5、神と魔のタピスリー
その日も、天気は穏やかだった。
桟橋から見る海原には大きな波も無く、ただ海鳥達だけがかすかに鳴き交わすのみ。
「市長、ここにおいででしたか」
補佐役の青年を見やり、サコスタは頷く。それからまた、海に向き直った。
潮風が身に纏った濃緑の長衣を揺らす。公式行事や貴人を迎える時に身に着ける、市長としての礼装だが、肩に掛かる布の重さに感じるのはむなしさばかりだ。
「帰って、こられましたね」
「ああ……」
青黒く沈んだ海の彼方、すばらしい速度で大きくなっていく船影が見える。白く輝く帆に描かれたのは一冊の本と羽ペンで構成された紋章。
その後に粛々(しゅくしゅく)とつき従う、十数隻の軍船もまた、同じ意匠の帆を張っていた。
「不思議なものですね。彼の勇者様が来られるたび、海は穏やかになり、天気が続く」
「不思議なものか。あれが神の奇跡とやらだ」
蓄えたひげの間から漏れる声が、つい苦くなる。その調子に気がついたのか、青年は頭を下げた。
「それで、今後の予定は」
「いつもと変わらんようにしておけ。出迎えも宴席も要らん。見物に来た者は皆下げろ」
「……分かりました」
命令を聞き、青年が下がる。彼の行く手には、勇者の軍船を一目見ようと集まってきた野次馬達があり、兵たちがその連中を散らし始めている。
そんな光景を眺めている間に、帆のはためきと波を掻き分ける潮騒が耳に届く。
この港湾都市ザネジ、モラニア大陸随一の巨大な港を持つ町に勇者の一団がやってきたのが二月前か。
その時から、この町は変わった。
"知見者"の銘を持つ神、フルカムトのしろしめす土地となり、その神が遣わした勇者の町となった。
「市長、係留の準備だ。ちょっと場所を空けてくれ」
焼けた肌に苦い笑みを浮かべた船着場の頭が、済まなさそうに肩を竦める。彼の後ろに居る水夫達に片手を上げると、桟橋に横付けされていく船を眺めつつ下がった。
巨大な船だった。三つの帆と五層に分かれた船倉を持つ、前代未聞の巨船。
一度、あの船を見学に行った船大工達は、その構造の複雑さと異常な精緻さで作られた船体に舌を巻き、百年掛かっても再現は出来ないだろうと音を上げた。
「投錨、よーういっ!」
高らかに上げられる宣言に目を上げれば、すでに舷側に近づいている影が見えた。逆光になって見えないが、おそらく彼だろう。
やがて船は静かにその身を桟橋に預け、階段が下ろされる。
そして、彼らは降りてきた。
「お帰りなさいませ、勇者様」
サコスタの声に、彼は冷めた目でこちらを見た。
短く切りそろえられた黒髪、薄い茶色の瞳、白と薄い青に染められ、直線ばかりで構成された長衣に身を包んだ体は、華奢と言っても過言ではない。
「何か御用ですか」
「……いいえ。お帰りになった勇者をお出迎えしないというのは、わたくしの名誉に関わりますので」
「そうですか。ご苦労様です」
ならば用は無い、そう言わんばかりの態度で、顔色一つ変えず勇者が歩み去る。
「以前申し上げたとおり、市の運営や、技術供与の件に関しては、我々にお願いします」
その後ろにつきしたがっていたローブ姿の魔術師が、わずかに気の毒そうな顔を向けて言い添える。
「アンタも大変だろうけど、アレがうちの勇者なんだ。気を悪くしないでくれ」
豪奢な鎧に身を包んだ金髪の騎士は、その軽薄そうな顔に、同輩と変わらない表情を浮かべていた。
その後に、勇者の近衛を勤める者達が続き、宿舎へ向かって移動していく。その姿に歓声が上がったようだが、その騒ぎすら無視して、彼らは消えてゆく。
「いけ好かない奴だな」
まるで自分の胸の内が飛び出たような一言。顔を青くして振り返ると、頭がいたずらっぽい笑顔を浮かべて立っていた。
「脅かすな。一瞬、肝を潰したぞ」
「いやね。ダンナの顔に書いてあることを、そのまま読み上げただけなんで、気にしないでくれよ」
「そうか……そんなことが書いてあったか」
「その他にも色々な。もっと読んでやろうか?」
市長となってすでに二十年近く、何かと苦楽を共にしてきた彼の一言に頬を緩めると、サコスタは歩き出す。
勇者のあの態度は今に始まったことではない。
それこそ、最初にこの都市に来た時からだった。
『貴方がザネジの統括者、サコスタ市長ですね』
『は、はい! 勇者様には、海を超え、遠路はるばるおいでくださり』
『これから、この都市は"知見者"フルカムトの勇者、葉沼康晴に従ってもらいます』
『は? ……し、しかし、いきなりそのようなことは……この都市はモラニア三国とも中立の立場を保った港湾都市として』
『都市機能も貴方の市長としての権限も、そのまま残します。その代わり、この都市を神の軍の駐屯地として使わせること、要請があれば無条件で徴発に応じてください』
『そ、そんな横暴な!』
『ここに必要になる軍事物資、駐屯する兵の数と必要な宿舎、軍馬にあてがう糧秣などのデータが載っています。それ以上の徴発は、この都市からは行いません。また、我々を受け入れれば、直ちに軍船による商船の護衛を行い、エファレア大陸との交易を回復させます。それによって起こる流通回復と経済への影響、およびこの港の全体収益の推移予想をまとめた書類も用意してあります。内容に納得したなら、了承の使者を送ってください』
歓待も宴席も一切無視し、執務室で行われた交渉、いや、一方的な取り決め。
淡々と必要なことだけを告げ、まとめた書類を突きつけてしまうと、勇者は後は勝手にしろと言わんばかりに宿舎に戻った。
書類に書かれていた数字は、金貨一枚、麦粒一つさえ漏らさぬほどに収支を計算されていた。今までに見た、どんな帳簿よりも整然とした、気味の悪いぐらいの完璧さ。
都市を治めるギルドの長達も集め、会議は三日三晩続いた。
モラニアの三王家にも、エファレア大陸のギルドにも、魔王の軍勢に対しても、頑強に自分達の利権を守りぬいた都市の自治。それを揺るがしかねない勇者兵団の駐屯に都市は割れ、一時は殺し合いに発展するとさえ思われた。
結局、都市機能と自治制を残すという勇者の言葉を信じ、港湾都市ザネジは勇者の軍を受け入れた。
その結果を伝えるべく、使者として赴いた自分に掛けられた一言。
『そうですか』
あてがわれた一室で執務を続けながら、勇者はそう言っただけだった。
『そ、それだけ……ですか?』
『……ああ。ありがとうございます、決断に感謝します』
全く感情を感じない、乾ききった感謝の言葉。
『……その口ぶりでは、我々の手をお貸ししなくても、良かったようですな』
堪えきれず、怒りを向けたサコスタに、青年はこう告げただけだった。
『はい。そうなっても、別に手はあったので』
それ以来、サコスタにとって勇者の存在は嫌悪と、畏怖の存在となった。
別に手はあったので、そう言った彼の顔には何も無かった。
こちらの質問に事実を返しただけ。その発言を証明するように、彼らの船は決断を受け入れてから初めて、船員達を下船させてきたのだ。
あの出納帳や請求書類と同じく、自分達との協力関係すらもきっちりと計算し、必要以上の対価を、交わりを求めない。
確かに都市は活気を取り戻した。エファレアから送られてくる穀類や綿花が市場に流れ始め、こちらの鉄鉱や木材が再び海を渡り、商人達も職人達も、民も潤った。
勇者の軍によって近隣の魔族は駆逐され、都市の犯罪数すら激減した。
民は歓呼で彼らを讃えた。以前は海洋の神と、その勇者を讃えたその口で。
「……アヤノ様……」
ふと、居なくなった少女のことを思い出す。
儚く頼りなげな、それでいて勇敢であった彼女の顔を。
「どうやら、勇者とは、あなたのような方ばかりではないようですな……」
忙しく立ち働く水夫達を眺めやりながら、サコスタは慨嘆した。
手にしたタブレットを指で触れながら、康晴は映し出された情報を検分した。
表示されたのはザネジを中心にした付近の地図。自軍を示すアイコンを中心に、近くの都市に進軍しているいくつかのユニットが、じりじりと移動していく。
「ヤスハル、伝令が着いたぞ」
戸口辺りに控えていた鎧騎士の声に目を上げると、ローブ姿の魔法使いに伴われて、薄汚れた旅装の男が入ってくる。
「申し上げます。大陸南部へと向かわせた偵察隊の一部が、魔王軍の急襲により被害を受けました」
「……隊番で被害状況を報告してください」
「し、失礼しました。一番と二番が全滅、三番は兵士一名を残して、四番は何とか負傷のみで済みましたが……」
「五から八番までの隊に出発準備をさせてください。三番は生き残った人の名前を至急確認、四番は治療が終了次第、入手した情報についての報告書を出すようにお願いします」
「……その、勇者様」
言いにくそうにしながら、旅装の男は口を開く。
「三番隊の生き残りは、私です。シルト・ラック」
「ご苦労様でした、シルトさん。それでは、他の人に伝令をお願いします」
何か言いたそうな顔をしていた男は、そのまま退出していく。
進軍状況のマップを一端閉じ、斥候の管理画面へと移行する。
「斥候の被害が増えてきたなぁ……今まで砦や穴倉にこもってたくせに、やけに積極的じゃねーか」
「それだけじゃありませんよ。街道沿いの宿場町や集落にも被害が出ていると報告がありました……これはおそらく」
二人の会話を聞き流しつつ、斥候の一番と二番を丸ごとゴミ箱のアイコンに放り入れ、三番の隊から一人を拾い上げその他を廃棄、四番に休養のアイコンをつける。
「エクバートさん、今侵攻中の一隊が戻り次第、本格的に進軍を開始します。全ての将軍に通達、掃討戦になりますので、連係を怠らないようにしてください」
「はいはい。砦の制圧状況はどんな感じですかね?」
「……今、終わったようです」
ポップアップした戦況のウィンドウを叩くと、瓦礫の山になった砦と、そこで歓声を上げている兵士や魔法使い達が映し出される。その脇には死傷者の数を初めとするさまざまなデータが出力された。
「負傷者十二名、死傷者なし。進軍速度を考えて、一日野営を行って帰還させます」
「相変わらず、嫌味なぐらい見事な手際だな」
「ヴェングラスさんは、一部隊を率いて南部へ向かってください」
騎士の揶揄を気にすることもなく、康晴は画面をモラニアの全体マップに切り替え、必要なルートを表示する。
「ここからテメリエア、カイタル両国の境を通り、南部のリミリス王国まで向かってください。その途中で徴兵をお願いします」
モラニアの北半分を分け合う形で存在する二つの国、その国境になっている山脈を縫うように赤い線が刻まれた。
「では、戦闘はこちらで自由に?」
「相手の強さを見てお願いします。魔軍が大きく動き出しているとの情報もありますので無理な交戦は避けてください。それと、注意点が二つあります」
康晴の言葉に、二人が顔を向けた。普段から必要なことだけを告げるようにしているせいか、こうした強調にはすぐに反応してくる。
「一つは、三つの国の国境、ここにあるリンドル村です。ここに勇者が一名居ます」
「ふーん? この大陸には勇者は居ないんじゃなかったのか?」
「"知見者"からの情報で分ったことです。どうやら、百人の勇者部隊には入らなかったようですから。それと、もう一つ」
「例のコボルト、ですね」
魔法使いの言葉に頷くと、一枚の画像を大写しにする。
「リンドル村から更に南、エレファス山中で生息中。こちらが動くのと同時に北上を開始すると聞いています」
渾身の力を込めてミスリルゴーレムを切り伏せていくコボルトの姿に、騎士が大げさに身を震わせて見せた。
「しかし、未だに信じられねぇな……これが、現実の光景だなんてよ……」
「信じないわけには行かないでしょう。神の加護を受けさえすれば、誰でも強力な力を得ることができる。そのことは、私達が一番良く知っているはず」
「リンドル村の勇者とは、すでに交渉が済んでいるそうです。物資の補給と、可能なら徴兵をお願いします」
「コボルトのことは、良いのかい?」
騎士の問いかけにわずかに逡巡した後、康晴は頷いた。
「獣はすでに罠の中に入った。それが"知見者"の託宣です」
薄暗い大広間に座り込み、ベルガンダは太い吐息を絞り出した。
その場に並ぶのは、コモス以下、参謀や補佐として重用したホブゴブリンやゴブリンの術師たち。それぞれが緊張した面持ちでこちらを見ている。
「状況を報告しろ」
「はっ」
巨大な木の板に描かれた地図に、いくつもの駒が置かれていく。魔王の城では魔力による画像投影が出来ていたが、魔法の素養の無い自分にとってはこれが精一杯だ。
「焼き討ちは今のところ成功といったところです。いくつかの隊が返り討ちに合いましたが……街道沿いの町もかなりの数被害を……」
「コモス!」
駒を並べていたホブゴブリンに、苦みばしった顔を向ける。
「状況はきちんと報告させろ! いくつかだの、かなりだの、そんな報告で魔王様が満足すると思っているのかぁっ!」
「申し訳ありません。何とか、徹底させようとはしているのですが……」
「……カイネスに送ったケッシュの隊はどうした」
ザネジの港町から伸びる太い街道、その途中の町を指差す。
「ああ、それなら昨晩に戻ってきましたな。十匹ほどに数が減っていましたが、隊長以下割と元気なようで」
「プロポネ砦に行った、ゴールの隊は」
「どうやらゴールの暴走を抑え切れなかったらしく、部隊はゴールの弟を残して全滅、結局砦は落とせなかったようです」
「残ったのはガイデだけか。あいつはケッシュと気が合う、組ませて隊を再編しろ。ついでに、今日は酒でも振舞っておいてやれ」
本当に面倒な作業だ。
自分の扱う部下を把握し、隊を編成し、どの任務に充てるのが適当かと知恵を絞る。
将軍などというものは、ふんぞり返って部下の言うことに耳を傾けていれば良いものと聞いていたのに。
「ベルガンダ様、ツォークの隊がまた倉庫に忍び込んだんですが……どうしますか」
「いい加減目に余る。ツォークは降格、隊を解散させて荷物持ちにしてやれ」
「イリビンの隊から武器の補充申請が」
「最近槍隊の報告が多いな。あとで鍛冶場に見に行くから、工房の連中に言っておけ。サボりを入れたら首をねじ切ってやると」
「ベルガンダ様、調毒部隊が全員腹痛で……」
「またあいつらか! しばらく全員兵卒に降格! 城外の見回りに回せ!」
これが闘魔将の魔獣たち、マンティコアやヒドラなら一体を送るだけで話が済むし、不死魔将の死人であれば、侵攻するほどに兵力が増強するだろう。操魔将はこうした作戦自体を喜々として考えるに違いない。
雑兵を束ね、必死に戦線を維持する、これが銘を持たない無様な魔将の実像だった。
「伝令! 伝令! エロイスの砦が勇者の軍によって陥落!」
慌てた様子で駆け込んできたホブゴブリンの伝令士が、顔を歪ませながら叫ぶ。とはいえ、その未来を予想していなかったわけではない。勇者の兵団はザネジ近くの砦が落ちたときに理解はしていたからだ。
「……分かった。連中の様子は?」
「砦を陥落の後、その場で野営を……伏せておいた兵はどうされますか?」
「そのまま撤退させろ。そういえば、その近くにコボルトの集落があったな。それと、防備の甘い村が一つ」
砦から帰る兵団に、野戦を仕掛けようとする試みは失敗に終わった。こうなったら被害を受けた分の補填を考えた方がいいだろう。素早く砦付近の情報を思い出すと、ベルガンダは伝令士に指令を与える。
「村の一部に火を掛け、その隙に食料を奪え。それが済んだらコボルトの村へ向かい、雑役の者を獲得しておけ」
「了解しました」
何とか十数隊に及ぶ指揮を終了させると、ミノタウロスは疲れた体をイスにもたせかけて、小樽の酒をあおった。
「お疲れ様です、ベルガンダ様」
「ああ、全くだ……もう少し、貴様も部下を見るようにしろ」
「そうですな。これは人間どもにならい、台帳でもつけるようにいたしますか」
「そうしろ。ところで各ダンジョンの掘削拡充はどうなっている」
自分でもうんざりするが、続けざまに指示を飛ばす。
地上の魔将は各地域に散らばり、その世界にある魔力を吸い上げて魔王に献上するという役目も持っていた。そのためにダンジョンを掘削し、中枢に魔力吸収用の核を設置、機能を維持しなくてはならない。
こちらの問いかけに、術師たちはあっけらかんと言い放った。
「順調です、ベルガンダ様」
「……もう一度聞くぞ、作業がどの程度進んでいるのか、各人担当の地域の報告を、事細かに行えといっているんだ!」
怒声に張り飛ばされた術師たちが、あわてて報告を開始、それを聞きながらコモスに書き取りを行わせる。
実を言えば、魔物たちの知性は、決して低くない。
実際、ホブゴブリンはかなり自制も効き、部隊長に任命できるほどの判断力もあるし、ゴブリンやオークも享楽的なところを除けば、こちらの命令を聞き分ける頭もある。
ただ、その全てを把握して指示をするのが、酷く面倒くさいというだけで。
「以上が各ダンジョンの状況になります。何か他に指示しておくことはございますか」
「特には無いな。これまで通り、勇者の軍がどう動いたかは逐一報告を入れろ」
「……"魔将"ベルガンダ様、本当に、もう指示しておくことは、無いのですか?」
珍しくコモスが渋い顔でこちらを見つめる。
その顔色に、ベルガンダは深々とため息をついた。
「シェルバン、お前は残れ。他のものは下がっていい」
なぜ自分が呼ばれたのか分からない、不安そうなゴブリンの術師を残し、他のものが退出していく。ベルガンダは、苦々しい思いで目の前の部下に声を掛けた。
「お前は確か、リンドル村近くのダンジョンを任せていたな」
「は、はいっ。申し訳ありません! あそこの勇者の奴は、思いのほか手ごわく、ダンジョンを守りつつ制圧するのは至難でして……」
「責めているんじゃない。お前は良くやっている。ただ、これから少々、面倒くさい仕事を頼むことになるのだ」
叱責を受けると思っていたらしいゴブリンは、きょとんとした顔でこちらを見た。
「これから数十名ほど、お前のダンジョンに送る。そいつらを手助けし、ある任務を果たしてもらいたい」
「ある……任務、ですか?」
「リンドルから南に行った所に、山脈があるのは知っているな、そこの一番高い山、エレファス方面に向かわせろ」
「はぁ、そこで、何をすれば良いので?」
本心を言ってしまえば、こんな命令を部下にするのは気が引ける。
そもそも、このシェルバンは自分の部下の中でもかなり使える存在だし、いずれは城に引き上げてコモスの補佐にでもつけようと思っていたのだ。
とはいえ、魔王の命令は絶対、逆らうことも無視することもできない。
「コボルトを、探してこい」
「コボルト……なんでまた?」
「それもただのコボルトではない、勇者を屠るほどに、強いコボルトだ」
さすがに、シェルバンは笑いはしなかった。例の噂を報告してきた一人だし、百人の勇者の進軍も目にしている。
「ですが、本当にそんなものが?」
「その真偽を確かめろ、といわれているのだ。魔王様じきじきに」
魔王の名前を出した途端、シェルバンは青ざめ、小刻みに震え始める。
「心配するな。お前は見たままを報告すればいい。万が一、そのコボルトを見かけたとしても、見張りをつけるだけで何もするな」
「み、見張りをつけた後は、どうすれば?」
真偽のほどは分からないが、噂が本当なら、雑兵など当てても無駄だろう。生け捕りにしろと言われて、冷静に行動できる知恵も部下は持ち合わせていない。
だから。
「俺が行く。この手で、そのコボルトを捕まえてくれる」
水鏡の前に立ち、カニラ・ファラーダはもう一度わが身を見返した。
青い髪の結い上げを直し、長衣のドレープを整える。顔の造作はそれほどひどくは無いと思うが、目を見張るほどでもないのは分かっているから、ことさら装いはせずに普段通りにすることにする。
人間達や心ある種族にとって、神とは超然とした、なんの憂いも無い存在のように思われているが、蓋を開ければこんなものだ。
これからの謁見を前に、魂の締め付けられる思いを感じているのだから。
足音を忍ばせるように神座を抜けると、誰の目にも触れぬように合議の間を後にする。
目指す場所は雲壌の間の更に上、四柱神の座する世界だ。
元々は数々の大神が座したといわれるその場所には、今や星空に屹立する巨大な扉があるばかり。その前に立つと、カニラは声を震わせながら呼びかけた。
「"知見者"様に、お目通りを」
扉は下の神座と違い、ドライアドの呼び出しは無い。それぞれの神が置いた門番が受け答えるか、全く無視されるかだ。
『……入れ』
まさか、"知見者"自身の声が届くと思っていなかったせいか、一瞬このまま帰ってしまおうかとも思ってしまう。
だが、彼の軍が本格的にモラニアに来てしまった以上、こうするより手は無い。
意を決して神座に入った途端、カニラは自らの存在を、一瞬で圧搾尽くすほどの威圧を感じた。
磨きぬかれた大理石で構成された巨大な神殿は、完全な直線と正方形とで構成されていた。柱も、回廊の手すりも、廊下も、明かり代わりに開け放たれた空の形さえも。
見上げれば、無限に続くかと思われる回廊が積載され、天から降り注ぐ光と、廊下の屋根が作り出す陰影が、白と黒の立体構成を生み出す。
敷かれた深い赤の絨毯とは左右に伸び、その果てはやはり影になって見えない。
目の前は、合議の間を模したように降りの階段が刻まれているが、床は白々とした石畳で、中央に設えられた執務机まで誘導するように、赤い道が伸びていた。
「何をしている。目通りを願った者が、呆けて立ち尽くすのか?」
神座の主は冷たく言い放ち、手繰っていた書物から目を上げた。彼の視線にさらされると同時にカニラは跪いて詫びを述べる。
「も、申し訳ありません。"知見者"様」
「"病葉を摘む指"よ。貴様も上位の者に無礼を働く女神の類か」
"知見者"は、とかく礼に対する事柄に敏感だった。
神々の間でも、大抵は最上の銘を呼ぶだけで事を済ませるが、彼の神は古式に則ることを良しとする。実際、その堅苦しさゆえに、彼を遠ざける神も少なくなかった。
「し、失礼しました。"才知を見出す者""青き書の守護者""測りえざる者""万略の主"……万物を知悉さる"知見者"よ」
「やれやれ。どこぞの疫神の方が、まだ儀礼に通じていようとはな」
「な、なにか私に落ち度が……」
結い上げた青い髪を揺らし、緊張した顔を上げると、"知見者"はあからさまな侮蔑を込めてこちらを見ていた。
「貴様くらいの小神が我らを呼ぶ場合、"銘すら呼び給い得ぬ"と付ければ事が足りるのだ。そのように銘を連ねるのは、相手が同輩か典礼の時のみと心得よ」
「は……はいっ」
「それとも貴様、彼の"平和の女神"と同じく、遊戯の場に立つ神は等しき存在であるからと、戯事を繰るつもりではなかろうな」
「め……滅相も、ございません」
まるで、猛禽に睨まれた小鳥だ。心の中にそんな自嘲が湧く。
それでもこうして頭を下げ、ひたすらに大いなるものの、慈悲と憐憫を請わなければ、生きていくことさえできない。
「お、畏れながら、申し上げます。この度……」
「随分、来るのが遅かったな。貴様の下らない逡巡も加味したつもりだったが……やはり小神風情は、身の処し方も愚図ということか」
まるで噛み合わない返答に、カニラは呆然となり、わずかな時を置いて理解した。
彼の神は自分がここに来た理由を、完全に把握しているのだと。
「で……では……私の願いを……」
「聞き届けるいわれはない。答えは初めから出ているだろう」
尊大に言い放ち、それ以上の議論など無用とばかりに、"知見者"は書物に目を落とす。
覚悟はしていたが、ここまで話にならないとは、思ってもみなかった。
四柱神ともなれば神威は限りなく、小神ごときの働きなど歯牙にも掛けないもの。それでも、一縷の望みを託して、ここまでやってきたのに。
「だが、貴様に吉報がある」
意外な一言が耳をなぶる。
沈みかけた気持ちを、"知見者"の冷たい声が引きずり上げた。
「吉報、ですか?」
「エレファス山中より、サリアーシェの配下であるコボルトが、北進を開始した」
「……そ……そうですか」
「なんだ、嬉しくないのか? 確か貴様、彼の女神を懇意であったのであろうが」
知識と見識を司る神は、こちらの胸の内を見透かすように、言葉を投げた。
「今やあの女神も、押しも押されぬ大神と成った。貴様も他の者と同じく、交誼を結べばよいではないか。古きよしみとして」
「ですが、我らは共に勇者を扱うもの……それに、こんな小神の身では……」
「そのことについてだが、どうやらサリアーシェは雲壌の集いが気に食わぬらしい。小神の美点を称揚し、我を侮蔑するほどにな」
その言葉を聞き、カニラは苦笑する。
どうやら彼女の性格は、未だに変わっていないらしい。昔から、権威や強権を振るうものをたしなめ、弱気を助けてきたものだ。
「だが、所詮は下賎な魔物を扱う愚かな女だ。人と交われぬ配下を使う以上、魔王を倒すなどと気を吐いたところで、世の道理に押しつぶされるであろうな」
「世の道理、ですか」
「この世界は人のためのもの、そして魔物は狩られるものだ。それを救い、助けるものが無ければな」
"知見者"の発言に、カニラは不穏を感じ取った。
彼の振る舞いは、まるで自分にサリアと協力関係を結べ、と言わんばかりだ。
もちろん、大神の身であれば、自分のような小さな神や、サリアのような孤立無援の存在など、歯牙にかける必要も無いのだろうが。
「話は終わりだ、下がれ」
「……失礼、いたします」
退出を促され、カニラは神座を後にした。
重い荷物を降ろした時のような深い脱力感に、足元がふらつく。格の違う神格に晒されたためでもあったが、それ以上にさっきの会話が心を締め付けた。
「サリア……」
それは、とてつもなく苦い名前だ。
コボルトを自らの配下とすると宣言したあの時、よほど出て行こうかと思った。
次第に神々の中で孤立を深め、百人の勇者による討伐を聞かされたときも、何か手助けが出来ればと考えた。
でも、自分は一切、手を出さなかった。
単なる小神に過ぎない自分が、力ない勇者しか持たない自分などが、出て行ってなんになるというのか。
否、それは単なる言い訳だ。
何もしなかったのは、彼女と再び顔を合わせるのが、辛かったからだ。
「どうして……貴方は……出てきてしまったの」
意気地の無い自分が、嫌でたまらない。それを、どうすることが出来ない自分も。
それでも、カニラは自分の神座へと歩き出す。
"知見者"の神座に使われた、全ての石材を呑んでしまったような、重い気持ちを抱え込んだまま。