
「大体……都合が悪くなれば黙りこんで、状況が変われば足を引っ張って、カニラ……本当に僕の味方をしてくれる気あるの!?」
『ごめんなさい、それでも私は……』
「言い訳なんか聞きたくない! 何も出来ないなら黙ってて! そもそもこれは、僕と知見者って神様の問題だ! カニラには関係ないだろ!」
荒げた声の塊が、完璧に女神の反論を砕いた。沈黙に包まれた部屋の中で、ヴェングラスは頷き、圭太をいざなうように扉を開け放つ。
「それでは参りましょう。会見の場はすでに用意しておりますので」
頷くと、彼に従って部屋を出た。
誰もいない長い廊下を抜け、兵舎に隣接した講堂へと入っていく。すでにそこには数人の魔法使いや僧侶たちが円になって並び、その中心に魔方陣が描かれていた。
「では、お呼びしますので、そこでお待ちを。では……始めよ」
ヴェングラスの合図で、術師たちは儀式に入った。
講堂の窓は締め切られ、どこかで炊かれた香の煙が、部屋の中を霞のように包み込んでいく。わずかに灯された蜜蝋燭の輝きが、ぼんやりとした輪を生み出して瞬いた。
低く唱え続けられる呪文は、今まで聞いたことのないものだ。異界の、本来ここにありうるべきではない神を顕現させる魔法。そのことに思い至ったとき、圭太は自分のみぞおちに重いしこりを感じた。
普段からカニラに親しんでいたせいで、すっかり忘れていた。相手は自分以上の力と知識を持ち、奇跡を起こせる存在なのだ。
気が付くと、辺りの空気がじわりと冷えていた。目の前の儀式に気おされたとか、そういうレベルではない。実際に部屋が寒くなっている。
「ヴェングラスさん……これって」
「召喚の儀を行うときは、こうした気温の低下は良く起こります。一説には、異界の存在を呼ぶ代償として、その空間にある"光韻"が喰われるためとも」
魔方陣の中心に、青白い光が凝り固まり、膨張していく。それを避けるように、儀式を行った人々が光から逃れるように下がった。
『なんだ、この雑な儀式は』
聞き覚えのない声が、不機嫌の塊となって、響き渡った。
中心に在った光が轟音を立てて揺らぎ、魔法使いや僧侶たちを荒々しく追い払う。
『こんな無様な招致の儀をせよと誰が命じた! 退け、下郎ども! 供儀さえ整えば、後は私が織り上げてくれるわ!』
冷たい叱責と共に光が形を変え、青く揺らめく炎に変わる。同時に、そこから解き放たれた行く筋もの輝きが、空間に細かい文様を描き上げていく。
それは氷河の青を糸として撚り、虚空に織り上げた巨大なタピスリのようになり、魔方陣の四方に壁となってそそり立った。
『来るがいい。我が幕屋の内で、思うところを存分に語ってみせよ』
輝く呪紋で織られた障壁に、人が通れるほどの隙間が開く。それが自分を招くものだと気が付いたのは、ヴェングラスの手がこちらの肩に触れたときだった。
「勇者殿、我らが神がお呼びです」
「は……はい」
圧倒されながら、圭太はよろめきつつ入り口に向かい、境界を踏み越えた。
それが合図になったように、辺りは巨大な大理石に囲まれた空間へと転じていた。
冷たく輝く白石の書架が、はるか彼方で壁となって四方をふさぎ、自分のいる位置から中空へと石橋が張り出している。
その先には執務卓に座り、羊皮紙のようなものを広げて読みふける男がいるばかりだ。
「来たか。こちらへ来い」
先ほどの光の中から聞こえてきた声が、机に座る赤髪の男から発される。
「あ……あなたが、"知見者"」
「他に誰がいるというのだ。そんなつまらぬやり取りをするために、ここに来たのか?」
厳しい言葉に不安と腰の引ける思いを感じつつ、それでも机の対面におかれた椅子に腰をかける。
改めて本人、あるいはその神と思しき姿を眺めると、緊張がわずかに解けた。
正直、神との会談というからには、相手も相当の姿をしていると思っていた。とてつもなく巨大だったり、光としてしか見えなかったり、あるいは周囲に居並ぶ天使とか。
「私はこけおどしは好まぬ。見た目で威圧などしてなんになる? ただでさえ、貴様ら人間は、偉大なものに怯え竦むだけなのだ。そのような醜態など、疾うに飽いたわ」
何気なく聞き流そうとした"知見者"の言葉に、圭太は耳を疑った。
「どうして」
「『どうして僕の気持ちがわかるのですか』だと? そんなもの、貴様ら人間を観察し、見知り続けた結果だ。貴様の視線、態度、行動から導き出したに過ぎん。その身の内に宿る、浅薄な魂を覗き見る必要などない」
神の言葉はひどく冷たく、こちらに対する露骨なあざけりが、氷山のように見え隠れしている。圭太の中で、未知のものに対する畏怖が敵対者への鈍い怒りに変わっていく。
「それなら、何のために僕を呼んだんですか? そんなに何でも知っているなら、僕があなたに何を言いたいかぐらい、とっくに分かってるでしょう」
「では、貴様は自身はどうだ? ここに呼びつけられた理由が分かるか?」
手元の書物から視線を上げると、"知見者"はこちらに視線を合わせた。こちらを値踏みするように、全てを見透かすように、じっと見つめてくる。
「僕を、何かに利用する、つもりですか」
「具体性もあったものではないな。質問するならもう少しうがった言葉を述べるがいい。ならば私は、貴様の何を利用しようと言うのだ」
「い、今の僕に、利用価値なんてあるわけないじゃないですか……村の実権は、あなたたちが握ったも同然だし……前線基地を造る目的も達成した……あとは……」
言いながら、圭太はこの先起こるはずの未来を想像していた。
あれだけ周到に善意の救助者を演じてきた、"正義の勇者軍"なのだ。自分を謀殺のような形で追い出すわけがない。
「僕が……自分から、村の勇者を辞めて、出て行くようにすれば、全部あなたたちの思うとおり、って訳ですね」
「そこまで思い至ったか。使役している神はクズだが、使っている駒の方はそこそこ優秀なようだ」
「だったら、尚更分からないですよ。あなたの勇者本人か、ヴェングラスさんに言わせれば済む話なのに」
指摘を口にすると、神は口元を薄く曲げた。
「その通りだ。この会見は一見するとひどく効率が悪いように見える。だが、その効率の悪い方法をあえて取った理由があるわけだ」
こちらを試すように、酷薄な笑みを浮かべた神は圭太を見つめ続ける。
完全に優勢にある相手が、更に自ら進み出て会見をしようとする理由とはなにか。
「分からぬか? まぁ、仕方なかろうな。全ては貴様には想像も付かない、深慮の上に成り立っているのだからな」
「想像も付かない……こと?」
「今後の神々の遊戯、その運用に関してだ」
フルカムトは、虚空にいくつもの水鏡を浮かばせた。
そこには幾つもの村が焼かれ、魔物たちが人々が蹂躙される光景が映し出されていた。
「見ろ。この惨憺たる有様を。魔物共は民草を容赦なく殺し、畑を焼き、食料を奪う。この悲惨を止めるために、勇者という存在はあったはずだ。違うか?」
「は……はい……その通りです」
「だが、実際はどうだ」
吐き捨てるように知恵の神が言い放つと、映像は全く別の光景を見せた。一匹のコボルトを追い回す、勇者たちの姿を。
「これは……シェート君の……」
「私は常々感じていた。遊戯のシステムには歪みがあると。あらゆる小さき神にも門戸を広げ、使役した勇者を育てれば、世界を救う力を得られる。そして魔王を滅ぼすことで、その世界に平和を作り出せるとな。しかし、そんなものは誤りに過ぎん」
映像は百人の勇者の姿だけでなく、以前知り合った大剣使いの少年が救った村の"その後"や、シェート討伐に向かったために、手薄になった村や町が魔物の被害にあう姿を刻々と映し出していく。
「小神どもにかけられる加護には限りがある。それゆえ、揮える力も小さい。その結果、勇者はその勤めを果たす前に、経験値を獲得するために奔走し、救うべき民を見捨てることさえ厭わなくなった」
神は滔滔と自説を述べる。その雄弁さにはさっきまでの負の感情はなく、こちらに何かを伝えようとする意思を感じた。
「おかしくはないか? 神とは信徒を善き方へ導き、健やかに日々をすごさせるよう、慈悲を垂れるものではないのか? 他者を蹴落とすべく権謀術数に腐心し、民草を蔑ろにするなど、あってはならないこと。そうではないか?」
「言ってることは分かります……でも、それが」
「私はな、この遊戯に勝利した暁には、一定数の封土を持たぬ小神を、遊戯に参加できぬようにするつもりだ」
疑問をさえぎり、フルカムトはさらに言い募る。
「力無きものが、世界の行く末を決める戦いに首を突っ込むからこそ、徒に場が混乱する。此度の戦いにおける小神たちの行動を見れば、それは明らかだ。他の神々も私の言葉に首肯しよう」
何かがおかしい。
言っていることの根本は正しいはずなのに、相手の述べた結論に違和感を感じる。
今回の一件を否定の材料にして、一定の領地を持たない小神の参加を禁じるというその言葉が引っかかる。
「……あ」
脳裏に閃いた事実に、圭太は声を上げていた。
今回の一件、百人の勇者と一匹のコボルトの戦い、その結末。
遊戯に参加していた【一定数の封土を持った神】の凋落。
そして、フルカムトの『主張』から導き出される未来にあるのは。
「遊戯の……独占」
答えにたどり着いた圭太へ、赤髪の大神は満足そうに頷いた。
「だが、それこそが全ての者にとって最も善き道であるのも事実だ。そうは思わないか」
違和感が急激に神への嫌悪に変わっていく。彼の言うことがどこまで計算のうちかは分からない。だが、全て仕組まれたものであるとすれば、納得できるわけがない。
「シェート君と勇者たちを戦わせたのも、あなたが!?」
「あんな瑣末ごとに、いちいち謀略など張り巡らせるか。だが、ゼーファレスの失策が大きな波紋を呼ぶことは見えていたし、面白い駒を使って、事態を動かしたのは事実だ」
水鏡に新たな姿が映し出される。大きなネズミを二本足で立たせたような姿の神を、フルカムトは面白そうに眺めた。
「当初の予定では、このネズミがモラニアの覇者になると踏んでいたのよ。こやつの神規なら、ゼーファレスのような力任せの加護に対応でき、十分勝機はあった。そして、全ての小さき神を併呑しようとする、強い野心を抱えていた」
「その上で、あなたが勝つことも見えていた……シェート君がやったように、モンコロのルールを使って、レベルの高い兵士を勝つまで何度もぶつければいいから……」
「小心なネズミゆえ、多少は時間が掛かろうとは思っていたが、思ったよりも事態が動いたのは望外の吉事であったわ」
あの結末を見てなお、この神は動じていない。あの小学生の勇者のような神規を持っていない分、シェートの方がはるかに楽な相手だと考えているのだろう。
「そして、サリアとコボルトの命運もほぼ尽きた。後は奴を捕らえた魔将ごと磨り潰してやれば問題はない」
「そうとは限らないでしょう!? あの二人なら、まだ何か……」
「それを封じる手立ても考えてある、だが、その前に一つ、やっておくべきことがある」
神の言葉はとても穏やかだった。その内側にある物に気づきさえしなければ、やさしいとすら思えただろう。
しかし、突きつけてきた言葉は、酷薄以外の何物でもなかった。
「選ばせてやろう。不名誉な死か、名誉ある勇退かを」
「不名誉な死……って、一体、何を」
「簡単なことだ。リンドル村の崩壊は、貴様があのコボルトを村に入れたことが原因であると"証明"するのだ」
首筋に寒気と痺れが走り、胃の奥に重圧がのしかかる。それでも、圭太はそれを振り払うように声を上げた。
「そんなでっち上げ、うまく行くはずがない! 村の人たちだって、簡単にだまされたりなんてしないはずだ!」
「誰が簡単にいくなどと言った。だが、時間が経てば経つほどに、状況は私の策に味方していく。貴様がこうして村から離れている瞬間にもな」
フルカムトの言葉に、圭太の脳裏に浮かんだ事実がある。この数日、いや魔王軍に敗れて以来、村の人々との交流が極端に減っていたことに。
もちろん、急激に悪評を流すような真似はしなかったろう。だが、焼け野原になった村を立て直したのも、新しい生計を用意したのも全て、勇者の軍によるものだ。
「窮地を救ったのは貴様かもしれん。だが、その後、村を建て直したのは、私の軍だ。今や影響力の失せた貴様に、どれほど抗弁の余地がある?」
「それでも……それでも、僕はずっとこの村を守ってきたんだ!」
「貴様が村を守ってきた……だと?」
フルカムトの顔には、明らかな嘲りが戻っていた。
「それならば聞こうか。なぜ貴様は、勇者としてのレベルを上げもせず、村で安穏と暮らしていた?」
「あ……安穏なんてしていない! ただ……その……僕は」
「『戦うのが怖くて苦手』だから、村の勇者になったと、自分でも言ったではないか。だから、内政を中心に行い、自分に危害が及ばないように、村人や傭兵の後ろに立って指示をするだけの存在になった、違うか?」
"知見者"は薄く笑い、こちらの言葉を待つように黙り込んだ。
戦うのが怖い、そのことは村人に一度も言ってこなかった。カニラには打ち明けたが、他に知っている"人間"はいないはず。
「まさか……あの時のフィーとの会話を!?」
「それだけではない。貴様がどんな風に村で過ごし、村の人間と語らい、誰と親しみ、誰と距離感を持っていたかをもな」
一体どうやって、いや、どうして自分のことをそんなにまで調べているんだ。
こちらの狼狽を見越して、フルカムトは水鏡にリンドル村の映像を投影した。
「今回の遊戯において、私は二柱の小神に注目していた。一つは、遊戯のシステムにすがって、神々の世界に混乱をもたらそうとした疫神、イヴーカス。もう一柱が貴様に力を与えた女神、"病葉を摘む指"カニラ・ファラーダ」
村の情景は、ちょうど鳥が見下ろしたような視点から始まった。それは焼け焦げた箇所がまだ残っているものの、全く以前のような穏やかな情景だ。
「イヴーカスの存在は、遊戯の害を示すための凡例だ。野心に駆られ、神々の世界が乱されることへの忌避感……あやつは十分すぎるほどに踊ってみせた。そして、カニラと貴様も、十分な働きを見せてくれたわけだ」
「僕たち……が、何を」
「小神の力など、全く役にも立たないということをだ」
映像の中の村が、"光輝の兵団"の兵士たちによって復興されていく。人々は笑顔で新しい希望に向けて再建の槌を揮っていく。
だが、そこには、いるべきはずの自分がいない。
「考えてみるがいい。もし、貴様がもう少しレベルを上げ、村への防御を強化できれば、今回の被害は防げたのではないか?」
「そのためには何十レベルも上げなきゃいけないって……でも、村の人たちと協力していけば、何とかなるって、カニラが……」
「その女神に、あと少し加護を与える力が備わっていれば、貴様も安心して己のレベルを上げることができたかもしれん。それについてはどう考える?」
「う……」
カニラと自分は、なけなしの加護と萎えそうになる勇気を振り絞って、村を支えようとしてきた。でも、その結果、村は押しつぶされた。
「確かに、カニラ・ファラーダの考える"民を蔑ろにしない勇者"というのも、正論には違いあるまい。だが、あの女神にはその正論を後押しする力が、圧倒的に足りなかった!」
神は立ち上がり、こちらに歩み寄る。無意識に下がろうとした圭太の体を、背もたれが押しとどめ、身動き一つ取れなくなった。
「そして貴様だ、三枝圭太! 貴様は己の臆病を改善することなく、ただ神の加護にすがり、ひたすら現実から目を背け続けた! 力なき神と心弱き勇者! この度し難い組み合わせの巡りが! 村の惨状を呼んだのだ!」
「そ、それでも! あなたたちが村を見殺しにしたのは……」
「では、あの場に私の軍がいなかったとすれば、どうするつもりだったのだ」
冷め切った青い目が、圭太を見下ろしてくる。その圧力に抑えられて、身動き一つ出来ないこちらを、心の底から侮蔑しながら。
「サリアとコボルトに頼ることでしか、村を守る手立てを見出せなかった貴様が、そんな大言を吐くか? どこまで愚昧でいれば気が済むのだ」
「で、でも……あの魔王軍の侵攻は……あなたが、仕組んだことだって……」
「勘違いをするな。モラニアの魔王軍は、常に貴様の治めていたリンドルを狙っていた。我が軍が攻めるまでもなく、いつかは同様のことが起こっただろう。だからこそ、村の程近いところにダンジョンを築いたのだ」
神の言葉は圭太の理解を超えつつあった。確かにリンドルは街道の要衝ではあるけど、そこまで重要じゃないはずで、もっと裕福な村がいくつもあるのに。
「モラニアの魔将は、他の大陸のそれとは違う。雑兵を育成し、軍としての体裁を整えようとしているようだ。そのために、貴様の村を"モデルケース"として選んだ」
「……モデル、ケース」
「勇者との戦い方を学ばせ、軍を運用するための糧とするためにな。貴様の村は、魔王軍にとっての錬兵場だったのよ」
事態の絵解きをされても、圭太はただうつむくしかなかった。想像もつかないところであらゆる力が働き、それに翻弄される自分。その頭上に容赦ない言葉が降る。
「カニラ・ファラーダに、サリアーシェほどの胆力があれば、私も利用の仕方を変えたろう。あるいは貴様に、ほんの少しの勇猛さがあれば、荒れ狂うモラニアの中で自らの居場所を見出したかもしれん……だが、貴様らはそうではなかった」
そして、神は断罪した。
「貴様らは弱かった。それこそが罪なのだ」
返す言葉も、気力もなくなっていた。
これ以上、何を言えるだろう。たとえ、"知見者"がどんな思惑で軍を動かし、一連の計略を企てたとしても、自分たちが強かったなら、それを跳ね除けるすべがあったはずだ。
自らが客人として招いたコボルトが、それを証明してしまっている。
最も弱く、力ない魔物が無敵の勇者を打倒したという事実が、皮肉にも"知見者"の言葉を裏付けていた。
「これで貴様にも、自分が置かれている立場が理解できたろう。改めて問うぞ」
のろのろと顔を上げると、"知見者"フルカムトは、有無を言わせない口調で告げた。
「不名誉な死か、名誉ある勇退か、選べ」
そこでようやく、圭太は追憶から顔を起こした。
思い出すだけでも重い苦痛を伴う、会見の記憶を振り払うように。
すでに日は昇り始めた。こんなところに立ち止まっていては、山に入る村人たちに姿を見られる可能性もある。
『貴様らの力と領土は安堵してやる。遊戯の終わりまで、好きなように生きるがいい。だが、あのコボルトと交誼を結ぼうなどと思うな?』
去り際に、"知見者"はそう付け加えた。
その後のことは何も覚えていない。気が付けば、自分の部屋のベッドで呆然と虚空を見つめていた。
カニラが何事か話しかけていたようだったが、答えないままに過ごした。
そして、ヴェングラスから唐突に『出立』の指示を出されたのが一昨日のことだ。
『これをお使いください。衆人が見守る中、演説などを行うのは中々骨でしょうから』
手渡された紙に書かれていた言葉は、ひどく簡単で、当たり障りのないものだった。
自分の壮行会。実感の湧かないセレモニーが準備されていく。何も知らずに別れを惜しんでくれる村の人たちに挨拶をし、あっという間に時間は過ぎる。
そして、圭太は壇上に立ち、請われるままに紙片を読み上げた。
『み、みなさん……今日は、僕のために……こんな席を設けていただいて、ありがとうございます』
口に出した途端、胸が痛みに疼いた。自分が望みもしないまま設けられた宴席に、感謝しなければならないなんて。
『まず、この場を借りて……勇者でありながら、力至らず、この村を守りきれなかったことを、そして、亡くなった方々にも、お詫びを申し上げます』
それでも、自分の力なさが原因だと思うと、今すぐにこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。"知見者"の言葉がどうあれ、自分が守れなかったことに変わりはない。
『大変……ありがたいことに、"知見者"様のお力添えで、村は存続し、今後も外患のないよう、守備隊を置いていただけることになり……とても……感謝、しています』
だが、その救い主は自分の勢力を拡大するために、この村を利用しただけなんだ。それを知っていながら、自分は何もできない。
『後顧の憂いがなくなったから……というわけではありませんが、今一度、僕は自分自身を鍛えなおすために、修行を始めるつもりです』
何のために? 自分はもう村の勇者じゃない。本当ならもっと早くやっておくべきだったことを、今更始めたからって、何の意味がある。
"知見者"にとっても、僕にとっても都合のいいだけの、ただの体裁作りだ。
『何人かの方には、ここに残って欲しいという声もありましたが……甘えが出るといけないので、誰も頼れる人のいないところで……やり直しを……』
それ以上、こらえることが出来なかった。何より、居並ぶ集団の中から突き刺さる視線に、耐えられそうもなかった。
役立たずの、能無しの勇者。そういう目が、少なからずあったのを覚えている。
ヴェングラスに支えてもらい、ようやく壇を降りた時には、嗚咽を漏らしていた。
そして今、どこへ向かうとも知れないまま、自分は街道を歩いている。
これからどうすればいいんだろう。
圭太は空を見上げ、口を開こうとした。結局、その行為は中途で止まり、発されることなく胸の奥にしまわれる。
全てをむしりとられた今、自分には何の価値もない。
そのことを思い、圭太はもう一度、惨めな我が身を嘆こうとした。
それでも、涙はただの一滴も、こぼれる事はなかった。