プロローグ:真剣
ぴしり、という厳しい音が、狭い畳の部屋に響き渡った。
「王手……だ」
九×九の升目が描かれた木目の盤面に視線を落とし、次いで目の前の存在を見る。
痩せてしわの寄った顔にからかうような笑いを浮かべ、祖父はこちらを見つめていた。
対局をするときに身に着ける、鉄紺色の着流し姿も悠々と、あぐらをかいて様子を伺ってくる。
「どうだ、あるか?」
「――ありません」
しぼり出すように敗北を告げると、老人は今度は完璧な破顔を生み出した。
「はっはっは! ジュニアじゃ敵なしのおめぇも、まだまだ俺から見りゃひよっこってこったな!」
どうしても納得がいかないまま、ひたすら盤面を凝視する。
一体どこで間違えた?
相手の角道を切ったところか?
攻めを厚くし過ぎたのか?
そもそも、最初の――。
「やめときな。それ以上読んだ所で、お前にゃまだ無理だ」
「……っ」
「負けず嫌いは勝負師の徳、そいつは忘れちゃなんねぇ……だが、それだけじゃ埋められんものもあるんだよ」
そう言うと、祖父は一口茶をすすり、懐から一本の扇子を取り出した。
「欲しがってたろ、おめぇにやるよ」
まるでバトンのように、無造作に手渡されたそれを、おずおずと受け取る。
「でも……これは……」
「そいつはただの扇子さ。俺がこの年になるまで、後生大事に抱いてきた"未練"も、たっぷり染み付いているがな」
ふと、遠い目をすると、祖父は寂しそうに笑う。
「未練って?」
「色々だ。ああしておけばよかった、ああしなければ良かった、って話だ」
その言葉に、視線を盤面に落とす。
孫と言う贔屓目を取り除けたとしても、祖父の棋力はアマ棋士に劣るものではない。
むしろ、プロのそれにも匹敵すると感じる。
「どうして」
言葉は自然と突いて出た。
ずっと聞きたかった疑問が、たやすく喉を通り抜ける。
「どうして、じいちゃんはプロにならなかったの?」
「……そうだな」
目を閉じて、祖父は考え込んだ。
はぐらかされる、そう思った時、しわの寄ったまぶたが開かれた。
「理由は色々あるが、その中で一等をあげるなら、俺が根っからのシンケンだったってことだな」
「プロは……真剣にやってないってこと?」
こちらの質問に、祖父は一瞬驚き、今日一番の笑い声を上げた。
「はっはっはっ、そうかそうか。もう若い連中には、シンケンなんて言葉は言ってもわからねぇか」
そこで言葉を切ると、祖父は懐に隠していた右手をすっと差し出す。
手の人差し指は、中途でなくなっていた。
「その昔、真剣師ってぇ、頭のいかれた連中が、世の中にはごまんと居たのよ。俺はその……生き残りみてぇなもんだ」
「真剣師?」
「金や命、雇ってくれた親分の名誉をかけて、盤面で切った張ったの大立ち周りをする奴らのことさ。そんな生き方をした挙句が、このザマだ」
普段、祖父は決して自分に右手を見せなかった。
対局の時も左手で打ち、ずっと着流しに隠したままだった。
「それ……切られたんだね」
「落とし前にな。あん時は痛かった、ははははは」
こともなげに言い放つと、再び手をしまう。
「奨励会、いつからだ」
「来月」
「じゃあ、俺と打つのも、コレで終いだ」
寂しそうに笑う祖父と、手の中の扇を見比べる。
餞別、つまりはそう言う意味なのだ。
「真剣の打ち方は、プロのそれとは違う。場を荒し、相手を引っ掻き回し、場外乱闘にもちこむ……場合によっちゃイカサマも辞さねぇ、粗い手筋だ……そろそろ、俺の色を抜いておく頃さ」
「でも……じいちゃんのは、そんなんじゃ」
「ダメだ。そもそも、俺ぁ足を洗ったはずだったんだ。指一本と引き換えにな」
駒が取り去られ、盤面が空になる。
磨き上げられた木目が、やけに褪せて見えた。
「今日を限りに、俺の将棋は忘れろ。俺のことも、出来れば誰にも言うなよ」
「どうして……」
「身内に真剣がいたなんて知れたら、連盟のお偉いさんが渋い顔するだろうからな。俺なりのケジメって奴だ」
つと席を立った紺色の着物姿が、背中越しに問いかける。
「康晴」
「……なに?」
「その名前、誰から貰ったか、わかるか」
「多分。せんせ……師匠にも、言われたこと、あるから」
満足そうに頷くと、祖父は歩み去っていく。
「強くなれ……その名前に負けないぐらい、立派な棋士になれ」
最後に、一度だけ振り返ると、祖父は悪戯っぽく笑いながら、言った。
「いいこと教えてやろうか」
「何?」
「俺ぁ、そいつに勝ったことがあるんだぜ」
それ以上の質問を封じるように、祖父は襖戸の向こうに消えた。
目を開けると、そこは石壁に囲われた冷たい部屋だった。
木と紙と畳で出来た和室のイメージが、拭いさられていく。執務卓の椅子は、そこそこ座り心地が良く、つい、うたた寝をしていたらしい。
机の上では煌々と、タブレット端末が輝いている。康晴は指先を滑らせ、戦況と各地の状況を確認していく。
どのぐらいぶりだろうか、祖父との最後の対局を夢に見たのは。
あの日以来、祖父は一切家で将棋の話をしなくなった。
どれほど願っても、対局をしようともしなくなった。
数年後、祖父は亡くなった。
あの時の言葉の「真実」を語ることなく。
稀代の名人に勝利したという言葉の真贋を。
「勇者様」
ノックと同時に伝令が部屋に入ってきた。
「テメリエア王国の使者がお出でになられました」
「……わかりました。すぐ行きます」
一礼して去っていく相手を見ることもなく、席から立ち上がる。
窓の外には、相変わらずなじめない異世界の城址と、門をくぐってやってくる、テメリエアの使者の列が見えた。
旗竿に翻る紋章旗や、馬に乗った騎士の列、その後列に続く装飾された馬車。
その全てが、安っぽく感じた。
現代のゲームや実写映画に慣らされた目にとって、彼らの美的センスは野暮ったく、行動は泥臭く、どうしようもなく、みすぼらしかった。
ファンタジー世界など、妄想よりも安い現実にすぎないのだと、改めて気付く。
いや、これが現実だとしても、自分には何の意味も無い。
「こんなところで、立ち止まっていられないんだ」
これで、ようやく手が進む。
また一手、目的に近づく。
こうして、遠く離れてみて、自分がどれほど餓えているのかが分った。
自分は求めているのだ、将棋を。
取り戻したい、そう願う。
そのために必要なんだ、これからの一手が。
窓から歩み去れ、架台から緋色のマントを取ると、肩に羽織る。
そして康晴は、振り返りもせずに部屋を出た。
この後19:00より一話が投稿されます。引き続き楽しみください。