11、侵攻
街道を進みながら、ヴェングラスは空を見上げた。
雲ひとつ無い青空に、銀色の鳥が舞っている。あれこそが我らの勇者の加護、全ての者に等しく力を与えるものだ。
そこから降ってくるものを受け取り、吟味すると、視線を地の光景に戻す。
辺りにはまだ青い麦の畑が広がり、行く手には二つの山が生み出す谷が、次第に大きくなっていく。
「魔術師殿、なにか、勇者殿からの指令がありましたかな?」
くつわを並べていた鎧騎士から掛けられた声に、魔術師にして勇者軍の参謀たる彼は、穏やかな笑みを浮かべた。
「進行速度はこのままに、極力戦闘は避けるように……いつもの通りです」
騎士は頷き、後列のものにそれを伝えるべく馬首をめぐらせた。
後ろに控える隊伍は、完全武装した騎士が二十名ほど。そして、装備の全く統一されていない歩兵達。槍を持っているものは極わずかで、鎧など身につけているものは稀だ。
数にすればせいぜい十数名、どう見ても田舎から出てきて、徴兵に従ったという風情。
それでも皆真剣な顔で、行軍を続けていく。
「そろそろ、彼らにも実戦経験を積ませねばならないでしょうな」
「そうですね。そのことについても、指示は下されています。ただ、思ったより魔物の姿を見ないのが気にかかりますね」
「モラニアの魔物は弱小にして、統率も取れていないとも聞きますが?」
「……多分、それは違うでしょう」
確かに、モラニアに入ってから、戦闘らしい戦闘は起こらなかった。ザネジ近くの砦にしろ、それを落とすまで魔物の影すら見なかったという。
「誰かに……おそらくこの地を治める魔将に、指示を受けていたということでしょう」
「ですが、魔将の支配地域であるカイタルはともかく、リミリス、テメリエアには、自らを魔将と名乗るものが立ち、身内争いに終始していたとか……。とてもそのような指示を聞くとは思えません」
「そう……なんですが」
入ってくる情報と現地で見る景色に、違和感を感じる。
モラニアの魔物に統率などは無く、互いに覇を競うばかりの烏合の衆という触れ込み。
しかし、斥候部隊の件といい、異常なまでに少ない戦闘回数といい、何者かの作為が無ければありえないことだ。
「本当に、我らだけで大丈夫なのですか?」
「……ええ。勇者殿が、そうご判断されたのです。我々は、従うだけです」
こちらの言葉に、騎士は苦笑しつつも頷いた。
「我々は盤上の駒かも知れませんが、決められた働きしかできぬわけではありません。その結果、勇者殿の思惑を超えて、動くことも許されましょう」
「……その働きさえも、彼の……計算かもしれませんがね」
「魔術師殿!」
道の先、次第に濃くなっていく森のほうから、馬に乗った男が駆けて来る。
「シルトさん、何かありましたか?」
「はい。行く手の森の中に、数多くの魔物の足跡が……かなりの数が侵攻しているものと思われます」
この隊の斥候になった元偵察隊の人間は、緊張した面持ちで手にした羊皮紙を手渡してくる。
「この辺りの地形と、魔物の侵攻方向をまとめておきました。足跡の大半はゴブリンなどの下級魔ですが……オーガやトロルなども混ざっているようです」
「大分、大所帯ですね……おそらくこれは……」
木墨で描かれた付近の地形と、魔物たちの侵攻予測図を見つめ、大体の目算をつける。
ここまで来る間に、リンドルの情報は聞いていた。勇者の存在により村は頑強に守られており、付近の村との交易も密になっているという。
とはいえ、斥候が伝えてきたのは二百を越える軍勢だ。よほどの力を持つもので無い限り、たった一人で抑えられる状況ではない。
「この方角……おそらく、リンドル村に向かっていると見ますが」
「ええ。そうでしょうね」
「本当に、我々はこのまま行軍して、構わないのですか?」
騎士の言葉に、ヴェングラスは再び空を見上げる。銀の鳥を通して降ってくる指示に、変わりは無かった。
「進路はこのまま、ただし、斥候を増やして魔物に不意を打たれないよう、警戒を行います。行軍速度は多少遅くなっても構わないそうです」
「このままでは、確実に村は……落とされるでしょうな」
「彼の言葉は絶対。同時にそれは"知見者"の神託に他なりません」
「……そう、でしたな」
苦い感情と共に口元を引き締め、騎士が黙りこくる。
納得はしていないが、命令には従う、そんな空気を放ちながら。
"知見者"フルカムトの神威の下、勇者の軍は無敵を誇っていた。
康晴の言葉は神の言葉であり、それに従っていればどんな強敵も、どんな大軍も、必ず打ち破ってこれた。
だからこそ、自分達は彼の命令に従う。
それが例え、どんなものであろうとも
騎士が示したのは、そうした行為に対する甲斐の無い反論だ。叶う当ても無い、自身の心情を示すだけのジェスチャーに過ぎない。
憐憫。
それは、勇者の軍には必要の無いものだ。
それを切り捨てることができるから、これまで常勝の軍でいられたのだから。
「ただ……」
ヴェングラスは、不満そのものとなった騎士の顔に、淡い笑みを向けた。
「勇者殿の指令には、斥候を増やして警戒を怠るな、とあります。我々の途上にあるリンドルは、大切な補給点です……シルトさん」
控えていた斥候は、力強く頷く。
「分かりました。私が先行して、リンドルと魔物の侵攻を調査してきます」
「必ず生きて帰ってください。貴方の存在は、我が軍に必要ですから」
「……優秀な斥候として、ですね」
わずかな皮肉を残してシルトが去っていく。
彼もまた、この軍はそこそこに長い。取り交わされる指令に込められた冷徹さと、それが生み出す実利も実感している。
それでもなお、反駁してしまう、それこそが人の心の働きなのだろう。
「参りましょう、魔術師殿」
「……ええ」
再びヴェングラスは空を見上げた。
銀色の鳥は自分達の所作を、何の感慨も無く見下ろしていた。
周囲に広がる魔物たちとともに進みながら、ベルガンダは深い森の奥に顔を向けた。
行く手は薄暗く、夕闇と共にかすかな靄が立ち込め始めていた。
「しかし、どのようなつもりなのでしょうな、そのコボルトは」
二足歩行のトカゲ騎獣に乗ったコモスが、小枝に止まった鳥を、見るともなしに眺めてつつ問いかけてくる。
「魔物と言っても、コボルトたちは我らとも距離を置いている。人間と同じぐらいに、魔軍を憎んでいる……のかもしれん」
「しかし……未だに信じられません。ケッシュの隊が、全滅したとは」
「シェルバンたちにも確認させただろうが。ガイデの死因は勇者の力ではない、ワイバーンの毒によるものだと」
「それに、ゴブリンどもに刺さった鏃と……エレファスの山の中で見つかったという、ミスリルゴーレムの残骸……ですな」
聞けば聞くほど、怖気を誘う話だ。
コボルトとて、鍛え上げればそれなりは使えるようになる。最近は気まぐれなインプや不真面目なゴブリンに代わり、コボルトを偵察役に使うよう指導を重ねてきた。
だが、そんなレベルの話ではない。
ミスリルの鏃は、ゴーレムから削りだされたものだろう。付近を調査したゴブリンたちが、きれいに解体・始末されたワイバーンを発見していた。
「本当にそれはコボルト……なのでしょうかなぁ」
コモスのほうも同じものを感じ取ったらしく、顔に険を浮かべていた。
事実だけが降り積もり、それでも実像は全く分からない。
「一応、此度の遠征は、手を焼いていたリンドルの陥落ということになっておりますが」
「真意を知られれば、また『我こそが魔将なり』と言い出す奴も出てくるだろうな」
苦々しくミノタウロスは笑みを刻む。
自分の配下になることを良しとしない魔物たちに、あえて魔将を名乗らせていたのは、魔王の指示があったからだ。
モラニアの魔物には統制など無い、そのように思わせるために、好き勝手にさせるようにと。
『その間、貴様は自らの部下を鍛え、指示に従う精鋭の軍を育てろ。吠えたい犬には吠えさせておくのだ。それが、いい目くらましになる』
魔王の的確な指示によって、自分の部下は着実に育っていた。
各ダンジョンから送られてくる情報により、勇者達の動向を把握。被害を低減させることに成功し、同時に各地の村や町を陥落させていた。
その名声が魔将志願者を焦らせ、各地で活発に活動した彼らが、結局は勇者に倒されていく。
統制という『力』の有用性を、実地に示して見せたベルガンダは、魔将としての地位を安定させていた。
「コボルトで思い出しましたが、例の集落から徴発は行わなかったのですか?」
「伝令を聞かなかったのか。我らの動きを察知して、南に移動を開始したらしい。すでに集落はもぬけの殻だった、そうだ」
「相変わらず、逃げ足だけは速い連中ですな」
「その通り。逃げ足だけがとりえの、そんな連中だ」
では、自分が追いかけている者は、一体なんだというのか。
コボルトという常識と、かけ離れたモノ。
「――怪物」
「は?」
魔界には、一つの伝説がある。
通常、魔物の序列は生まれによって決定される。
それは絶対的なヒエラルキー。ゴブリンやオークなどの人魔は、キマイラなどの魔獣に敵う事は決してなく、吸血鬼や巨人はその力ゆえに、自然と上位の存在となる。
だが、その枠を飛び越えるものが、極稀に現れるという。
その種族に見合わぬ異常な力を持ち、上位存在すら打倒しうる者。
魔物の常識にとらわれない、怪しきモノ。
それが、怪物。
「ベルガンダ様は、例のコボルトが"怪物"であるとお考えで?」
「……馬鹿馬鹿しい」
魔界に神は無い、奇跡も無い。怪物などというのは、自らの惨めさに耐えられなくなった弱者が、なぐさめにする類のおとぎ話に過ぎない。
「……埒も無い戯言だ。忘れろ」
「はい」
そうコモスに言い渡しながらも、ミノタウロスは湧き上がる記憶を反芻していた。
『そうか! コボルト、そうなのだな!』
木霊する狂気の笑いに体が震える。
「あれは……まさか……」
魔の王たる主が、そんなことを信じているのか。
己の力と才覚で、侵略を進め続けてきた彼の方が。
「ありえぬ」
だが、今代の魔王は、癲狂。
ありえぬというほうが、ありえぬのかもしれない。
『目を開け、我が魔将ベルガンダよ』
「俺には……無理です、我が主よ」
誰にも悟られぬように、魔将は弱音を吐いた。
「貴方のそのお心を、見透かすことなど。このような牛頭に、できようがありません」
ベルガンダの気持ちも知らぬまま、隊列は進む。
その一部が、ざわめきと共に崩れた。
「ベルガンダ様っ!」
「どうした?」
「シェルバンからの通信ですっ! 迷宮が、何者かの手によって襲撃を受けていると!」
連絡係を担当していたゴブリンの術師が顔色を変えて近づいてくる。
「敵は何名だ。もしやリンドルの勇者か?」
「……そ、それが……」
言いにくそうにしていた連絡係を呼び寄せ、その耳だけに声を放つ。
「コボルト、か」
「なぜ、それを」
「……いいか、そのことは誰にも漏らすな。もし、お前の口からそれが漏れたなら、分かっているな?」
青くなったゴブリンの術師を下がらせると、ベルガンダは大声で隊に指示を飛ばした。
「全隊! これより駆足! シェルバンの迷宮へ向かう! 列を乱すな、人里に知られぬよう、街道よりそれて行軍せよ!」
わずかに魔物の群れが身じろぎし、少しの遅滞も無く走り出す。小枝に止まっていた銀色の鳥が、舌打ちするような声を上げて飛び去っていく。
群れと共に走り出した牛頭の魔人は、担いだ大斧の柄を握り締めた。
「これは、いよいよ本物かも知れんな」