17、魔の王
目の前の村の門が焼け崩れていく。
施された防御の魔法のせいか、村の壁は延焼していない。その向こうでは未だに天を焦がす炎が踊り狂い、この距離からでも牛頭を炙ってくる。
「部隊の建て直し、完了いたしました」
「被害状況は?」
顔をしかめて、コモスは首を振る。
「一応、弓兵のほとんどは生き残っておりますが、槍兵の方は三十を残すくらいかと。戦える者にいたっては十名かそこらで」
「村を捨てる覚悟だったのだろうな、俺の見通しが甘すぎたようだ。北門の配置は?」
「すでに完了しております。ご命令を」
勇者の動きと判断は相当なものだ。避難誘導が完了した時点で、進攻ルートとなる南門付近を魔法で焼き払い、家屋を延焼させて炎の壁と変えて妨害を行う。
その後、北面に集中したオーガたちに対処し、一人でも多くの村人を逃がすつもりだろう。大魔法を連発した後ではあるが、勇者の持つ加護の力を考えれば、オーガたちを再び魔法で焼くことも可能かもしれない。
「北門を破壊後、オーガ隊は各自散開。村人は見つけ次第、食って構わんと伝えろ」
「的を絞らせず、救援に気を取らせるわけですな」
「後続部隊は合図があるまで待機。森に展開した遊撃隊をここへ呼び戻し、残存兵と合流させろ」
「……森は、もう見張らなくて良いので?」
不思議そうに問うコモスを制し、ベルガンダは斧を手に取った。
「ああ。もう必要ない」
まるで幻のように、それが目の前に現れる。
星狼にまたがった一匹のコボルトが、未だに立ち上る炎を背に、こちらをにらみ付けていた。
シェートは、こちらを見つめる巨大な魔物に気おされないよう、歯を食いしばる。
背丈はオーガよりも一つ分上だろうか、牛の頭と筋骨逞しい体つき、明らかに魔法で防御力を高めているらしい鎧や籠手、脛当てが見える。
それどころか、人間の騎士のように鎖帷子をその下に当てていて、むき出しの部分は顔以外にはなさそうだ。
「サリア、あれ、なんだ」
『ミノタウロス……それなりに特殊な魔物で、一部の世界にしか生息しておらん人魔の一種だ。力が強く、斧を好んで用いる、魔法は特殊な職能にあるもの以外、得手としないそうだ……この部隊を統括しているのは、あのもので間違いないだろう』
その長身と同じぐらいの長さを持つ戦斧を構え、背後に控えた弓兵や槍兵の生き残りが身構え始める。
シェートも、右手に携えた武器を視界の端で確認した。長い棒の先に、フィーに渡した物のと同じ山刀がくくりつけてある。
ナガユビ、山狩りの下働きの名を冠した、狩人が最後に頼りにする武器。
『だが、直接相手をする必要は無い。ひたすらかき回せ!』
「行くぞ、グート!」
掛け声を共に鐙を踏み込み、星狼が目の前の敵めがけて一気に走り出す。その動きを察知して牛頭魔人が列の後ろに下がり、弓隊が弦を引き絞った。
「グート! 左!」
体を倒し、狼の体がほとんど直角に左折、急激な針路変更に弓隊の姿勢が崩れ、何人かの射手が矢を取りこぼす。
弓を撃つ時は、胸を張り、肘を引くという形を取って姿勢を固定する必要がある。そのため、背中側に抜けようとする相手には素早く対応できるが、腹側に回り込もうとする相手は狙いにくい。
左回りの円を描きながら高速で走るグートに、ほとんどの射手が矢を取りこぼすか、明後日の方向へ狙いを外してしまう。
「慌てるな! 無理に狙おうとせず、先読みして退路を塞げ!」
それでもミノタウロスの叱責が弓兵に活を入れ、鋭さを増した矢弾が体を掠める。視界の端に映る弓兵たちが、中央の司令役を中心に円の陣形を取っていく。
こちらの動きにあわせて陣形が変わる。群れを作る動物は、そうやって外敵の存在から身を守りやすくする形をつくるものだ。
そうさせることこそが『ナガユビ』の役割。
「コボルトを近づけるな! 魔術師は詠唱を開始!」
円の中心に居た数匹のホブゴブリンが杖を掲げる。その口に詠唱が上せられた瞬間、
『今だ! 圭太殿!』
サリアの声と共に、闇の中から銀光が迸った。
「伏兵だと!?」
炎に焼かれた門の左手、濃い影になった壁から放たれた"凍月箭"で、二人の魔術師が打ち砕かれ、
「はぁっっ!」
すり抜けざまに振るったナガユビで、一人の射手を切り飛ばし、すばやく隊列の脇を駆け抜けた。
「こちらに勇者を寄せているだと!? バカな、それでは村の守りは!?」
驚くミノタウロスを尻目にナガユビを収め、素早く弓を引き抜く。
「ケイタ! 魔法使う奴、頼む!」
「分かった!」
体を起し、弓を引き絞る。鐙が下半身を支え、上半身が背骨を軸に立ち上がる。
射形を律したシェートの手が、よどみなく弓弦を解き放った。
「しっ!」
「ぐああっ!?」
一人の肩を打ち抜き、素早く矢を番える。その間に流れるような詠唱が闇から届き、ミノタウロスが圭太のいる場所を指差した。
「弓隊、勇者を狙え、槍隊! 盾を押し立てコボルトの射線を封じろ!」
「グート!」
太股を緩め、鐙を蹴るようにしてグートの後方へ飛び降り、
「ゴアアアアアアッ!」
「ぎゃああああっ!」
身軽になった狼が、射手の足首を咬み裂きながら引きずり倒し、その開いた隙から槍兵の眉間へ一撃を打ち込んだ。
「こいつうっ! くるなぁっ! うがあああああっ!」
新たな犠牲者を求めた狼の顎が、鋭い猟師罠のように槍兵の足に喰らい付く。その白い体に槍を振るおうとした兵士が、銀の光に貫かれて絶命する。
「コモス! 今すぐ下がれ!」
劣勢を見て取ったミノタウロスが叫び、グートが素早く兵士の囲みから抜け出す。斧を構えなおした人魔は、油断なく周囲を見回しつつ指示を飛ばした。
「残った弓兵は威嚇を行いつつ後方退避、槍兵はコモスを守れ!」
「ベルガンダ様!?」
「命令だ! 下がれ!」
ローブをつけたホブゴブリンとともに兵士達が引いていく。残ったのは、斧を手にした牛頭の魔物だけだ。
「良くぞ殺しも殺したり、だな」
弓を構えたこちらに注目しながら、それでもミノタウロスは上機嫌に笑っていた。
「見ろ、こいつらを。長いこと手を掛けて、面倒を見てきた兵が、貴様らのせいで台無しになってしまったぞ」
「それがどうした」
目配せでグートを呼び戻し、視線を外さずに魔物を睨む。
「お前、村攻めた。そういう魔物、殺されること、考える当たり前、違うか?」
「……なるほどな」
「なに?」
牛は頷き、斧を構えたまま一歩近づいてくる。肌を刺す威圧感に、足がわずかながら震えた。
「貴様、本当にコボルトか?」
「え……?」
突然の言葉が胸を刺す。
あの時、同族に言われたのと全く同じ言葉を、ミノタウロスは口にしていた。
「巧みな射撃の腕、狼を使っての機動攻撃、あまつさえ勇者と連携を取って俺達を撃退しようなど、ただのコボルトであるはずが無い」
「お……俺! ただのコボルト! 神の力貰っただけ! それ以外、無い!」
「神の力……だと?」
シェートの言葉に、牛頭が驚きに目を開く。
その顔が次第に緩み、大きく口を開いて、爆笑の形と取った。
「は、はは、はははははは、ふははははははははははははは、そうか、そうなのか! 我が主の言ったのは、こういうことか!」
いかにも愉快そうに、どこまでも心地よいといった風情で、目の前の巨躯が笑いで体を揺すっていく。
「なるほど、目を見開かねば分からぬとは、よく言ったものよ」
何かを勝手に納得したミノタウロスは、その顔を真面目なものに改めて、構えを取る。
「名乗らせてもらおう、俺はベルガンダ。このモラニアの魔軍を従える魔将」
「……え?」
『なんだと!?』
驚いたシェートをおかしそうに眺めやり、ベルガンダと名乗った魔将は、恐ろしい一言を放った。
「魔王様がお待ちだ。俺と共に来い、変り種のコボルトよ」
「なるほど。これは面白い」
執務卓に座った"知見者"フルカムトが、その冷たい顔を、かつて無いほどの喜色に変えていく。
「貴様もそう思わないか? "病葉を摘む指"よ」
水鏡の中に映っているのは、リンドル村郊外の情景と、そこで魔将を名乗るミノタウロスと相対するシェートたちだ。
『な、なんで……俺、魔王……待ってる?』
さっきまでの強い表情はすっかり鳴りを潜め、見ても分かるほどにコボルトがうろたえている。壁の方に立った圭太も、事態の推移にあっけを取られて見つめていた。
『なぜだと? 貴様だろう、"審美の断剣"の遣わした勇者を殺し、エレファスで百人の勇者をことごとく平らげた魔物というのは』
『そ……それは……』
『隠さなくていい。貴様のことは、すでに魔王様もご存知だ。そして、その噂を、この俺に確かめて来いと仰った』
「なるほど。どうやらあのコボルトは、我らだけではなく、魔の者にも注目されていたということだな」
面白い見世物を見物するように感想を述べる。いや、この大神にとっては自分以外の営為など、全てが見世物なのだろう。
「ち……"知見者"様! なぜ、貴方がこのような映像を」
「だまれ、今良いところだ」
彼の注目を知らないまま、ベルガンダは少し間を置き、告げた。
『魔王様が、貴様を所望している』
『……え?』
ミノタウロスは、まるで子供が菓子でもねだるように片手を突き出した。
『俺と共に来い。貴様も魔の者の端くれ、我が主に忠誠を誓うのに、なんの迷いもあるまい?』
『ふざけるな! 俺っ、サリアの……サリアのガナリだ!』
「ふ……ふはははははっ!」
苦しみを吐き出すように叫んだコボルトに、"知見者"遠慮ない嘲笑を浴びせた。
「聞いたか? あのコボルトめ、自分を称するのに下賎な狩人の役名を使ったぞ」
カニラは、あざ笑う"知見者"をにらみつけた。
「おやめください。彼の者をそのように悪し様に言われるのは」
「……なんだと?」
あの場でシェートがためらったのは、自分の立場をどう言っていいか分からなかったからだ。魔物に追われ、勇者に滅ぼされる。その運命を変えるために、全てを狩ると誓ったなら、勇者を公言することはできない。
「彼は、彼の思いからあのように言ったのです。それを笑うなど」
「くだらん。そんな辛気臭い叙情の類を、我が聖域に撒き散らすな、屑が」
『サリア……聞かん名だな。まぁ、魔物を使う女神など、人間の世界に社を建てるどころではあるまいが』
「言われておるわ。所詮、浅ましく勝ちを拾い、他の者の世界を奪い去った女神など、魔物に侮られるが似合いか」
水鏡の向こうのシェートが弓を立て、弓弦を引き絞る。
だが、その姿には、最前までの力強さも、意志の力も見えなかった。
『お、俺、すべての勇者、魔王、狩る決めた! だから、お前ら、仲間、ならない!』
『ほう? それは……聞き捨てならんな』
鏡越しでも分かるぐらいに、牛頭魔人の威圧感が変わって行く。手にした斧を折れよとばかりに握り、腰を深く沈め、目の前の小さな魔物を殺意の視線で射抜く。
『実力は申し分なし、神と契る奇妙な縁を持ち、意気も軒昂。だが……』
怒りで煮えたぎった息を吐き出すと、ミノタウロスは驀進した。
『我が主に逆らうことは、許さん!』
まるで、鋼の津波だ。
斧を腰だめに構え、肩口からまっしぐらに襲い掛かってくる牛頭。全身を覆う鎧の重さなど忘れたように、突風の速度でやってくる。
弓では止まらない、よけても間に合わない、体が完全に固まって、動くことさえできない。
シェートの全てが真っ黒な絶望に塗りつぶされ――
「ぎゃううううううううんっ!」
一瞬、何が起こったか分からなくなった。自分の体が弾き飛ばされ、鼻先をかすかに擦ってミノタウロスが通り過ぎていく。
その黒い影の向こうに、投げ出されていく星狼の白い姿。
「グートぉっ!」
遅れて大地に投げ出される衝撃と共に、時間の動きが元に戻る。
さっきまで生き生きと動いていたグートの体が、血を吐き出しながら地面に横たわっている。
「なるほど、いい動きだ。良く仕込んである。だが、無駄に命を散らしたな」
急制動の土ぼこりを巻き上げながら、ミノタウロスは居丈高に言い放った。
「死の数刻にあがけない、弱虫の主をかばって命を落とすとは」
「う……うわああああああっ」
三段重ねの神威を鏃に乗せ、引き絞った弓から必殺の一撃が飛ぶ。
途端にミノタウロスの斧が跳ね上がり、たった一振りで矢が地面に叩き落された。
「なんだ、この気の抜けた一発は……仲間を殺されて臆したか?」
「く……」
『シェート! 冷静になれ! グートは大丈夫だ!』
サリアの声と共に狼の体が輝き、よろめきながらも起き上がってくる。
「……これが神威という奴か。まさか本当に、神と契約を結んだ魔物がいようとはな」
目の前の奇跡を物珍しそうに見やると、いよいよもって嬉しくてたまらないといった顔で、魔将は笑った。
「貴様がただのコボルトだと? 笑わせるな。神を篭絡し、奇跡をその身に降ろし、勇者を狩りこめる。そんなことができる者が、ただの魔物であるはずが無い!」
『聞くなシェート! 我らの間には契約と信頼があるのみ! こやつの言葉は事情を知らぬがゆえの邪推に過ぎん!』
「重ねて言おう、コボルトよ。我が主の物となれ!」
「いやだ! 俺……俺、魔王狩る!」
大声を出して必死に自分を鼓舞する。確かにこいつは強いが、いつかは狩らなくてはならない相手だったはず。
どうやって狩ればいいのか、それだけを考えろ。
「なるほど、あくまで逆らう気か……いたしかたあるまい」
牛頭が再び腰を落とす。斧の柄を腰に当て、再び力を溜めていく。
「手加減はせんが、なるべく死ぬな。俺が魔王様に叱られる」
弓を収めてナガユビを引き抜き、赤と白の加護を纏わせる。これは猪狩りと同じだ、自分ひとりの弓で狩れるものじゃない。
「グート、ケイタ! 俺、囮なる! 隙見て攻撃頼む!」
「わ、分かった!」
『全員、よけることを前提に考えろ! 誰が狙われるか分からん!』
身構えたこちらにミノタウロスが口を歪め、その足が勢い良く大地を踏みしめようとした。
『さすがに、これ以上は任せておけんか』
唐突に、魔将の口が場違いな言葉を放った。
『忠誠心が高いのは結構だが、せっかくの貴重な存在を潰させるわけにはいくまい』
いきなり構えを崩し、その場に立ち尽くす。完全に戦意は失われ、まるで初めてこの状況を目にしたように、周囲を見回していく。
「な……なに、言ってる……お前」
『報告は受けていたが、こうして実物を見ると、また違った感慨があるものだ……いや、まだ私が見たというわけではないか』
自分の行為を他人事のように語った人魔は、ありえないぐらいに穏やかな顔でシェートを見つめていた。
『改めて言わせて貰おう、"私"のものになれ、コボルトよ』
語りかけてくる声の調子が、野太く粗野なものから、しなやかで良く通る美声に転じていく。
凄烈としか言いようのない武人の気勢が凪ぎ、ただひたすらに、甘く、魂に染みるような呼びかけに変わる。
『私は奇貨を求めるてきた。神の勇者を全て殺し、魔に勝利をもたらす為には、ただ力があるだけでは足りぬがゆえに』
すでにミノタウロスは構えを解いている。無防備に素顔を晒し、斧の存在すら忘れたように、散歩でもするような調子で歩み寄ってくる。
それなのに、怖くて、何もできない。
『そんな時だ、お前のことを知ったのは……自らの分をはるかに超えた、まさしく奇跡を為した者を!』
「く……来るな! こっち来るな!」
『幾千の機略と幾万の奇策を用いても、決して届かぬ彼岸……お前の存在が、そこに届く鍵になりうると!』
目の前に居るのは、牛頭の魔人ではなかった。そう見えるだけの、まったく別の何かへと変わって行く。身に纏った影がその濃さを増し、妖しく、寒気のするような気配を、遠慮なく放散していく。
そして、狂った笑いを浮かべたそれは、手を差し伸べた。
『私と来い、我が愛しき、最も弱き怪物よ!』
「ひ……っ」
「やめろおっ!」
絶叫と共にミノタウロスの背中で光が爆ぜた。
影から躍り出た圭太が杖を突き出し、必死に次の魔法を唱えに入る。グートが歯をむき出しにして身構えている。
『……リンドルの勇者よ。私の邪魔をするのか』
「シェート君から離れろ!」
『そういえば、貴様には借りがあったな。我が配下を殺し、大事な迷宮まで破壊してくれた……その怨恨はきっちり晴らしておかぬとな』
戦場に、新たな気配が宿り始める。強い寒気がミノタウロスを中心に集まり、歯ががちがちと鳴り出していく。
『この愛しき魔物を見出してくれた礼もある。少々力を使うが、まあよかろう』
そう言うと、それは跪き、命じた。
『"我が声を聞け。仮初の息吹を漏らし、偽りの光を取り戻せ"』
声に、それらは即座に応じた。
倒れ付していたはずの魔物たちが、操り人形の唐突さで起き上がる。すでに命の光を失った目が、不気味にうごめいた。
『屍霊術だと!? まさか、そのものは!』
「き……"清らなる恩威、病の労苦を取り去り、傷痕の憂いを払うもの、病葉を摘む指の銘において、我は命ずる"!」
叫ぶように呪文を唱える圭太の周囲に、白い光が集まっていく。その輝きに照らされて死者の体に宿った黒いもやが薄らいでいく。
「"死してなお起き上がりたるものよ、使徒にして征伐者、神威を顕す三枝圭太の声により、再び忘我の眠りへと還れ"!」
一瞬、圭太そのものが光の塊になったように輝き、全ての死体がぐらり、と揺れて倒れ付す。
『魔術師にして神の使徒か。こんな村に閉じこもり、己を腐らせている者にしては、中々の手際だが…………いつまで寝ている、"起きろ"』
たった一言で、死者たちが起き上がる。
あまりの事態に圭太はおろか、グートさえ尻尾をたらし、怯えたようにあとずさる。
『に、逃げろ、シェート』
天から降ってくるサリアの声は、完全に動揺していた。今まで培ってきた全ての自信が崩れ落ち、目の前の事態に驚愕していた。
『そやつは……その魔物の中に宿っているものは!』
「ま……魔王……」
絞り出した声に、牛顔が優しく笑う。
ようやく答えにたどり着いた者をねぎらうように。
そして、彼は紡ぎだした。
『"共に寿がん、闇に堕ちゆく夕づつを"』
広がっていた冷気がぞっと深くなる。強く深まり、死者たちの黒い影を一層濃くする。
『"汝が息吹は夜露の如く、意気は落日の残光の如く、肉叢は、熟れ崩れし香菓の如く成れ"』
怖気を催す詠唱が闇の敷布を広げていく。それはグートの毛皮をも脅かし、圭太のまとった光を貪っていく。
『逃げろ! グート! 圭太殿!』
『"払暁の輝星は絶え、冥なる理を我は請ず"』
「くっ、そおおっ!」
渾身の破術を込めた矢が、放たれた瞬間から力を弱めていく。強烈な魔力がちっぽけなコボルトの抗いを飲み込み、魔王に届く前に砕け散る。
『"膿爛れ、腐れ堕つる遺屍の苦涯も泡沫の夢"』
圭太の魔法がことごとく死者の体に阻まれ、中央に立った敵に届きさえしない。狼の牙が死者の闇を一瞬だけ払うが、あっという間に力を取り戻し、何事も無かったように立ち上がっていく。
『"導かん寂莫の囚獄、集わしめん喪裾湿りし泣女"』
禍々しい言葉に従って、死者たちが泣き声を上げる。大気が死臭と瘴気に満ち、命亡き者たちがシェートたちの体に掴みかかる。
『イェスタ! あの場にある全ての魔力を打ち消せ!』
『できませぬ』
やけにはっきり、審判の女神の声が響き渡る。
『魔王の為すことに、神は一切手を出さぬこと。それが遊戯を敷く上で、魔族と取り交わした盟ですので』
無常のいらえを耳にしたように魔王は笑い、
『"命の篝の終わりしに、挽歌を謳え――屍霊狂餐"』
結された唱呪と共に、腐った沼地のような闇が、溢れかえった。
一瞬、水鏡がどす黒く塗りつぶされ、次いで向こうの景色が明らかになる。
「あ……」
牛頭の魔物以外、立っているものは誰も居なくなっていた。コボルトも、狼も、自分の勇者さえも。
「……お、お願いです!」
事態を上機嫌で眺める"知見者"に向け、地に頭を擦り付けてカニラは叫んだ。
「彼らを、お助けください! どうか!」
「貴様はあの場に我が兵団を差し向け、魔王の分け身と戦えというのか?」
「そ……それは……」
「そのために貴様は何を捧げるつもりだ? 壊れかけた村か? ろくに鍛たわってもいない勇者の腕か? いずれにせよ、もう遅かろう」
牛頭は倒れ付したコボルトに目もくれず、勇者へと歩んでいく。
「だめ……やめて!」
「貴様ごとき小神は知らぬだろうから、教えてやろう。魔王、もしくは魔王の分け身の周囲ではな、魔族に利する規約が適応される」
必死に顔を上げた圭太が、何もできないまま恐怖に目を見開いた。
「その規約の働くところでは、神の力による新たな加護の追加、復活や回復の類が一切禁じられるのだ」
「そ、そんな!」
「ゆえに、魔王は簡単に地上に降りることは敵わず、その代償に膨大な魔力を消費するのだがな……」
"知見者"の解説など耳に入らないまま、水鏡にすがりつく。
その向こうで、漆黒の闇に彩られた牛頭が晴れやかに笑った。
『貴様はベルガンダを鍛える上で、良い対手だったぞ』
恐怖に眼を見開いた圭太が、顔を蒼白にして絶望を見上げる。
『さらばだ』
白刃が、断罪の証のように勇者の上に振り下ろされ――
「やめ、ろぉおっ!」
――半ばで軌道を変化させて斧が、自らに飛来する真紅の矢を打ち払った。
「シェート……さん?」
鏡の向こうで、震える足を堪えながらコボルトが弓を構えている。すでに二本目の矢を番えてはいるが、今にも倒れ伏す寸前だ。
「やめろ……っ……そいつ、殺す、な」
『その状態で、まだ抗うと言うのか!』
魔王の声は驚嘆と賞賛に満ちていた。自分の行為を邪魔されたことに、悦楽すら感じているような顔で、斧を下ろす。
『殺さぬように手を抜いたとはいえ……素晴らしいぞ、その不屈! 全く、どういう存在なのだ、お前は!』
シェートの顔が苦痛に歪み、片膝を突いて崩れ落ちる。
それでも、戦う姿勢を解くことは無い。
『……それ以上無理をしてもらっては、お前の命が尽きてしまうか……このままでは我が魔将の身も危なかろう』
魔王の視線が村の北門の方へ投げられる。その様子を眺めやりながら、"知見者"は皮肉に口元をゆがめた。
「なるほど、今代の魔王は策謀と奸智を用いるか……喜べ"病葉を摘む指"よ。貴様らの勇者は、十分我らに益してくれたようだぞ」
「あ……貴方は、一体何を……!」
「敗北の慰めに聞かせてやる。私が、貴様らを使い、何を為そうとしたか」
フルカムトは立ち上がり、カニラの耳元に囁いた。
「戦力分析だ」
「……え?」
「奴らの戦力、戦術、戦略の分析をな。貴様とサリアーシェのコボルトを使い、行っていたのだ」
そう言うと、"知見者"は水鏡の画像を望遠にしていく。おおよそ、通常の神の加護では得られない範囲に広がった視野の端に、鎧で身を固めた集団が見えた。
「我が軍団の動きに応じ、連中は戦力の秘匿を始めた。おそらくこちらの神規の情報を、魔王を通じて手に入れていたのだろう」
兵士達は動かない。目の前で燃え盛る村を見ても、北門前に展開していくオーガの集団を見ても、微動だにしない。
「力で押し潰すこともできたのだが、それではこちらの被害も少なくないものとなる。ゆえに、いぶりだす策を練っていたのだがな。ちょうどその頃だ、魔軍の動きに変化が現れたのは」
水鏡の映像を再び動かし、"知見者"は画面をコボルトに集中させる。黒い気をまとわせたミノタウロスがシェートに近づいた。
『我が配下となれ、コボルトよ。それが勇者を救う条件だ』
『う……』
「なるほど、自らの手を下すことなく消えていく勇者……その理由を、魔王自らが知りたがったというわけか。魔将自らが前線に出向いて来るとは、何事かと思ったが……」
大神の言葉を耳に入れながら、それでもカニラは何もできないまま、事態を見るしかなかった。
圭太の意識はすでに無く、味方は誰も居ない。サリアの奇跡は封じられ、誰も逃げる術など持ち合わせていない。
『答えを聞こう』
『俺、神、加護受けてる。裏切る、加護無くなる、そしたら、死ぬ』
サリアと結んだ命の契約を盾に食い下がるシェートに、魔王はしばしの思案を置き、頷いた。
『では、我が城に賓客として招こう。その後、審判の神の名の下に、契約の更改を行えばよい。それでいいか?』
今度は、シェートが黙る番だった。サリアとの相談を感じさせる沈黙の後、コボルトは頷いた。
『分った。俺、客、なる』
『よかろう』
魔王が頷くと同時に、シェートの体が地に崩れ落ちる。緊張と体への負担で、小さな魔物は完全に意識を失っていた。
手に入れた宝物をあやすように、シェートを手に入れた牛頭魔は魔物たちと合流していく。その全てを見つめながら、カニラは絶望が這い上がってくるのを黙って見ているしかなかった。
「なるほど。いよいよ面白くなってきたな。神の配下となったコボルト、主を裏切り魔王の物となる、か」
「違います! シェートさんは……圭太さんを……救うために」
「ああ。そうだな。実に麗しい友情だ」
口元に冷たい笑みを浮かべると"知見者"は席に戻り、水鏡の向こうを眺めやる。
それを待っていたかのように、魔王を宿したミノタウロスは空を見上げ、滅殺の号令を放った。
『我が配下たちよ! 自らの蛮意を以って、全てを食い破れ!』
北のオーガたちが門に突撃し、村の中になだれ込んでいく。伏せられていた兵が崖の上から軽やかに飛び降り、村へと襲い掛かる。
奇声を上げ、暴れまわる黒い津波が、瞬く間に村を蹂躙し始めた。
「そ……そんな……」
「どうやら、この村の利用価値も、ここまでのようだな」
冷めた目で状況を分析していた神は、手元の情報端末を操りながら、こちらをなぶるように解説を続ける。
「リンドルの村は貴様の勇者も含め、小規模の砦程度の防御力があった。それを連中がどう落とすか、用兵を知りたくてな。あっさり落ちてもらっても困るので、貴様とサリアーシェを引き合わせるように仕向けたわけだ。とはいえ、無いよりはましの情報だったな」
「そ……そんな! では、私のしたことは!」
「全て、我が掌の上で踊っただけのこと。サリアーシェのコボルトをエサに、魔将の用兵を確かめるために」
「お……おのれぇっ!」
自分の浅はかさに腹が立つ。
それ以上に、目の前に居る倣岸な力の主に対して。
「よくも、よくも私達を謀って、そんな真似を!」
「それを貴様が言うか? "病葉を摘む指"よ。ゼーファレスと共謀し、サリアーシェの星の守りを破ったのは、貴様であろうが」
その一言で、声が途切れてしまう。何もいえないまま全身が、冷たい石の牢獄へと落とし込まれていく。
「過去の罪を購うつもりだったのか? あの程度の協力で。真実を知れば、サリアーシェは決して貴様を許すことは無いだろうに」
「それを言うなら、あなた方も同じではありませんか!」
ずっと押さえつけていた気持ちが溢れかえる。目の前の倣岸な者を前に、もっと早く叩きつけるべきだった激情が。
「貴方とて、四柱神などと持てはやされる以前は、ただの小さき神であったはず! その功を為せたのは!」
「愚かなことを。私が今の地位に居るのは、機を見て敏に動いたからこそ。貴様が何ゆえ"遊戯の立役者"に名を連ねたかは知らぬが、今のざまを見れば、せっかくの好機に何一つ得るものがなかったのは明白だな」
「あ……ああ……」
何も反論できないまま唇を結び、頬を涙が伝う。
全く、自分は何一つ変わっていないのだ。彼の神たちにそそのかされ、友を裏切った日から。
ずっと後悔を抱え、それでも遊戯に参加していたことの意味。あの時、大切な人を裏切ってしまったことへの罪滅ぼしのつもりで。
そして、願わくば今回の交誼を以って、償いに変える気だった。
「案ずるな。これで連中の動きも見終わった。ぼちぼち村を救ってやるとしよう。我が兵団の力でな」
それきり、興味をなくしたかのようにフルカムトは水鏡に顔を向け、地上の様子に集中してしまう。
そして、短く告げた。
「イェスタ、我が加護を消費し、この遊戯の間、我が神座への小神の出入りを禁じろ。ついでにそのゴミを、下に廃棄しておけ」
「畏まりました」
酷薄な笑みを浮かべた時の神が巨大な杖をかざし、何もかもが絶望に沈む。
「ごめんなさい……サリア……シェートさん……圭太さん……っ」
その詫び言と共に、カニラの意識は闇の中へ閉ざされた。
静まり返った森の中を、フィーはコボルトたちと進んでいた。背後に聞こえていた騒音も、今は遠く彼方のものに思えるほどだ。
すでに夜は明け始め、辺りが白々と明けていく。
気が付くと、胸元に下がったスマホが振動していた。何気なく手に取り、何気ない調子で問いかけた。
「なんだよオッサン、こっちは今、すげー大変で」
『落ち着いて聞け。シェートが魔王軍に捕らえられた』
その言葉が頭に染みた途端、フィーは絶叫していた。
「い、一体、何がどうなってんだよ!? 圭太は!? 村はどうなったんだ!?」
『勇者は、床に伏せっている。まだ意識は戻らぬようだ』
淡々と語る竜神の声にかぶさるように、コボルトの群れがざわめいていく。その間を抜けるようにして星狼が現れた。
「グ……グート……?」
傷こそ無いものの、悄然と首を垂れたグートがこちらに近づき、そっと顔を舐める。
その鞍には誰も乗っていない。
「あいつは……シェートはどうなったんだ?」
『サリアが見ている。だが、予断を許さぬ状況だ』
様々な感情が入り乱れ、何かを言おうと必死になる。
それでも、口に出せたのはたった一言だった。
「説明してくれ。最初から、全部」